正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第四十九「陀羅尼」を読み解く

正法眼蔵第四十九「陀羅尼」を読み解く

 

 參學眼あきらかなるは、正法眼あきらかなり。正法眼あきらかなるゆゑに、參學眼あきらかなることをうるなり。この關捩を正傳すること、必然として大善知識に奉覲するちからなり。これ大因縁なり、これ大陀羅尼なり。いはゆる大善知識は佛祖なり。かならず巾瓶に勤恪すべし。

 しかあればすなはち、擎茶來、點茶來、心要現成せり、神通現成せり。盥水來、瀉水來、不動著境なり、下面了知なり。佛祖の心要を參學するのみにあらず、心要裏の一兩位の佛祖に相逢するなり。佛祖の神通を受用するのみにあらず、神通裏の七八員の佛祖をえたるなり。これによりて、あらゆる佛祖の神通は、この一束に究盡せり。あらゆる佛祖の心要は、この一拈に究盡せり。このゆゑに、佛祖を奉覲するに、天華天香をもてする、不是にあらざれども、三昧陀羅尼を拈じて奉覲供養する、これ佛祖の兒孫なり。

 いはゆる大陀羅尼は、人事これなり。人事は大陀羅尼なるがゆゑに、人事の現成に相逢するなり。人事の言は、震旦の言音を依模して、世諦に流通せることひさしといふとも、梵天より相傳せず、西天より相傳せず、佛祖より正傳せり。これ聲色の境界にあらざるなり、威音王佛の前後を論ずることなかれ。

 その人事は、燒香禮拝なり。あるいは出家の本師、あるいは傳法の本師あり。傳法の本師すなはち出家の本師なるもあり。これらの本師にかならず依止奉覲する、これ咨參の陀羅尼なり。いはゆる時々をすごさず參侍すべし。

 安居のはじめをはり、冬年および月旦月半、さだめて燒香禮拝す。その法は、あるいは粥前、あるいは粥罷をその時節とせり。威儀を具して師の堂に參ず。威儀を具すといふは、袈裟を著し、坐具をもち、鞋襪を整理して、一片の沈箋香等を帶して參ずるなり。

 師前にいたりて問訊す。侍僧ちなみに香爐を裝し燭をたて、師もしさきより椅子に坐せば、すなはち燒香すべし。師もし帳裏にあらば、すなはち燒香すべし。師もしは臥し、もしは食し、かくのごときの時節ならば、すなはち燒香すべし。師もし地にたちてあらば、請和尚坐と問訊すべし。請和尚穏便とも請ず。あまた請坐の辭あり。和尚を椅子に請じ坐せしめてのちに問訊す。曲躬如法なるべし。問訊しをはりて、香臺の前面にあゆみよりて、帶せる一片香を香爐にたつ。香をたつるには、香あるいは衣襟にさしはさめることあり。あるいは懷中にもてるもあり。あるいは袖裏に帶せることもあり。おのおの人のこころにあり。問訊ののち、香を拈出して、もしかみにつゝみたらば、左手へむかひて肩を轉じて、つゝめる紙をさげて、兩手に香を擎て香爐にたつるなり。すぐにたつべし、かたぶかしむることなかれ。香をたてをはりて、叉手して、右へめぐりてあゆみて、正面にいたりて、和尚にむかひて曲躬如法問訊しをはりて、展坐具禮拝するなり。拝は九拝、あるいは十二拝するなり。拝しをはりて、収坐具して問訊す。あるいは一展坐具禮三拝して、寒暄をのぶることもあり。いまの九拝は寒暄をのべず、たゞ一展三拝を三度あるべきなり。その儀、はるかに七佛よりつたはれるなり。宗旨正傳しきたれり。このゆゑにこの儀をもちゐる。かくのごとくの禮拝、そのときをむかふるごとに癈することなし。そのほか、法益をかうぶるたびごとには禮拝す。因縁を請益せんとするにも禮拝するなり。二祖そのかみ見處を初祖にたてまつりしとき、禮三拝するがごときこれなり。正法眼藏の消息を開演するに三拝す。

 しるべし、禮拝は正法眼藏なり。正法眼藏は大陀羅尼なり。請益のときの拝は、近來おほく頓一拝をもちゐる。古儀は三拝なり。法益の謝拝、かならずしも九拝十二拝にあらず。あるいは三拝、あるいは觸禮一拝なり。あるいは六拝あり。ともにこれ稽首拝なり。西天にはこれらを最上禮拝となづく。あるいは六拝あり、頭をもて地をたゝく。いはく、額をもて地にあててうつなり、血のいづるまでもす、これにも展坐具せるなり。一拝三拝六拝、ともに額をもて地をたゝくなり。あるいはこれを頓首拝となづく。世俗にもこの拝あるなり。世俗には九品の拝あり。法益のとき、また不住拝あり。いはゆる禮拝してやまざるなり。百千拝までもいたるべし。ともにこれら佛祖の會にもちゐきたれる拝なり。

 おほよそこれらの拝、たゞ和尚の指揮をまぼりて、その拝を如法にすべし。おほよそ禮拝の住世せるとき、佛法住世す。禮拝もしかくれぬれば、佛法滅するなり。

 傳法の本師を禮拝することは、時節をえらばず、處所を論ぜず拝するなり。あるいは臥時食時にも拝す、行大小時にも拝す。あるいは牆壁をへだて、あるいは山川をへだてても遥望禮拝するなり。あるいは劫波をへだてて禮拝す、あるいは生死去來をへだてて禮拝す、あるいは菩提涅槃をへだてて禮拝す。

 弟子小師、しかのごとく種々の拝をいたすといへども、本師和尚は答拝せず。たゞ合掌するのみなり。おのづから奇拝をもちゐることあれども、おぼろけの儀にはもちゐず。かくのごとくの禮拝のとき、かならず北面禮拝するなり。本師和尚は南面して端坐せり。弟子は本師和尚の面前に立地して、おもてを北にして、本師にむかひて本師を拝するなり。これ本儀なり。みづから歸依の正信おこれば、かならず北面の禮拝、そのはじめにおこなはると正傳せり。

 このゆゑに、世尊の在日に、歸佛の人衆天衆龍衆、ともに北面にして世尊を恭敬禮拝したてまつる。最初には、

阿若憍陳如〈亦名拘隣〉阿濕卑〈亦名阿陛〉摩訶摩南〈亦名摩訶拘利〉婆提〈亦曰跋提〉婆敷〈亦名十力迦葉〉

 この五人のともがら、如來成道ののち、おぼえずして起立し、如來にむかひたてまつりて、北面の禮拝を供養したてまつる。外道魔黨、すでに邪をすてて歸佛するときは、必定して自搆佗搆せざれども、北面禮拝するなり。

 それよりこのかた、西天二十八代、東土の諸代の祖師の會にきたりて正法に歸する、みなおのづから北面の禮拝するなり。これ正法の肯然なり、師弟の搆意にあらず。これすなはち大陀羅尼なり。有大陀羅尼、名爲圓覺。有大陀羅尼、名爲人事。有大陀羅尼、現成禮拝なり。有大陀羅尼、其名袈裟なり。有大陀羅尼、是名正法眼藏なり。これを誦呪して盡大地を鎭護しきたる、盡方界を鎭成しきたる、盡時界を鎭現しきたる、盡佛界を鎭作しきたる、菴中菴外を鎭通しきたる。大陀羅尼かくのごとくなると參學究辦すべきなり。一切の陀羅尼は、この陀羅尼を字母とせり。この陀羅尼の眷屬として、一切の陀羅尼は現成せり。一切の佛祖、かならずこの陀羅尼門より發心辦道、成道轉法輪あるなり。

 しかあれば、すでに佛祖の兒孫なり、この陀羅尼を審細に參究すべきなり。おほよそ爲釋迦牟尼佛衣之所覆は、爲十方一切佛祖衣之所覆なり。爲釋迦牟尼佛衣之所覆は、爲袈裟之所覆なり。袈裟は標幟の佛衆なり。この辦肯、難値難遇なり。まれに邊地の人身をうけて、愚蒙なりといへども、宿殖陀羅尼の善根力現成して、釋迦牟尼佛の法にむまれあふ。たとひ百草のほとりに自成佗成の諸佛祖を禮拝すとも、これ釋迦牟尼佛の成道なり。釋迦牟尼佛の辦道功夫なり。陀羅尼神變なり。たとひ無量億千劫に古佛今佛を禮拝する、これ釋迦牟尼佛衣之所覆時節なり。ひとたび袈裟を身體におほふは、すでにこれ得釋迦牟尼佛之身肉手足、頭目髓腦、光明轉法輪なり。かくのごとくして袈裟を著するなり。これは現成著袈裟功徳なり。これを保任し、これを好樂して、ときとともに守護し搭著して、禮拝供養釋迦牟尼佛したてまつるなり。このなかにいく三阿僧祇劫の修行をも辦肯究盡するなり。

 釋迦牟尼佛を禮拝したてまつり、供養したてまつるといふは、あるいは傳法の本師を禮拝し供養し、剃髪の本師を禮拝し供養するなり。これすなはち見釋迦牟尼佛なり。以法供養釋迦牟尼佛なり。陀羅尼をもて釋迦牟尼佛を供養したてまつるなり。

 先師天童古佛しめすにいはく、あるいはゆきのうへにきたりて禮拝し、あるいは糠のなかにありて禮拝する、勝躅なり、先蹤なり、大陀羅尼なり。

 

 正法眼藏陀羅尼第四十九

 

  爾時寛元癸卯在越宇吉峰精舎示衆

 

正法眼蔵を読み解く陀羅尼」(二谷正信著)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/darani

 

詮慧・経豪による註解書については

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禅研究に関しては、月間アーカイブをご覧ください

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道元白山信仰ならびに吉峰・波著・禅師峰の関係についてー中世古 祥道

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道元永平寺―『福井県史』通史編2中世より抜書(一部改変)

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