正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵洗面

正法眼蔵第五十 洗面

法華經云、以油塗身、澡浴塵穢、著新淨衣、内外倶淨。

いはゆるこの法は、如來まさに法華會上にして、四安樂行の行人のためにときましますところなり。餘會の説にひとしからず、餘經におなじかるべからず。しかあれば、身心を澡浴して香油をぬり、塵穢をのぞくは第一の佛法なり。新淨の衣を著する、ひとつの淨法なり。塵穢を澡浴し、香油を身に塗するに、内外倶淨なるべし。内外倶淨なるとき、依報正報、清淨なり。

先の「陀羅尼」という真実態を介しての礼拝と云う実践行に続いて、洗面と云う日常底を標題にした眼蔵編集意図には明確な論理性が窺える配列となります。

冒頭の本則になる偈文は『法華経』十四・安楽行品「菩薩常楽、安隠説法、於清浄地、    而施床座、以油塗身、澡浴塵穢、著新浄衣、内外倶浄、安処法座」からの引用になります。ここで云う「油を以て身に塗る」は古くからのインドの風習と思われますが、筆者カトマンドゥに遊学の折に、新生児に対し「以油塗身」を見聞した記憶が有る。

「いわゆるこの法は、如来まさに法華会上にして、四安楽行の行人の為に説きまします処なり。余会の説に等しからず、余経に同じかるべからず」

「四安楽行」は行住坐臥に於ける行人との見方もありますが、智顗による『法華経文句』(「大正蔵」三四・五一九・上)つまり『法華経』の解説文に依ると、「四安楽行者ー中略ー止観慈悲、導三業及誓願。―略ー第一身安楽行・第二口安楽行・第三意安楽行・第四誓願安楽行」と、このように坐禅との聯関に言及した智顗説を採用し、「四安楽行の行人」云々の言句に収まったものと考えられます。

「余経に同じからず」は、法華経信者とも云うべき道元禅師の発言となります。

「しか有れば、身心を澡浴して香油を塗り、塵穢を除くは第一の仏法なり。新浄の衣を著する、ひとつの浄法なり。塵穢を澡浴し、香油を身に塗するに、内外倶浄なるべし。内外倶浄なる時、依報正報、清浄なり」

仏法の第一義と唱えると何か仰々しさが醸し出されるが、ここでは「身心を澡浴して香油を塗り、塵穢を除く」としますが、真理は単純にして明解で、「新しく浄めた衣物を著する」も一つの浄法であると。さらに偈文を分析し「塵穢を澡浴」としますが、印度や南方アジア等で行われる沐浴と思われ、その後に「香油を塗身」する。

ここは香油とされますが、一般的には沈香等木片を蒸気圧縮し、精製した油類を指しますが、ここでの香油は精製した油に自然香物を添加したものと考えられます。

つまりは沐浴し香油を塗身し、洗った衣(袈裟)を著することで、身も心も俱に浄くなる事を、「依報正報」つまり全体が清浄になる。と説く事柄が当巻での趣旨になるわけです。

しかあるに、佛法をきかず、佛道を參ぜざる愚人いはく、澡浴はわづかにみのはだへをすゝぐといへども、身内に五臓六腑あり。かれらを一々に澡浴せざらんは、清淨なるべからず。しかあれば、あながちに身表を澡浴すべからず。かくのごとくいふともがらは、佛法いまだしらず、きかず、いまだ正師にあはず、佛祖の兒孫にあはざるなり。しばらくかくのごとくの邪見のともがらのことばをなげすてて、佛祖の正法を參學すべし。いはゆる諸法の邊際いまだ決斷せず、諸大の内外また不可得なり。かるがゆゑに、身心の内外また不可得なり。しかあれども、最後身の菩薩、すでにいまし道場に坐し、成道せんとするとき、まづ袈裟を洗浣し、つぎに身心澡浴す。これ三世十方の諸佛の威儀なり。最後身の菩薩と餘類と、諸事みなおなじからず。その功徳智恵、身心莊嚴、みな最尊最上なり。澡浴洗浣の法もまたかくのごとくなるべし。いはんや諸人の身心、その邊際、ときにしたがうてことなることあり。いはゆる一坐のとき、三千界みな坐斷せらるゝ。このとき、かくのごとくなりといへども、自佗の測量にあらず、佛法の功徳なり。その身心量また五尺六尺にあらず。五尺六尺はさだまれる五尺六尺にあらざるゆゑなり。處在も、此界佗界、盡界無量盡界等の有邊無邊にあらず。遮裏是什麼處在、説細説麁のゆゑに。心量また思量分別のよくしるべきにあらず、不思量不分別のよくきはむべきにあらず。身心量かくのごとくなるがゆゑに、澡浴量もかくのごとし。この量を拈得して修證する、これ佛々祖々の護念するところなり。計我をさきとすべからず、計我を實とすべからず。しかあればすなはち、かくのごとく澡浴し、浣洗するに、身量心量を究盡して清淨ならしむるなり。たとひ四大なりとも、たとひ五蘊なりとも、たとひ不壞性なりとも、澡浴するにみな清淨なることをうるなり。これすなはちたゞ水をきたしすゝぎてのち、そのあとは清淨なるとのみしるべきにあらず。水なにとして本淨ならん、本不淨ならん。本淨本不淨なりとも、來著のところをして淨不淨ならしむといはず。たゞ佛祖の修證を保任するとき、用水洗浣、以水澡浴等の佛法つたはれり。これによりて修證するに、淨を超越し、不淨を透脱し、非淨非不淨を脱落するなり。しかあればすなはち、いまだ染汚せざれども澡浴し、すでに大清淨なるにも澡浴する法は、ひとり佛祖道のみに保任せり、外道のしるところにあらず。もし愚人のいふがごとくならば、五臓六腑を細塵に抹して即空ならしめて、大海水をつくしてあらふとも、塵中なほあらはずは、いかでか清淨ならん。空中をあらはずは、いかでか内外の清淨を成就せん。愚夫また空を澡浴する法、いまだしらざるべし。空を拈來して空を澡浴し、空を拈來して身心を澡浴す。澡浴を如法に信受するもの、佛祖の修證を保任すべし。

これから本則に対する詳細な拈提に入ります。

「しか有るに、仏法をき聞かず、仏道を参ぜざる愚人云く、澡浴は僅かに身のはだえを漱ぐと云えども、身内に五臓六腑あり。彼らを一々に澡浴せざらんは、清浄なるべからず。しか有れば、あながちに身表を澡浴すべからず。かくの如く云う輩は、仏法いまだ知らず、聞かず、いまだ正師に会わず、仏祖の児孫に逢わざるなり」

文意のままに解せられるが、「愚人」は一般人と解し、「五臓六腑」は心・肝・脾・肝・腎を五臓とし、大腸・小腸・胆・胃・膀胱・三焦を六腑とするが、聞法せず仏道に参随しない連中の云い分は、表面だけを洗っても内面を洗わなければ清浄とは云えない。との言は、まだ正師にも仏祖の児孫にも会わずに居るからだと。

「しばらくかくの如くの邪見の輩のことばを投げ棄てて、仏祖の正法を参学すべし。いわゆる諸法の辺際いまだ決断せず、諸大の内外また不可得なり。かるが故に、身心の内外また不可得なり」

先に云う一般愚人の見解は論外とし、「仏祖の正法」を四大五蘊(地水火風・色受想行識)という諸法の辺際(はて)は決められず、諸大(『御抄』では「人身の四大五大等」とする)の内外も不可得であるから、愚人が云うような言は通じず、身心の内外も不可得である。との仏祖の正法を参学すべしとの拈提です。

「しか有れども、最後身の菩薩、すでにいまし道場に坐し、成道せんとする時、まづ袈裟を洗浣し、次に身心澡浴す。これ三世十方の諸仏の威儀なり。最後身の菩薩と余類と、諸事みな同じからず」

「最後身の菩薩」とは、次の生で仏と成ると確約された菩薩を云うが、我々自身と訳するも可で、その我々が道場(僧堂)にて坐禅し、成道せんとする時には、御袈裟を洗浄し身心を沐浴する事が三世十方諸仏の威儀であると。この最後身の菩薩(只管打坐する菩薩)と余類(見性坐禅)とでは、全てが違うと暗に看話禅を指しての事とも考察されます。

「その功徳智恵、身心荘厳、みな最尊最上なり。澡浴洗浣の法も亦かくの如くなるべし。謂わんや諸人の身心、その辺際、時に従うて異なる事あり。いわゆる一坐の時、三千界みな坐断せらるる。この時、かくの如くなりと云えども、自佗の測量にあらず、仏法の功徳なり」

その三世十方諸仏の威儀つまり只管打坐の姿を「功徳智恵・身心荘厳」と称し、「最尊最上」としたわけで、このような心持ちで「澡浴洗浣」も行いなさいと。しかしながら百人百様の如くに、それぞれの学人の身心や辺際(はて)には相違する事情があると。

「いわゆる一坐」とは前述の只管打坐を示し、その打坐の時、三千世界(十万億土)も坐禅同時態(坐断)と成り、この時には自他の垣根が自然解体し、能所泯汒なるものを、「仏法の功徳」つまり坐の功徳とするものです。

「その身心量また五尺六尺にあらず。五尺六尺は定まれる五尺六尺にあらざる故なり。処在も、此界佗界、尽界無量尽界等の有辺無辺にあらず。遮裏是什麼処在、説細説麁の故に」

「五尺六尺」とは身長を指すと思われるが、先に「自他の測量にあらず」と無限定値に設定しますから、五・六尺との限定数値にあらずと説き、坐禅する場所(処在)にも此界佗界、尽界無量尽界等の枠を取り除いた無限定の仏界とするわけです。

「遮裏是什麼処在、説細説麁」の語は、塩官斉安(―842)の九旬安居会に於いての、首座黄蘗希運(―856)と書記である李忱(宣宗810―859)との問答話であるが、この話は『行持上』巻で詳細に語られるものです。概略は、黄蘗が常時礼拝する目的(不著仏求、不著法求、不著僧求、長老用礼何為)を書記宣宗が問うに、黄蘗は書記に平手を打つと、書記云く「大麁生なり」。つまり黄蘗に対し「甚だ粗暴で、あらっぽいな」の言に対し、黄蘗云く「遮裏是什麼処在、更説什麼麁細」。意訳すれば「ここ(遮裏)をどこ(什麼)だと思って、あらっぽい(麁)とか繊細とか云うのか」と訳されますが、主旨は常時礼拝(真実底)の事実は、何処も彼処もが真実態で、そこには麁や細とかの意味分別は無いとの黄蘗の云い分を、ここでは最後身菩薩が坐禅する処在には、「此界佗界、尽界無量尽界等の有辺無辺にあらず」と絡ませての説明です。

「心量また思量分別のよく知るべきにあらず、不思量不分別のよく究むべきにあらず。身心量かくの如くなるが故に、澡浴量もかくの如し。この量を拈得して修証する、これ仏々祖々の護念する処なり。計我を先とすべからず、計我を実とすべからず。しか有れば即ち、かくの如く澡浴し、浣洗するに、身量心量を究尽して清浄ならしむるなり」

「心量」は先に「身心量」と説きますから心量と設定するもので、身心量の場合には五尺六尺・此界他界云々と述べますから、ここは思量分別という心識を挙げ、更に不思量不分別とプラス・マイナス陰陽ともに把捉し、その「知るべきにあらず」と仏法の無限定を述べます。

「身心量」は斯くの如くに、無限定を以て固定概念は設けませんから、本則での「澡浴量」も同様に無限量と成るものです。この無限量を拈得(つかんで)して身修心証することが、仏々祖々つまり真実態が護念する処である。

「計我」は我を計ること。(『梵網経』「大正蔵」二四・一〇一〇・上)「此是仏行処、智者善思量。計我著相者、不能信是法。滅尽取証者、亦非下種処」(、筆者)つまり自我意識を先にせず、自我意識を真実と思うなとの言です。云うなれば無量尽界の極小な一部位を計我と呼称するもので、全体の真実態は遮裏是什麼処在と云う無限定場を指すもので、「澡浴・浣洗」も計我を以ての単なる沐浴・選択ではなく、無量尽界の身量心量で以ての究尽を以て清浄行と認識しなさいと。謂う所は、澡浴も浣洗も仏行として独立せしめよとの拈語と考えられます。

「たとい四大なりとも、たとい五蘊なりとも、たとい不壞性なりとも、澡浴するに皆清浄なる事を得るなり。これ即ちただ水を来たし澡ぎて後、そのあとは清浄なるとのみ知るべきにあらず。水何として本浄ならん、本不浄ならん。本浄本不浄なりとも、来著の処をして浄不浄ならしむと云わず」

「四大・五蘊・不壞性」の語句は、『真字正法眼蔵』下・二八八則にての趙州と僧との問答話を引いたものですが、「四大」は地・水・火・風の基本元素を意味し、「五蘊」は色・受・想・行・識の感覚世界を云うもので尽界の一部と見られますが、ここでは四大の時には全世界が四大を、五蘊の時には全界が五蘊ばかりで、不壞性も同様に考えられ、これら(四大五蘊等)で以て澡浴すれば全体が清浄に為るとの論法ですが、ただ物理的に水で洗って清浄に成るとは考えてはならない。

水は本来浄なるか本来不浄なるか。と人間は思案するが、「来著」つまり水の来た処は浄不浄の論にも及ばないのである。要は計我の世界では浄不浄の論は有り得るが、真実態つまり一坐の時には浄不浄の論は成り立たないとの事です。

「ただ仏祖の修証を保任する時、用水洗浣、以水澡浴等の仏法伝われり。これによりて修証するに、浄を超越し、不浄を透脱し、非浄非不浄を脱落するなり」

真実(仏祖)の修因証果を身につける(保任)時は、水を用いての洗浣・水で以ての澡浴の仏法が伝来される。と書かれますが、ここは「洗面」を標題にする為に水を介在にした方法を説かれるが、坐禅の行法で以てするなら「手を組み脚を組み」と云った表現形態になります。このような方法論で修証すれば、浄不浄は同体(超越・透脱)化し、非の浄・非の不浄をも同体(脱落)になるとの一等性を説くものです。

「しか有れば即ち、未だ染汚せざれども澡浴し、すでに大清浄なるにも澡浴する法は、ひとり仏祖道のみに保任せり、外道の知る処にあらず」

外道は塵穢だから澡浴を修するが、仏祖の修し方は染汚で有ろうが無かろうが、修証一等の実践法を言明するものです。

「もし愚人の云うが如くならば、五臓六腑を細塵に抹して即空ならしめて、大海水をつくして洗うとも、塵中なお洗わずは、いかでか清浄ならん。空中を洗うわずは、いかでか内外の清浄を成就せん。愚夫また空を澡浴する法、未だ知らざるべし」

先に外道と云いましたから、ここでは「愚人」と言い換えますが同義語です。これは一つの言句で以ての概念を嫌う為と考えられ、最初の「愚人云く、身内に五臓六腑あり。身表を澡浴すべからず」を再び別角度から取り挙げるもので、彼らの云うには五臓六腑の内臓を細断し空ならしめ、有らん限りの大量の海水で以て洗っても、空中の塵をも洗浄しなければと。常に相対的・能所・主客的観点を以ての論法である為、次は空をも澡浴しなければならない羽目に到り、次は地球自身を、また次には宇宙自体をも洗浣せざる得ない論理になりますが、

愚夫が熟考する、自身の立ち位置を常に尽界の圏外に置く為、止めどない循環となるものです。

「空を拈来して空を澡浴し、空を拈来して身心を澡浴す。澡浴を如法に信受する者、仏祖の修証を保任すべし」

愚人・愚夫・外道では空を澡浴する方法を知る由もないが、仏法では空は空を以ての拈来・

澡浴法や空を拈来(ひねって)する事で、身心(尽界)を澡浴する法。つまりは全実態を真実の現成と見据える方途を、澡浴を如法に信受すると言い、その如法の結実態を称して、、仏祖(真実底)の修行と証果との同期同体性、つまり修証一如が身に保たれる(保任)事実を仏法の功徳と言わしめるとの見解です。

これまでが洗面に対する形而上的説明。洗面は単なる面を洗うのではなく、面と尽界との相関・相補性、洗面の真実態と坐との聯関等を概説的に述べて来ましたが、次項からは律経なども見ながらの具体的事例を以ての、仏法と洗面との提唱に入ります。

 

    二

いはゆる佛々祖々、嫡々正傳する正法には、澡浴をもちゐるに、身心内外、五臓六腑、依正二報、法界虚空の内外中間、たちまちに清淨なり。香花をもちゐてきよむるとき、過去現在未來、因縁行業、たちまちに清淨なり。佛言、三沐三薫、身心清淨。しかあれば、身をきよめ心をきよむる法は、かならず一沐しては一薫し、かくのごとくあひつらなれて、三沐三薫して、禮佛し轉經し、坐禪し經行するなり。經行をはりてさらに端坐坐禪せんとするには、かならず洗足するといふ。足けがれ觸せるにあらざれども、佛祖の法、それかくのごとし。

それ三沐三薫すといふは、一沐とは一沐浴なり、通身みな沐浴す。しかうしてのち、つねのごとくして衣裳を著してのち、小爐に名香をたきて、ふところのうちおよび袈裟坐處等に薫ずるなり。しかうしてのちまた沐浴してまた薫ず。かくのごとく三番するなり。これ如法の儀なり。このとき、六根六塵あらたにきたらざれども、清淨の功徳ありて現前す。うたがふべきにあらず。三毒四倒いまだのぞこほらざれども、清淨の功徳たちまちに現前するは佛法なり。たれか凡慮をもて測度せん、なにびとか凡眼をもて覰見せん。たとへば、沈香をあらひきよむるとき、片々にをりてあらふべからず。塵々に抹してあらふべからず。たゞ擧體をあらひて清淨をうるなり。佛法にかならず浣洗の法さだまれり。あるいは身をあらひ心をあらひ、足をあらひ面をあらひ、目をあらひくちをあらひ、大小二行をあらひ、手をあらひ、鉢孟をあらひ、袈裟をあらひ、頭をあらふ。これらみな三世の諸佛諸祖の正法なり。佛法僧を供養したてまつらんとするには、もろもろの香をとりきたりては、まづみづからが兩手をあらひ、嗽口洗面して、きよきころもを著し、きよき盤に淨水をうけて、この香をあらひきよめて、しかうしてのちに佛法僧の境界には供養したてまつるなり。ねがはくは摩黎山の栴檀香を、阿那婆達池の八功徳水してあらひて、三寶に供養したてまつらんことを。

先段は仏祖正伝の参学として、学人の所在を此界他界無量尽界をも透脱した無分節的理事法と設定しましたが、これからは事法に重点を置いた分節的考察となります。

「いわゆる仏々祖々、嫡々正伝する正法には、澡浴を用いるに、身心内外、五臓六腑、依正二報、法界虚空の内外中間、忽ちに清浄なり。香花を用いて清むる時、過去現在未来、因縁行業、忽ちに清浄なり」

尽界の詳細を「身心内外、五臓六腑、依正二報、法界虚空の内外中間」とし、澡浴の用法により、これらが忽ちに清浄となり、このことは香花に於いても過現等の時間性が清浄となるとの事ですが、「眼蔵」の連続性で考えると前述『陀羅尼』巻では、礼拝を主眼に「尽大地鎮護・尽方界鎮成・尽仏界鎮作」(「正法眼蔵」三・一〇九頁・水野・岩波文庫)と説き、その行法を大陀羅尼と位置づけますから、ここでの「澡浴」「香花」も単なる洗浣・供物を指すのではなく、尽十方界への行法を比喩しての澡浴・香花となります。

「仏言、三沐三薫、身心清浄。しか有れば、身を清め心を清むる法は、必ず一沐しては一薫し、かくの如く相い連なれて、三沐三薫して、礼仏し転経し、坐禅し経行するなり。経行終わりてさらに端坐坐禅せんとするには、必ず洗足すると云う。足けがれ触せるにあらざれども、仏祖の法、それかくの如し」

解読するに難なく文意のままですが、本則に該当する出典は不明です。

「経行終わりて更に坐禅するに、必ず洗足の行法が有る」と説かれるが、この行法は『宝慶記』(「曹洞宗全書」下・二)での第五・学人の行住坐臥に対する、如浄による指示「坐禅辦道之衲僧、尋常亦須洗足」(、点筆者)を承けてのものです。

「それ三沐三薫すと云うは、一沐とは一沐浴なり、通身みな沐浴す。然して後、常の如くして衣裳を著して後、小爐に名香を焚きて、懐の内および袈裟坐処等に薫ずるなり。然して後また沐浴してまた薫ず。かくの如く三番するなり。これ如法の儀なり」

如法の儀とは手間のかかる作法であるが、出家人が行ずると云うより、貴族の薫香作法にも似た光景である。

「この時、六根六塵新たに来たらざれども、清浄の功徳ありて現前す。疑うべきにあらず。三毒四倒未だのぞこほらざれども、清浄の功徳忽ちに現前するは仏法なり。誰か凡慮をもて測度せん、何人か凡眼をもて覰見せん」

「六根」は眼耳鼻舌身意、「六塵」は色声香味触法の外面世界、また「三毒四倒」の三毒は貪瞋痴を、四(顛)倒は無常・苦・無我・不浄を常・楽・我・浄とする内面世界が、そのままで清浄の功徳の現れと見るを仏法とするを、凡慮凡眼(三毒四倒打破)で以て判断してはいけないとの事です。

「喩えば、沈香を洗い清むる時、片々に折りて洗うべからず。塵々に抹して洗うべからず。ただ挙体を洗いて清浄を得るなり。仏法に必ず浣洗の法さだまれり。或いは身を洗い心を洗い、足を洗い面を洗い、目を洗い口を洗い、大小二行を洗い、手を洗い、鉢孟を洗い、袈裟を洗い、頭を洗う。これらみな三世の諸仏諸祖の正法なり」

沈香は木片を利用していた事がこの記事からわかり、続いて洗行の日常を唱え、これらの常日頃を諸仏の正法とする処に、只管の仏行が有るとの提唱になります。

「仏法僧を供養し奉らんとするには、もろもろの香を取り来たりては、まづ自らが両手を洗い、嗽口洗面して、清き衣を著し、清き盤に浄水を受けて、この香を洗い清めて、然して後に仏法僧の境界には供養し奉るなり。願わくは摩黎山の栴檀香を、阿那婆達池の八功徳水して洗いて、三宝に供養し奉らんことを」

三宝に対する基本的作法を述べるものですが、供養に対する信仰心と呼ぶべきものです。「摩黎山」は摩羅耶山とも称し、そこで産出される最上の栴檀香(白檀香)を、阿那婆達池(阿耨達池)の八功徳水(甘・冷・軟・軽・不臭等の八味水)で洗浄した名香を仏法僧の三宝に供養しなさい。との信仰表明です。

洗面は西天竺國よりつたはれて、東震旦國に流布せり。諸部の律にあきらかなりといふとも、なほ佛祖の傳持、これ正嫡なるべし。數百歳の佛々祖々おこなひきたれるのみにあらず、億千萬劫の前後に流通せり。たゞ垢膩をのぞくのみにあらず、佛祖の命脈なり。いはく、もしおもてをあらはざれば、禮をうけ佗を禮する、ともに罪あり。自禮禮佗、能禮所禮、性空寂なり、性脱落なり。かるがゆゑに、かならず洗面すべし。洗面の時節、あるいは五更、あるいは昧旦、その時節なり。先師の天童に住せしときは、三更の三點をその時節とせり。裙褊衫を著し、あるいは直裰を著して、手巾をたづさへて、洗面架におもむく。手巾は一幅の布、ながさ一丈二尺なり。そのいろ、しろかるべからず、しろきは制す。

三千威儀經云、當用手巾有五事。一者當拭上下頭。二者當用一頭拭手、以一頭拭面。三者不得持拭鼻。四者以用拭膩汚當即浣之。五者不得拭身體、若澡浴各當自有巾。

まさに手巾を持せんに、かくのごとく護持すべし。手巾をふたつにをりて、左のひぢにあたりて、そのうへにかく。手巾は半分はおもてをのごひ、半分にては手をのごふ。はなをのごふべからずとは、はなのうち、および鼻涕をのごはず。わきせなかはらへそもゝはぎを、手巾してのごふべからず。垢膩にけがれたらんに、洗浣すべし。ぬれしめれらんは、火に烘じ、日にほしてかわかすべし。手巾をもて沐浴のときもちゐるべからず。雲堂の洗面處は後架なり。後架は照堂の西なり、その屋圖つたはれり。庵内および單寮は、便宜のところにかまふ。住持人は方丈にて洗面す。耆年老宿居處に、便宜に洗面架をおけり。住持人もし雲堂に宿するときは、後架にして洗面すべし。洗面架にいたりて、手巾の中分をうなじにかく。ふたつのはしを左右のかたよりまへにひきこして、左右の手にて、左右のわきより手巾の左右のはしをうしろへいだして、うしろにておのおのひきちがへて、左のはしは右へきたし、右のはしは左にきたして、むねのまへにあたりてむすぶなり。かくのごとくすれば、褊衫のくびは手巾におほはれ、兩袖は手巾にゆひあげられて、ひぢよりかみにあがりぬるなり。ひぢよりしも、うでたなごゝろ、あらはなり。たとへば、たすきかけたらんがごとし。そののち、もし後架ならば、面桶をとりて、かまのほとりにいたりて、一桶の湯をとりて、かへりて洗面架のうへにおく。もし餘處にては、打湯桶の湯を面桶にいる。

洗面に対する具体的説明に入り、律文により充足するものとなります。

「洗面は西天竺国より伝われて、東震旦国に流布せり。諸部の律に明らかなりと云うとも、なお仏祖の伝持、これ正嫡なるべし。数百歳の仏々祖々行い来たれるのみにあらず、億千万劫の前後に流通せり。ただ垢膩を除くのみにあらず、仏祖の命脈なり」

文意のままに解されますが、洗面の本義を垢や膩を除去するだけではなく、仏祖の命の脈動と言明されることがポイントになります。

「云く、もし面を洗わざれば、礼を受け佗を礼する、ともに罪あり。自礼礼佗、能礼所礼、性空寂なり、性脱落なり。かるが故に、必ず洗面すべし。洗面の時節、或いは五更、或いは昧旦、その時節なり。先師の天童に住せし時は、三更の三点をその時節とせり。裙褊衫を著し、あるいは直裰を著して、手巾を携えて、洗面架に赴く」

洗面せず相互の礼拝は罪ありとの言ですが、これまでの生活の一新を図ることへの一種のパラダイム転換とも云うべき示唆であり、洗面を不染汚行とも云い得るものです。

礼拝の本体は空寂であり脱落である事を、「自礼礼佗・能礼所礼」つまり一味態を云うものです。

洗面つまり起床時間は、一般的には五更つまり日没(午後七時)から二時間毎に更数を増やすわけですから、午前三時を五更つまり午前三時から五時での洗面、或いは昧旦つまり夜の明け切らない時間帯には洗面しなければならない。との事です。

先師つまり如浄和尚が天童寺に住する時には、三更(午後十一時)の三点(二時間を四等分)つまり午前0時半頃には、裙褊衫(上座部での下着)或いは直裰(裙と褊衫を接合したもの)を着用し、手巾(手ぬぐい)持参で洗面架(所)に赴くのである。

「手巾は一幅の布、長さ一丈二尺なり。その色、白かるべからず、白きは制す。

三千威儀経云、当用手巾有五事。一者当拭上下頭。二者当用一頭拭手、以一頭拭面。三者不得持拭鼻。四者以用拭膩汚当即浣之。五者不得拭身体、若澡浴各当自有巾。

まさに手巾を持せんに、かくの如く護持すべし。手巾をふたつに折りて、左の臂に当たりて、その上に掛く。手巾は半分は面を拭い、半分にては手を拭う。鼻を拭うべからずとは、鼻の内、および鼻涕を拭わず。脇・背中・腹・臍・腿・脛を、手巾して拭うべからず。垢膩に穢れたらんに、洗浣すべし。濡れ湿れらんは、火に烘じ、日に干して乾かすべし。手巾をもて沐浴の時用いるべからず」

手巾の長さは一丈二尺(一丈を180cm・二尺を60cmで240cm)で、その手巾の色は白物厳禁で、グレーが好まれます。『三千威儀経』(「大正蔵」二四・九二一・下)は律経の代表格で一三八〇余条の威儀行法が記されるものであるが、「大正蔵」では二者の最後に「拭面目」と目が提唱では欠如するが大意には変わり有りません。

簡略に読み下すと、「三千威儀経に云く、手巾を用いるに当たり五事あり。一つには上下の頭(端)で拭い当たるべし。二つには一端で以て面(顔)を拭い当たるべし。三つには(手巾で)鼻(みず)を拭うべからず。四つには膩を拭い汚れたら即之を洗い当たるべし。五つには身体を拭うべからず。澡浴の時には各自手巾を持参すべし。以下は本則経本を補足する文となります。

「雲堂の洗面処は後架なり。後架は照堂の西なり、その屋図伝われり。庵内および単寮は、便宜の処に構う。住持人は方丈にて洗面す。耆年老宿居処に、便宜に洗面架を置けり。住持人もし雲堂に宿する時は、後架にして洗面すべし」

僧堂(雲堂)の後方に洗面処が有ります。「照堂」は経行通路とも、首座が安居中に説法する処であったり、又は雲衲の把針処としても使用される。(『禅学大辞典』・『宋代天童寺伽藍の規模について』等参照)また『随聞記』には「如浄は照堂にて普説」と記されます。

「洗面架に到りて、手巾の中分をうなじに掛く。二つの端を左右の肩より前に引きこして、左右の手にて、左右の脇より手巾の左右の端を後へいだして、後にておのおの引き違えて、左の端は右へ来たし、右の端は左に来たして、胸の前に当たりて結ぶなり」

文章にすると複雑に思われますが、要はたすき掛けの要領になります。

「かくの如くすれば、褊衫のくびは手巾に覆われ、両袖は手巾に結い上げられて、肘よりかみに上がりぬるなり。肘より下、腕・掌、露わなり。喩えば、襷掛けたらんが如し。その後、もし後架ならば、面桶を取りて、釜の辺に到りて、一桶の湯を取りて、帰りて洗面架の上に置く。もし余処にては、打湯桶の湯を面桶に入る」

このような作法は、専門僧堂と云われる修行道場にて随時行われるが、一般寺院ではほとんど見受けられない。ここで扱う行法は原則論である。

 

    三

つぎに楊枝をつかふべし。今大宋國諸山には、嚼楊枝の法、ひさしくすたれてつたはれざれば、嚼楊枝のところなしといへども、今吉祥山永平寺、嚼楊枝のところあり。すなはち今案なり。これによれば、まづ嚼楊枝すべし。楊枝を右手にとりて、呪願すべし。華嚴經淨行品云、手執楊枝、當願衆生、心得正法、自然清淨。この文を誦しをはりて、さらに楊枝をかまんとするに、すなはち誦すべし。晨嚼楊枝、當願衆生、得調伏牙、噬諸煩惱。この文を誦しをはりて、また嚼楊枝すべし。楊枝のながさ、あるいは四指、あるいは八指、あるいは十二指、あるいは十六指なり。摩訶僧祇律第三十四云、齒木應量用。極長十六指、極短四指。

しるべし、四指よりもみぢかくすべからず。十六指よりもながきは量に應ぜず。ふとさは手小指大なり。しかありといへども、それよりもほそき、さまたげなし。そのかたち、手小指形なり。一端はふとく、一端ほそし。そのふときはしを、微細にかむなり。

三千威儀經云、嚼頭不得過三分。よくかみて、はのうへ、はのうら、みがくがごとくとぎあらふべし。たびたびとぎみがき、あらひすゝぐべし。はのもとのしゝのうへ、よくみがきあらふべし。はのあひだ、よくかきそろへ、きよくあらふべし。嗽口たびたびすれば、すゝぎきよめらる。しかうしてのち、したをこそぐべし。三千威儀經云、刮舌有五事。一者不得過三返。二者舌上血出當止。三者不得大振手、汚僧伽梨衣若足。四者棄楊枝莫當人道。五者常當屏處。いはゆる刮舌三返といふは、水を口にふくみて舌をこそげこそげすること、三返するなり。三刮にはあらず。血いでばまさにやむべしといふにこゝろうべし。よくよく刮舌すべしといふことは、三千威儀經云、淨口者、嚼楊枝漱口刮舌。しかあれば、楊枝は佛祖ならびに佛祖兒孫の護持しきたれるところなり。

これからは楊枝を用いての歯磨きに対する提唱ですが、小拙三十数年前にバンコク(タイ)のゲストハウスにて、数人のバングラデシュ人が庭前のマンゴー樹の枝を折り、文面の如くに噛み砕きする「嚼楊枝」する光景が、三十数年経た今日でも想い出される。又バングラデシュチッタゴン県マハムニ村での数か月滞在した時には、そこでの歯磨きは少しの消し炭を口に含み、噛み砕き右手の人差し指で以て歯茎ならびに歯を洗浄する光景を目にし、歯が真っ白になり同時に殺菌効果も有るとのことである。

「次に楊枝を使うべし。今大宋国諸山には、嚼楊枝の法、久しく廃れて伝われざれば、嚼楊枝の処なしと云えども、今吉祥山永平寺、嚼楊枝の所あり。即ち今案なり。これによれば、まづ嚼楊枝すべし。楊枝を右手に取りて、呪願すべし。華厳経浄行品云、手執楊枝、当願衆生、心得正法、自然清浄。この文を誦し終わりて、さらに楊枝を噛まんとするに、即ち誦すべし。晨嚼楊枝、当願衆生、得調伏牙、噬諸煩悩。この文を誦し終わりて、また嚼楊枝すべし。楊枝の長さ、あるいは四指、あるいは八指、あるいは十二指、あるいは十六指なり。摩訶僧祇律第三十四云、歯木応量用。極長十六指、極短四指。知るべし、四指よりも短くすべからず。十六指よりも長きは量に応ぜず。太さは手小指大なり。しかありと云えども、それよりも細き、妨げなし。その形、手小指形なり。一端は太く、一端細し。その太き端を、微細に噛むなり」

文意のままに解され、『華厳経』は六十巻本で正式経典名は『大方広仏華厳経』浄行品第七(「大正蔵」九・四三一・上)からの引用です。「手執楊枝、当願衆生、心得正法、自然清浄」は(手に楊枝を執り、当に衆生と願わくは、心に正法を得て、自然清浄なり)。次の「晨嚼楊枝、当願衆生、得調伏牙、噬諸煩悩」(早朝に楊枝を嚼まんと、当に衆生と願わくは、調伏の牙を得て、諸の煩悩を噬(か)まん)。『摩訶僧祇律』三四としますが(「大正蔵」二二・五〇五・中)では「歯木は量に応じ用ゆ。極長は十六指、極短は四指」としますが原文では「嚼歯木欲尽、極長者十六指、極短者四指」と多少の改変があります。

「三千威儀経云、嚼頭不得過三分。よく噛みて、歯の上、歯の裏、磨くが如く研ぎ洗うべし。たびたび研ぎ磨き、洗い漱ぐべし。歯の元のししの上、よく磨き洗うべし。歯の間、よく掻き揃え、きよく洗うべし。嗽口たびたびすれば、漱ぎきよめらる。然して後、舌をこそぐべし。三千威儀経云、刮舌有五事。一者不得過三返。二者舌上血出当止。三者不得大振手、汚僧伽梨衣若足。四者棄楊枝莫当人道。五者常当屏処。いわゆる刮舌三返と云うは、水を口に含みて舌をこそげこそげする事、三返するなり。三刮にはあらず。血出でば当にに止むべしと云うに心得べし。よくよく刮舌すべしと云う事は、三千威儀経云、浄口者、嚼楊枝漱口刮舌。しか有れば、楊枝は仏祖ならびに仏祖児孫の護持し来たれるところなり」

「嚼頭不得過三分」は『三千威儀経』(「大正蔵」二四・九一五・中)「用楊枝有五事。一者断当如度。二者破当如法。三者嚼頭不得過三分。四者踈歯当中三噛。五者当汁澡自用」の一文で、楊枝の嚼み砕く長さは1センチ(三分)程にし、よく磨きなさいとの事です。

次の「刮舌有五事」は前文の続きですが、「一つには刮舌は三返を過すべからず。二つには舌上に出血したら止むべし。三つには手を大振りし、僧伽梨衣もしくは足を汚すべからず(原文には衣は無記)。四つには楊枝を棄てるに、人の通り道に棄てるな。五つには常に屏処にて刮舌すべし」の経文に対する拈提では、刮舌は楊枝の穂先で以て出血する如く刮るのではなく、「水を口に含んで、ブクブクを三返繰り返す」との説明ですが、実に親切な提言で頻繁に刮舌する事で、舌乳頭が角化し炎症を起こす事例もあります。普段は唾液が舌苔を洗い流すものですから、次に説く「口を浄くするには、嚼楊枝し、口を漱ぎ、刮舌」(「同経前頁上」と指示され、これらの行法護持が仏児孫としての勤めであるとの事です。

佛在王舎城竹園之中、與千二百五十比丘倶。臘月一日、波斯匿王是日設食。清晨躬手授佛楊枝。佛受嚼竟、擲殘著地便生、蓊鬱而起。根莖涌出、高五百由旬。枝葉雲布。周匝亦爾。漸復生花、大如車輪。遂復有菓、大如五斗瓶。根莖枝葉、純是七寶。若干種色、映殊麗妙。隨色發光、奄蔽日月。食其菓、菓者美喩甘露。甘露香気四塞。聞者情悦。香風來吹、更相撑角、枝葉皆出和雅之音、暢演法要、聞者無厭。一切人民、覩茲樹變、敬信之心、倍益純厚。佛乃説法、應適其意、心皆開解。志求佛者、得果生天、數甚衆多。

佛および衆僧を供養する法は、かならず晨旦に楊枝をたてまつるなり。そののち種々の供養をまうく。ほとけに楊枝をたてまつれることおほく、ほとけ楊枝をもちゐさせたまふことおほけれども、しばらくこの波斯匿王みづからてづから供養しまします因縁ならびにこの高樹の因縁、しるべきゆゑに擧するなり。またこの日すなはち外道六師、ともにほとけに降伏せられたてまつりて、おどろきおそりてにげはしる。つひに六師ともに投河而死。

六師徒類九億人、皆來師佛求爲弟子。佛言善來比丘、鬚髪自落、法衣在身、皆成沙門。佛爲説法、示其法要、漏盡結解、悉得羅漢。

しかあればすなはち、如來すでに楊枝をもちゐましますゆゑに、人天これを供養したてまつるなり。あきらかにしりぬ、嚼楊枝これ諸佛菩薩、ならびに佛弟子のかならず所持なりといふことを。もしもちゐざらんは、その法失墜せり、かなしまざらんや。

本則経典は『賢愚経』降六師品第十四(「大正蔵」四・三六〇下ー三六二中)ですが、降六師品冒頭「如是我聞、一時仏在王舎城竹園之中、与千二百五十比丘倶、時汫沙王、已得初果」からの常套句を引き「臘月一日、仏至試場、波斯匿王是日設食、清晨躬手授仏楊枝、仏受嚼竟ー以下略」と、楊枝を媒介にした経文である為の引用で、次には六師外道話がとり挙げられるが、この「六師徒類」(「同経」三六三・上)話は降六師品からの引用ですが、この提唱の趣旨から考えると違和感が有る。

賢愚経文の和訳は、「仏、王舎城竹林精舎にて、、1250人の比丘と俱なり。十二月一日波斯匿(パサナディ・憍薩羅国)王が、この日設斎供養し、早朝に王が手づから仏に楊枝を授く。仏嚼み竟(おわ)りて、残りを擲(な)げ地に著くと便ち生じ、蓊鬱(うっそう)として起つ。根茎涌(経は踊)出し高さ五百由旬。(約4800m)枝葉は雲布せり。周匝(周囲)も同じ。漸らくし花と生じ、大きさ五斗(約十キロ)の瓶ほどで、根茎枝葉は純粋な七宝で、若干の種色は映殊麗妙なり。色に随い光を発し、日月を蔽い、其の果を食すると、美味で甘露の喩え。香気は四方に塞(み)てり。聞く者は情悦し、香風吹きて、更に相撑角(経は触)それぞれが打ち合わせると、枝葉より皆雅の音を出し、法要を暢演す。聞く者は厭(あ)きる事無く、一切の人民は、この樹の変化を覩て、敬信の人が、倍増し、信仰心厚し。仏乃ち説法するに、其意は適応し、心皆開解す。仏を志求する者は、得果生天し、数は甚だ多し」

この経文に対する拈提では、晨旦(早朝)に楊枝を供養する功徳により、小片の事物が高樹に変化し、華を分与する事象の因縁を知るべきであるとの事です。

次に云う「外道六師、共に仏に降伏せられて奉りて、驚き怖りて逃げ走る。遂に投河而死」は「六師驚怖奔突而走、慚此重辱、投河而死」の和訳ですが、次句「六師徒類」の前に付されたものです。

「六師徒類九億人」に対する拈提は直接的には関係なく、「嚼楊枝もし用いざらんは、その法失墜せり」は無理強いの感が強く、この「六師徒類」自体の引用自体、「降六師品」という標題に偏頗すぎたるものと思われ、筆者ならば『大般涅槃経』四・四相品(「大正蔵」一二・六二九・中)に於ける「澡面漱口、楊枝自浄、衆皆謂我有如是事」等を引用するものであるが。

梵網菩薩戒經云、若佛子、常應二時頭陀、冬夏坐禪、結夏安居。常用楊枝澡豆、三衣甁鉢、坐具錫杖、香爐漉水嚢、手巾刀子、火燧鑷子、繩床經律、佛像菩薩形像。而菩薩行頭陀時、及遊方時、行來百里千里、此十八種物、常隨其身。頭陀者、從正月十五日至三月十五日、從八月十五日、至十月十五日。是二時中、此十八種物、常隨其身、如鳥二翼。

この十八種物、ひとつも虧闕すべからず。もし虧闕すれば、鳥の一翼おちたらんがごとし。一翼のこれりとも、飛行することあたはじ、鳥道の機縁にあらざらん。菩薩もまたかくのごとし。この十八種の羽翼そなはらざれば、行菩薩道あたはず。十八種のうち、楊枝すでに第一に居せり、最初に具足すべきなり。この楊枝の用不をあきらめんともがら、すなはち佛法をあきらむる菩提薩埵なるべし。いまだかつてあきらめざらんは、佛法也未夢見在ならん。

しかあればすなはち、見楊枝は見佛祖なり。或有人問意旨如何、幸値永平老漢嚼楊枝。

この梵網菩薩戒は、過去現在未來の諸佛菩薩、かならず過現當に受持しきたれり。しかあれば、楊枝また過現當に受持しきたれり。

『梵網菩薩戒経』(「大正蔵」二四・一〇〇八・上)からの引用文です。

「若(なんぢ)仏子、常に応に二時に頭陀(托鉢)し、冬夏に坐禅し、結夏安居すべし。常に錫杖・澡豆(手洗い用)、三衣(五・七・九条衣)・甁・鉢(応量器)、坐具・錫杖、香爐・漉水嚢、火燧(火打石)・鑷子(毛抜き)、縄床(伸縮椅子)・経律(梵網戒経)、仏像・菩薩形像。而して菩薩は頭陀を行ずる時、及び遊方時、百里千里を行来せんに、此の十八種物を、常に其の身に随うべし。頭陀は正月十五日より三月十五日に至り、八月十五日より十月十五日に至る。是の二時の中、此の十八種物は、常に其の身に随へて、鳥の二翼の如くすべし」

「この十八種物、ひとつも虧闕すべからず。もし虧闕すれば、鳥の一翼落ちたらんが如し。一翼残れりとも、飛行すること能わじ、鳥道の機縁にあらざらん。菩薩もまたかくの如し。この十八種の羽翼備わらざれば、行菩薩道能わず。十八種の内、楊枝すでに第一に居せり、最初に具足すべきなり。この楊枝の用不を明らめん輩、即ち仏法を明らむる菩提薩埵なるべし。未だ曾て明らめざらんは、仏法也未夢見在ならん。しか有れば即ち、見楊枝は見仏祖なり。或有人問意旨如何、幸値永平老漢嚼楊枝。この梵網菩薩戒は、過去現在未来の諸仏菩薩、必ず過現当に受持し来たれり。しか有れば、楊枝また過現当に受持し来たれり」

この「梵網戒経」に対する拈提では、行脚僧の十八種の携行品筆頭に記す楊枝の存在であり、その究極が見楊枝=見仏祖となり、要は楊枝が仏祖との識得まで究学する態度に、他を追随させない独自な仏法観を見る思いです。

「或いは人有って意旨如何と問うなら、幸いに永平老漢の嚼楊枝に値っているではないか」の挙言は、須弥壇上での説法を思い起させる威厳に満ちた音声が響きわたる、臨場感溢れる永平寺での提唱が眼前に展開される思いです。

禪苑清規云、大乘梵網經、十重四十八輕、竝須讀誦通利、善知持犯開遮。但依金口聖言、莫擅隨於庸輩。

まさにしるべし、佛々祖々正傳の宗旨、それかくのごとし。これに違せんは佛道にあらず、佛法にあらず、祖道にあらず。しかあるに、大宋國いま楊枝たえてみえず。嘉定十六年癸未四月のなかに、はじめて大宋に諸山諸寺をみるに、僧侶の楊枝をしれるなく、朝野の貴賤おなじくしらず。僧家すべてしらざるゆゑに、もし楊枝の法を問著すれば失色して度を失す。あはれむべし、白法の失墜せることを。わづかにくちをすゝぐともがらは、馬の尾を寸餘にきりたるを、牛の角のおほきさ三分ばかりにて方につくりたるが、ながさ六七寸なる、そのはし二寸ばかりに、むまのたちがみのごとくにうゑて、これをもちて牙齒をあらふのみなり。僧家の器にもちゐがたし。不淨の器ならん、佛法の器にあらず。俗人の祠天するにも、なほきらひぬべし。かの器、また俗人僧家、ともにくつのちりをはらふ器にもちゐる、また梳鬢のときもちゐる。いさゝかの大小あれども、すなはちこれひとつなり。かの器をもちゐるも、萬人が一人なり。しかあれば、天下の出家在家、ともにその口気はなはだくさし。二三尺をへだててものいふとき、口臭きたる。かぐものたへがたし。有道の尊宿と稱じ、人天の導師と号するともがらも、漱口刮舌嚼楊枝の法、ありとだにもしらず。これをもて推するに、佛祖の大道いま陵夷をみるらんこと、いくそばくといふことしらず。いまわれら露命を萬里の蒼波にをしまず、異域の山川をわたりしのぎて道をとぶらふとすれども、澆運かなしむべし、いくばくの白法か、さきだちて滅没しぬらん。をしむべしをしむべし。しかあるに、日本一國朝野の道俗、ともに楊枝を見聞す、佛光明を見聞するならん。しかあれども、嚼楊枝それ如法ならず、刮舌の法つたはれず、倉卒なるべし。しかあれども、宋人の楊枝をしらざるにたくらぶれば、楊枝をもちゐるべしとしれるは、おのづから上人の法をしれり。仙人の法にも楊枝をもちゐる。しるべし、みな出塵の器なり、清淨の調度なりといふことを。

三千威儀經云、用楊枝有五事。一者斷當如度。二者破當如法。三者嚼頭不得過三分。四者踈齒當中三齧。五者當汁澡目用。

いま嚼楊枝漱口の水を、右手にうけてもて目をあらふこと、みなもと三千威儀經の説なり。いま日本國の往代の庭訓なり。刮舌の法は、僧正栄西つたふ。楊枝つかひてのち、すてんとするとき、兩手をもて楊枝のかみたるかたより二片に擘破す。その破口のとき、かほをよこさまに舌上にあててこそぐ。すなはち右手に水をうけて、くちにいれて漱口し、刮舌す。漱口、刮舌、たびたびし、擘楊枝の角にてこそげこそげして、血出を度とせんとするがごとし。

『禅苑清規』一・護戒章(「続蔵」六三・五二三・中)からの引用になります。「大乗梵網経に、十重禁戒四十八軽戒、並びに須らく読誦通利し、善く持犯開遮(持戒・犯戒・許可・禁止)を知るべし。但し金口聖言(仏の言葉)に依り、擅(ほし)いままに於庸輩(凡俗)に随う莫れ」

「当に知るべし、仏々祖々正伝の宗旨、それかくの如し。これに違せんは仏道にあらず、仏法にあらず、祖道にあらず。しか有るに、大宋国いま楊枝絶えて見えず。嘉定十六年癸未四月の中に、始めて大宋に諸山諸寺を見るに、僧侶の楊枝を知れるなく、朝野の貴賤同じく知らず」

護戒に対する拈提で、大乗の仏徒は梵網経による十重(不殺生・不偸盗・不貪婬・不妄語・不酤酒・不説在家出家菩薩罪過・不自讃毀他・不慳法財・不瞋恚・不癡謗三法)ならびに四十八軽戒を持戒・護戒が、仏道・仏法・祖道に適うものである。

嘉定十六年は日本の貞応二年(1223)で、『建撕記』によると「二月二十二日に日本を出発し同年四月に着岸」と記され、『典座教訓』では「嘉定十六年七月、山僧掛錫天童」の文言を参照すると、嘉定十六年四月にニンポーに着宋し、「大宋に諸山諸寺を見るに」云々は七月以降の遍参修学の時期と思われます。

「僧家全て知らざる故に、もし楊枝の法を問著すれば失色して度を失す。憐れむべし、白法の失墜せることを。僅かに口を漱ぐ輩は、馬の尾を寸余に切りたるを、牛の角の大きさ三分ばかりにて方に作りたるが、長さ六七寸なる、その二寸ばかりに、むまのたちがみの如くに植えて、これを持ちて牙歯を洗うのみなり。僧家の器に用い難し。不浄の器ならん、仏法の器にあらず。俗人の祠天するにも、なお嫌いぬべし。かの器、また俗人僧家、ともに靴の塵を払う器に用いる、また梳鬢の時用いる。些かの大小あれども、即ちこれ一つなり。かの器を用いるも、万人が一人なり」

楊枝の法を問著したのは、天童山や阿育王寺の雲衲に対する商量で、失色して度を失す状況を言うものでしょうが、おそらくは当時の出家者の多くの状況は、発心を先とするものではなく、社会組織からの離脱者である為、基本的律文等を研鑚する機会やその動機もない出家僧との出逢いで有ったと思われ、「僧家すべて知らざる」とは多少の誇張が有ろうとおもわれます。

また一部の雲衲が使用していたという「器」の使用は、雲水の指導的立場である維那和尚等が、咎めなかったものかと思われます。

「しか有れば、天下の出家在家、共にその口気甚だ臭し。二三尺を隔てて物云う時、口臭来たる。嗅ぐ者堪え難し。有道の尊宿と称じ、人天の導師と号する輩も、漱口刮舌嚼楊枝の法、有りとだにも知らず。これをもて推するに、仏祖の大道いま陵夷を見るらん事、いくそばくと云う事知らず。今われら露命を万里の蒼波に惜しまず、異域の山川を渡りしのぎて道をとぶらうとすれども、澆運悲しむべし、いくばくの白法か、さきだちて滅没しぬらん。惜しむべし惜しむべし」

この文章にても、道元禅師の性癖とも云うべきものが見受けられます。ここまで全員が漱口等の習慣がないのは、そこに一つの土着文化とも云うべきものを認めるべきで、昭和三十年代の日本人も沢庵臭さが体臭化し、朝鮮人はキムチ臭さが体臭化していたと云われ、それは当時の食糧事情や生活環境等の複合的要因での結果であり、云うなればカルチャーショックの披瀝とも云うべきものとも解せられます。

「しか有るに、日本一国朝野の道俗、ともに楊枝を見聞す、仏光明を見聞するならん。しか有れども、嚼楊枝それ如法ならず、刮舌の法伝われず、倉卒なるべし。しか有れども、宋人の楊枝を知らざるにたくらぶれば、楊枝を用いるべしと知れるは、おのづから上人の法を知れり。仙人の法にも楊枝を用いる。知るべし、みな出塵の器なり、清浄の調度なりと云う事を。三千威儀経云、用楊枝有五事。一者断当如度。二者破当如法。三者嚼頭不得過三分。四者踈歯当中三齧。五者当汁澡目用。」

ここでは日本人ー楊枝あり。宋人ー楊枝なし。との二元分立的思考法であり、冒頭に於ける「処在は尽界の有辺無辺にあらず、遮裏是什麼処在」的論究とは、やや異なる感が致します。

ここで扱う経文は、先に説いた「刮舌有五事」の前に在るもので、「一つには断つるは当に度の如く。二つには破するには当に如法に。三つには嚼頭して三分を過ぐるは得ざれ。四つには歯を踈(そろ)えんは中に当たりて三(度)齧む。五つには(楊枝を嚼んだ)汁は目を澡(あら)う用に当つ。」

「いま嚼楊枝漱口の水を、右手に受けてもて目を澡う事、皆もと三千威儀経の説なり。いま日本国の往代の庭訓なり。刮舌の法は、僧正栄西伝う。楊枝使いて後、捨てんとする時、両手をもて楊枝の噛みたるかたより二片に擘破す。その破口の時、顔を横さまに舌上に当てて刮ぐ。即ち右手に水を受けて、口に入れて漱口し、刮舌す。漱口、刮舌、度々し、擘楊枝の角にて刮げ刮げして、血出を度とせんとするが如し」

楊枝を噛んだ水で目を洗う効果は、柳の樹枝には鎮痛効果や解熱効果が有るのは昔から知られる事で、このように目の洗浄も行っていたのでしょうか。

以下の文章は先に説明した「刮舌」項にての補足になります。

「刮舌の法は、僧正栄西伝う」と言われるように、『出家大綱』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)には「義浄三蔵云、毎日朝須嚼歯木、疏歯刮舌、務令如法清浄、方行敬礼」(義浄三蔵云く、毎日朝は須く歯木を嚼み、歯を疏し舌を刮げ、務めて如法清浄ならしめ、方に敬礼を行ぜよ)との文面は、延応元年(1239)以前には御承知であったか、もしくは建長二年(1250)永平寺での提唱時に於いての記述で有るかは分かりませんが、『永平広録』(441則・512則)上堂には、建長三年(1251)翌建長四年(1252)七月五日の栄西和尚の三七・三八回忌には「明庵千光禅師前権僧正法印大和尚位忌辰」と最上の形容の呼び名、また「師翁千光和尚」と尊称するに比して、やや簡略すぎる感を覚えます。因みに義浄(635―713)は二十年以上にわたり印度等三十余国を遍学し、訳経僧としても二百三十巻にも及ぶ漢訳経典を残す。

漱口のとき、この文を密誦すべし。華嚴經云、澡漱口齒、當願衆生、向淨法門、究竟解脱。

たびたび漱口して、くちびるのうちと、したのした、あぎにいたるまで、右手の第一指第二指第三指等をもて、指のはらにてよくよくなめりたるがごとくなること、あらひのぞくべし。油あるもの食せらんことちかからんには、皂莢をもちゐるべし。楊枝つかひをはりて、すなはち屏處にすつべし。楊枝すててのち、三彈指すべし。後架にしては、棄楊枝をうくる斗あるべし、餘處にては屏處にすつべし。漱口の水は、面桶のほかにはきすつべし。つぎにまさしく洗面す。兩手に面桶の湯を掬して、額より兩眉毛兩目鼻孔耳中顱頬、あまねくあらふ。まづよくよく湯をすくひかけて、しかうしてのち摩沐すべし。涕唾鼻涕を面桶の湯におとしいるゝことなかれ。かくのごとくあらふとき、湯を無度につひやして、面桶のほかにもらしおとしちらして、はやくうしなふことなかれ。あかおち、あぶらのぞこほりぬるまであらふなり。耳裏あらふべし、著水不得なるがゆゑに。眼裏あらふべし、著沙不得なるがゆゑに。あるいは頭髪頂までもあらふ、すなはち威儀なり。洗面をはりて、面桶の湯をすててのちも、三彈指すべし。つぎに手巾のおもてをのごふはしにて、のごひかわかすべし。しかうしてのち、手巾もとのごとく脱しとりて、ふたへにして左臂にかく。雲堂の後架には、公界の拭面あり。いはゆる一疋布をまうけたり。烘櫃あり、衆家ともに拭面するに、たらざるわづらひなし。かれにても頭面のごふべし。また自己の手巾をもちゐるも、ともにこれ法なり。

洗面のあひだ、桶杓ならしておとをなすこと、かまびすしくすることなかれ。湯水を狼藉して、近邊をぬらすことなかれ。ひそかに觀想すべし、後五百歳にむまれて、邊地遠島に處すれども、宿善くちずして古佛の威儀を正傳し、染汚せず修證する、隨喜懽喜すべし。雲堂にかへらんに、輕歩聲低なるべし。耆年宿徳の草庵、かならず洗面架あるべし。洗面せざるは非法なり。洗面のとき、面藥をもちゐる法あり。おほよそ嚼楊枝洗面、これ古佛の正法なり。道心辦道のともがら、修證すべきなり。あるいは湯をえざるには水をもちゐる、舊例なり、古法なり。湯水すべてえざらんときは、早辰よくよく拭面して、香草末香等をぬりてのち、禮佛誦經、燒香坐禪すべし。いまだ洗面せずは、もろもろのつとめ、ともに無禮なり。

奥書きの後に続く書き添えの文面はあるものの、実質洗面等に関する締め括りの提唱です。

「漱口の時、この文を密誦すべし。華厳経云、澡漱口歯、当願衆生、向浄法門、究竟解脱」

この漱口偈文は、先の「手執楊枝」での『華厳経』浄行品(「大正蔵」九・四三一・中)で説かれるものですが、「口歯を澡漱し、当に願わくは衆生と、浄法門に向い、究竟解脱せんことを」と読み、漱口についての拈提です。

「度々漱口して、唇の内と、舌の下、あぎ(顎)に至るまで、右手の第一指第二指第三指等をもて、指の腹にてよくよく舐めりたるが如くなる事、洗い除くべし。油あるもの食せらん事近からんには、皂莢を用いるべし。楊枝使い終わりて、即ち屏処に捨つべし。楊枝捨てて後、三弾指すべし。後架にしては、棄楊枝を受くる斗あるべし、余処にては屏処に捨つべし。漱口の水は、面桶の他に吐き捨つべし」

歯ブラシ・歯磨き粉が無い時代では指頭を口に入れ、舌苔などを指の甲にて除去し、また油物の頑固なヌメリには皂莢(ソウキョウ)を使用すると有るが、和名はさいかちマメ科植物で、この豆の実はサポニンが含有の為、莢(さや)ごと水に浸し揉む事で、ヌメリと泡が出る為昔は石鹸の代用との事です。ここでは豆の実を粉末にしたものを、歯磨き粉の代用にするとの文章です。

前にも書いたが筆者がバングラデシュ国の農村に居た頃(1984年)でも歯ブラシ・歯磨き粉は無かった為、口に消し炭を入れ噛み砕き、右手の甲にて歯ぐき・歯の表裏等を磨き、少量の水にて洗浄する生活であった事から考えても、それほど違和感のあるものではない。

「次にまさしく洗面す。両手に面桶の湯を掬して、額より両眉毛・両目・鼻孔・耳中・顱頬、あまねく洗う。先づよくよく湯を掬い掛けて、而して後摩沐すべし。涕唾鼻涕を面桶の湯に落とし入るる事なかれ。かくの如く洗う時、湯を無度に費やして、面桶のほかに漏らし落とし散して、早く失う事なかれ。垢落ち、油除こほりぬるまで洗うなり。耳裏洗うべし、著水不得なるが故に。眼裏洗うべし、著沙不得なるが故に。或いは頭髪頂までも洗う、即ち威儀なり。洗面終わりて、面桶の湯を捨てて後も、三弾指すべし」

現代の日本人にとっては極めて日常の洗面方法と思われ、殊更に延応元年(1239)十月・寛元元年(1243)十月・建長二年(1250)正月と雲衲学人に向かって説かれる理由は、興聖寺では新しく参集した天台系に属する者に対し、吉峰寺では越前移錫に際し、新たに参随する達磨宗徒の為、永平寺での事情は、鎌倉行化の帰郷に伴う参禅学人の出入りに対するものと考えられますが、此処でインド人一般の洗面方を記すと、水瓶を左手にし、右手の平に水を溜め、顔面に対し上から下に拭い、特に目やに等を拭うやり方ですが、彼らは左手は使用しません。一般に左手は不浄とされますが、便所では左手の中指・薬指・小指を以て水を掬い、肛門を洗浄するからであり、ここでは「両手に掬して」としますが、それぞれの地域では土着文化に根差した生活があるものです。

「次に手巾の表を拭う端にて、拭い乾かすべし。而して後、手巾元の如く脱し取りて、二重にして左臂に掛く。雲堂の後架には、公界の拭面あり。いわゆる一疋布を設けたり。烘櫃あり、衆家ともに拭面するに、足らざる煩いなし。かれにても頭面拭うべし。また自己の手巾を用いるも、共にこれ法なり」

「公界の拭面」とは什物を指し、「一疋布」の一疋は約十メートルとあり、その両端を連結した筒状の布を云うものか、詳細不明。「烘櫃」は火種が入る箱を云う。

「洗面の間、桶杓鳴らして音をなす事、喧しくする事なかれ。湯水を狼藉にして、近辺を濡らす事なかれ。密かに観想すべし、後五百歳に生まれて、辺地遠島に処すれども、宿善朽ちずして古仏の威儀を正伝し、染汚せず修証する、随喜懽喜すべし。雲堂に帰らんに、軽歩声低なるべし」

顔を洗う間は粗相なく周囲を水で濡らす事のないように注意し、次に僅かな時間での観想(念・おもい)を心懸けるべきとの言辞ですが、「後五百歳」は釈尊入滅後の五期の五百年を示し、同様な言い回しが『帰依仏法僧宝』『四禅比丘』両巻に見られ、共に「十二巻本眼蔵」に属する事から、kの『洗面』巻永平寺提唱時に於いて、「密かに観想すべし、後五百歳に生まれて、辺地遠島に処すれども、宿善朽ちずして古仏の威儀を正伝し、染汚せず修証する、随喜懽喜すべし」の文言が付加されたものと推量されるものである。

因みに、『景徳伝灯録』(「大正蔵」五一・二〇五・下)をもとに釈尊入滅後に伴う算数を記した『仏性』巻では仁治二年を基に2190年とし、『安居』巻にては寛元三年を基に2194年と算定しますから、「後五百歳」を「滅後2199歳」(建長を基に)としても、整合性は保たれるわけです。

「耆年宿徳の草庵、必ず洗面架あるべし。洗面せざるは非法なり。洗面の時、面薬を用いる法あり。おおよそ嚼楊枝洗面、これ古仏の正法なり。道心辦道のともがら、修証すべきなり。或いは湯を得ざるには水を用いる、旧例なり、古法なり。湯水すべて得ざらん時は、早辰よくよく拭面して、香草末香等を塗りて後、礼仏誦経、焼香坐禅すべし。いまだ洗面せずは、諸々の務め、共に無礼なり」

「耆年宿徳の草庵」とは寺院内の塔頭に住する老宿僧を云う。「面薬」とは前述の皂莢(さいかち)のような、顔に塗布して寒熱を防ぐ生薬だと考えられます。因みにビルマなどでは、タナカという日焼け止めの天然抹香が使用されます。

「修証」のことばが数行前にも記されますが、この巻の意義が示される象徴的な言句と思われます。つまり「正法眼蔵涅槃妙心」とは日常に於ける調度を以ての辦道を修と証との一味態を説くものです。

奥書きに続けての文言が有るものの、実質これで洗面に伴う嚼楊枝等の提唱の締め括りになります。

天竺國震旦國者、國王王子、大臣百官、在家出家、朝野男女、百姓萬民、みな洗面す。家宅の調度にも面桶あり、あるいは銀、あるいは鑞なり。天祠神廟にも、毎朝に洗面を供ず。佛祖の塔頭にも洗面をたてまつる。在家出家、洗面ののち、衣裳をたゞしくして、天をも拝し、神をも拝し、祖宗をも拝し、父母をも拝す。師匠を拝し、三寶を拝し、三界萬靈、十方眞宰を拝す。いまは農夫田夫、漁父樵翁までも洗面わするゝことなし、しかあれども嚼楊枝なし。日本國は、國王大臣、老少朝野、在家出家の貴賤、ともに嚼楊枝漱口の法をわすれず、しかあれども洗面せず。一得一失なり。いま洗面嚼楊枝、ともに護持せん、補虧闕の興隆なり、佛祖の照臨なり。

この文は吉峰寺提唱後に巻末に録されたとされますが、言わんとする趣旨は、天竺・震旦国には洗面の法は有るものの嚼楊枝の法なく、日本では嚼楊枝の法有れども洗面の法なく、それぞれが「一得一失」であり、私(道元禅師)がその両国を繋げる橋渡しに成る。とも、成りたいとも受け取れる提唱内容であることを記し、擱筆と致します。