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現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第十六 行持 註解(聞書・抄)

正法眼蔵 第十六 行持 註解(聞書・抄)

 

佛祖の大道、かならず無上の行持あり。道環して斷絶せず、發心修行菩提涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。

詮慧

〇「無上の行持あり。道環して断絶せず」とあり、是は我等(が)為(行持?)いかなるべきぞ。「しばらくの間隙あらず、行持道環也」と云うを、仏祖の上ばかりと、余所に思う事如何。虚空蔵菩薩の世に出おわしましし時は、山も樹も障りなく、過ぎて見え、海慧菩薩の時は、世界海とこそ見えしが、仏成道の時は、大地有情同時成道と被仰。初祖航海して伝法救迷情の大慈より成れる行持の時刻(は)、我等が行持を隔つべからず。善悪苦楽の相違ありとも、必ず虚空蔵・海慧菩薩の時の如くなるべし。是等をば正境ゆづりて、我等が行持は不叶とは、努々(ゆめゆめ)云うべからず。得道の時、功あるべくば、教行の時と云うも、証をこそ教え、行ずれば同じかるべし。吾我を沙汰せねば、証時なるべし。

〇「発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず」とは、発心修行菩提涅槃の様を知らず、或いは四季(春夏秋冬)等に喩う。或いは方角(東西南北)に喩うる事あり。初発心時便成正覚と心得べし(常には初発心時という)。四種の次第不経四種、仏々重々とも心得る様也。相続の無間とは心得べからず。四種が同品にて無間隙なり。

〇修して証すと云う者、因果に堕在すと云う。但因に待たざる果ならん時は、更に因果に堕在すべからず。大乗因者諸法実相也、大乗果者諸法実相也と云う。又虚空乱墜の定めに心得べし。

〇教行を行持と思う(は)、世間の習い也。教は口業の説教の程は、只詞にて開演すと思う、この業は親切ならず。説得一丈、行取一尺せんにはしかずと云う。但説も不尽なり、行も不尽なり。説与行不染汚。口は説黙、身は行、意の止観は念也。口なる時節は、大地虚空みな口なり、遍覆三千世界、広長舌なり。眼睛を説く時、只眼睛の出没と習う。口業と云うには、頂寧の説法も、眼睛の説法も、口業と云いつべし。今の「行持」の「行」は、行仏の行に習うべし、教行証一なるゆえに。

〇「無上の行持あり」と云うは、此れ無上諸界にわたる。「無上」は仏、最下は地獄也。仍て仏道を無上道とも、無等々とも云う。但これ対下したる心地ならば非本意。此の「無上」は不対下上也。法華の時の無上は、十方仏土中、唯有一乗法なるゆえに、上下なし。教行証なる証は無上下、教行に得たるる証にはなを有下也。

〇抑も権教の上には、実教ありとも、実教の上には上あるまじ。実教の上には又無下の徳あり。上はなくとも、下はありぬべしと云うは疏学なるべし。「道環して断絶せず」と云うは、教行証一なる道理を「道環」と云うべし。到菩薩証は、船いかだも不入。発心修行皆道環也。発心の時、修行の時と不各別を「道環」と云うべし。

経豪

  • 此の「行持」の「行」の字、教行証の行にあらず。証を不待ゆえに、所詮以仏祖名行持也。「道環」とは始中終に拘わらざる義なり。発心・修行・菩提・涅槃と談ずる事、暫くも開隔なき道理なり。

 

このゆゑに、みづからの強爲にあらず、佗の強爲にあらず、不曾染汚の行持なり。

経豪

  • 実に此の行持の道理、「自他の強為あるべからず、不曾染汚の行持」なるべし。

 

この行持の功徳、われを保任し、佗を保任す。その宗旨は、わが行持、すなはち十萬の匝地漫天、みなその功徳をかうむる。佗もしらず、われもしらずといへども、しかあるなり

詮慧

〇今の「行持」の様、衆生ありて仏道を行持するぞとのみ心得は不審細。衆生は行事に行持せらるると可心得。先師の御詞に「この行持の功徳、われを保任し、佗を保任す。その宗旨は、わが行持、すなはち十万の匝地漫天、みなその功徳をかうむる。佗もしらず、われも不知と云えども、しかあるなり。諸仏諸祖の行持によりて、われらが行持す」とあり。

〇「われを保任し、他を保任す」と云う、此の行持の功徳が、非自非他まり。一地に所生の物、一雨注ぐ道理(と)、この定め也とは不可心得。「蒙功徳」とは、天地がやがて其の功徳なる也。大地有情同時成道これなり。「十方(万?)の匝地漫天、みなその功徳をかうむると云い、他もしらず、われもしらずと雖も、しかある也」と云うゆえに。

経豪

  • 此の「我」は行持の我なり。

 

このゆゑに、諸佛諸祖の行持によりてわれらが行持見成し、われらが大道通達するなり。われらが行持によりて諸佛の行持見成し、諸佛の大道通達するなり。われらが行持によりて、この道環の功徳あり。

経豪

  • 是は「諸仏諸祖」と云うも「我等」と云うも、只同体なるゆえに、如此打ち替えて被釈なり。「諸仏諸祖我等(が)行持」只一体、とりはなたるまじき道理が、如此入れ違えて云わるるなり。

 

これによりて、佛々祖々、佛住し、佛非し、佛心し、佛成じて断絶せざるなり。

詮慧

〇「仏非」と云うは、非心非仏の「仏非」なり。諸法ことに収まらずと云う事なし。「仏住・仏心・仏成して、断絶せざる也」と云う、この外に仏行とも、仏坐とも、仏臥とも、仏身とも仏口、仏鼻、仏足とも云わんが如し。ゆえに諸法収まらずと云う事なき也。

経豪

  • 是は行持の上の、「仏々祖々、仏住仏非仏心仏成」等の道理「断絶せず」と云う也。

 

この行持によりて日月星辰あり、行持によりて大地虚空あり、行持によりて依正身心あり、行持によりて四大五蘊あり。

詮慧

〇「日月星辰、大地虚空、行持によりて有り」と云う、日来の心地には相違すべし。

経豪

  • 「日月星辰」を行持と談ず。「大地虚空」行持也。乃至「依正身心四大五蘊」等皆是「行持也」と云うなり。

 

行持これ世人の愛處にあらざれども、諸人の實歸なるべし。過去現在未來の諸佛の行持によりて、過去現在未來の諸佛は現成するなり。その行持の功徳、ときにかくれず。

詮慧

〇「過去現在未来の諸佛の行持によりて、過去現在未来の諸仏は現成する也」とは、これ七仏の法道は、七仏の法道の如しと云いし詞にて可心得三世なり。

経豪

  • 過去の行持なる時は、全過去の行持なるべし、現在未来も如此。三世ともに行持なれども、過去諸仏の行持の時は、現在未来は隠るるなり。是れ則ち行持の上の三世なるゆえに。

 

かるがゆゑに發心修行す。その功徳、ときにあらはれず、かるがゆゑに見聞覺知せず。あらはれざれども、かくれずと參學すべし。隱顯存没に染汚せられざるがゆゑに、われを見成する行持、いまの當隱に、これいかなる縁起の諸法ありて行持すると不會なるは、行持の會取、さらに新條の特地にあらざるによりてなり。

詮慧

〇「発心修行す、その功徳、ときにあらわれず、かるがゆえに見聞覚知せず」と云う、「発心修行」は許して、又「見聞覚知せず」と云う。発心の詞も取捨あるべし、見聞の詞も取捨あるべし。

〇「いかなる縁起の諸法ありて、行持すると不会なるは、行持の会取、新条の特地にあらざるによりて也」と云う、この会、新条にあらずと云う。古しと云い、新しと云うは、吾我に対したる事也。

経豪

  • 此の「発心修行」も、菩提涅槃を果に置いて、談ずる発心修行にはあらず。ゆえに「隠顕存没」にも拘らず、見聞覚知する人なきなり。

 

縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑにと、功夫參學を審細にすべし。

詮慧

〇「縁起」とすれば、縁が起こるによりて、行持するぞと云うべからず。行持こそ縁起なれ、縁はこれ行持によりて、われらが行持現成すとあり。

 

かの行持を見成する行持は、すなはちこれわれらがいまの行持なり。

経豪

  • 今「我等」と指すは、行持の我也、非吾我。

 

行持のいまは自己の本有元住にあらず、行持のいまは自己に去來出入するにあらず。いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず、行持現成するをいまといふ。

経豪

  • 打ち任すは、本有元住に拘わると可云歟。然而今の「行持」の姿、「本有元住に不拘」、ゆえに「自己に去来出入するにあらず」と云う也。古今を超越する行持なるゆえに。

 

しかあればすなはち、一日の行持、これ諸佛の種子なり、諸佛の行持なり。この行持に諸佛見成せられ、行持せらるゝを、行持せざるは、諸佛をいとひ、諸佛を供養せず、行持をいとひ、諸佛と同生同死せず、同學同參せざるなり。いまの花開葉落、これ行持の現成なり。磨鏡破鏡、それ行持にあらざるなし。

経豪

  • 所詮非行持、一法なき所を如此云也。

 

このゆゑに、行持をさしおかんと擬するは、行持をのがれんとする邪心をかくさんがために、行持をさしおくも行持なるによりて、行持におもむかんとするは、なほこれ行持をこゝろざすににたれども、眞父の家郷に寶財をなげすてて、さらに佗國跰の窮子となる。跰のときの風水、たとひ身命を喪失せしめずといふとも、眞父の寶財なげすつべきにあらず。眞父の法財なほ失誤するなり。このゆゑに、行持はしばらくも懈惓なき法なり。

詮慧

〇「他国跉跰」と云うは、所詮酔中にも、衣の裏に珠は有りしが如く、差し置くも「行持」と云う也。「真父の宝財なを失誤する也」と云うは、世間に思う如く、失い誤まるにてはなし。真父の珠、衣裏に懸くなり。「他国跉跰」の時刻は、三業の教を学せし間也。

経豪

  • 是は何とあるも、行持なる上は只いたづらに居たらんも、行持なるべしと云う邪心を多く人の起こすなり。其れを邪心と戒めらるるなり。いたづらに居るも行持なればと云う心地を、しばらく猶これ行持を志すに、似たれどもとはあるなり。「他国跉跰」の時節も、まことに行持の外にはあらざれども、此の時節は真父の宝財をば未得也。今の喩えに、尤も相応せり。

 

慈父大師釋迦牟尼佛、十九歳の佛壽より、深山に行持して、三十歳の佛壽にいたりて、大地有情同時成道の行持あり。八旬の佛壽にいたるまで、なほ山林に行持し、精藍に行持す。王宮にかへらず、國利を領ぜず、布僧伽梨を衣持し、在世に一經するに互換せず、一盂、在世に互換せず。一時一日も獨處することなし。人天の閑供養を辭せず、外道の訕謗を忍辱す。おほよそ一化は行持なり、淨衣乞食の佛儀、しかしながら行持にあらずといふことなし。

詮慧

〇「大地有情同時成道の行持あり」と云うは、「行持」は成道以前(の)時刻とこそ聞こゆれ。十九歳已後三十成道已前なるべき行持を、成道行持と云う事は、教行証を、三つに立てざる謂われなり。

〇「一時一日も独処する事なし」と云うは、仏道には独処林間寂静地に居すべしと云う。而今の義(は)尤も参差と聞こゆ。ただし仏の本意は、一切衆生を化度せんと思食(おぼしめ)す、化一切衆生皆令入仏道也。ゆえに成道しぬれば、一時も不可独処、仏独処の時刻あらば、衆生のため無依怙也。独は縁覚乗の用義也。

〇「閑供養を辞せず」と云う、不辞供養して、好むは近来の僧に似たり。但いたづらなる供養を不辞は不貪心也。

経豪

  • 如文。仏は一時一日も不独処、閑供養を辞せず。外道の謗を忍辱す。是を化導を為先之故歟。

 

第八祖摩訶迦葉尊者は釋尊の嫡嗣なり。生前もはら十二頭陀を行持して、さらにおこたらず。十二頭陀といふは、

 一者不受人請、日行乞食。亦不受比丘僧一飯食分錢財。 二者止宿山上、不宿人舎郡縣聚落。三者不得從人乞衣被、人與衣被亦不受。但取丘塚間、死人所棄衣、補治衣之。四者止宿野田中樹下。五者一日一食。一名僧迦僧泥。六者昼夜不臥、但坐睡經行。一名僧泥沙者傴。七者有三領衣、無有餘衣。亦不臥被中。 八者在塚間、不在佛寺中、亦不在人間。目視死人骸骨、坐禪求道。九者但欲獨處。不欲見人、亦不欲與人共臥。十者先食果蓏、卻食飯。食已不得復食果蓏。十一者但欲露臥、不在樹下屋宿。十二者不食肉、亦不食醍醐。麻油不塗身。

 これを十二頭陀といふ。摩訶迦葉尊者、よく一生に不退不轉なり。如來の正法眼藏を正傳すといへども、この頭陀を退することなし。

 あるとき佛言すらく、なんぢすでに年老なり、僧食を食すべし。摩訶迦葉尊者いはく、われもし如來の出世にあはずば、辟支佛となるべし、生前に山林に居すべし。さいはひに如來の出世にあふ、法のうるひあり。しかりといふとも、つひに僧食を食すべからず。如來稱讚しまします。

 あるいは迦葉、頭陀行持のゆゑに、形體憔悴せり。衆みて輕忽するがごとし。ときに如來、ねんごろに迦葉をめして、半座をゆづりまします。迦葉尊者、如來の座に坐す。しるべし、摩訶迦葉は佛會の上座なり。生前の行持、ことごとくあぐべからず。

詮慧

〇「十二頭陀」(は)異なる行持なるべし。此の十二頭陀の内、「第四には止宿樹下」するを取り、「第十一には不在樹下屋宿」と取る。前後相違して聞こゆ。但天竺には国大いなるゆえに、樹も如屋舎なるもあるべし。此の事を重ねて云う歟。

経豪

  • 如文。迦葉頭陀と云う是也。

 

第十祖波栗濕縛尊者は、一生脇不至席なり。これ八旬老年の辦道なりといへども、當時すみやかに大法を單傳す。これ光陰をいたづらにもらさざるによりて、わづかに三箇年の功夫なりといへども、三菩提の正眼を單傳す。尊者の在胎六十年なり、出胎髪白なり。誓不屍臥、名脇尊者。乃至暗中手放光明、以取經法。これ生得の奇相なり。

 脇尊者、生年八十、垂捨家染衣。城中少年、便誚之曰、愚夫朽老、一何淺智。夫出家者、有二業焉。一則習定、二乃誦經。而今衰耄、無所進取。濫迹清流、徒知飽食。時脇尊者、聞諸譏議、因謝時人、而自誓曰、我若不通三藏理、不斷三界欲、不得六神通、不具八解脱、終不以脇而至於席。

自爾之後、唯日不足、經行宴坐、住立思惟。昼則研習理教、夜乃靜慮凝神。綿歴三歳、學通三藏、斷三界欲、得三明智。時人敬仰、因号脇尊者。

 しかあれば、脇尊者處胎六十年はじめて出胎せり。胎内に功夫なからんや。出胎よりのち八十にならんとするに、はじめて出家學道をもとむ。託胎よりのち一百四十年なり。まことに不群なりといへども、朽老は阿誰よりも朽老ならん。處胎にて老年あり、出胎にても老年なり。しかあれども、時人の譏嫌をかへりみず、誓願の一志不退なれば、わづかに三歳をふるに、辦道現成するなり。たれか見賢思齊をゆるくせむ、年老耄及をうらむることなかれ。

 この生しりがたし、生か生にあらざるか。老か老にあらざるか。四見すでにおなじからず、諸類の見おなじからず。たゞ志気を專修にして、辦道功夫すべきなり。辦道に生死をみるに相似せりと參學すべし、生死に辦道するにはあらず。いまの人、あるいは五旬六旬におよび、七旬八旬におよぶに、辦道をさしおかんとするは至愚なり。生來たとひいくばくの年月と覺知すとも、これはしばらく人間の精魂の活計なり、學道の消息にあらず。壯齢耄及をかへりみることなかれ、學道究辦を一志すべし。脇尊者に齊肩なるべきなり。

 塚間の一堆の塵土、あながちにをしむことなかれ、あながちにかへりみることなかれ。一志に度取せずは、たれかたれをあはれまん。無主の形骸いたづらに徧野せんとき、眼睛をつくるがごとく正觀すべし。

詮慧

〇「生か生にあらざるか」と云う、この生を世間の如くに不可思道理を被述也。待つ老少と不可思。山河大地みな行持なる上は、行持に赴くにてこそあれ、趣ぬる上は、まして歳の老ぞ少ぞと云う論にも不及也。又辦道するにはあらざれば、「生か生にあらず」とも云わるるなり。

経豪

  • 如文。胎内六十年、出胎後八十年、都合一百四十年。実(に)奇代(の)事也。実(に)年老耄及を恨むべからず。尤も志気を専修にして、辦道功夫すべき也。委見文。

 

六祖は新州の樵夫なり、有識と稱しがたし。いとけなくして父を喪す、老母に養育せられて長ぜり。樵夫の業を養母の活計とす。十字の街頭にして一句の聞經よりのち、たちまちに老母をすてて大法をたづぬ。これ奇代の大器なり、抜群の辦道なり。斷臂たとひ容易なりとも、この割愛は大難なるべし、この棄恩はかろかるべからず。黄梅の會に投じて八箇月、ねぶらず、やすまず、昼夜に米をつく。夜半に衣鉢を正傳す。得法已後、なほ石臼をおひありきて、米をつくこと八年なり。出世度人説法するにも、この石臼をさしおかず、奇世の行持なり。

経豪

  • 如文。

 

江西馬祖の坐禪することは二十年なり。これ南嶽の密印を稟受するなり。傳法濟人のとき、坐禪をさしおくと道取せず。參學のはじめていたるには、かならず心印を密受せしむ。普請作務のところにかならず先赴す。老にいたりて懈惓せず。いま臨濟は江西の流なり。

経豪

  • 如文。

 

雲巖和尚と道吾と、おなじく藥山に參學して、ともにちかひをたてて、四十年わきを席につけず、一味參究す。法を洞山の悟本大師に傳付す。洞山いはく、われ、欲打成一片坐禪辦道、已二十年なり。いまその道、あまねく傳付せり。

詮慧

〇雲巌無住大師(石頭孫、薬山弘道大師弟子)

〇道吾(石頭弟子、号天皇)。

経豪

  • 雲巌無住大師、如文。道吾、如文。

 

雲居山弘覺大師、そのかみ三峰庵に住せしとき、天厨送食す。大師あるとき洞山に參じて、大道を決擇して、さらに庵にかへる。天使また食を再送して師を尋見するに、三日を經て師をみることえず。天厨をまつことなし、大道を所宗とす。辦肯の志気、おもひやるべし。

経豪

  • 天厨送食せり、而大師洞山に大法決択して後、天使師を尋見するに、経三日見師不得。是隔境界之故也。

 

百丈山大智禪師、そのかみ馬祖の侍者とありしより、入寂のゆふべにいたるまで、一日も爲衆爲人の勤仕なき日あらず。かたじけなく一日不作一日不食のあとをのこすといふは、百丈禪師すでに年老臘高なり、なほ普請作務のところに、壯齢とおなじく勵力す。衆これをいたむ。人これをあはれむ。師やまざるなり。つひに作務のとき、作務の具をかくして師にあたへざりしかば、師その日一日不食なり。衆の作務にくはゝらざることをうらむる意旨なり。これを百丈の一日不作一日不食のあとといふ。いま大宋國に流傳せる臨濟の玄風、ならびに諸方の叢林、おほく百丈の玄風を行持するなり。

詮慧

〇「馬祖の侍者とありしより、入寂のいたるまで、一日も為衆為人の勤仕なき日あらず。一日不作一日不食のあとをのこす」。

経豪

  • 如文。

 

鏡清和尚住院のとき、土地神かつて師顔をみることえず、たよりをえざるによりてなり。

経豪

  • 如文。土地神不得見師顔、不得便之故也。同弘道大師。

 

三平山義忠禪師、そのかみ天厨送食す。大巓をみてのちに、天神また師をもとむるに、みることあたはず。

詮慧

〇「天厨送食す。大巓を見て後に、天神師を見ず」。是等則ち仏法の証験也。そのゆえは、いまの人にも外道の法を行じて、魔の道によりて、不思議の事を現ぜば信仰すべし。まさしく仏道を行じて、人情に従わずば、人是を不可貴。三嶺庵に住せし時の行は、天これを貴ぶと云えども、伝法の後は境界を離る。

経豪

  • 如文。是又天厨送食す。是又得法之後(は)不能求師。大巓は石頭の弟子也。今の義忠は大巓の弟子也。

 

後大潙和尚いはく、我二十年、在潙山、喫潙山飯、屙潙山屙、不參潙山道。只牧得一頭水牯牛、終日露迥迥也。しるべし、一頭の水牯牛は二十年在潙山の行持より牧得せり。この師、かつて百丈の會下に參學しきたれり。しづかに二十年中の消息おもひやるべし、わするゝ時なかれ。たとひ參潙山道する人ありとも、不參潙山道の行持はまれなるべし。

詮慧

〇「後大潙和尚いはく、我二十年、在潙山、喫潙山飯、屙潙山屙、不參潙山道。只牧得一頭水牯牛、終日露迥迥也。たとひ参潙山道する人ありとも、不参潙山道の行持はまれなるべし」と云うは、是は師弟の位、同じくなりぬる上は、参不参と云うべからず。参潙山道の人ありとも、不参潙山道の後、大潙の行持は勝るべしと也。「牧得」と云う詞が共通するなり、親切の事也。たとえば一拳の拳頭をかい得たりと云わんが如し。「水牯牛」は別無其詮、只今の詞に因みて出で来る也。

経豪

  • 「二十年、在潙山、喫潙山飯、屙潙山屙、不參潙山道。只牧得一頭水牯牛」云々、是が今の行持の姿にてある也。所詮至極解脱したる詞也。不会仏法と六祖被仰したり程の詞なり。

 

あるとき、牀脚をれき。一隻の燒斷の燼木を、繩をもてこれをゆひつけて、年月を經歴し修行するに、知事、この床脚をかへんと請するに、趙州ゆるさず。古佛の家風、きくべし。

 趙州觀音院眞際大師從諗和尚、とし六十一歳なりしに、はじめて發心求道をこゝろざす。瓶錫をたづさへて行脚し、遍歴諸方するに、つねにみづからいはく、七歳童兒、若勝我者、我即問伊。百歳老翁、不及我者、我即教佗。かくのごとくして南泉の道を學得する功夫、すなはち二十年なり。年至八十のとき、はじめて趙州城東觀音院に住して、人天を化導すること四十年來なり。いまだかつて一封の書をもて檀那につけず。僧堂おほきならず、前架なし、後架なし。趙州の趙州に住することは八旬よりのちなり、傳法よりこのかたなり。正法正傳せり、諸人これを古佛といふ。いまだ正法正傳せざらん餘人は師よりもかろかるべし、いまだ八旬にいたらざらん餘人は師よりも強健なるべし。壯年にして輕爾ならんわれら、なんぞ老年の崇重なるとひとしからん。はげみて辦道行持すべきなり。四十年のあひだ世財をたくはへず、常住に米穀なし。あるいは栗子椎子をひろうて食物にあつ、あるいは旋轉飯食す。まことに上古龍象の家風なり、戀慕すべき操行なり。

 あるとき衆にしめしていはく、儞若一生不離叢林、不語十年五載、無人喚儞作唖漢、已後諸佛也不奈儞何。 これ行持をしめすなり。

 しるべし、十年五載の不語、おろかなるに相似せりといへども、不離叢林の功夫によりて、不語なりといへども唖漢にあらざらん。佛道かくのごとし。佛道聲をきかざらんは、不語の不唖漢なる道理あるべからず。しかあれば、行持の至妙は不離叢林なり。不離叢林は脱落なる全語なり。至愚のみづからは不唖漢をしらず、不唖漢をしらせず。阿誰か遮障せざれども、しらせざるなり。不唖漢なるを得恁麼なりときかず、得恁麼なりとしらざらんは、あはれむべき自己なり。不離叢林の行持、しづかに行持すべし。東西の風に東西することなかれ。十年五載の春風秋月、しられざれども聲色透脱の道あり。その道得、われに不知なり、われに不會なり。行持の寸陰を可惜許なりと參學すべし。不語を空然なるとあやしむことなかれ。入之一叢林なり、出之一叢林なり。鳥路一叢林なり、徧界一叢林なり。

詮慧

〇「或いは旋転」と云うは、不定置典座。衆各相営義なり。

経豪

  • 如文。「一生不離叢林」の姿が、すなわち行持なるべし。仏道ならずば不語を行持と談ず事、更にあるべからず。「唖漢」とはおしなり、叢林に住して不語なる姿が行持なる也。坐禅の当体(は)則ち作仏也と云う程の義也。「諸仏也不奈你何」とは、諸仏をも物ともせずと云う心也。たとえば仏にも、劣るべからずと云う心地なり。又「入之一叢林也、出之一叢林也。鳥路一叢林也、徧界一叢林也」との文、「叢林」と云えば、只一宇の堂と思うべからず。尽界叢林なるべし、是れ則ち行持なるべし。是に出入共に行持也。只僧堂に衆僧の出入する義と許りは不可心得也。

 

大梅山は慶元府にあり。この山に護聖寺を草創す、法常禪師その本元なり。禪師は襄陽人なり。かつて馬祖の會に參じてとふ、如何是佛と。馬祖いはく、即心是佛と。法常このことばをきゝて、言下大悟す。ちなみに大梅山の絶頂にのぼりて人倫に不群なり、草庵に獨居す。松實を食し、荷葉を衣とす。かの山に少池あり、池に荷おほし。坐禪辦道すること三十餘年なり。人事たえて見聞せず、年暦おほよそおぼえず、四山青又黄のみをみる。おもひやるにはあはれむべき風霜なり。師の坐禪には、八寸の鐵塔一基を頂上におく、如戴寶冠なり。この塔を落地卻せしめざらんと功夫すれば、ねぶらざるなり。その塔いま本山にあり、庫下に交割す。かくのごとく辦道すること、死にいたりて懈惓なし。

 かくのごとくして年月を經歴するに、鹽官の會より一僧きたりて、やまにいりて柱杖をもとむるちなみに、迷山路して、はからざるに師の庵所にいたる。不期のなかに師をみる、すなはちとふ、和尚、この山に住してよりこのかた、多少時也。師いはく、只見四山青又黄。この僧またとふ、出山路、向什麼處去。師いはく、隨流去。この僧あやしむこゝろあり。かへりて鹽官に擧似するに、鹽官いはく、そのかみ江西にありしとき、一僧を曾見す。それよりのち、消息をしらず。莫是此僧否。つひに僧に命じて師を請ずるに出山せず。偈をつくりて答するにいはく、摧殘枯木倚寒林、幾度逢春不變心。樵客遇之猶不顧、郢人那得苦追尋。つひにおもむかず。これよりのちに、なほ山奥へいらんとせしちなみに、有頌するにいはく、一池荷葉衣無盡、數樹松花食有餘。剛被世人知住處、 更移茅舎入深居。 つひに庵を山奥にうつす。あるとき、馬祖ことさら僧をつかはしてとはしむ。和尚そのかみ馬祖を參見せしに、得何道理、便住此山なる。師いはく、馬祖、われにむかひていふ、即心是佛。すなはちこの山に住す。僧いはく、近日は佛法また別なり。師いはく、作麼生別なる。僧いはく、馬祖いはく、非心非佛とあり。師いはく、這老漢、ひとを惑亂すること了期あるべからず。任佗非心非佛、我祗管即心是佛。この道をもちて馬祖に擧似す。馬祖いはく、梅子熟也。

 この因縁は、人天みなしれるところなり。天龍は師の神足なり、倶胝は師の法孫なり。高麗の迦智は、師の法を傳持して本國の初祖なり。いま高麗の諸師は師の遠孫なり。生前には一虎一象、よのつねに給侍す、あひあらそはず。師の圓寂ののち、虎象いしをはこび、泥をはこびて師の塔をつくる。その塔、いま護聖寺に現存せり。師の行持、むかしいまの知識とあるは、おなじくほむるところなり。劣慧のものはほむべしとしらず。貪名愛利のなかに佛法あらましと強爲するは小量の愚見なり。

詮慧

〇「大梅山の絶頂に昇りて人倫に不群なり、草庵に独居す。松実を食し、荷葉を著す。坐禅辦道三十余年、不知年暦。坐禪のときに八寸の鉄塔を頂上に置く、塔を落地せしめざらんと功夫すれば不被眼也。不随人請、ついに猶山奥へ入る」云々。「師云、這老漢、人を惑乱する事了期あるべからず」と云うは、此の惑乱、凡夫外道の惑乱にはあらず。即心即仏を非心非仏と惑乱するなり。

経豪

  • 如文。

 

五祖山の法演禪師いはく、師翁はじめて楊岐に住せしとき、老屋敗椽して風雨之敝はなはだし。ときに冬暮なり、殿堂ことごとく舊損せり。そのなかに僧堂ことにやぶれ、雪霰滿床、居不遑處なり。雪頂の耆宿なほ澡雪し、厖眉の尊年、皺眉のうれへあるがごとし。衆僧やすく坐禪することなし。衲子、投誠して修造せんことを請ぜしに、師翁卻之いはく、我佛有言、時當減劫、高岸深谷、遷變不常。安得圓滿如意、自求稱足ならん。古往の聖人、おほく樹下露地に經行す。古來の勝躅なり、履空の玄風なり。なんだち出家學道する、做手脚なほいまだおだやかならず。わづかにこれ四五十歳なり、たれかいたづらなるいとまありて豐屋をこととせん。つひに不從なり。

 翌日に上堂して、衆にしめしていはく、楊岐乍住屋壁疎、滿床盡撒雪珍珠、縮卻項暗嗟嘘、飜憶古人樹下居。つひにゆるさず。しかあれども、四海五湖の雲衲霞袂、この會に掛錫するをねがふところとせり。耽道の人おほきことをよろこぶべし。この道、こゝろにそむべし、この語、みに銘ずべし。

 演和尚、あるときしめしていはく、行無越思、思無越行。この語、おもくすべし。日夜思之、朝夕行之、いたづらに東西南北の風にふかるゝがごとくなるべからず。いはんやこの日本國は、王臣の宮殿なほその豐屋あらず、わづかにおろそかなる白屋なり。出家學道の、いかでか豐屋に幽棲するあらん。もし豐屋をえたる、邪命にあらざるなし、清淨なるまれなり。もとよりあらんは論にあらず、はじめてさらに經営することなかれ。草庵白屋は古聖の所住なり、古聖の所愛なり。晩學したひ參學すべし、たがふることなかれ。

 黄帝堯舜等は、俗なりといへども草屋に居す、世界の勝躅なり。

 尸子曰、欲觀黄帝之行、於合宮。欲觀堯舜之行、於總章。黄帝明堂以草蓋之、名曰合宮。舜之明堂以草蓋之、名曰總章。しるべし、合宮總章はともに草をふくなり。いま黄帝堯舜をもてわれらにならべんとするに、なほ天地の論にあらず。これなほ草蓋を明堂とせり。俗なほ草屋に居す、出家人いかでか高堂大觀を所居に擬せん。慚愧すべきなり。古人の樹下に居し、林間にすむ、在家出家ともに愛する所在なり。黄帝は崆峒道人廣成の弟子なり、廣成は崆峒といふ岩のなかにすむ。いま大宋國の國王大臣、おほくこの玄風をつたふるなり。しかあればすなはち、塵勞中人なほかくのごとし。出家人いかでか塵勞中人よりも劣ならん、塵勞中人よりもにごれらん。

 向來の佛祖のなかに、天の供養をうくるおほし。しかあれども、すでに得道のとき、天眼およばず、鬼神たよりなし。そのむね、あきらむべし。天衆神道もし佛祖の行履をふむときは、佛祖にちかづくみちあり。佛祖あまねく天衆神道を超證するには、天衆神道はるかに見上のたよりなし、佛祖のほとりにちかづきがたきなり。

 南泉いはく、老僧修行のちからなくして鬼神に覰見せらる。しるべし、無修の鬼神に覰見せらるゝは、修行のちからなきなり。

経豪

  • 如文。「五祖」は山名也、非五祖六祖事。「我仏有言、時当減劫、高岸深谷、遷変不常。安得円満如意、自求称足」云々、是は古往の聖人、多く露地樹下に経行す。而未代人豊屋を元として、行道疏(疎?)かなる事を誡めらるるなり。「演和尚或時示日、行無越思、思無越行」云々、是は行の詞を、行持の草子なるゆえに被引出也。行与思(は)差別なき道理を述べらるる也。打ち任すは「行」は身上の所作、「思」は心意識の上に談之。為破此邪念なり。「行思」共一法なる道理不可忘却。

 

太白山宏智禪師正覺和尚の會に、護伽藍神いはく、われきく、覺和尚この山に住すること十餘年なり。つねに寝堂いたりてみんとするに、不能前なり、未之識なり。まことに有道の先蹤にあひあふなり。この天童山は、もとは小院なり。覺和尚の住裡に、道士觀尼寺教院等を掃除して、いまの景徳寺となせり。

 師、遷化ののち、左朝奉大夫侍御史王伯庠、ちなみに師の行業記を記するに、ある人いはく、かの道士觀尼寺教寺をうばひて、いまの天童寺となせることを記すべし。御史いはく、不可也、此事非僧徳矣。ときの人、おほく侍御史をほむ。しるべし、かくのごとくの事は俗の能なり、僧の徳にあらず。

 おほよそ佛道に登入する最初より、はるかに三界の人天をこゆるなり。三界の所使にあらず、三界の所見にあらざること、審細に咨問すべし。身口意および依正をきたして功夫參究すべし。佛祖行持の功徳、もとより人天を濟度する巨益ありとも、人天さらに佛祖の行持にたすけらるゝと覺知せざるなり。

 いま佛祖の大道を行持せんには、大隱小隱を論ずることなく、聰明鈍癡をいとふことなかれ。たゞながく名利をなげすてて、萬縁に繋縛せらるゝことなかれ。光陰をすごさず、頭燃をはらふべし。大悟をまつことなかれ、大悟は家常の茶飯なり。不悟をねがふことなかれ、不悟は髻中の寶珠なり。たゞまさに家郷あらんは家郷をはなれ、恩愛あらんは恩愛をはなれ、名あらんは名をのがれ、利あらんは利をのがれ、田園あらんは田園をのがれ、親族あらんは親族をはなるべし。名利等なからんも又はなるべし。すでにあるをはなる、なきをもはなるべき道理あきらかなり。それすなはち一條の行持なり。生前に名利をなげすてて一事を行持せん、佛壽長遠の行持なり。いまこの行持、さだめて行持に行持せらるゝなり。この行持あらん身心、みづからも愛すべしみづからもうやまふべし。

詮慧

〇「大隠小隠」と云うは、俗典には「大隠(は)隠朝市、小隠(は)隠山谷、人不知」云々、只大小と仕う許り也。無別義。「すでにあるを離る、なきをも離るべし」と云うは、名利あるをば離るべしと教う。なきをば如何に離るべきぞと、覚えたれども、あるものよりも、殊になきものこそ願い、営みあらます時に、ここを離れよと云う也。

経豪

  • 如文。是は宏智禅師遷化後、行業記を注に、道士観、尼寺、教寺院等を破りて、今の景徳寺と成せり。其れを行業記に記せんとするを。今の左朝奉大夫侍御史王伯庠云、不可也。此事非僧徳矣。仍不載行業記。此御史を讃之、是俗能なり。非僧徳也。

 

大慈寰中禪師いはく、説得一丈、不如行取一尺。説得一尺、不如行取一寸。これは、時人の行持おろそかにして佛道の通達をわすれたるがごとくなるをいましむるににたりといへども、一丈の説は不是とにはあらず、一尺の行は一丈説よりも大功なるといふなり。なんぞたゞ丈尺の度量のみならん、はるかに須彌と芥子との論功もあるべきなり。須彌に全量あり、芥子に全量あり。行持の大節、これかくのごとし。いまの道得は寰中の自爲道にあらず、寰中の自爲道なり。

詮慧

〇「説得一丈、不如行取一尺。説得一尺、不如行取一寸、是は時人の行持、おろそかにして、仏道の通達を忘れたるが如くなるを戒しむるに似たりと云えども、一丈の説は不是とにはあらず、一尺の行は、一丈の説よりも大切なると云う也」と云うは、説不離行、証不離行。皮肉骨髄を四人の得法に充つるに、髄を勝ると取る事不可然也。ただ教行証の如し。此の「説行」は只同じと心得るを、教家もしは、世間には別に立て説而不行、損気無益などと云う(は)不可然事也。又説理者多く、行理者少なんとも云う。是等は皆各別の法と立つる也。証行たがいに功あるべきなり。

〇多聞を勧め、多聞を嫌う事これあり。「経(華厳偈・注)云、譬如貧窮人昼夜数他宝。自無半銭分。多聞亦如是」(『止観輔行伝弘決』七之四「大正蔵」四六・三八二a一九・注)。是嫌う心也。ただ聞く事をのみ好みて、仏道の始終を明らめざる科(とが)なり。「若欲求仏道常随多聞人。善知識者是大因縁。所謂化導令得見仏」(『摩訶止観』一上「大正蔵」四六・三a二八・注)。是はとるかたなり。「一尺の行は一丈の説より大功也」と云うは、これも「行」を勝りたりと云う心地す。然而仏法には、仏(は)殊に、勝れたりとは説けども、此の仏は劣也と説く事なくが如く、「大功也」とは云う也。「説」を小功と致すにはあらず、又「丈尺」に依らざる所を、やがて「大功」と仕う、謂われあるべし。

〇三業は身口意なり。ただしふ各別の物とも覚ゆれ。無我のとき、尽十方界一隻眼おも、尽十方界家常語とも、云う時は、身の外に口を残し、口の外に意を置く事なきが如く、「説行」もあるべし。

〇「非自為道、自為道也」と云うは、たとえば『法華経』は三世の諸仏の説とは云えども、又釈迦出世して解之、此心なるべし。また三世の諸仏に釈迦漏るべからず。

〇「説行」の道理を寰中の初めて云うにはあらず。此の理にこそ、寰中は謂わるれと云う程の義也。ゆえに「いまの道得は寰中の自為道にあらず」と云う。然而又云うには云うを返して、「寰中の自為道也」と云う。

経豪

  • 「説得一丈、不如行取一尺。説得一尺、不如行取一寸」云々、此の詞を打ち任せて心得には、一丈を説得するよりも、一尺を行取するは、勝りたるように思い付きたり。今(の)義は非爾。其の故は、一丈も行持の上に仕う、一丈一尺も乃至一寸も行持の上に談ずる尺寸なり。ゆえに勝劣高下の論に不可及。而今の草子に「一尺の行は一丈の説よりも大功也」と云えば、猶勝劣あるに似たり。前後の参差にも聞こえたり。是は行持と云う草子の上なるゆえに、蹔く「一尺の行は一丈の説よりも大功也」と云えども、さればとて始終、更(に)勝劣浅深の義不可有。随上に一丈の説は、不是とにはあらずと被釈分明也。

又行の位は浅く、証の位は深しと思えり。行証共只同じ丈也。今の一丈一尺、一尺一寸等の詞に、此の道理符合する也。又須弥与芥子、仏法いは只一也と習う也。打ち任すは天地懸隔相違の喩えとなれり。「須弥に全量あり、芥子に全量あり」と云う、此の心地なり。

この「道得は寰中の自為道にあらず、寰中の自為道也」と云えり、此の道得は寰中の自為道許りにあらず、三世諸仏祖等の自為道なり。この道理なるゆえに、又「寰中の自為道也」とも、蹔く云わるる也。

 

洞山悟本大師道、説取行不得底、行取説不得底。これ高祖の道なり。その宗旨は、行は説に通ずるみちをあきらめ、説の行に通ずるみちあり。しかあれば、終日とくところに終日おこなふなり。その宗旨は、行不得底を行取し、説不得底を説取するなり。

詮慧

〇「洞山悟本大師道には、説取行不得底、行取説不得底」云々(行不得底の説取なるがゆえに、説不得底也。説不得底なるがゆえに、行不得底也)。此の「不得」は得なり。たとえば会不会と仕うが如し。又過去心を説く時も、現在心を説く時も、未来心を説く時も、皆不可得と説く程の事也。

経豪

  • 如文。「説取行不得底、行取説不得底」云々、是は説与行を各別に被説也。説の時は行が隠れ、行の時は説が隠るべし。一方を証する時は一方は暗き道理なるべし。然而前の詞(と)不可違也。

 

雲居山弘覺大師、この道を七通八達するにいはく、説時無行路、行時無説路。この道得は、行説なきにあらず、その説時は、一生不離叢林なり。その行時は、洗頭到雪峰前なり。説時無行路、行時無説路、さしおくべからず、みだらざるべし。

 古來の佛祖いひきたれることあり、いはゆる若人生百歳、不會諸佛機、未若生一日、而能決了之。これは一佛二佛のいふところにあらず、諸佛の道取しきたれるところ、諸佛の行取しきたれるところなり。百千萬劫の回生回死のなかに、行持ある一日は、髻中の明珠なり、同生同死の古鏡なり。よろこぶべき一日なり、行持力みづからよろこばるゝなり。行持のちからいまだいたらず、佛祖の骨髓うけざるがごときは、佛祖の身心ををしまず、佛祖の面目をよろこばざるなり。佛祖の面目骨髓、これ不去なり、如去なり、如來なり、不來なりといへども、かならず一日の行持に稟受するなり。しかあれば、一日はおもかるべきなり。いたづらに百歳いけらんは、うらむべき日月なり、かなしむべき形骸なり。たとひ百歳の日月は聲色の奴婢と馳走すとも、そのなか一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の佗生をも度取すべきなり。この一日の身命はたふとぶべき身命なり、たふとぶべき形骸なり。かるがゆゑに、いけらんこと一日ならんは、諸佛の機を會せば、この一日を曠劫多生にもすぐれたりとするなり。

 このゆゑに、いまだ決了せざらんときは、一日をいたづらにつかふことなかれ。この一日はをしむべき重寶なり。尺璧の價直に擬すべからず、驪珠にかふることなかれ。古賢をしむこと身命よりもすぎたり。しづかにおもふべし、驪珠はもとめつべし、尺璧はうることもあらん。一生百歳のうちの一日は、ひとたびうしなはん、ふたゝびうることなからん。いづれの善巧方便ありてか、すぎにし一日をふたゝびかへしえたる。紀事の書にしるさざるところなり。もしいたづらにすごさざるは、日月を皮袋に包含して、もらさざるなり。しかあるを、古聖先賢は、日月ををしみ光陰ををしむこと、眼睛よりもをしむ、國土よりもをしむ。そのいたづらに蹉過するといふは、名利の浮世に濁亂しゆくなり。いたづらに蹉過せずといふは、道にありながら道のためにするなり。

 すでに決了することをえたらん、また一日をいたづらにせざるべし。ひとへに道のために行取し、道のために説取すべし。このゆゑにしりぬ、古來の佛祖いたづらに一日の功夫をつひやさざる儀、よのつねに觀想すべし。遲々花日も明窓に坐しておもふべし、蕭々雨夜も白屋に坐してわするゝことなかれ。光陰なにとしてかわが功夫をぬすむ。一日をぬすむのみにあらず、多劫の功徳をぬすむ。光陰とわれと、なんの怨家ぞ。うらむべし、わが不修のしかあらしむるなるべし。われ、われとしたしからず、われ、われをうらむるなり。

 佛祖も恩愛なきにあらず、しかあれどもなげすてきたる。佛祖も諸縁なきにあらず、しかあれどもなげすてきたる。たとひをしむとも、自佗の因縁をしまるべきにあらざるがゆゑに、われもし恩愛をなげすてずは、恩愛かへりてわれをなげすつべき云爲あるなり。恩愛をあはれむべくは恩愛をあはれむべし。恩愛をあはれむといふは、恩愛をなげすつるなり。

詮慧

〇「雲居山弘覺大師道には、説時無行路、行時無説路」云々、諸法の時、実相の道なし。実相の時、諸法の道なし。諸法(は)諸法なりと説く程の事也。

経豪

  • 如文。是又「説行」之心得よう、前に不可違。所詮「一生不離叢林、洗頭到雪峰前」を以て、行持と談ず也。一生不離叢林事(は)、趙州段に委載了。「説時には行路なく、行時には説路なき」也。然而説時なきにあらず。不離叢林の姿(が)説時也。

「行路」又無きにあらず、「洗頭到雪峰」(の)姿を以て「行路」とは談ず也。又「若人生百歳、不会諸仏機、未若生一日、而能決了之」。

此文は『法句経』(「大正蔵」四・五六四cを示すが、出典は『景徳伝灯録』二「大正蔵」五一・二一二b・注)文也。依此仏阿難入定寂滅し給う云々。其の故は或る時此文を唱えて、人の通りけるを聞き給えば、「若人生百歳、不見水老鶴、未若生一日、而能覩見之」如此誦して過ぎける間、阿難此誦する者を呼び入りて、此文は経文也。わたくしの詞不可入、悪しく誦する也とて如経文直されたりけるを、任阿難教誦しける程に、又或時(は)先度悪しく誦せしように唱えて、過ぎける間、又呼び入れてなど、先度教えしままに不誦して、如本悪しくば誦するぞと被仰ければ、先度御教訓の定めに誦すれば僻事也。只如先度可誦と人の申之間、如此誦する也と答え申しけり。其の時、仏入滅し給う事不久。是程に皆人邪見に堕せり。かからん世に往して無詮とて、寂滅給う、云々。

 

南嶽大慧禪師懷譲和尚、そのかみ曹谿に參じて、執侍すること十五秋なり。しかうして傳道授業すること、一器水瀉一器なることをえたり。古先の行履、もとも慕古すべし。十五秋の風霜、われをわづらはすおほかるべし。しかあれども純一に究辦す、これ晩進の龜鏡なり。寒爐に炭なく、ひとり虚堂にふせり、涼夜に燭なく、ひとり明窓に坐する、たとひ一知半解なくとも、無爲の絶學なり。これ行持なるべし。

 おほよそ、ひそかに貪名愛利をなげすてきたりぬれば、日々に行持の積功のみなり。このむね、わするゝことなかれ。説似一物即不中は、八箇年の行持なり。古今のまれなりとするところ、賢不肖ともにこひねがふ行持なり。

詮慧

〇「曹谿に参じて、執侍すること十五秋、伝道授業す。寒爐に炭なく、涼夜に燭なし」。

此の「十五年」と云うは、説似一物即不中と悟りし、已前八年、已後又八年也。然者二八十六年なれども、悟らざりし終りの年と悟りの始めの年とを一年に取れば、「十五秋」と云わるる也。

経豪

  • 如文。

 

香嚴の智閑禪師は、大潙に耕道せしとき、一句を道得せんとするに數番つひに道不得なり。これをかなしみて、書籍を火にやきて、行粥飯僧となりて年月を經歴しき。のちに武當山にいりて、大證の舊跡をたづねて結草爲庵し、放下幽棲す。一日わづかに道路を併淨するに、礫のほどばしりて竹にあたりて聲をなすによりて、忽然として悟道す。のちに香嚴寺に住して、一盂一衲を平生に不換なり。奇岩清泉をしめて、一生偃息の幽棲とせり。行跡おほく本山にのこれり。平生に山をいでざりけるといふ。

経豪

如文。礫の迸(ほとばし)りて竹に当りて、声を為すによりて、忽然として悟道するは此の禅師の事也。

 

臨濟院慧照大師は、黄蘗の嫡嗣なり。黄蘗の會にありて三年なり。純一に辦道するに、睦州陳尊宿の教訓によりて、佛法の大意を黄蘗にとふこと三番するに、かさねて六十棒を喫す。なほ勵志たゆむことなし。大愚にいたりて大悟することも、すなはち黄蘗睦州兩尊宿の教訓なり。祖席の英雄は臨濟徳山といふ。しかあれども、徳山いかにしてか臨濟におよばん。まことに臨濟のごときは群に群せざるなり。そのときの群は、近代の抜群よりも抜群なり。行業純一にして行持抜群せりといふ。幾枚幾般の行持なりとおもひ、擬せんとするに、あたるべからざるものなり。

 師在黄蘗、與黄蘗栽杉松次、黄蘗問師曰、深山裏、栽許多樹作麼。師曰、一與山門爲境致、二與後人作標榜。乃將鍬拍地兩下。黄蘗拈起柱杖曰、雖然如是、汝已喫我三十棒了也。師作嘘々聲。黄蘗曰、吾宗到汝大興於世。

 しかあればすなはち、得道ののちも杉松などをうゑけるに、てづからみづから鍬柄をたづさへけるとしるべし。吾宗到汝大興於世、これによるべきものならん。栽松道者の古蹤、まさに單傳直指なるべし。黄蘗も臨濟とともに栽樹するなり。黄蘗のむかしは、捨衆して、大安精舎の勞侶に混迹して、殿堂を掃洒する行持あり。佛殿を掃洒し、法堂を掃洒す。心を掃洒すると行持をまたず、ひかりを掃洒すると行持をまたず。裴相國と相見せし、この時節なり。

経豪

  • 如文。陳尊宿の教訓に依りて、仏法の大意を黄檗に問うに、三番するに、一番に二十棒づつ都合六十棒を与えき。励志弛(たゆ)む事なし。大愚に到りて大悟する事も、すなわち黄檗睦州両尊宿の教訓によりて也。黄檗臨済(の)問答に具(つぶ)さなり。

 

唐宣宗皇帝は、憲宗皇帝第二の子なり。少而より敏黠なり。よのつねに結跏趺坐を愛す。宮にありてつねに坐禪す。穆宗は宣宗の兄なり。穆宗在位のとき、早朝罷に、宣宗すなはち戲而して、龍床にのぼりて、揖群臣勢をなす。大臣これをみて心風なりとす。すなはち穆宗に奏す。穆宗みて宣宗を撫而していはく、我弟乃吾宗之英胄也。ときに宣宗、としはじめて十三なり。穆宗は長慶四年晏駕あり。穆宗に三子あり、一は敬宗、二は文宗、三は武宗なり。敬宗父位をつぎて、三年に崩ず。文宗繼位するに、一年といふに、内臣謀而、これを易す。武宗即位するに、宣宗いまだ即位せずして、をひのくににあり。武宗つねに宣宗をよぶに癡叔といふ。武宗は會昌の天子なり。佛法を廢せし人なり。武宗あるとき宣宗をめして、昔日ちゝのくらゐにのぼりしことを罰して、一頓打殺して、後花園のなかにおきて、不淨を灌するに復生す。

 つひに父王の邦をはなれて、ひそかに香嚴の閑禪師の會に參じて、剃頭して沙彌となりぬ。しかあれど、いまだ不具戒なり。志閑禪師をともとして遊方するに、廬山にいたる。ちなみに志閑みづから瀑布を題していはく、穿崖透石不辭勞、遠地方知出處高。この兩句をもて、沙彌を釣佗して、これいかなる人ぞとみんとするなり。沙彌これを續していはく、谿澗豈能留得住、終歸大海作波濤。この兩句をみて、沙彌はこれつねの人にあらずとしりぬ。

 のちに杭州鹽官齊安國師の會にいたりて書記に充するに、黄蘗禪師、ときに鹽官の首座に充す。ゆゑに黄蘗と連單なり。黄蘗、ときに佛殿にいたりて禮佛するに、書記いたりてとふ、不著佛求、不著法求、不著僧求、長老用禮何爲。かくのごとく問著するに、黄蘗便掌して、沙彌書記にむかひて道す、不著佛求、不著法求、不著僧求。常禮如是事。かくのごとく道しをはりて、又掌すること一掌す。書記いはく、太麁生なり。黄蘗いはく、遮裡是什麼所在、更説什麼麁細。また書記を掌すること一掌す。書記ちなみに休去す。

 武宗ののち、書記つひに還俗して即位す。武宗の廢佛法を廢して、宣宗すなはち佛法を中興す。宣宗は即位在位のあひだ、つねに坐禪をこのむ。未即位のとき、父王のくにをはなれて、遠地の谿澗に遊方せしとき、純一に辦道す。即位ののち、昼夜に坐禪すといふ。まことに父王すでに崩御す、兄帝また晏駕す、をひのために打殺せらる。あはれむべき窮子なるがごとし。しかあれども、勵志うつらず辦道功夫す、奇代の勝躅なり、天眞の行持なるべし。

詮慧

〇「不著仏求、不著法求、不著僧求、長老用礼何為」、この問答は、其れを其れと云う也。清浄本然云何忽生山河大地と云う程の問答なり。「太麁生」、是は一掌するを不委、甚だあらじと云う也。

経豪

  • 如文。「心風也」とは物狂也と云う心なり。沙弥閑禅師を為友、遊方するに廬山に到るに、志閑沙弥を心見んとて瀑布を題していはく、穿崖透石不辞労、遠地方知出処高。此の両句を以て、沙弥を見んとするなり。沙弥是を続していわく、谿澗豈能留得住、終帰大海作波濤。見此の両句、沙弥是非常人と知之。

黄檗ときに、仏殿に到りて礼仏するに、書記到りて問う、不著仏求、不著法求、不著僧求、長老用礼何為。如此問著するに、黄檗便掌して、沙弥書記に向いて道す、不著仏求、不著法求、不著僧求。常礼如是事。如此道し終りて、又掌する事一掌す。書記いわく、太麁生也」。是は風性常住無所不周底と問いしに、和尚重ねて扇を仕いし程の道理也。

黄檗いわく、遮裡是什麼所在、更説什麼麁細。また書記を掌する事一掌す。書記ちなみに休去す。武宗ののち、書記ついに還俗して即位す」

唐憲宗皇帝

穆宗 長慶四年宴駕

宣宗

武宗即位時召宣宗、昔日父位登事を罰す。一頓打殺而置後花園中、灌不浄に復生す。終父王の邦を離れし竊登香厳寺閑禅師会、成沙弥、然而未具戒也。後杭州塩官の所に到りて書記になり、又黄檗于時杭州の首座也。黄檗与書記隣単なり。

穆宗

敬宗 継父位即位、即位後三年崩、

文宗 継位有一年、内臣謀而易之、

武宗 其後又即位、号会昌天子是也。

   仏法を廃せしなり。

 

雪峰眞覺大師義存和尚、かつて發心よりこのかた、掛錫の叢林および行程の接待、みちはるかなりといへども、ところをきらはず、日夜の坐禪おこたることなし。雪峰草創の露堂堂にいたるまで、おこたらずして坐禪と同死す。咨參のそのかみは九上洞山、三到投子する、奇世の辦道なり。行持の清嚴をすゝむるには、いまの人、おほく雪峰高行といふ。雪峰の昏昧は諸人とひとしといへども、雪峰の伶俐は、諸人のおよぶところにあらず。これ行持のしかあるなり。いまの道人、かならず雪峰の澡雪をまなぶべし。しづかに雪峰の諸方に參學せし筋力をかへりみれば、まことに宿有靈骨の功徳なるべし。

 いま有道の宗匠の會をのぞむに、眞實請參せんとするとき、そのたより、もとも難辨なり。たゞ二十三十箇の皮袋にあらず、百千人の面々なり。おのおの實歸をもとむ、授手の日くれなんとす、打舂の夜あけなんとす。あるいは師の普説するときは、わが耳目なくしていたづらに見聞をへだつ。耳目そなはるときは、師またときをはりぬ。耆宿尊年の老古錐すでに拊掌笑呵呵のとき、新戒晩進のおのれとしては、むしろのすゑを接するたよりなほまれなるがごとし。堂奥にいるといらざると、師決をきくときかざるとあり。光陰は矢よりもすみやかなり、露命は身よりももろし。師はあれどもわれ參不得なるうらみあり、參ぜんとするに師不得なるかなしみあり。かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり。

 大善知識かならず人をしる徳あれども、耕道功夫のとき、あくまで親近する良縁まれなるものなり。雪峰のむかし洞山にのぼれりけんにも、投子にのぼれりけんにも、さだめてこの事煩をしのびけん。この行持の法操あはれむべし、參學せざらんはかなしむべし。

詮慧

〇この「昏昧」は得道已前の時刻、「伶俐」は得道の後なるべし。

経豪

  • 如文。

 

   行持下

眞丹初祖の西來東土は、般若多羅尊者の教勅なり。航海三載の霜華、その風雪いたましきのみならんや、雲煙いくかさなりの嶮浪なりとかせん、不知のくににいらんとす、身命ををしまん凡類、おもひよるべからず。これひとへに傳法救迷情の大慈よりなれる行持なるべし。傳法の自己なるがゆゑにしかあり、傳法の遍界なるがゆゑにしかあり、盡十方界は眞實道なるがゆゑにしかあり、盡十方界自己なるがゆゑにしかあり、盡十方界盡十方界なるがゆゑにしかあり。いづれの生縁か王宮にあらざらん、いづれの王宮か道場をさへん。このゆゑにかくのごとく西來せり。救迷情の自己なるゆゑに驚疑なく、怖畏せず。救迷情の遍界なるゆゑに驚疑せず、怖畏なし。ながく父王の國土を辭して、大舟をよそほうて、南海をへて廣州にとづく。使船の人おほく、巾瓶の僧あまたありといへども、史者失録せり。著岸よりこのかた、しれる人なし。すなはち梁代の普通八年丁未歳九月二十一日なり。

 廣州の刺史蕭昂といふもの、主禮をかざりて迎接したてまつる。ちなみに表を修して武帝にきこゆる、蕭昂が勤恪なり。武帝すなはち奏を覧じて、欣悦して、使に詔をもたせて迎請したてまつる。すなはちそのとし十月一日なり。

 初祖金陵にいたりて梁武と相見するに、梁武とふ、朕即位已來、造寺・冩經・度僧、不可勝紀、有何功徳。師曰、竝無功徳。帝曰、何以無功徳。師曰、此但人天小果、有漏之因。如影隨形、雖有非實。帝曰、如何是眞功徳。師曰、淨智妙圓、體自空寂。如是功徳、不以世求。帝又問、如何是聖諦第一義諦。師曰、廓然無聖。帝曰、對朕者誰。師曰、不識。帝、不領悟。師知機不契。ゆゑにこの十月十九日、ひそかに江北にゆく。そのとし十一月二十三日、洛陽にいたりぬ。嵩山少林寺に寓止して、面壁而坐、終日黙然なり。しかあれども、魏主も不肖にしてしらず、はぢつべき理もしらず。

 師は南天竺の刹利種なり、大國の皇子なり。大國の王宮、その法ひさしく慣熟せり。小國の風俗は、大國の帝者に爲見のはぢつべきあれども、初祖、うごかしむるこゝろあらず。くにをすてず、人をすてず。ときに菩提流支の訕謗を救せず、にくまず、光統律師が邪心をうらむるにたらず、きくにおよばず。かくのごとくの功徳おほしといへども、東地の人物、たゞ尋常の三藏および經論師のごとくにおもふは至愚なり。小人なるゆゑなり。あるいはおもふ、禪宗とて一途の法門を開演するが、自餘の論師等の所云も、初祖の正法もおなじかるべきとおもふ。これは佛法を濫穢せしむる小畜なり。

 初祖は釋迦牟尼佛より二十八世の嫡嗣なり、父王の大國をはなれて、東地の衆生を救濟する、たれのかたをひとしくするかあらん。もし、祖師西來せずは、東地の衆生いかにしてか佛正法を見聞せん。いたづらに名相の沙石にわづらふのみならん。いまわれらがごときの邊地遠方の披毛戴角までも、あくまで正法をきくことえたり。いまは田夫農父、野老村童までも見聞する、しかしながら祖師航海の行持にすくはるゝなり。西天と中華と、土風はるかに勝劣せり、方俗はるかに邪正あり。大忍力の大慈にあらずよりは、傳持法藏の大聖、むかふべき處在にあらず。住すべき道場なし、知人の人まれなり。しばらく嵩山に掛錫すること九年なり。人これを壁觀婆羅門といふ。史者、これを習禪の列に編集すれども、しかにはあらず。佛佛嫡嫡相傳する正法眼藏、ひとり祖師のみなり。

 石門林間録云、菩提達磨、初自梁之魏。經行於嵩山之下、倚杖於少林。 面壁燕坐而已、非習禪也。久之人莫測其故。因以達磨爲習禪。夫禪那、諸行之一耳。何足以盡聖人。 而當時之人、以之、爲史者、又從而傳於習禪之列、使與枯木死灰之徒爲伍。雖然、聖人非止於禪那、而亦不違禪那。如出于陰陽、而亦不違乎陰陽。

 梁武初見達磨之時、即問、如何是聖諦第一義。答曰、廓然無聖。進曰、對朕者誰。又曰、不識。使達磨不通方言、則何於是時、使能爾耶。

 しかあればすなはち、梁より魏へゆくことあきらけし。嵩山に經行して少林に倚杖す。面壁燕坐すといへども、習禪にはあらざるなり。一巻の經書を將來せざれども、正法傳來の正主なり。しかあるを、史者あきらめず、習禪の篇につらぬるは、至愚なり、かなしむべし。

 かくのごとくして嵩山に經行するに、犬あり、堯をほゆ。あはれむべし、至愚なり。たれのこゝろあらんか、この慈恩をかろくせん。たれのこゝろあらんか、この恩を報ぜざらん。世恩なほわすれず、おもくする人おほし、これを人といふ。祖師の大恩は父母にもすぐるべし、祖師の慈愛は親子にもたくらべざれ。

 われらが卑賤おもひやれば、驚怖しつべし。中土をみず、中華にむまれず、聖をしらず、賢をみず、天上にのぼれる人いまだなし、人心ひとへにおろかなり。開闢よりこのかた化俗の人なし、國をすますときをきかず。いはゆるは、いかなるか清、いかなるか濁としらざるによる。二柄三才の本末にくらきによりてかくのごとくなり。いはんや五才の盛衰をしらんや。この愚は、眼前の聲色にくらきによりてなり。くらきことは、經書をしらざるによりてなり、經書に師なきによりてなり。その師なしといふは、この經書いく十巻といふことをしらず、この經いく百偈いく千言としらず、たゞ文の説相をのみよむ。いく千偈いく萬言といふことをしらざるなり。すでに古經をしり、古書をよむがごときは、すなはち慕古の意旨あるなり。慕古のこゝろあれば、古經きたり現前するなり。漢高祖および魏太祖、これら天象の偈をあきらめ、地形の言をつたへし帝者なり。かくのごときの經典あきらむるとき、いさゝか三才あきらめきたるなり。いまだかくのごとくの聖君の化にあはざる百姓のともがらは、いかなるを事君とならひ、いかなるを事親とならふとしらざれば、君子としてもあはれむべきものなり。親族としてもあはれむべきなり。臣となれるも子となれるも、尺璧もいたづらにすぎぬ、寸陰もいたづらにすぎぬるなり。かくのごとくなる家門にむまれて、國土のおもき職、なほさづくる人なし、かろき官位なほをしむ。にごれるときなほしかあり、すめらんときは見聞もまれならん。かくのごときの邊地、かくのごときの卑賤の身命をもちながら、あくまで如來の正法をきかんみちに、いかでかこの卑賤の身命ををしむこゝろあらん。をしんでのちになにもののためにかすてんとする。おもくかしこからん、なほ法のためにをしむべからず、いはんや卑賤の身命をや。たとひ卑賤なりといふとも、爲道爲法のところに、をしまずすつることあらば、上天よりも貴なるべし、輪王よりも貴なるべし、おほよそ天神地祇、三界衆生よりも貴なるべし。

 しかあるに、初祖は南天竺國香至王の第三皇子なり。すでに天竺國の帝胤なり、皇子なり。高貴のうやまふべき、東地邊國には、かしづきたてまつるべき儀もいまだしらざるなり。香なし、花なし、坐褥おろそかなり、殿臺つたなし。いはんやわがくには、遠方の絶岸なり、いかでか大國の皇をうやまふ儀をしらん。たとひならふとも、迂曲してわきまふべからざるなり。諸侯と帝者と、その儀ことなるべし、その禮も、輕重あれども、わきまへしらず。自己の貴賤をしらざれば、自己を保任せず。自己を保任せざれば、自己の貴賤もともあきらむべきなり。

 初祖は釋尊第二十八世の附法なり。道にありてよりこのかた、いよいよおもし。かくのごとくなる大聖至尊、なほ師勅によりて身命ををしまざるは、傳法のためなり、救生のためなり。眞丹國には、いまだ初祖西來よりさきに、嫡嫡單傳の佛子をみず、嫡嫡面授の祖面を面授せず、見佛いまだしかりき。のちにも初祖の遠孫のほか、さらに西來せざるなり。曇花の一現はやすかるべし、年月をまちて算數しつべし、初祖の西來はふたゝびあるべからざるなり。しかあるに、祖師の遠孫と稱するともがらも、楚國の至愚にゑうて、玉石いまだわきまへず、經師論師も齊肩すべきとおもへり。少聞薄解によりてしかあるなり。宿殖般若の正種なきやからは祖道の遠孫とならず、いたづらに名相の邪路に跰するもの、あはれむべし。

 梁の普通よりのち、なほ西天にゆくものあり、それなにのためぞ。至愚のはなはだしきなり。惡業のひくによりて、佗國に跰するなり。歩々に謗法の邪路におもむく、歩々に親父の家郷を逃逝す。なんだち西天にいたりてなんの所得かある。たゞ山水に辛苦するのみなり。西天の東來する宗旨を學せず、佛法の東漸をあきらめざるによりて、いたづらに西天に迷路するなり。佛法をもとむる名稱ありといへども、佛法をもとむる道念なきによりて、西天にしても正師にあはず、いたづらに論師經師にのみあへり。そのゆゑは、正師は西天にも現在せれども、正法をもとむる正心なきによりて、正法なんだちが手にいらざるなり。西天にいたりて正師をみたるといふ、たれかその人、いまだきこえざるなり。もし正師にあはば、いくそばくの名稱をも自稱せん。なきによりて自稱いまだあらず。

 また眞丹國にも、祖師西來よりのち、經論に倚解して、正法をとぶらはざる僧侶おほし。これ經論を披閲すといへども經論の旨趣にくらし。この黒業は今日の業力のみにあらず、宿生の惡業力なり。今生つひに如來の眞訣をきかず、如來の正法をみず、如來の面授にてらされず、如來の佛心を使用せず、諸佛の家風をきかざる、かなしむべき一生ならん。隋唐宋の諸代、かくのごときのたぐひおほし、たゞ宿殖般若の種子ある人は、不期に入門せるも、あるは算砂の業を解脱して、祖師の遠孫となれりしは、ともに利根の機なり、上上の機なり、正人の正種なり。愚蒙のやから、ひさしく經論の草庵に止宿するのみなり。しかあるに、かくのごとくの嶮難あるさかひを辭せずいとはず、初祖西來する玄風、いまなほあふぐところに、われらが臭皮袋を、をしんでつひになににかせん。

 香嚴禪師いはく、百計千方只爲身、不知身是塚中塵。莫言白髪無言語、此是黄泉傳語人。しかあればすなはち、をしむにたとひ百計千方をもてすといふとも、つひにはこれ塚中一堆の塵と化するものなり。いはんやいたづらに小國の王民につかはれて、東西に馳走するあひだ、千辛萬苦いくばくの身心をかくるしむる。義によりては身命をかろくす、殉死の禮わすれざるがごとし。恩につかはるゝ前途、たゞ暗頭の雲霧なり。小臣につかはれ、民間に身命をすつるもの、むかしよりおほし。をしむべき人身なり、道器となりぬべきゆゑに。いま正法にあふ、百千恒沙の身命をすてても、正法を參學すべし。いたづらなる小人と、廣大深遠の佛法と、いづれのためにか身命をすつべき。賢不肖ともに進退にわづらふべからざるものなり。

 しづかにおもふべし、正法よに流布せざらんときは、身命を正法のために捨せんことをねがふともあふべからず。正法にあふ今日のわれらをねがふべし、正法にあうて身命をすてざるわれらを慚愧せん。はづべくは、この道理をはづべきなり。しかあれば、祖師の大恩を報謝せんことは、一日の行持なり。自己の身命をかへりみることなかれ。禽獣よりもおろかなる恩愛、をしんですてざることなかれ。たとひ愛惜すとも、長年のともなるべからず。あくたのごとくなる家門、たのみてとゞまることなかれ。たとひとゞまるとも、つひの幽棲にあらず。むかし佛祖のかしこかりし、みな七寶千子をなげすて、玉殿朱樓をすみやかにすつ。涕唾のごとくみる、糞土のごとくみる。これらみな、古來の佛祖の古來の佛祖を報謝しきたれる知恩報恩の儀なり。病雀なほ恩をわすれず、三府の環よく報謝あり。窮龜なほ恩をわすれず、餘不の印よく報謝あり。かなしむべし、人面ながら畜類よりも愚劣ならんことは。

 いまの見佛聞法は、佛祖面々の行持よりきたれる慈恩なり。佛祖もし單傳せずは、いかにしてか今日にいたらん。一句の恩なほ報謝すべし、一法の恩なほ報謝すべし。いはんや正法眼藏無上大法の大恩、これを報謝せざらんや。一日に無量恒河沙の身命すてんこと、ねがふべし。法のためにすてんかばねは、世々のわれら、かへりて禮拝供養すべし。諸天龍神ともに恭敬尊重し、守護讚嘆するところなり、道理それ必然なるがゆゑに。

 西天竺國には、髑髏をうり髑髏をかふ婆羅門の法、ひさしく風聞せり。これ聞法の人の髑髏形骸の功徳おほきことを尊重するなり。いま道のために身命をすてざれば、聞法の功徳いたらず。身命をかへりみず聞法するがごときは、その聞法成熟するなり。この髑髏は、尊重すべきなり。いまわれら、道のためにすてざらん髑髏は、佗日にさらされて野外にすてらるとも、たれかこれを禮拝せん、たれかこれを賣買せん。今日の精魂、かへりてうらむべし。鬼の先骨をうつありき、天の先骨を禮せしあり。いたづらに塵土に化するときをおもひやれば、いまの愛惜なし、のちのあはれみあり。もよほさるゝところは、みん人のなみだのごとくなるべし。いたづらに塵土に化して人にいとはれん髑髏をもて、よくさいはひに佛正法を行持すべし。

 このゆゑに、寒苦をおづることなかれ、寒苦いまだ人をやぶらず、寒苦いまだ道をやぶらず。たゞ不修をおづべし、不修それ人をやぶり、道をやぶる。暑熱をおづることなかれ、暑熱いまだ人をやぶらず、暑熱いまだ道をやぶらず。不修よく人をやぶり、道をやぶる。麦をうけ蕨をとるは、道俗の勝躅なり。血をもとめ乳をもとめて、鬼畜にならはざるべし。たゞまさに行持なる一日は、諸佛の行履なり。

詮慧

〇梁武帝与初祖問答、具草子。

来時好道去如来時と云うことばあり。是は舎耶多尊者、依阿育大王請、勤唱道。只此の一句許りを云いて、下座諸人不心得。只大王独り随喜すと、云々。此の心は善かりし道より生来して、今大王となり、修善すれば、去るときも、善なるべしとなり。造寺写経も只世間の屋舎の如く思い、文字の如く心得て、たとえば仏寺をも建立せん、果は誠に小果なるべし。厨庫山門を光明ほどに心得て、造営起塔せんは、其の果(は)実相なるべきなり。師答云、「廓然無聖」也と云うは、此の無聖は「浄智妙円、体自空寂の聖諦第一義」と云う時は、聖とも凡とも挙ぐべからず。故に「無聖」と云う。「対朕者誰」ぞと云うは、師を聖とも云い難し。ゆえに「不識と云う、帝不領悟、機不契」なり。

〇「経いく百偈、いく千言としらず」と云うは、諸法実相を一句とせん時、諸法の上に置いて、「いく万偈としらざらん」が如し。この謂われなり。

〇抑も初祖と梁武と問答の間、不審専らこれあり。初祖印度より初めてわたる。何として言語通じて問答あるぞや。尤有疑。其上『石門林間録』には「使達磨不通方言、則何於是時、使能爾耶」とあり。実にも疑がわしきなり。ただし証果の聖者は、天上にも人間にも、其の土の香を嗅ぐに、言語皆通じて無有疑と云う説これあり。又『林間録』には、ことの道理すがたをのずと云えども、梁武と初祖と、いかなる通路ありけんも知り難し。一向疑いを残すべからず。

経豪

  • 如文。「梁武帝与問答時」、初祖の「不識」の詞(は)、不会仏法程の詞なり。
  • 「菩提流支、光統律師」(は)、共に教者也。初祖を嫉(そね)み憎(にく)みし人也。
  • 「習禅の列に編集すれども、しかにはあらず」とは、六度の中の禅波羅蜜と思いて、其の定めに注いたる事を嫌う也。
  • 「犬あり堯をほゆ」とは、堯はいみじく由々しかりし王也。それを犬が吠えたる事ありき。いま其の定めに初祖の有り様を、人知らで習禅列に連ぬる所を、如此云う也。

 

眞丹第二祖大祖正宗普覺大師は、神鬼ともに嚮慕す、道俗おなじく尊重せし高徳の祖なり、曠達の士なり。伊洛に久居して群書を博覧す。くにのまれなりとするところ、人のあひがたきなり。法高徳重のゆゑに、神物倐見して、祖にかたりていふ、將欲受果、何滯此耶。大道匪遠、汝其南矣。あくる日、にはかに頭痛すること刺がごとし。其師洛陽龍門香山寶靜禪師、これを治せんとするときに、空中有聲曰、此乃換骨、非常痛也。祖遂以見神事、白于師。師視其頂骨、即如五峰秀出矣。乃曰、汝相吉祥、當有所證。神汝南者、斯則少林寺達磨大士、必汝之師也。この教をきゝて、祖すなはち少室峰に參ず。神はみづからの久遠修道の守道神なり。このとき窮臈寒天なり。十二月初九夜といふ。天大雨雪ならずとも、深山高峰の冬夜は、おもひやるに、人物の窓前に立地すべきにあらず。竹節なほ破す、おそれつべき時候なり。しかあるに、大雪匝地、埋山没峰なり。破雪して道をもとむ、いくばくの嶮難なりとかせん。つひに祖室にとづくといへども、入室ゆるされず、顧眄せざるがごとし。この夜、ねぶらず、坐せず、やすむことなし。堅立不動にしてあくるをまつに、夜雪なさけなきがごとし。やゝつもりて腰をうづむあひだ、おつるなみだ滴々こほる。なみだをみるになみだをかさぬ、身をかへりみて身をかへりみる。自惟すらく、昔人求道、敲骨取髓、刺血濟饑。布髪淹泥、投崖飼虎。古尚若此、我又何人。かくのごとくおもふに、志気いよいよ勵志あり。いまいふ古尚若此、我又何人を、晩進もわすれざるべきなり。しばらくこれをわするゝとき、永劫の沈劫の沈溺あるなり。かくのごとく自惟して、法をもとめ道をもとむる志気のみかさなる。澡雪の操を操とせざるによりて、しかありけるなるべし。遲明のよるの消息、はからんとするに肝胆もくだけぬるがごとし。たゞ身毛の寒怕せらるゝのみなり。

 初祖、あはれみて昧旦にとふ、汝久立雪中、當求何事。かくのごとくきくに、二祖、悲涙ますますおとしていはく、惟願和尚、慈悲開甘露門、廣度群品。かくのごとくまうすに、初祖曰、諸佛無上妙道、曠劫精勤、難行能行、非忍而忍。豈以小徳小智、輕心慢心、欲冀眞乘、徒勞勤苦。

 このとき、二祖きゝていよいよ誨勵す。ひそかに利刀をとりて、みづから左臂を斷て、置于師前するに、初祖ちなみに二祖これ法器なりとしりぬ。乃曰、諸佛最初求道、爲法忘形。汝今斷臂吾前、求亦可在。これより堂奥にいる。執侍八年、勤勞千萬、まことにこれ人天の大依怙なるなり、人天の大導師なるなり。かくのごときの勤勞は、西天にもきかず、東地はじめてあり。

 破顔は古をきく、得髓は祖に學す。しづかに觀想すらくは、初祖いく千萬の西來ありとも、二祖もし行持せずは、今日の飽學措大あるべからず。今日われら正法を見聞するたぐひとなれり、祖の恩かならず報謝すべし。その報謝は、餘外の法はあたるべからず、身命も不足なるべし、國城もおもきにあらず。國城は佗人にもうばはる、親子にもゆづる。身命は無常にもまかす、主君にもまかす、邪道にもまかす。しかあれば、これを擧して報謝に擬するに不道なるべし。たゞまさに日々の行持、その報謝の正道なるべし。

 いはゆるの道理は、日々の生命を等閑にせず、わたくしにつひやさざらんと行持するなり。そのゆゑはいかん。この生命は、前來の行持の餘慶なり、行持の大恩なり。いそぎ報謝すべし。かなしむべし、はづべし、佛祖行持の功徳分より生成せる形骸を、いたづらなる妻子のつぶねとなし、妻子のもちあそびにまかせて、破落ををしまざらんことは。邪狂にして身命を名利の羅刹にまかす。名利は一頭の大賊なり。名利をおもくせば名利をあはれむべし。名利をあはれむといふは、佛祖となりぬべき身命を、名利にまかせてやぶらしめざるなり。妻子親族あはれまんことも、またかくのごとくすべし。名利は夢幻空花なりと學することなかれ、衆生のごとく學すべし。名利をあはれまず、罪報をつもらしむることなかれ。參學の正眼、あまねく諸法をみんこと、かくのごとくなるべし。

 世人のなさけある、金銀珍玩の蒙恵なほ報謝す、好語好聲のよしみ、こゝろあるはみな報謝のなさけをはげむ。如來無上の正法を見聞する大恩、たれの人面かわするゝときあらん。これをわすれざらん、一生の珍寶なり。この行持を不退轉ならん形骸髑髏は、生時死時、おなじく七寶塔におさめ、一切人天皆應供養の功徳なり。かくのごとく大恩ありとしりなば、かならず草露の命をいたづらに零落せしめず、如山の徳をねんごろに報ずべし。これすなはち行持なり。

 この行持の功は、祖佛として行持するわれありしなり。おほよそ初祖二祖、かつて精藍を草創せず、薙草の繁務なし。および三祖四祖もまたかくのごとし。五祖六祖の寺院を自草せず、青原南嶽もまたかくのごとし。

詮慧

〇「名利は夢幻空花なりと学する事なかれ、衆生の如く学すべし」。

〇三世無福と云うは、施兵具、施毒薬、施女人(依媱色与之事也)。「名利は夢幻空花也と学する事なかれ」と云うは、名利は実なき物ぞ、夢ぞ、幻ぞと思えと云うにはあらず。名利は名利なり。ただしやがて名利の上にてこそ、名利を解脱すれ。いたづらに夢幻空花と思えとにはなし。

経豪

  • 如文。

 

石頭大師は草庵を大石にむすびて石上に坐禪す。昼夜にねぶらず、坐せざるときなし。衆務を虧闕せずといへども、十二時の坐禪かならずつとめきたれり。いま青原の一派の天下に流通すること、人天を利潤せしむることは、石頭大力の行持堅固のしかあらしむるなり。いまの雲門法眼のあきらむるところある、みな石頭大師の法孫なり。

経豪

  • 如文。

 

第三十一祖大醫禪師は、十四歳のそのかみ、三祖大師をみしより、服勞九載なり。すでに佛祖の祖風を嗣續するより、攝心無寐にして脅不至席なること僅六十年なり。化、怨親にかうぶらしめ、徳、人天にあまねし。眞丹の第四祖なり。

 貞觀癸卯歳、太宗嚮師道味、欲瞻風彩、詔赴京。師上表遜謝、前後三返、竟以疾辭。第四度、命使曰、如果不赴、即取首來。使至山諭旨。師乃引頸刃、神色儼然。使異之、廻以状聞。帝彌加歎慕。就賜珍繒、以其志。

 しかあればすなはち、四祖禪師は身命を身命とせず、王臣に親近せざらんと行持せる行持、これ千載の一遇なり。太宗は有義の國主なり、相見のものうかるべきにあらざれども、かくのごとく先達の行持はありけると參學すベきなり。人主としては、身命ををしまず引頸就刃して身命ををしまざる人物をも、なほ歎慕するなり。これいたづらなるにあらず、光陰ををしみ、行持を專一にするなり。上表三返、奇代の例なり。いま澆季には、もとめて帝者にまみえんとねがふあり。

 高宗永徽辛亥歳、閏九月四日、忽垂誡門人曰、一切諸法悉皆解脱。汝等各自護念、流化未來。 言訖安坐而逝。壽七十有二、塔于本山。明年四月八日、塔戸無故自開、儀相如生。爾後、門人不敢復閉。

 しるべし、一切諸法悉皆解脱なり、諸法の空なるにあらず、諸法の諸法ならざるにあらず、悉皆解脱なる諸法なり。いま四祖には、未入塔時の行持あり、既在塔時の行持あるなり。生者かならず滅ありと見聞するは小見なり、滅者は無思覺と知見せるは小聞なり。學道には、これらの小聞小見をならふことなかれ。生者の滅なきもあるべし、滅者の有思覺なるもあるべきなり。

今師の入滅の後(七年九月四日逝、次年四月八日、塔戸開、儀相如生、云々)、次年、塔戸開、儀相如生なるゆえに、「生者必ず滅あり、滅者は無思覚と知見せるは小聞なり。生者の滅なきもあり、滅者の有思覚もある」、などと証拠を引いて云うにはあらず。此の証は只一度人布代(の)例也。人別不可然。仏法には生也全機現、死也全機現と談ずるだけにて心得也。「滅」と云うは煩悩也。死と心得べからず。「滅」とは仏の涅槃にこそ心得合うべけれ。無思覚・有思覚の有無は、仏性の有無なるべし。

経豪

  • 如文。「四祖是也。三度勅請を辞す、第四度命使曰、如果不赴、即取首來。使至山諭旨。師乃引頸刃、神色𠑊然。使異之、廻以状聞。帝彌加歎慕。就賜珍繒、以其志」云々。
  • 是は生死の見の打ち任せたる心得様を嫌う也。全生なる時、全死なる時は、必ずしも生者に必ず滅ありと不可習也。生者の滅なき則ち是れ全生也。滅者の有思覚なるありと、全死を有思覚と習うゆえに。

 

福州玄砂宗一大師、法名師備、福州閩縣人也。姓謝氏。幼年より垂釣をこのむ。小艇を南臺江にうかめて、もろもろの漁者になれきたる。唐の咸通のはじめ、年甫三十なり。たちまちに出塵をねがふ。すなはち釣舟をすてて、芙蓉山靈訓禪師に投じて落髪す。豫章開元寺道玄律師に具足戒をうく。

 布衲芒履、食纔接気、常終日宴坐。衆皆異之。與雪峰義存、本法門昆仲、而親近若師資。雪峰以其苦行、呼爲頭陀。一日雪峰問曰、阿那箇是備頭陀。師對曰、終不敢誑於人。異日雪峰召曰、備頭陀何不徧參去。 師曰、達磨不來東土、二祖不往西天。雪峰然之。

 つひに象骨山にのぼるにおよんで、すなはち師と同力締構するに、玄徒臻萃せり。師の入室咨決するに、晨昏にかはることなし。諸方の玄學のなかに所未決あるは、かならず師にしたがひて請益するに、雪峰和尚いはく、備頭陀にとふべし。師まさに仁にあたりて不譲にしてこれをつとむ。抜群の行持にあらずよりは、恁麼の行履あるべからず。終日宴坐の行持、まれなる行持なり。いたづらに聲色に馳騁することはおほしといへども、終日の宴坐はつとむる人まれなるなり。いま晩學としては、のこりの光陰のすくなきことをおそりて、終日宴坐、これをつとむべきなり。

経豪

  • 如文。法名師備。「雪峰与玄沙問答、委見于草子、師答、終不敢誑於人」云々。
  • 是は只いたづらに、誑(たぶら)かすべきを、不誰にあらず、莫悪口などと、『仏性』の草子に有りし程の道理也。人を置いて是を不誰と云うには非ざる也。又「雪峰召曰、備頭陀何不徧参去。 師曰、達磨不来東土、二祖不往西天」云々、達磨は一定東土へ来給うに、今の答あたらず聞きたり。二祖の不往西天は実(は)有其謂と覚ゆ。然而祖師の皮肉、皆此道理也。始非可驚。

 

長慶の慧稜和尚は、雪峰下の尊宿なり。雪峰と玄沙とに往來して、參學すること僅二十九年なり。その年月に蒲團二十枚を坐破す。いまの人の坐禪を愛するあるは、長慶をあげて慕古の勝躅とす。したふはおほし、およぶすくなし。しかあるに、三十年の功夫むなしからず、あるとき涼簾を巻起せしちなみに、忽然として大悟す。

 三十來年かつて郷土にかへらず、親族にむかはず、上下肩と談笑せず、專一に功夫す。師の行持は三十年なり。疑滯を疑滯とせること三十年、さしおかざる利機といふべし、大根といふべし。勵志の堅固なる、傳聞するは或從經巻なり。ねがふべきをねがひ、はづべきをはぢとせん、長慶に相逢すべきなり。實を論ずれば、たゞ道心なく、操行つたなきによりて、いたづらに名利には繋縛せらるゝなり。

詮慧

〇「疑滯を疑滯とせること三十年、さしおかず」と云うは、疑滯の間、三十年前、うちおかざる行持也。

経豪

  • 如文。雪峰下。参学二十九年之間に、蒲団二十枚を坐破するは此の和尚也。坐禅人尤可慕古、勝躅なり。「涼簾を巻起せしちなみに、忽然として大悟す。三十年来かつて郷土に帰らず、親族に向かわず、上下肩と談笑せず、專一に功夫す」。

 

大潙山大圓禪師は、百丈の授記より、直に潙山の峭絶にゆきて、鳥獣爲伍して結草修練す。風雪を辭勞することなし。橡栗充食せり。堂宇なし、常住なし。しかあれども、行持の見成すること四十來年なり。のちには海内の名藍として龍象蹴踏するものなり。

 梵刹の現成を願ぜんにも、人情をめぐらすことなかれ、佛法の行持を堅固にすべきなり。修練ありて堂閣なきは古佛の道場なり、露地樹下の風、とほくきこゆ。この處在、ながく結界となる。まさに一人の行持あれば、諸佛の道場につたはるなり。末世の愚人、いたづらに堂閣の結構につかるゝことなかれ。佛祖いまだ堂閣をねがはず。自己の眼目いまだあきらめず、いたづらに殿堂精藍を結構する、またく諸佛に佛宇を供養せんとにはあらず、おのれが名利の窟宅とせんがためなり。潙山のそのかみの行持、しづかにおもひやるべきなり。おもひやるといふは、わがいま潙山にすめらんがごとくおもふべし。深夜のあめの聲、こけをうがつのみならんや、巖石を穿卻するちからもあるべし。冬天のゆきの夜は、禽獣もまれなるべし、いはんや人煙のわれをしるあらんや。命をかろくし法をおもくする行持にあらずは、しかあるべからざる活計なり。薙草すみやかならず、土木いとなまず。たゞ行持修練し、辦道功夫あるのみなり。あはれむべし、正法傳持の嫡祖、いくばくか山中の嶮岨にわづらふ。潙山をつたへきくには、池あり、水あり、こほりかさなり、きりかさなるらん。人物の堪忍すべき幽棲にあらざれども、佛道と玄奥と、化成することあらたなり。かくのごとく行持しきたれりし道得を見聞す、身をやすくしてきくべきにあらざれども、行持の勤勞すべき報謝をしらざれば、たやすくきくといふとも、こゝろあらん晩學、いかでかそのかみの潙山を、目前のいまのごとくおもひやりてあはれまざらん。

 この潙山の行持の道力化功によりて、風輪うごかず、世界やぶれず。天衆の宮殿おだいかなり、人間の國土も保持せるなり。潙山の遠孫にあらざれども、潙山は祖宗なるべし。のちに仰山きたり侍奉す。仰山、もとは百丈先師のところにして、問十答百の鷲子なりといへども、潙山に參侍して、さらに看牛三年の功夫となる。近來は斷絶し、見聞することなき行持なり。三年の看牛、よく道得を人にもとめざらしむ。

経豪

  • 如文。

 

芙蓉山の楷祖、もはら行持見成の本源なり。國主より定照禪師号ならびに紫袍をたまふに、祖うけず、修表具辭す。國主とがめあれども、師つひに不受なり。米湯の法味つたはれり。芙蓉山に庵せしに、道俗の川湊するもの、僅數百人なり。日食粥一杯なるゆゑに、おほく引去す。師ちかうて赴齋せず。あるとき衆にしめすにいはく、

 夫出家者、爲厭塵勞。求脱生死、休心息念、斷絶攀縁。故名出家。豈可以等閑利養、埋没平生。直須兩頭撒開、中間放下、遇聲遇色、如石上栽華。見利見名、似眼中著屑。況從無始以來、不是不曾經歴、又不是不知次第、不過飜頭作尾。止於如此、何須苦々貪戀。如今不歇、更待何時。所以先聖、教人只要盡卻。今時能盡今時、更有何事。若得心中無事、佛祖猶是冤家。一切世事、自然冷淡、方始那邊相應。

 儞不見、隱山至死、不肯見人。趙州至死、不肯告人。匾擔拾橡栗爲食、大梅以荷葉爲衣、紙衣道者只披紙、玄太上座只著布。石霜置枯木堂、與衆坐臥、只要死了儞心。投子使人辦米、同煮共餐、要得省取儞事。且從上諸聖、有如此榜様。若無長處、如何甘得。諸仁者、若也於斯體究、的不虧人。若也不肯承當、向後深恐費力。

 山僧行業無取、忝主山門。豈可坐費常住、頓忘先聖附囑。今者輙欲略斅古人爲住持體例。與諸人議定、更不下山、不赴齋、不發化主。唯將本院莊課一歳所得、均作三百六十分、日取一分用之、更不隨人添減。可以備飯則作飯、作飯不足則作粥。作粥不足、則作米湯。新到相見、茶湯而已、更不煎點。唯置一茶堂、自去取用。務要省縁、專一辦道。

 又況活計具足、風景不疎。華解笑、鳥解啼。木馬長鳴、石牛善走。天外之青山寡色、耳畔之鳴泉無聲。嶺上猿啼、露濕中霄之月。林間鶴唳、風回清曉之松。春風起時枯木龍吟、秋葉凋而寒林花散。玉堦鋪苔蘚之紋、人面帶煙霞之色。音塵寂爾、消息宛然。一味蕭條、無可趣向。

 山僧今日、向諸人面前説家門。已是不著便、豈可更去陞堂入室、拈槌豎拂、東喝西棒、張眉努目、如癇病發相似。不唯屈沈上座、況亦辜負先聖。

 儞不見、達磨西來、到少室山下、面壁九年。二祖至於立雪斷臂、可謂、受艱辛。然而達磨不曾措了、二祖不曾問著一句。還喚達磨作不爲人得麼、喚二祖做不求師得麼。山僧毎至説著古聖做處、便覺無地容身。慚愧後人軟弱。又況百味珍羞、遞相供養。道我四事具足、方可發心。只恐做手脚不迭、便是隔生隔世去也。時光似箭、深爲可惜。雖然如是、更在佗人從長相度。山僧也強教儞不得。

諸仁者、還見古人偈麼。

  山田脱粟飯、野菜淡黄齏

  喫則從君喫、不喫任東西。

伏惟同道、各自努力。珍重。

 これすなはち祖宗單傳の骨髓なり。

 高祖の行持おほしといへども、しばらくこの一枚を擧するなり。いまわれらが晩學なる、芙蓉高祖の芙蓉山に修練せし行持、したひ參學すべし。それすなはち祇薗の正儀なり。

詮慧

〇「遇声遇色、如石上栽華」と云うは、声色に不被礙ここちなり。

〇「若得心中無事、仏祖猶是冤家」、「無事」は仏法也。仍得仏法ぬれば、何事をか行ぜん。ゆえに「冤家のごとし」と云う也。

〇「華解笑、鳥解啼。木馬長鳴、石牛善走。天外之青山寡色」などと云うは、是は皆、悟道の上の詞也。花の笑み鳥の啼くは世の常也。木馬は如何が長鳴し、石牛は争か知るべきなどとは心得まじ。花の笑み鳥の鳴くも、木馬等の鳴くも同じく心得べし。すでに天外の青山と云う陰陽の外なるべし。

〇「道我四事具足、方可発心」と云うは、道は衣食住などと具足して、行わると云うは、手脚はやからずと探るなり。ただ身命を惜しまず、衣食住を思うべからず。

経豪

  • 如文。寺衆詞、委見于文。

 

洪州江西開元寺大寂禪師、諱道一、漢州十方縣人なり。南嶽に參侍すること十餘載なり。あるとき、郷里にかへらんとして半路にいたる。半路よりかへりて燒香禮拝するに、南嶽ちなみに偈をつくりて馬祖にたまふにいはく、

  勸君莫歸郷、歸郷道不行。

  竝舎老婆子、説汝舊時名。

 この法語をたまふに、馬祖、うやまひたまはりて、ちかひていはく、われ生々にも漢州にむかはざらんと誓願して、漢州にむかひて一歩をあゆまず。江西に一住して十方を往來せしむ。わづかに即心是佛を道得するほかに、さらに一語の爲人なし。しかありといへども南嶽の嫡嗣なり、人天の命脈なり。

 いかなるかこれ莫歸郷。莫歸郷とはいかにあるべきぞ。東西南北の歸去來、たゞこれ自己の倒起なり。まことに歸郷道不行なり。道不行なる歸郷なりとや行持する、歸郷にあらざるとや行持する、歸郷なにによりてか道不行なる。不行にさへらるとやせん、自己にさへらるとやせん。

 竝舎老婆子は説汝舊時名なりとはいはざるなり。竝舎老婆子、説汝舊時名なりといふ道得なり。南嶽いかにしてかこの道得ある、江西いかにしてかこの法語をうる。その道理は、われ向南行するときは大地おなじく向南行するなり、餘方もまたしかあるべし。須彌大海を量としてしかあらずと疑殆し、日月星辰に格量して猶滯するは少見なり。

詮慧

〇「勧君莫帰郷、帰郷道不行。竝舎老婆子、説汝旧時名」、たとえば勧君莫帰三界と可心得。「竝舎老婆子、説汝旧時名」は、三界を三界と説くと可心得。「莫帰郷」の「莫」は、諸悪莫作の莫、莫妄想の莫と心得べし。「帰郷」の詞は、海を説くに不宿死屍と云う程の詞と可心得。「説汝旧時名」とは、今の仏道に入る心地あるべし。「帰郷は道不行」とは、道不行の所、故郷なるべし。「東西南北の帰去来、自己の倒起なり」、然而すでに「向南行するときは大地同じく向南行する」と云う、此の心地なるべし。道不行莫帰郷なるなり。「道不行」は大海不宿死屍の心(こころ)なるべし。

〇「漢州に向かいて一歩を歩まず」と云う、漢州に向かうに何の科かあるべき。漢州の全体は馬祖の身とも云うべし。

〇「江西に一住して十方を往来せしむ」と云う、漢州に不向程にては、十方往来如何、但道場を不起して威儀を法界に遍すと云う事有り。「一語」とは即心是仏也。

経豪

  • 如文。「勧君莫帰郷、帰郷道不行。竝舎老婆子、説汝旧時名」云々、馬祖は洪州十方県小人也。欲帰古郷之時、半路より帰りて焼香礼拝する時、南嶽馬祖に被示法語也。是は無風情、馬祖の漢州へ欲帰を被止詞と聞こえたり。随て今(の)御釈にも、「馬祖、敬い給りて、誓いて日く、我、生々にも漢州に向かわざらんと誓願して、漢州に向かいて一歩を歩まず」とあれば、彼是前後の詞、南嶽に被制して、永く漢州に向かわんと発願すと分明に見えたり。「竝舎老婆子」とは、昔の乳母風情の者か。「説汝旧時名」とは、幼稚の昔の童名ごときの事歟。古郷に帰りなば、昔の稚の者、体者に教訓せられて、幼少の事共などと云わば、道の障りにもなりぬべし、留まれど被示と心得られたり。此の一筋も実なかるべきにあらず。但今法語一筋に如此計り心得ては、祖師の問答頗る可失本意。南嶽江西師資の問答定んで有子細歟。随て奥に御釈又委細なり。此の「莫帰郷」の詞、此の人已に尽十方界真実人体の人也。仏祖の身心と云うは尽十方界是也。此の道理が「莫帰郷」とは云わるる也。馬祖の身心不可有辺際ゆえに、仏性を説く時、莫妄想と云いし程の「莫帰郷」也。「道不行」の道理、又同じかるべし。「道」の道理、「不行」の理也。「竝舎老婆子」、是は仏と云い、祖と云う程の詞なり。「説汝旧時名」とは、無始本有とも、本覚とも云う程の事也。御釈にも「莫帰郷とはいかにあるべきぞ。東西南北の起去来、只是自己の倒起也」、実(まこと)に帰郷道不行也。道不行なる帰郷なりとや行持する、帰郷にあらざるやと行持する、帰郷なにによりてか、道不行なる。不行にさへらるとやせん、自己にさへらるとやせん」云々、此の「東西南北の帰去来は、自己の倒起也」とは、馬祖の上の帰去来也。然者只尋常に人の帰去来すとは不可心得。全帰全去全来と可心得歟。又「帰郷道不行、道不行帰郷」とは、帰郷与道不行の一体なる所を表さる詞也。「竝舎老婆子は、説汝旧時名也とは云わざるなり。竝舎老婆子、説汝旧時名也と云う道得也」とは、難心得ようなれども、只生死去来あらざるゆえに、生死去来也と云いし程の詞なり。

「南嶽いかにしてか、この道得ある、江西いかにしてか、この法語をうる」とは、師資共讃嘆の詞なり。「その道理は、われ向南行するときは、大地おなじく向南行するなり、余方も又如此。須弥大海を量として、しかあらずと疑殆し、日月星辰に格量して、猶滯するは少見也」云々、是は須弥は北、大海は南、乃至日月出は東、日月入は西ぞなどと、如此方角分量を定めて、思い付きたる所を「少見也」と被下也。実にも是は凡夫見也、更に仏法に等しむべからず。仍被嫌也。

 

第三十二祖大滿禪師は黄梅人なり。俗姓は周氏なり。母の姓を稱なり。師は無父而生なり。たとへば、李老君のごとし。七歳傳法よりのち、七十有四にいたるまで、佛祖正法眼藏、よくこれを住持し、ひそかに衣法を慧能行者に附屬する、不群の行持なり。衣法を神秀にしらせず、慧能に附屬するゆゑに正法の壽命不斷なるなり。

経豪

  • 如文。「李老君」とは、老子(の)事也。老子は胎内に八十年ありて生きたる人也。子と云わんとすれば其の姿(は)八十老翁也。老と云わんとすれば、又只今胎内より生ず、仍老子とは名づけたるなり。

 

先師天童和尚は越上人事なり。十九歳にして教學をすてて參學するに、七旬におよんでなほ不退なり。嘉定の皇帝より紫衣師号をたまはるといへどもつひにうけず、修表辭謝す。十方の雲衲ともに崇重す、遠近の有識ともに隨喜するなり。皇帝大悦して御茶をたまふ。しれるものは奇代の事と讚嘆す、まことにこれ眞實の行持なり。そのゆゑは、愛名は犯禁よりもあし。犯禁は一時の非なり、愛名は一生の累なり。おろかにしてすてざることなかれ、くらくしてうくることなかれ。うけざるは行持なり、すつるは行持なり。六代の祖師、おのおの師号あるは、みな滅後の勅謚なり、在世の愛名にあらず。しかあれば、すみやかに生死の愛名をすてて、佛祖の行持をねがふべし。貪愛して禽獣にひとしきことなかれ。おもからざる吾我をむさぼり愛するは禽獣もそのおもひあり、畜生もそのこゝろあり。名利をすつることは人天もまれなりとするところ、佛祖いまだすてざるはなし。

 あるがいはく、衆生利益のために貪名愛利すといふ、おほきなる邪説なり。附佛法の外道なり、謗正法の魔儻なり。なんぢがいふがごとくならば、不貪名利の佛祖は利生なきか。わらふべし、わらふべし。又、不貪の利生あり、いかん。又そこばくの利生あることを學せず、利生にあらざるを利生と稱ずる、魔類なるべし。なんぢに利益せられん衆生は、墮獄の種類なるべし。一生のくらきことをかなしむべし、愚蒙を利生に稱ずることなかれ。しかあれば、師号を恩賜すとも上表辭謝する、古來の勝躅なり、晩學の參究なるべし。まのあたり先師をみる、これ人にあふなり。

 先師は十九歳より離郷尋師、辦道功夫すること、六十五載にいたりてなほ不退不轉なり。帝者に親近せず、帝者にみえず。丞相と親厚ならず、官員と親厚ならず。紫衣師号を表辭するのみにあらず、一生まだらなる袈裟を搭せず、よのつねに上堂入室、みなくろき袈裟裰子をもちゐる。

 衲子を教訓するにいはく、參禪學道は第一有道心、これ學道のはじめなり。いま二百來年、祖師道すたれたり、かなしむべし。いはんや一句を道得せる皮袋すくなし。某甲そのかみ徑山に掛錫するに、光佛照そのときの粥飯頭なりき。上堂していはく、佛法禪道かならずしも佗人の言句をもとむべからず、たゞ各自理會。かくのごとくいひて、僧堂裏都不管なりき。雲來兄弟也都不管なり。祗管與官客相見追尋するのみなり。佛照、ことに佛法の機關をしらず、ひとへに貪名愛利のみなり。佛法もし各自理會ならば、いかでか尋師訪道の老古錐あらん。眞箇是光佛照、不曾參禪也。いま諸方長老無道心なる、たゞ光佛照箇兒子也。佛法那得佗手裏有可惜、可惜。

 かくのごとくいふに、佛照兒孫おほくきくものあれど、うらみず。

 又いはく、參禪者身心脱落也、不用燒香禮拝念佛修懺看經祗管坐始得。

 まことに、いま大宋國の諸方に、參禪に名字をかけ、祖宗の遠孫と稱する皮袋、たゞ一、二百のみにあらず、稻麻竹葦なりとも、打坐を打坐に勸誘するともがら、たえて風聞せざるなり。たゞ四海五湖のあひだ、先師天童のみなり。諸方もおなじく天童をほむ、天童諸方をほめず。又すべて天童をしらざる大刹の主もあり。これは中華にむまれたりといへども、禽獣の流類ならん。參ずべきを參ぜず、いたづらに光陰を蹉過するがゆゑに。あはれむべし、天童をしらざるやからは、胡説亂道をかまびすしくするを佛祖の家風と錯認せり。

 先師よのつねに普説す、われ十九載よりこのかた、あまねく諸方の叢林をふるに、爲人師なし。十九歳よりこのかた、一日一夜も不礙蒲團の日夜あらず。某甲未住院よりこのかた、郷人とものがたりせず。光陰をしきによりてなり。掛錫の處在にあり、庵裏寮舎すべていりてみることなし。いはんや游山翫水に功夫をつひやさんや。雲堂公界の坐禪のほか、あるいは閣上、あるいは屏處をもとめて、獨子ゆきて、穏便のところに坐禪す。つねに袖裡に蒲團をたづさへて、あるいは岩下にも坐禪す。つねにおもひき、金剛座を坐破せんと。これ、もとむる所期なり。臀肉の爛壞するときどきもありき。このとき、いよいよ坐禪をこのむ。某甲今年六十五載、老骨頭懶、不會坐禪なれども、十方兄弟をあはれむによりて、住持山門、曉諭方來、爲衆傳道なり。諸方長老、那裡有什麼佛法なるゆゑに。かくのごとく上堂し、かくのごとく普説するなり。又、諸方の雲水の人事の産をうけず。

 趙提擧は嘉定聖主の胤孫なり。知明州軍州事、管内勸農使なり。先師を請じて州府につきて陞座せしむるに、銀子一萬鋌を布施す。

 先師、陞座了に、提擧にむかうて謝していはく、某甲依例出山陞座、開演正法眼藏涅槃妙心、謹以薦福先公冥府。但是銀子、不敢拝領。僧家不要這般物子。千萬賜恩、依舊拝還。

提擧いはく、和尚、下官忝以皇帝陛下親族、到處且貴、寶貝見多。今以先父冥福之日、欲資冥府。和尚如何不納。今日多幸、大慈大悲、卒留少襯。

先師曰、提擧台命且嚴、不敢遜謝。只有道理、某甲陞座説法、提擧聰聽得否。

提擧曰、下官只聽歡喜。

先師いはく、提擧聰明、照鑑山語、不勝皇恐。更望台臨、鈞候萬福。山僧陞座時、説得甚麼法。試道看。若道得、拝領銀子一萬鋌、若道不得、便府使収銀子。

提擧起向先師云、即辰伏惟、和尚法候、動止萬福。

先師いはく、這箇是擧來底、那箇是聽得底。提擧擬議。

先師いはく、先公冥福圓成、襯施且待先公台判。

 かくのごとくいひて、すなはち請暇するに、提擧いはく、未恨不領、且喜見師。

 かくのごとくいひて先師をおくる。浙東浙西の道俗、おほく讚歎す。このこと、平侍者が日録にあり。

 平侍者いはく、這老和尚、不可得人。那裡容易得見。

 たれか諸方にうけざる人あらん、一萬鋌の銀子。ふるき人のいはく、金銀珠玉、これをみんこと糞土のごとくみるべし。たとひ金銀のごとくみるとも、不受ならんは衲子の風なり。先師にこの事あり、餘人にこのことなし。

 先師つねにいはく、三百年よりこのかた、わがごとくなる知識いまだいでず。諸人審細に辦道功夫すべし。

 先師の會に、西蜀の綿州人にて道昇とてありしは、道家流なり。徒儻五人、ともにちかうていはく、われら一生に佛祖の大道を辦取すべし。さらに郷土にかへるべからず。

 先師ことに隨喜して、經行道業ともに衆僧と一如ならしむ。その排列のときは比丘尼のしもに排立す、奇代の勝躅なり。

 又、福州の僧、その名善如、ちかひていはく、善如平生さらに一歩をみなみにむかひてうつすべからず。もはら佛祖の大道を參ずべし。

 先師の會に、かくのごとくのたぐひあまたあり。まのあたりみしところなり。餘師のところになしといへども、大宋國の僧宗の行持なり。われらにこの心操なし、かなしむべし。佛法にあふときなほしかあり、佛法にあはざらんときの身心、はぢてもあまりあり。

 しづかにおもふべし、一生いくばくにあらず、佛祖の語句、たとひ三々兩々なりとも、道得せんは佛祖を道得せるならん。ゆゑはいかん。佛祖は身心如一なるがゆゑに、一句兩句、みな佛祖のあたゝかなる身心なり。かの身心きたりてわが身心を道得す。正當道取時、これ道得きたりてわが身心を道取するなり。此生道取累生身なるべし。かるがゆゑに、ほとけとなり祖となるに、佛をこえ祖をこゆるなり。三々兩々の行持の句、それかくのごとし。いたづらなる聲色の名利に馳騁することなかれ。馳騁せざれば、佛祖單傳の行持なるべし。すゝむらくは大隱小隱、一箇半箇なりとも、萬事萬縁をなげすてて、行持を佛祖に行持すべし。

詮慧

〇「仏法那得他手裏有」と云うは、光仏照に仏法あること得んやと云うなり。

此の「坐破」と云う詞、只なべて蒲団を敷き損む如きは破るべからず。たとえば解脱の心地歟。仏の正覚は金剛坐の上にて覚する也。その心地歟。

『行持上下』帖之間、所被載之祖師、自仏至天童和尚、三十四祖也。但弘覚大師両所入之。一所は寰中の説得一丈、不如行取一尺の詞の篇に入る。洞山悟本大師同入之。不被入行持篇。然者三十二祖也。

経豪

  • 如文。「参禅者身心脱落也、不用焼香・礼拝・念仏・修懺・看経祗管坐始得」云々、是は用坐禅、自余の修懺看経等をば不可用と嫌いたるように聞こゆ。実にも坐禅の一筋を談ぜん時は、蹔く余の修善はなしとも、云われぬべき道理もあるべけれども、今の心地は余行を嫌いて、不可勤と嫌いたるにはあらず。「不用」の「用」の字(は)、捨つる心地にあらず。其の故は『看経』草子に不用の看経あり、不用焼香礼拝ありと云々、然者「用」の字(は)非可嫌。焼香・礼拝・念仏・修懺、悉く看経の道理也と見えたり。尤了見見合者也。

趙提挙請陞座、一万鋌銀子不受、而被返置。次第具于文。「此の生道取するとき、此生にて悉く道取し尽くして、不足なき心地也。

行持(終)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。

 

2022年5月擱筆(バンコック近郊にて)