正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第十六 行持

正法眼蔵 第十六 行持

    序言

『行持』巻の字数は27700余字にもなる長大な巻であり、義雲和尚編集とされる「六十巻本」では十六・十七と上下二巻に編纂されるものである。その義雲による『永平正法眼蔵品目頌』では「行持」著語を「超仏越祖」(「大正蔵」八二・四七六下)と示し、仏祖をも超越すべき事実が「行持」の当体であると説かれる次第です。

因みに普段の日常では「行事」(恒例として日を定め取り行う催し・デジタル大辞泉)を眼にするが、「行持」(仏道の修行を常に怠らずに続けること・デジタル大辞泉)の呼称は仏教特有であるようである。「七十五巻」眼蔵に於いても「行持」なる語は当巻のみに限定され、200回以上の頻出援用されます。

なお「行持」上に相当する頁には釈迦仏から雲居道膺まで十八人が取り挙げられますが、雲居は重複しますから実質十七人で構成され、「行持」下に該当する頁では南嶽から如浄まで十七人がピックアップされ、その中では宣宗のみが「上下」にわたり仏祖以外で録され、馬祖は「上」に続いて録されますから、当巻は釈尊から天童如浄までの三十三人を拈ぜられるものです。(石井修道著『正法眼蔵行持に学ぶ』十八頁参照・以下「行持に学ぶ」と略称)

 

仏祖の大道、かならず無上の行持あり。道環して断絶せず、発心修行菩提涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。このゆゑに、みづからの強為にあらず、佗の強為にあらず、不曾染汚の行持なり。この行持の功徳、われを保任し、佗を保任す。

道元主著である「眼蔵」の文体構成は、その巻の主旨を冒頭に提示する事が多く、「当巻」に於いても仏祖・行持・道環の語はキーワードと位置づけられるものです。

「仏祖の大道、必ず無上の行持あり。道環して断絶せず、発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり」

「仏祖の大道」とは真実なる事物・事象を仏祖と言い替え、その真実態では必ず無上(限)なる行持(修行護持)があるのである。その具体言句は「道環して断絶しない」真実相であり、その道環では「発心・修行・菩提・涅槃」が間断なく向上する常態を「行持道環」すると謂い慣わすのである。

「道環」に関しては、『宏智広録』には十四箇所で援用されますが、もとは「荘子」の「道は元々境界ではなく、限定できない」(斉物論篇)からの言葉を、僧肇(374―414)が『無明論』に於いて「道環」の語を使用されている(沢木興道『正法眼蔵講話・行持』四八頁・以下「沢木本」とす)との事である(筆者未確認)。「七十五巻本」では『行仏威儀』巻にて一か所確認できる程度で、『聞書』では「道環して断絶せずと云うは、教行証(と)一なる道理を道環と云い、発心修行(は)皆道環也」(「註解全書」四・四五四)と示されます。

「この故に、みづからの強為にあらず、他の強為にあらず、不曾染汚の行持なり。この行持の功徳、われを保任し、他を保任す」

仏祖の行持、つまりは眼前現成する実相態は、自他の強制ではなく未だ染汚された事がない尽十方界の真実を「行持」と言うものであり、その功徳(自然の恵み)が自己他己を存在たらしめる現象を「この行持の功徳、われを保任し他を保任す」と表現されます。

「行持に学ぶ」では冒頭部にて提示される「道環」について多角的に詳述されます。

 

その宗旨は、わが行持、すなはち十萬の匝地漫天、みなその功徳をかうむる。佗もしらず、われもしらずといへども、しかあるなり。このゆゑに、諸佛諸祖の行持によりてわれらが行持見成し、われらが大道通達するなり。われらが行持によりて諸佛の行持見成し、諸佛の大道通達するなり。われらが行持によりて、この道環の功徳あり。これによりて、佛々祖々、佛住し、佛非し、佛心し、佛四大五蘊あり。行持これ世人の愛處にあらざれども、諸人の實歸なるべし。過去現在未來の諸佛の行持によりて、過去現在未來の諸佛は現成するなり。その行持の功徳、ときにかくれず、かるがゆゑに發心修行す。その功徳、ときにあらはれず、かるがゆゑに見聞覺知せず。あらはれざれども、かくれずと參學すべし。隱顯存没に染汚せられざるがゆゑに、われを見成する行持、いまの當隱に、これいかなる縁起の諸法ありて行持すると不會なるは、行持の會取、さらに新條の特地にあらざるによりてなり。縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑにと、功夫參學を審細にすべし。かの行持を見成する行持は、すなはちこれわれらがいまの行持なり。行持のいまは自己の本有元住にあらず、行持のいまは自己に去來出入するにあらず。いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず、行持現成するをいまといふ。しかあればすなはち、一日の行持、これ諸佛の種子なり、諸佛の行持なり。この行持に諸佛見成せられ、行持せらるゝを、行持せざるは、諸佛をいとひ、諸佛を供養せず、行持をいとひ、諸佛と同生同死せず、同學同參せざるなり。いまの花開葉落、これ行持の現成なり。磨鏡破鏡、それ行持にあらざるなし。このゆゑに、行持をさしおかんと擬するは、行持をのがれんとする邪心をかくさんがために、行持をさしおくも行持なるによりて、行持におもむかんとするは、なほこれ行持をこゝろざすににたれども、眞父の家郷に寶財をなげすてて、さらに佗國跰の窮子となる。跰のときの風水、たとひ身命を喪失せしめずといふとも、眞父の寶財なげすつべきにあらず。眞父の法財なほ失誤するなり。このゆゑに、行持はしばらくも懈惓なき法なり

「その宗旨は、わが行持、即ち十万の匝地漫天、皆その功徳を蒙る。他も知らず、我も知らずと云えども、しかあるなり。この故に、諸仏諸祖の行持によりて我等が行持見成し、我等が大道通達するなり。我等が行持によりて諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり」

その大切な意味合い(宗旨)は、行持の真実は即ち十万の匝地漫天とは、尽十方真実界を分解して「十万」と「匝地」(大地一面)+「漫天」(空一面)を合楺した語句で以て、尽界を表徴させ語句の閉塞性・概念化(カテゴリー化)を嫌った文体で以て、「行持」の功徳は全体に往き渉る様態が示されます。ある識者は行持の功徳論と定置され詳述されますが、○○論と説くことで仏法をカテゴライズし、学問の仏法という枠内に落ち込む危険性を伴うものである。

「諸仏諸祖の行持によりて」以下は『修証義』「行持報恩」にて説かれる処であるが、つまりは「諸仏諸祖の行持」=「我等が行持」の同体性を言わんとするものです。

「我等が行持によりて、この道環の功徳あり。これによりて、仏々祖々、仏住し、仏非し、仏心し、仏四大五蘊あり。行持これ世人の愛処にあらざれども、諸人の実帰なるべし」

先には「行持の功徳」を説かれましたが、次いで「道環の功徳」として示されます。道環とは輪廻や循環を意味するものではなく、「教・行・証の一体なる道理」(「註解全書」四・四五四)を云い、具体事例として「仏祖たちは仏として住し(仏住)、絶対性の仏(仏非)として生き、仏の心(仏心)を維持し、仏を現成(仏成)させ、今日まで断絶しないのである」。謂うなれば道環とは不可逆的連続態とでも云い得るものである。

「この行持によりて」とは、この真実の表われとして太陽や月それに星々(日月星辰)の運行があり、大地虚空ありと述べられますが、先述は匝地漫天と述べられたものです。また行持の縁(えにし)によって環境世界(依報)と身心(正報)の共存が在り、行持によりて四大(地水火風)五蘊(色受想行識)の各要素が現成する。これら挙げるものは自然現象ですから、世人は当然とし執着(愛処)の対象ではないけれども、諸人(もろびと)の帰着する処である。

我々は朝に目覚め夜は眠る生活を日常茶飯に繰り返すが、現在の生物学などの知見では数兆個の細胞の2%が日々入れ替えられ、200種類にも及ぶ蛋白質はA(アデニン)+T(チミン)+G(グアニン)のコドン結合によりメチオニンが生成されるが、これらの内部機能とは関係なく生き続け日常底が在るを、「行持これ世人の愛処にあらざれども、諸人の実帰なるべし」と説く由縁である。

「過去・現在・未来の諸仏は現成するなり。その行持の功徳、時に隠れず、かるが故に発心修行す。その功徳、時に顕われず、かるが故に見聞覚知せず。顕われざれども、隠れずと参学すべし。隠顕存没に染汚せられざるが故に、我を見成する行持、今の当隠に、これ如何なる縁起の諸法ありて行持すると不会なるは、行持の会取、さらに新条の特地にあらざるによりてなり」

「過去・現在・未来の諸仏は現成する」とは、「発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず」と対句をなし、断絶せざる道環を再述するもので、「その行持の功徳は時として隠れず」とは宇宙の普遍性を言い、その証しを対句に準じての「発心修行」し、亦その功徳は時として顕現しない事もあり、その時には見る事・聞く事は知覚できない場合もあるが、結果が表態しなくても真理は顕われていると参学すべし。とは三時業的縁起観法を思わせる言法である。

行持の功徳(真実態)は、隠れたり顕われたり在ったり没したり(隠顕存没)という相対的ではなく、「染汚(ぜんな)」される事はないのであるが、自己を現成させる行持(真実相)が今まさに功徳が隠れている時に、これは如何なる縁起が生じて、この真実(行持)は理解できない(不会)のは当然で、行持(真実)の理解については、新たな道理が在るからではないからである。と、繰り返しの語言を以て説かれ、非常に読み解き難い文体ですが、酒井得元提唱テープによれば「眼蔵と我々の思考との次元の差違」と述べられます。また古註釈での詮慧なども「この会、新条にあらずと云うは、古しと云い新らしと云うは、吾我に対したる事也」(「註解全書」四・四五五)と解説するのみです。

「縁起は行持なり、行持は縁起せざるが故にと、功夫参学を審細にすべし。かの行持を見成する行持は、即ちこれ我等が今の行持なり。行持の今は自己の本有元住にあらず、行持の今は自己に去来出入するにあらず。今と云う道は、行持より先に有るにはあらず、行持現成するを今と云う。しかあれば即ち、一日の行持、これ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。この行持に諸仏見成せられ、行持せらるるを、行持せざるは、諸仏を厭い、諸仏を供養せず、行持を厭い、諸仏と同生同死せず、同学同参せざるなり。今の花開葉落、これ行持の現成なり。磨鏡破鏡、それ行持にあらざるなし」

「縁起は行持なり、行持は縁起せざる」は縁起=行持と規定し、行持≠縁起では矛盾する物言いに聞こえますが、この処を「沢木本」では「縁起と云う事は因縁によって出来たもので、それを縁起は行持なりと云う。ところが行持は縁起にあらず。これは常住不変、時間空間一杯のものを行持するのであるから仏行ではあるが、縁に引かれるものではないから行持は縁起にあらず」(五九頁)と、また「行持に学ぶ」では「仏行の縁起は仏行の行持である。なぜならば仏祖の行持は縁起しない、つまり行持自体が行持の縁起となっているからである」(三六頁)と説明されます。釈然としませんが「行持は縁起」とは、無関係である事実を審細に参学し功夫すべきである。との指摘のようです。

「かの行持を見成する行持」のかのとは、前述の「諸仏諸祖の行持」を指すのであり、仏祖と我らとの同事・同態・同時を「我らが今の行持なり」と位置づけますが、先ほどの「縁起=行持・行持≠縁起」のロジック同様に、「行持の今は自己に住する本有元住を指すのでもなく、ましてや自己に出たり入ったりするような仏性の類いではない」事を示唆し、という言動は行持の実体より前にあるのではなく、行持の現成つまり眼前する実態をと言う。と行持に聯関させての縁起や自己の見方を見究めよとの言説です。

而今を一日に設定し、一日の行持(修行の持続・真実態)は諸仏が顕在する種子(もと)であり、諸仏の行持であるはずが、この行持を怠慢するとは諸仏を嫌い(厭い)、諸仏を供養せず、行持を嫌う者は、諸仏とは「同生同死せず・同学同参せざるなり」とは、団体生活は意に適わず専ら一人での修行形態を好む声聞・独覚等を指すものと思われます。

今眼前する「花開落葉」とは、春夏秋冬の時節を現成する行持と見、また「磨鏡破鏡」とは、南嶽の馬祖に対する塼を磨いて鏡と成す教示法(「三百則」・八)、仰山が潙山の鏡面を撲破(「三百則・二一九」する接得法を指すもので、これらの日常の一コマが実相を表態する「行持」でないものは無い。と説かれます。

「この故に、行持を差し置かんと擬するは、行持を逃れんとする邪心を隠さんが為に、行持を差し置くも行持なるによりて、行持に赴かんとするは、なおこれ行持を志すに似たれども、真父の家郷に宝財を投げ捨てて、さらに他国跰の窮子となる。跰の時の風水、たとい身命を喪失せしめずと云うとも、真父の宝財投げ捨つべきにあらず。真父の法財なお失誤するなり。この故に、行持はしばらくも懈惓なき法なり」

「この故に」とは、行持せざる者(日常底の真実相を見究めない漢)を痛烈に批判する文章で、行持を中途で止めるは、行持から逃れるを人目を憚って邪心を隠す為であるが、行持を中途で止めるも行持となりますから、行持に赴かんとするのは、あたかも行持を志向するに似てはいるが、『法華経』四「信解品」(「大正蔵」九・一六中)で説く処の「真父の家郷に宝財を投げ棄てて、さらに他国跉跰の窮子となる」としますが、「信解品」の「捨父逃逝久住他国」を適宜改変するものです。この処を詮慧『聞書』では「他国跉跰と云うは、所詮醉中にも衣の裏に珠は在りしが如く、さしをくも行持と云うなり。真父法財なお失誤する也と云うは、世間に思うが如く失い誤まるにてはなし。真父の珠は衣裏に懸るなり。他国跉跰の時刻は三乗の教を学せし間也」(「註解全書」四・四五五)と見るように、「非行持=他国跉跰窮子」とは見ないようで、相対的に把捉すべきではないようです。

流浪(跉跰)の時の境遇(風水)の時に、たとい身体の生命を消失しなくても、真父の宝財は捨てようにも投棄できる代物ではない事を言い述べるものです。この場合の「真父の宝財」とは法華の三業論からすると一乗実相義を意味し、いわゆる仏性とも如来蔵とも尽十方真実態とも比定されるものです。「真父の法財なお失誤するなり」とは長者窮子のように、一時的に実父の財産を誤って失った。というものである。このように、仏道に参集する者なら誰もが知る得る他国跉跰窮子を引き合いに出し、一時的ではあるにせよ「行持はしばらくの間も怠慢(懈惓)ないようにするべき仏の法」なり。と「行持」の本源を観音導利興聖宝林寺に辧道する学人に向けての提唱とするものです。

 

    仏祖行持(上)

    一 釈迦牟尼仏

慈父大師釋迦牟尼佛、十九歳の佛壽より、深山に行持して、三十歳の佛壽にいたりて、大地有情同時成道の行持あり。八旬の佛壽にいたるまで、なほ山林に行持し、精藍に行持す。王宮にかへらず、國利を領ぜず、布僧伽梨を衣持し、在世に一經するに互換せず、一盂、在世に互換せず。一時一日も獨處することなし。人天の閑供養を辭せず、外道の訕謗を忍辱す。おほよそ一化は行持なり、淨衣乞食の佛儀、しかしながら行持にあらずといふことなし。

「仏祖行持」とは菩提達磨から天童如浄まで十一人の祖師方を撰述された「下巻」に於ける標題を此処では使うことにした。「下巻」は仁治三年(1242)四月五日に観音導利興聖宝林寺にて書き上げられた旨が示される処から上巻とされる「当巻」は先の四月以降から年内までに書かれたもので、便宜的に「仏祖行持上・下」とし各仏祖師方に順次号数を附すものである。

「慈父大師釈迦牟尼仏、十九歳の仏寿より、深山に行持して、三十歳の仏寿に至りて、大地有情同時成道の行持あり。八旬の仏寿に至るまで、なお山林に行持し、精藍に行持す」

釈迦仏を「慈父」と形容する言い回しは『三界唯心』巻に於いても「吾子、子吾、ことごとく釈迦慈父の令嗣なり」(「岩波文庫」㈡四一〇)と表記され、慈父と云うと如何にも人間釈尊を実感させられます。

「十九歳出家―三十歳成道」は『景徳伝灯録』一「年十九欲求出家、成仏号天人師、時年三十矣」(「大正蔵」五一・二〇五中)を参照されたようです。但し「大地有情同時成道」語については、仁治二年一月から四月上堂されたと思われる『永平広録』三七則に、また延応二年(1240)四月二十日『渓声山色』巻(「岩波文庫」㈡一一五)や寛元二年(1244)二月十四日『発菩提心』巻(「岩波文庫」㈢三三一)などで確認されますが、「大地有情同時成道」の明確な出典籍は不明です。

「八旬の仏寿」とは八十歳の寿命。との意であるが、旬は九旬安居の言があるように十日間を指すのであるが、ここでは旬を一年と算定するものである。その八十歳の老境に至るまで、なおも「山林・精藍に行持す」とは、自然環境と同味同態の修行形態を示唆するもので、この伝統が日本では比叡山高野山という山岳修道になるわけである。「精藍」は精舎とも云い叢林とも呼ばれるが、ここでは竹林精舎(venuvana-vihara)であろう。

「王宮に帰らず、国利を領ぜず、布僧伽梨を衣持し、在世に一経するに互換せず、一盂、在世に互換せず。一時一日も独処する事なし。人天の閑供養を辞せず、外道の訕謗を忍辱す。おおよそ一化は行持なり、浄衣乞食の仏儀、しかしながら行持にあらずと云う事なし」

「王宮に帰らず」とは、実家である浄飯の王宮には居せず行持し続けた事を云うが、馬祖が示した莫帰郷とも通脈する。「国利を領ぜず」は国の官立僧にならないからこそ、布製の僧伽梨衣(大衣)だけを持し、一生涯(一経)衣を交換(互換)せず、鉄鉢(一盂)も同様であったと。

また釈迦仏の日常は独りで処する事はなく、人界・天界の最低限の供養は辞退せず、常にバラモンなど外道の誹謗中傷(訕謗)を耐え忍んだ(忍辱)と記されます。

「一化」は一代教化の略語で、それは化一切衆生皆令入仏道であり、「浄衣乞食」による仏の日常は「行持」でないものはない。と冒頭にて簡便な釈迦仏の略伝を示されます。

 

    二 摩訶迦葉

第八祖摩訶迦葉尊者は釋尊の嫡嗣なり。生前もはら十二頭陀を行持して、さらにおこたらず。十二頭陀といふは、一者不受人請、日行乞食。亦不受比丘僧一飯食分錢財。 二者止宿山上、不宿人舎郡縣聚落。 三者不得從人乞衣被、人與衣被亦不受。但取丘塚間死人所棄衣、補治衣之。四者止宿野田中樹下。五者一日一食。一名僧迦僧泥。六者昼夜不臥、但坐睡經行。一名僧泥沙者傴。 七者有三領衣、無有餘衣。亦不臥被中。 八者在塚間、不在佛寺中、亦不在人間。目視死人骸骨、坐禪求道。九者但欲獨處、不欲見人。亦不欲與人共臥。十者先食果蓏、卻食飯。食已不得復食果蓏。十一者但欲露臥、不在樹下屋宿。十二者不食肉、亦不食醍醐。麻油不塗身。これを十二頭陀といふ。摩訶迦葉尊者、よく一生に不退不轉なり。如來の正法眼藏を正傳すといへども、この頭陀を退することなし。あるとき佛言すらく、なんぢすでに年老なり、僧食を食すべし。摩訶迦葉尊者いはく、われもし如來の出世にあはずば、辟支佛となるべし、生前に山林に居すべし。さいはひに如來の出世にあふ、法のうるひあり。しかりといふとも、つひに僧食を食すべからず。如來稱讚しまします。あるいは迦葉、頭陀行持のゆゑに、形體憔悴せり。衆みて輕忽するがごとし。ときに如來、ねんごろに迦葉をめして、半座をゆづりまします。迦葉尊者、如來の座に坐す。しるべし、摩訶迦葉は佛會の上座なり。生前の行持、ことごとくあぐべからず。

「第八祖摩訶迦葉尊者は釈尊の嫡嗣なり。生前もはら十二頭陀を行持して、更に怠らず」

ここでは摩訶迦葉を「第八祖」とする処であるが、『景徳伝灯録』(「大正蔵」五一・二〇五下)に於いては「第一祖摩訶迦葉」とするが、敢えて過去七仏毘婆尸仏尸棄仏毘舎浮仏・拘留孫仏・拘那含牟尼仏・迦葉仏釈迦牟尼仏)と連脈させての「第八祖」とする意図は、間隙あらざる行持道環を想定しての「第八祖」であろうが、ほかには「第八祖」と認められる箇所はないのである。『永平広録』四四六則に於ける上堂話では、「仏と祖を混雑してはならず、仏は仏であり、迦葉尊者は西天初祖也」と断言されるものであるが、石井修道氏は「仏と祖の一体説から区別説へと説示内容が相違する原因として、鎌倉行化の失敗や浄土教との出会い等である」(「行持に学ぶ」七二頁)と指摘するものである。

摩訶迦葉に関するエピソードとしては「頭陀行第一」をはじめ、①「半座を分かつ」②「釈尊の糞掃衣と自分の衣を交換」③「第一結集を主催」④「摩訶迦葉の弁明」として語られる。

「十二頭陀と云うは、一者不受人請、日行乞食。亦不受比丘僧一飯食分銭財。 二者止宿山上、不宿人舎郡県聚落。 三者不得従人乞衣被、人与衣被亦不受。但取丘塚間死人所棄衣、補治衣之。四者止宿野田中樹下。五者一日一食。一名僧迦僧泥。六者昼夜不臥、但坐睡経行。一名僧泥沙者傴。 七者有三領衣、無有余衣。亦不臥被中。 八者在塚間、不在仏寺中、亦不在人間。目視死人骸骨、坐禅求道。九者但欲独処、不欲見人。亦不欲与人共臥。十者先食果蓏、却食飯。食已不得復食果蓏。十一者但欲露臥、不在樹下屋宿。十二者不食肉、亦不食醍醐。麻油不塗身。これを十二頭陀と云う。摩訶迦葉尊者、よく一生に不退不転なり。如来正法眼蔵を正伝すと云えども、この頭陀を退する事なし」

ここで扱う「十二頭陀」の出典籍は『大比丘三千威儀』下(「大正蔵」二四・九一九中)であるが、一か所六者の処で「但坐睡未起経行」の―部が抜け落ちるが、恐らく書写ミスであろう。また『大智度論』四七での十二頭陀は「一作阿蘭若。二常乞食。三納衣。 四一坐食。五節量食。六中後不飮漿。七塚間住。八樹下住。九露地住。十常坐不臥。十一次第乞食。十二但三衣」(「大正蔵」二五・五三七上)と簡略に示されます。因みに上座部パーリでは「十三頭陀」が挙げられる(『摩訶迦葉の研究』九九頁・森章司著)。

一は人の請ずるを受けず、日分に乞食(托鉢)を行じ、亦比丘僧の一飯食分の銭や財は受けず。二は山の上に仕宿し、人の家(舎)や郡県の聚落には不宿。三は人に従り衣被を乞うを得ず、人が与えた衣被も亦受けず。但し丘塚(死骸置き場)の間で、死人が捨てた所の衣を、補治(繕う)し之を衣す。四は野原や田の中の樹下に止宿す。五は一日に一食。これを僧迦僧泥(スンガスンナイ巴ekasanikaの音写)と名づく。六は昼夜に臥せず、但し坐睡す(原文では但し睡り来たれば経行に起つ)。これを僧泥沙者傴(スンナイサシャキュウ巴nesajjika)と名づく。七は三領(五条・七条・大衣)の衣を有し、余の衣は無有。亦は被(防寒の為の布)の中で臥せず)。八は塚の間に在し、仏寺の中には在せず、亦は人の間(人里)には在せず。目には死人の骸骨を視、坐禅し求道す。九は但に独処を欲し、人を見るを欲さず。亦は人と共に臥せんと欲せず。十は先ず果蓏(木に在るを果、地に在るを蓏・木の実、草の実)を食べ、却って飯を食べる。食し已り復た果蓏を食すを得ず。十一は但に露地で臥すを欲し、樹下や家屋には在せず。十二は肉は食せず、亦、醍醐(乳製品sarpis)は食せず。麻の油を身に塗らない。

マハカッサパ(摩訶迦葉)尊者は、一生涯これらの頭陀(dhuta)の行持を厳守(不退不転)した旨を記されるが、釈尊摩訶迦葉は苦行時代からの旧知の間柄であったが、竹林精舎での叢林生活の頃から修行形態も変化し、マハーカッサパのような古いタイプの修行者には、頭陀第一の辧道法しか選択肢が残されなかったのかも知れない。

「ある時仏言すらく、汝すでに年老なり、僧食を食すべし。摩訶迦葉尊者云く、我もし如来の出世に逢わずば、辟支仏となるべし、生前に山林に居すべし。幸いに如来の出世に逢う、法の潤いあり。然りと云うとも、ついに僧食を食すべからず。如来称讚しまします」

ここでの明確な出典処は不明ながら『永平広録』四・四六に於ける引用典籍から推察するに、『法華文句記』巻二上(「大正蔵」三四・一七二中)と考えられる。『永平広録』上堂話は建長三年(1251)七月十八日から八月十四日までに話された最晩年に当たるが、少なくとも仁治三年(1242)から十年あまり一貫した「行持」に対する態度と変遷は再検討する事項であります(「行持に学ぶ」六六頁参照)。

「汝すでに年老なり」との具体的年齢差は十三歳ほどと伝えられ、この時の会話は釈尊が成道されてから十数年経過した五十歳前後と想定され、その時摩訶迦葉は六十歳を過ぎていた頃と思われる。因みに釈尊入滅時には九十三歳ほどと思われ、その老躯を賭して王舎城からクシナーラーの仏陀入滅地までの数百キロ以上(300㎞か)を徒歩で赴くが、入寂より一週間が過ぎた二月下旬であった。

「僧食を食すべし」とは、老体での七軒托鉢を厳守する摩訶迦葉を見ての、思わずの釈尊による竹林精舎に供養された施物を食しなさい。との慈語である。「辟支仏」とは、仏の未出世時に出現する独覚(仏)を指す。

釈尊の進言にも拘わらず「僧食を食すべからず」の真意は、釈尊から法を説くようにとの請に対しても固辞し、常に独処を好む者にとってはサンガでの生活を常態とする比丘衆に対しては、常に頭陀行者に徹した証しであろうか。この態度に対し「如来称讚しまします」の如来とは舎利弗・目連等を云うものでしょうか。

「或いは迦葉、頭陀行持の故に、形体憔悴せり。衆、見て軽忽するが如し。時に如来、懇ろに迦葉を召して、半座を譲りまします。迦葉尊者、如来の座に坐す。知るべし、摩訶迦葉は仏会の上座なり。生前の行持、悉く挙ぐべからず」

ここでも先の四四六則から推察して『法華文句』一下(「大正蔵」三四・一〇中)からの引用と思われ、大衆と迦葉尊者との間では世代間の意志の相違で、迦葉の憔悴しきった形体を軽蔑する比丘衆に向けての「半座を分かつ」とは、先輩僧迦葉に対する釈尊の敬意と共に、トゥッラナンダー比丘尼摩訶迦葉もと外道などと罵詈し集団内での不協和音の解消の意も在っての「半座」であったようである。よって釈尊による「摩訶迦葉は仏会の上座なり」との言を述べた模様である。そして迦葉尊者に対する提唱では尊者の数あるエピソードを列挙するには及ばない。と締め括られます。ここでの論考では森章司・本澤綱夫著『摩訶迦葉の研究』(「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」・インターネット公開論文)を活用させていただいた旨を記す。

 

   三 波栗湿縛(脇尊者)

第十祖波栗濕縛尊者は、一生脇不至席なり。これ八旬老年の辦道なりといへども、當時すみやかに大法を單傳す。これ光陰をいたづらにもらさざるによりて、わづかに三箇年の功夫なりといへども、三菩提の正眼を單傳す。尊者の在胎六十年なり、出胎髪白なり。誓不屍臥、名脇尊者。乃至暗中手放光明、以取經法。これ生得の奇相なり。脇尊者、生年八十、垂捨家染衣。城中少年、便誚之曰、愚夫朽老、一何淺智。夫出家者、有二業焉。一則習定、二乃誦經。而今衰耄、無所進取。濫迹清流、徒知飽食。 時脇尊者、聞諸譏議、因謝時人、而自誓曰、我若不通三藏理、不斷三界欲、不得六神通、不具八解脱、終不以脇而至於席。自爾之後、唯日不足、經行宴坐、住立思惟。昼則研習理教、夜乃靜慮凝神。綿歴三歳、學通三藏、斷三界欲、得三明智。時人敬仰、因号脇尊者しかあれば、脇尊者處胎六十年はじめて出胎せり。胎内に功夫なからんや。出胎よりのち八十にならんとするに、はじめて出家學道をもとむ。託胎よりのち一百四十年なり。まことに不群なりといへども、朽老は阿誰よりも朽老ならん。處胎にて老年あり、出胎にても老年なり。しかあれども、時人の譏嫌をかへりみず、誓願の一志不退なれば、わづかに三歳をふるに、辦道現成するなり。たれか見賢思齊をゆるくせむ、年老耄及をうらむることなかれ。この生しりがたし、生か生にあらざるか。老か老にあらざるか。四見すでにおなじからず、諸類の見おなじからず。たゞ志気を專修にして、辦道功夫すべきなり。辦道に生死をみるに相似せりと參學すべし、生死に辦道するにはあらず。いまの人、あるいは五旬六旬におよび、七旬八旬におよぶに、辦道をさしおかんとするは至愚なり。生來たとひいくばくの年月と覺知すとも、これはしばらく人間の精魂の活計なり、學道の消息にあらず。壯齢耄及をかへりみることなかれ、學道究辦を一志すべし。脇尊者に齊肩なるべきなり。塚間の一堆の塵土、あながちにをしむことなかれ、あながちにかへりみることなかれ。一志に度取せずは、たれかたれをあはれまん。無主の形骸いたづらに徧野せんとき、眼睛をつくるがごとく正觀すべし。

西天の仏祖といわれるように、「毘婆尸―釈迦牟尼」まで七人を仏と尊称し、「摩訶迦葉―般若多羅」の二十七人はと称する中からの第十祖としての波栗湿縛の脇尊者としての「行持」を称歎するものです。

「第十祖波栗湿縛尊者は、一生脇不至席なり。これ八旬老年の辦道なりと云えども、当時すみやかに大法を単伝す。これ光陰をいたづらに漏らさざるによりて、わづかに三箇年の功夫なりと云えども、三菩提の正眼を単伝す。尊者の在胎六十年なり、出胎髪白なり。誓不屍臥、名脇尊者。乃至暗中手放光明、以取経法。これ生得の奇相なり」

ここでの出典籍を検討するに、和文は『大唐西域記』二「第三重閣有波栗湿縛、唐言脇尊者、室久已傾頓尚立旌表。初尊者 之為梵志師也。年垂八十捨家染衣」(「大正蔵」五一・八八〇中)もしくは『景徳伝灯録』一(「大正蔵」五一・二〇九上)などに基づくものと思われ、原漢文の部分は『止観輔行伝弘決』一之一「法付脇比丘、比丘在胎経六十年生而髮白誓不屍臥名脇比丘乃至暗中手放光明以取経付富那奢」から比丘を尊者に改めたものです。

「在胎」で思い浮かぶは、第三祖商那和修は在胎六年(『伝衣・袈裟功徳』巻)と称し、「出胎髪白」では第十八祖伽耶舎多は生まれしより一の浄明の円鑑、おのづから同生せり(『古鏡』巻。これらを「生得の奇相」と位置づけるものの、古代インド周辺では、このような非日常な奇瑞を伝承する習俗が在ったようである。

「脇尊者、生年八十、垂捨家染衣。城中少年、便(更)誚之曰、愚夫朽老、一何浅智。夫出家者、有二業焉。一則習定、二乃誦経。而今衰耄、無所進取。濫迹清流、徒知飽食。 時脇尊者、聞諸譏議、因謝時人、而自誓曰、我若不通三蔵理、不断三界欲、(不)得六神通、(不)具八解脱、終不以脇而至於席。自爾之後、唯日不足、経行宴坐、住立思惟。昼則研習理教、夜乃静慮凝神。綿歴三歳、学通三蔵、断三界欲、得三明智。時人敬仰、因号脇尊者」(()は原文(不)はなし)

この漢文の引用典籍は前にも言及した玄奘(602―664)による十八年に及ぶ求法の旅書である『大唐西域記』二(出典記載済)であることは江戸期の瞎道本光が亡くなる三年前(1770年)に完結された『正法眼蔵却退一字参』により明らかにしたものである。

脇尊者(波栗湿縛)は生まれて八十になって家を捨て染衣を垂る。城中(まち)の少年(人)たちは、愚かな老いぼれで、何と浅はかと之を誚(そし)る。夫れ出家には二つの業(仕事)が有り、一つに則ち習定(坐禅)二つに経を誦する。今のように老い衰えては進取すべき所が無く、濫(みだ)りに清流(衆僧)に迹(あと)すは、徒らに無駄飯(飽食)を知るだけである。時に脇尊者は、諸々な譏議(そしり)を聞き、因って時の人に謝り、自ら日くに、我若し三蔵の理に通ぜず、三界の欲を断ぜず、六神通を得ず、八解脱を具せずは、終に脇腹を席に至けず。と誓う。それより後は、唯に日を惜しんで、経行宴坐し、住立思惟する。昼は則ち理教を研習し、夜は乃ち静慮凝神の坐禅し三年を綿歴す。学問は三蔵(経・律・論)に通じ、三界(欲界・色界・無色界)の欲を断じ、三明(宿命通・天眼通・漏尽通)の智慧を得た。時の人は敬い仰ぎ、因って脇尊者と号するのである。

「行持に学ぶ」では「玄奘」「西域記」「波栗湿縛」「栄西」「随聞記」などをキーワードに道元と入竺との興味深い小論が展開されるが(八十頁)、一読するを薦めるものである。

「しかあれば、脇尊者処胎六十年初めて出胎せり。胎内に功夫なからんや。出胎よりのち八十にならんとするに、初めて出家学道を求む。託胎よりのち一百四十年なり。まことに不群なりと云えども、朽老は阿誰よりも朽老ならん。処胎にて老年あり、出胎にても老年なり。しかあれども、時人の譏嫌を顧りみず、誓願の一志不退なれば、僅かに三歳をふるに、辦道現成するなり。たれか見賢思斉を緩くせん、年老耄及を恨むる事なかれ」

これより拈提・解説ですが、特に難解とする箇所はなく、平易に説かれる処ですが、簡略に筆者の意見も折り込み述べることにする。

これまでの波栗湿縛章を順を追って、脇尊者は処胎六十年・出胎八十年で合計一百四十年(歳)で、誰よりも老いている。とは現代の人は勿論、七百年以上前の人間であっても額面通りには考えては居らず、処胎つまり此の世に出胎する前から辧道は始まる事を序章にては「道環して断絶せず・行持道環」と表現し、さらに摩訶迦葉章にては「第八祖摩訶迦葉尊者は釈尊の嫡嗣」と、仏と祖との綿歴する様態を処胎六十年・出胎八十年の途切れざる辧道は不群であり、誰彼よりも老年ではあるが、人々からのそしり(譏嫌・現在は機嫌・元は息世譏嫌戒を云う)を気にせず、通三蔵・断三界欲・得三明智誓願の志が不退転であった為に、僅か三年で誓願の辦道が実現したのである。誰でもが脇尊者のような賢人を見て斉しく思いを成すであろうが、自身の老いた老齢や衰えは(波栗湿縛を見習い)諦めてはならないのである。

「この生知り難し。生か、生にあらざるか。老か、老にあらざるか。四見すでに同じからず、諸類の見同じからず。ただ志気を專修にして、辦道功夫すべきなり。辦道に生死を見るに相似せりと参学すべし、生死に辦道するにはあらず。今の人、あるいは五旬六旬に及び、七旬八旬に及ぶに、辦道を差し置かんとするは至愚なり。生来たとい幾ばくの年月と覚知すとも、これはしばらく人間の精魂の活計なり、学道の消息にあらず。壮齢耄及を顧みる事なかれ、学道究辦を一志すべし。脇尊者に斉肩なるべきなり。塚間の一堆の塵土、強ちに惜しむ事なかれ、強ちに顧みる事なかれ。一志に度取せずは、誰か誰を憐れまん。無主の形骸いたづらに徧野せん時、眼睛を作るが如く正観すべし」

(波栗湿縛の喩えにもあるように)この世での生を得るには知り難いものである。生であるのか生でないのか、老なのか老でないのかを知り得るは難しい。一水四見の喩えのように、人により考えは異なるが、初心を専らにし辦道功夫すべきである。ここで辦道と生死の喩えを説かれるが、「辦道」は全体視野からの鳥俯瞰的・「生死」とは日常の変化に伴う驢事馬事を謂わんとするもので、大きな視野からの「辦道」から日常の「生死」を見るように参学し、逆に馬や驢馬ばかりを見ていては、日々の出来事に振り回される。を謂わんとするもので、年少年老に拘わらず念ずべき事項ですが、『大悟』巻では「使得十二時あり、被使十二時あり」(「岩波文庫」㈠二〇八)と表徴されます。

今時の人は、五十代六十代や七十代八十代の老境に入ったからと云って、修行(辦道)を止めようとするのは愚かの至りである。生まれて五十年六十年と、どれ程の年月を経過したと思っても、この年月は人間の業識の働きであり、決して学道とは無関係である。ですから周囲を見渡して自身の壮齢とか耄及を意識してはならず、学道の究辦を志求し、脇(波栗湿縛)尊者と共に肩を並べる努力が必須である。

このような波栗湿縛尊者を志求する言説は『随聞記』巻一・二でも「ただ身命を顧りみず発心修行する(は)、学道の最要なり」と興聖の観音導利院での当初期から力説されて居たようである。

縁欠ければ墓場(塚間)の一握りの塵土となるわけですから、この臭皮袋を惜しまずに、一心に究辦しなければ誰が憐れんで慈悲を掛けようか。主人が居なくなった骸骨が無造作に野に捨てられる様子を、自身の眼の玉で以て正面から観察しなさい。との忠言となりますが、この最後の所は摩訶迦葉段で説かれた「八者在塚間、不在仏寺中、亦不在人間。目視死人骸骨坐禅求道」―部を再説したものと考えられます。パーリ文では塚間住支(sosanikanga)の頭陀行として扱われますが、このような行法は小乗的であるとして、大乗仏教、殊に日本では取り挙げる事例は少なく侮蔑の対象とも扱われる現況ですが、道元禅師の仏道観は小乗・大乗の枠は設けず、仏法という超俯瞰的度量は、現今の宗教界の禿僧たちも見習う必要があろう。

 

    四 六祖慧能

六祖は新州の樵夫なり、有識と稱しがたし。いとけなくして父を喪す、老母に養育せられて長ぜり。樵夫の業を養母の活計とす。十字の街頭にして一句の聞經よりのち、たちまちに老母をすてて大法をたづぬ。これ奇代の大器なり、抜群の辦道なり。斷臂たとひ容易なりとも、この割愛は大難なるべし、この棄恩はかろかるべからず。黄梅の會に投じて八箇月、ねぶらず、やすまず、昼夜に米をつく。夜半に衣鉢を正傳す。得法已後、なほ石臼をおひありきて、米をつくこと八年なり。出世度人説法するにも、この石臼をさしおかず、奇世の行持なり。

これより唐(東)土祖師方を扱われます。震旦初祖・二祖はすでに書き上げられ済み(下巻)ですから、上巻では三人の西天(インド)仏祖に続き、いわゆる禅宗の祖に当たる達磨より六代目である六祖(大鑑慧能)に対する簡略化した文言です。明確な出典籍は特定できないが、『嘉泰普灯録』一・六祖慧能大士章(「続蔵」七九・二九〇中)を中心に、『永平広録』四三〇則(建長三年(1251)四月頃の上堂)や『四禅比丘』巻(鎌倉より帰山後の撰述)に於ける「六祖壇経偽書説」等を展開される経緯を考える事ができる。

「六祖は新州の樵夫なり、有識と称し難し。いとけなくして父を喪す、老母に養育せられて長ぜり。樵夫の業を養母の活計とす。十字の街頭にして一句の聞経より後、忽ちに老母を捨てて大法をたづぬ。これ奇代の大器なり、抜群の辦道なり。断臂たとい容易なりとも、この割愛は大難なるべし、この棄恩は軽かるべからず」

「六祖は新州の樵夫」の「六祖」は大鑑慧能の別称で、貞観十二年(638)二月八日―先天二年(713)七月一日までの人で、日本では645年は大化の改新で、712年は古事記が成立した年を勘案すれば六祖の年代的位置が理解されよう。「新州」は六祖の生きた時代に設置された行政区で、今の広東省雲浮市・江門市一帯を指す。「樵夫」とは樵(きこ)るという動詞の連用形から山林の伐採を業とする人で、きこり・杣夫(そまふ)とも云う。

「いとけなくして父を喪す」とは、彼が三歳の時に亡くなったと記されます。父の姓は蘆氏・母の姓は李氏ですから、六祖は父姓を嗣いで蘆行者とも呼ばれるものです。

「老母に養育せられて長ぜり」での老母の基準であるが、父親は武徳三年(621)に河北省范陽から左遷され広東省に来て、貞観十二年(638)に六祖が生まれ、その三年後貞観十五年(641)時点では、すでに広東省で二十年経過していますから、左遷された年齢を二十歳とすれば父親は四十歳と推定され、その母も同年代とすれば老母と呼ぶには相応しく思われますが、実際には三十五歳前後の蘆氏の結婚相手の李氏の年齢は十歳前後の開きがあると仮定すれば、父親の四十歳頃の逝去時には母親の年齢は二十五から三十歳と見積もられますから、果たして老母と呼ぶには多少の違和感を懐くものです。

「樵夫の業を養母の活計とし、十字の街頭にして一句の聞経、老母を捨て大法をたづぬ」では、六祖三歳時に父を喪失し、病気がちな母親の為に薪売りにて生活の糧とするが、その年齢は就学前の五・六歳を想定するものである。筆者四十以上前にネパールに遊学する折、この年齢の男児なら大人の力量には及び難いが、生活の糧を得る労働力には為り得るものです。ある時十字路の交差する辺りで、辻説法僧による「応無所住而生其心」(金剛経文)なる空理を知り、間髪入れず老母を捨て、大法を求め五祖弘忍の黄梅山を訪ねる。と記されますが、母との別れ時には「僅かに母に四十両銀を給うて、以て其の衣粮に充つ」と『永平広録』四三〇上堂では記録されます。

この六祖慧能を讃嘆する言語(ことば)として、「奇代の大器・抜群の辦道」と絶賛し、二祖慧可大士の断臂よりも慧能大士の割愛ほど難しい事はなく、棄恩の行持は軽々と考えてはいけない。と語られますが、受戒時に唱うる「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」を思い浮かばせる場面であります。

「黄梅の会に投じて八箇月、寝ぶらず、休まず、昼夜に米を搗く。夜半に衣鉢を正伝す。得法已後、なお石臼を負い歩きて、米を搗くこと八年なり。出世度人説法するにも、この石臼を差し置かず、奇世の行持なり」

「黄梅」は湖北省に位置し、『仏性』巻では「五祖大満禅師、蘄州黄梅人也」(「岩波文庫」㈠八〇)と記されるが、六祖の生地から黄梅までは九百キロ以上離れていますから、一時間当たり4キロ歩いて八時間では32キロですから単純計算で一ヶ月。日本での距離感覚では東京を基点にすれば北海道まで、南なら鹿児島までが一千キロの距離に相当し、往時の苦労が偲ばれます。

五祖弘忍の処では、昼夜に拘わらず不眠不休で米を搗く行為が、仏道に於ける「行持」の模範と讃じられます。「夜半に衣鉢を正伝」とは五祖黄梅の会では、弘忍による統率の効かなくなった異教徒的雲水集団が存在した事実を謂うもので、僧兵の萌芽に相当するものであった可能性もあります。「得法已後、なお石臼を負い歩きて、米を搗くこと八年」ならびに「出世度人説法するにも、この石臼を差し置かず」の文言は中国禅籍文献には存在せず、道元禅師による創作ではありますが、恩愛を断ち恩を捨ててこそ出家の本懐でしょうが、人間それほど割り切れたものでは済まされず、出家人と謂えども業果を背負って生きる現実を、このような石臼に喩えたものでしょうか。自身の詞としては「重担を肩に置けるが如し」(『辦道話』)に連なるものと思われます。因みに「六祖は体重が軽かったので、腰に大きな石を結わえて体重を増して、米搗き作業をした石が墜腰石として五祖寺に残っているそうである」(「行持に学ぶ」九一頁参照)。

 

    五 馬祖道一

江西馬祖の坐禪することは二十年なり。これ南嶽の密印を稟受するなり。傳法濟人のとき、坐禪をさしおくと道取せず。參學のはじめていたるには、かならず心印を密受せしむ。普請作務のところにかならず先赴す。老にいたりて懈惓せず。いま臨濟は江西の流なり

馬祖道一(709―788)あたりから歴史的実在人物として認められます。もちろん当話は馬祖の師である南嶽懐譲(677―744)との師資相承の仏法を唱えるものですが、歴史的史資料から見ると南嶽も青原(673―740)も確固とした実在性は望めないものである。当時の詞として「江西大寂・湖南石頭」と謂った事が流布されるように、中国唐代の馬祖家風の勢いは八十人を超える門人を擁する程であった。

「江西馬祖の坐禅する事は二十年なり。これ南嶽の密印を稟受するなり。伝法済人の時、坐禅を差し措くと道取せず。参学の始めて到るには、必ず心印を密受せしむ」

この処では馬祖の坐禅に対する「行持」綿密を説かれるもので、南嶽と馬祖の密なる印の関係を「心印を密受せしむ」と述するのですが、この源流は『真字正法眼蔵』(「密受心印」)→『古鏡』巻(「心印密受」)→『坐禅箴』巻(「密受心印」)→『行持』巻(「密印」)と字句の異同は認められるが、南嶽が馬祖に問うた「磨塼作鏡」話(『景徳伝灯録』五「大正蔵」五一・二四〇下)には取り挙げられない「密印・稟受・心印・密受」を付加することで、中国禅では解き得なかった意趣を中国のchanから日本のzenと為し得た意はパラダイム転換に相当するものであるが、その「心印を密受」し坐禅する処には、無所得・無所悟の坐禅が導かれるのである。

「馬祖の坐禅するは二十年」と述べられるが、『景徳伝灯録』(「大正蔵」五一・二四〇下)によれば開元年間(713―741)に於ける般若寺の南嶽と伝法院の馬祖との話頭で馬祖の没年は貞元四年(788)ですから、788―741=47年であり、その時点での馬祖の年齢は79―47=32歳の出来事となりますから、伝法院での人を済度する時点からの「坐禅するは四十年or四十七年なり」ならば辻褄が合いますが、その事に言及する解説書は見当たらない状況です。さらに「二十年」とする数字を『古鏡』巻では「江西馬祖、むかし南嶽に参学せしに、南嶽かつて心印を馬祖に密受せしむ。磨塼のはじめのはじめなり。馬祖、伝法院に住してよのつねに坐禅すること、わづかに十余歳なり」(「岩波文庫」㈡四一)と、わづか一年ほどの間での変異ですが、中国禅籍文献には二十年・十年などの数字は確認できませんが、この二十年・十余歳は実数値ではなく、次章に於ける「洞山坐禅辦道已二十年」と示されるように、単なる形容的数値を提示されるもの歟。

「普請作務の処に必ず先赴す。老に至りて懈惓せず。いま臨済は江西の流なり」

一般的に「普請作務先赴」の話は、後に挙する百丈懐海による「一日不作、一日不食」で有名ではあるが、「臨済は江西の流」と示されるように、臨済の栽松・黄檗の労侶・百丈の為衆為人と通脈する作務と仏道との不離不即の聯関を示す為、馬祖道一まで源流を求める提示と勘案されます。

 

    六 雲巌曇晟

雲巖和尚と道吾と、おなじく藥山に參學して、ともにちかひをたてて、四十年わきを席につけず、一味參究す。法を洞山の悟本大師に傳付す。洞山いはく、われ、欲打成一片、坐禪辦道、已二十年なり。いまその道、あまねく傳付せり。

この短い文中には雲巌曇晟(779―841)・道吾円智(768―835)・薬山惟𠑊(745―828)・洞山良价(807―869)と列記され、薬山を基軸に「行持」が語られるわけですが、そこに通脈する共通項は薬山の非思量が挙げられます。

「雲巖和尚と道吾と、同じく薬山に参学して、共に誓いを立てて、四十年脇を席に著けず、一味参究す。法を洞山の悟本大師に伝付す」

この話の出典籍は『碧巌録』八九則「雲巌・道吾の大悲菩薩」からの圜悟克勤による評唱「

雲巌与道吾同参薬山四十年脇不著席。薬山出曹洞一宗、有三人法道盛行。雲巌下洞山、道吾下石霜、船子下夾山」(「大正蔵」四八・二一三下)からの引用です。

この二人は「雪峰・玄沙」の如く「道吾・雲巌」連れ立っての行脚の話頭が有名ですが、『真字正法眼蔵』に於いても両頭出則話は「五七・九〇・一〇五・二五一」則が確認されます。

「雲巌・道吾」の簡単な略歴は、雲巌は779―841年の生没ですから六十二歳、道吾は768―835年の生存ですから六十七歳での示寂になりますから、道吾は雲巌より十一歳年長となり、悟録などでは雲巌は道吾を師兄と呼びますから、本来は「道吾和尚と雲巌」と記すべきと思われますが、雲巌―洞山―雲居と曹洞宗門の正系に連なる事から「雲巌和尚と道吾」と記述される歟。また『祖堂集』四では「道吾和尚は四十六にして始めて出家す」(一七〇頁)とあり、先の道吾の示寂を六十七とすると道吾の僧臘は二十年余と算定され、「共に四十年脇を席に著けず」は史実としては疑問符が付されます。また同頁では「雲巌和尚は是れ道吾の親しき弟なり」と記録されるを信ずれば、雲巌は道吾の実弟であったわけである。

「洞山云く、われ、欲打成一片、坐禅辦道、已二十年なり。今その道、あまねく伝付せり」

この話頭は『洞山語録』等には見られず、「打成一片」を『大正大蔵経テキストデータベース』satにて検索をかけると圜悟克勤(1063―1135)による使用例が『圜悟録』十三箇所・『碧巌録』に於いて七箇所と、合計二十ヶ所にわたり一体となるという意味合いの打成一片を述べられますが、四十三万字以上を有する『正法眼蔵』では当巻での一ヶ所のみで、『永平広録』では永平寺での上堂に於ける2回のみの状況です。

とにかく洞山は門人に対し、「わし(洞山)は真如と一体となるを欲して、坐禅辦道二十年なり」と説示し、その教え(道)は薬山による非思量の坐法を雲巌から洞山にと遍満に伝付されている。との言説で、短い文章ではありますが、中国曹洞禅を正嫡する人脈を強調したものです。

 

    七 雲居道膺

雲居山弘覺大師、そのかみ三峰庵に住せしとき、天厨送食す。大師あるとき洞山に參じて、大道を決擇して、さらに庵にかへる。天使また食を再送して師を尋見するに、三日を經て師をみることえず。天厨をまつことなし、大道を所宗とす。辦肯の志気、おもひやるべし。

前段では薬山―雲巌―洞山の流れを説いたわけですから、雲居道膺(827―902)へと導かれるものです。

「雲居山弘覚大師、そのかみ三峰庵に住せし時、天厨送食す。大師あると時洞山に参じて、大道をして、さらに庵に帰る」

「三峰庵」は江西省廬陵道新淦県東五十里に在る三峰山を示し、「天厨送食」に関しては『五灯会元』十三・洪州雲居道膺章にて「洞山問、子近日何不赴斎。師(雲巌)日、毎日自有天神送食」(「続蔵」八十・二六六下)が参考になるが、当然ながら道元禅師の出典籍ではない(五灯会元は1252年成立)。これに類似する話頭は『真字正法眼蔵』五一則では「牛頭未見四祖時、為甚麽百鳥銜花献」として記録され、宝治三年(1249)二月以降の上堂話でも同句を記得として述べられる状況です。

しかし洞山から仏法の大道を決択して後は、小手先の神通は現ぜず、との指摘です。

「天使また食を再送して師を尋見するに、三日を経て師を見ること得ず。天厨を待つ事なし、大道を所宗とす。辦肯の志気、思いやるべし」

この処は、先の『五灯会元』(同所)にて「師(道膺)は寂然として庵に帰り宴坐(坐禅)すると、天神は此れより竟(つい)に天神は尋ねるが見ず、是の如く三日して乃ち絶つ」(師回庵、寂然宴坐。天神自此竟尋不見如是三日乃絶)という語句を意訳したものであるが、出典籍はわかりません。

そこでの天神送食→天神不見という「行持」の転換(convertion)には、仏祖の「大道を宗とする所」であった。と言うのであり、それには辦道の肯う志気を思い馳せるべき。との薬山→雲居に連動する宴坐(非思量)を示唆するものです。因みに凡そ一年後に提示された『密語』巻では「大師(雲居)は、仏祖のために説法す。三峰庵主の住裏には、天厨送供す。伝法得道の時より、送供の境界を超越せり」(「岩波文庫」㈢四四)と、道膺の志気が取り挙げられる(この章は「行持に学ぶ」二七―二八を参照)。

 

    八 百丈懐海

百丈山大智禪師、そのかみ馬祖の侍者とありしより、入寂のゆふべにいたるまで、一日も爲衆爲人の勤仕なき日あらず。かたじけなく一日不作一日不食のあとをのこすといふは、百丈禪師すでに年老臘高なり、なほ普請作務のところに、壯齢とおなじく勵力す。衆これをいたむ。人これをあはれむ。師やまざるなり。つひに作務のとき、作務の具をかくして師にあたへざりしかば、師その日一日不食なり。衆の作務にくはゝらざることをうらむる意旨なり。これを百丈の一日不作一日不食のあとといふ。いま大宋國に流傳せる臨濟の玄風、ならびに諸方の叢林、おほく百丈の玄風を行持するなり。

百丈懐海(大智禅師749―814)には六十六歳説(陳翊撰・懐海禅師塔銘)と、九十五歳説(『景徳伝灯録』六「大正蔵」五一・二五〇下)があるが、六十六歳説に妥当性がありそうですが、沢木興道氏の提唱録では「この百丈大智禅師、ずいぶん長生きしたものとみえて、九十六歳まで作務をサボらずに出たとある」(「沢木本」一一七)と、従来の説で説明したようである。

「百丈山大智禅師、そのかみ馬祖の侍者と在りしより、入寂の夕べに至るまで、一日も為衆為人の勤仕なき日あらず」

これは百丈による「行持」の継続性を示す逸話で、語録等では百丈が馬祖の侍者であった時の話頭は、「野鴨子の公案」として有名である。その時より馬祖の入寂に至るまで、一日たりとも同参する修行者の面倒を見ない日はなかった。と、「行持」の在り様が記されます。

「かたじけなく、一日不作、一日不食の跡を残すと云うは、百丈禅師すでに年老臘高なり、なお普請作務の処に、壮齢と同じく励力す。衆これを痛む。人これを憐れむ。師止まざるなり。遂に作務の時、作務の具を隠して師に与えざりしかば、師その日一日不食なり。衆の作務に加わらざる事を恨むる意旨なり。これを百丈の一日不作、一日不食の跡と云う」

「行持に学ぶ」(一一九頁)によれば、この処の原典は『天聖広灯録』八「師凡作務執勞、必先於衆。衆不忍其労、密收作具而請息之。師云、吾無徳矣、争合労人。既遍求作具不獲、而亦不食。故有一日不作、一日不食之言。流播寰宇」(「続蔵」七八・四五一下)である漢文を、見事な日本語で表現されると解説されます。

一般的には禅宗の始まりは「百丈清規」に示されるように、「禅門独り行ずるは、懐海の始むるに由る」と記録されますが、その萌芽はすでに馬祖禅門より「行持」されるを、馬祖章に於いても「普請作務の処に、必ず先赴し、老に至りても懈惓せず」との提示をする事で、禅家に於ける「行持」の連脈性を説かんとする主意がありそうです。

「いま大宋国に流伝せる臨済の玄風、ならびに諸方の叢林、多く百丈の玄風を行持するなり」

ここでも馬祖処に於ける結語同様に、百丈→黄檗臨済に正嫡する禅風を示されるものです。

 

    九 鏡清道怤

鏡清和尚住院のとき、土地神かつて師顔をみることえず、たよりをえざるによりてなり。

極めて短文であり、鏡清(868―937)の家風らしき香風は窺がわれず、雲居処で考察したように、土地神的な外道衆には仏法の純粋な理法は窺い知れない事を謂うものかと思われる。

鏡清と云えば「雨滴声」話が有名で『真字正法眼蔵』二八六則にも「鏡清問僧、門外什麼声。僧曰、雨滴声。師云、衆生顛倒迷己逐物。僧云、和尚作麼生。師曰、洎不迷己゚僧曰゚洎不迷己、意旨如何。師曰、出身猶可易脱体道応難」(鏡清が僧に問う、門の外の声(音)は何だ。僧が日う、雨だれの音。鏡清が云う、衆生は顛倒して己れを迷(見失な)って物を逐うか。僧が云うには、和尚はどうですか。鏡清は日う、出身は猶お易しく、脱体は道い難し)と、取り挙げられる鏡清(龍冊寺順徳大師道怤)の門風であり、土地神から侮られない宗風(青原→石頭→天皇→龍潭→徳山→雪峰→鏡清)が道元禅と脈動するのである(さらに詳しい考察は入矢義高著『求道と悦楽』一〇三頁「雨垂れの音」参照のこと)。

 

    十 三平義忠

三平山義忠禪師、そのかみ天厨送食す。大巓をみてのちに、天神また師をもとむるに、みることあたはず。

此の処も前段同様に、三平義忠(781―872)の辦道未尽時には天厨送食を受けたが、師匠の大巓宝通(732―824)に参学して以後は、天神等の外道衆とは絶縁となる。との意であるが、道元禅師が考察する趣意は真金鋪の石頭から分派する天皇道悟系・薬山惟𠑊系・大巓宝通系による天厨送食→大道所宗に到る門風と、雑貨鋪の馬祖より分流し臨済に伝播する一日不作、一日不食を踏襲する家風の相伝を説かんとするようにも見られます。

 

    十一 長慶大安

後大潙和尚いはく、我二十年、在潙山、喫潙山飯、屙潙山屙、不參潙山道。只牧得一頭水牯牛、終日露迥迥也。しるべし、一頭の水牯牛は二十年在潙山の行持より牧得せり。この師、かつて百丈の會下に參學しきたれり。しづかに二十年中の消息おもひやるべし、わするゝ時なかれ。たとひ參潙山道する人ありとも、不參潙山道の行持はまれなるべし。

「後大潙和尚」(793―883)とは潙山霊祐(771―853)寂後に師の踵を継いで住持する経緯で以て後大潙和尚と云い、後に閩川(福建省)に帰り、長慶を開山した経緯を以て長慶大安と称するものである(「後因同参祐禅師。創居大潙、師往躬耕助道。祐帰寂、師継踵住持。後帰閩川、開山長慶、而終老焉」『聯灯会要』七(「続蔵」七九・六九中)。

「後大潙和尚云わく、我二十年、在潙山、喫潙山飯、屙潙山屙、不参潙山道。只牧得一頭水牯牛、終日露迥迥也」

出典籍は『景徳伝灯録』八「安在潙山三十来年、喫潙山飯、屙潙山、不潙山。只一頭水牯牛―略―終日露逈逈地」(「大正蔵」五一・二六七下)と思われますが、―線部に改変が見られます(「行持に学ぶ」では出典を『聯灯会要』とする)。

後大潙の大安和尚が云うには、我は二十年潙山に在って、潙山の飯を喫し、潙山の屙(くそ)を屙(ひっ)たが、潙山の道には参ぜず。只一頭の水牯牛を牧得(かいなら)し、終日露を回々(へめぐる)するのみ。

「知るべし、一頭の水牯牛は二十年在潙山の行持より牧得せり。この師、曾て百丈の会下に参学し来たれり。静かに二十年中の消息思い遣るべし、忘るる時なかれ。喩い参潙山道する人ありとも、不参潙山道の行持は稀なるべし」

長慶大安を一頭の水牯牛、つまり無所得・無所悟の実践者を云うもので、二十年霊祐に仕えた行持での牧得である。との拈提です。「二十年」在潙山は、『景徳伝灯録』では三十年とする処を敢えて二十年とする旨は、「馬祖の二十年」・「洞山坐禅辦道已二十年」・「趙州功夫二十年」といった、二十年を一区切りとする定型を以て、敢えて三十年であった年数を二十年に改変した可能性もありそうであるが、『家常』巻に於いては此部を提示し拈提に供されるが、「仏祖の会下に功夫なる三十年来は喫飯なり」(「岩波文庫」㈢二七一)と記す次第である。

「百丈の会下に参学」とするは、『景徳伝灯録』九に於ける「洪州百丈懐海禅師法嗣三十人」の第七位に列する「福州大安禅師」(「大正蔵」五一・二六四上)に基づいた文脈であるが、百丈の遷座は元和九年(814)正月十七日は各灯録共通する認識でありますから、歴史的事実とする処でしょうが、『宋高僧伝』唐福州怡山院大安伝には「元和十二年(817)勅建州浦城県乾元寺置兜率壇、始全戒足」(「大正蔵」五十・七八〇中)と記載される文意を信とするならば、百丈と長慶も関係「百丈の会下に参学」は成り立たない状況である(「行持に学ぶ」一四二参照)。

道元拈提による長慶大安に於ける「行持」の特質を、「参潙山道」は常人による行持であるが、「不参潙山道」のは禅語に於ける独特な表現法であり思量とも通底するもので、無我の絶対思量を指すもので、長慶の大安は潙山の霊祐に心底に参じ入る境遇を示すものです。

 

    十二 趙州従諗

趙州觀音院眞際大師從諗和尚、とし六十一歳なりしに、はじめて發心求道をこゝろざす。瓶錫をたづさへて行脚し、遍歴諸方するに、つねにみづからいはく、七歳童兒、若勝我者、我即問伊。百歳老翁、不及我者、我即教佗。かくのごとくして南泉の道を學得する功夫、すなはち二十年なり。年至八十のとき、はじめて趙州城東觀音院に住して、人天を化導すること四十年來なり。いまだかつて一封の書をもて檀那につけず。僧堂おほきならず、前架なし、後架なし。あるとき、牀脚をれき。一隻の燒斷の燼木を、繩をもてこれをゆひつけて、年月を經歴し修行するに、知事、この床脚をかへんと請するに、趙州ゆるさず。古佛の家風、きくべし。趙州の趙州に住することは八旬よりのちなり、傳法よりこのかたなり。正法正傳せり、諸人これを古佛といふ。いまだ正法正傳せざらん餘人は師よりもかろかるべし、いまだ八旬にいたらざらん餘人は師よりも強健なるべし。壯年にして輕爾ならんわれら、なんぞ老年の崇重なるとひとしからん。はげみて辦道行持すべきなり。四十年のあひだ世財をたくはへず、常住に米穀なし。あるいは栗子椎子をひろうて食物にあつ、あるいは旋轉飯食す。まことに上古龍象の家風なり、戀慕すべき操行なり。あるとき衆にしめしていはく、儞若一生不離叢林、不語十年五載、無人喚儞作唖漢、已後諸佛也不奈儞何。 これ行持をしめすなり。しるべし、十年五載の不語、おろかなるに相似せりといへども、不離叢林の功夫によりて、不語なりといへども唖漢にあらざらん。佛道かくのごとし。佛道聲をきかざらんは、不語の不唖漢なる道理あるべからず。しかあれば、行持の至妙は不離叢林なり。不離叢林は脱落なる全語なり。至愚のみづからは不唖漢をしらず、不唖漢をしらせず。阿誰か遮障せざれども、しらせざるなり。不唖漢なるを得恁麼なりときかず、得恁麼なりとしらざらんは、あはれむべき自己なり。不離叢林の行持、しづかに行持すべし。東西の風に東西することなかれ。十年五載の春風秋月、しられざれども聲色透脱の道あり。その道得、われに不知なり、われに不會なり。行持の寸陰を可惜許なりと參學すべし。不語を空然なるとあやしむことなかれ。入之一叢林なり、出之一叢林なり。鳥路一叢林なり、徧界一叢林なり。

今回扱う趙州従諗(778―897)に関しては、「当巻」以外でも『仏性』『礼拝得髄』『看経』『道得』『葛藤』『柏樹子』『見仏』『家常』『他神通』各巻に於いて、古則話頭を用いての趙州に対する親密なる拈提を提示される事からも、趙州に対しては一目も二目も置いての「古仏」としての立場を讃嘆する文章になります。

「趙州観音院真際大師従諗和尚、歳六十一歳なりしに、始めて発心求道を志す。瓶錫を携えて行脚し、遍歴諸方するに、常にみづから云く、七歳童児、若勝我者、我即問伊。百歳老翁、不及我者、我即教他。かくの如くして南泉の道を学得する功夫、即ち二十年なり」

この出典籍は『趙州録』に於ける「行状」巻上冒頭言である「其後自攜瓶錫、遍歴諸方。常自謂曰、七歳童児勝我者、我即問伊。百歳老翁不及我者、我即教他」(「続蔵」六八・七六上)を忠実に記述されるが、「六十一歳発心求道」説に関しては遊学当時に於ける伝承(「行持に学ぶ」一四八)であったようである。同様に「南泉道学得功夫二十年」は見得できないが、『柏樹子』巻では「南泉に寓居し、さらに余方にゆかず。辦道功夫すること三十年なり」(「岩波文庫」㈡三九四)と記載する三十年は『趙州録』での「老僧在此間三十余年」(「続蔵」六八・七八下)からの年数と考えられるが、「行持」に於ける二十年は前述のように、修行二十年というシェーマ(図式)に合わせた年数のようにも理解できます。

「年至八十の時、始めて趙州城東観音院に住して、人天を化導する事四十年来なり。未だ曾て一封の書を以て檀那に付ず。僧堂大きならず、前架なし、後架なし。ある時、牀脚折れき。一隻の燒断の燼木を、縄を以てこれを結い付けて、年月を経歴し修行するに、知事、この床脚を替えんと請するに、趙州許さず。古仏の家風、聞くべし。趙州の趙州に住する事は八旬より後なり、伝法よりこのかたなり。正法正伝せり、諸人これを古仏と云う。未だ正法正伝せざらん余人は師よりも軽かるべし、未だ八旬に到らざらん余人は師よりも強健なるべし。壮年にして軽爾ならん我ら、なんぞ老年の崇重なると等しからん。励みて辦道行持すべきなり。四十年の間、世財を蓄えず、常住に米穀なし。或いは栗子椎子を拾うて食物に当つ、或いは旋転飯食す。まことに上古龍象の家風なり、恋慕すべき操行なり」

この処の引用典籍も先述同様に『趙州録』「行状」に続いての「年至八十、方住趙州城東観音院。去石橋十里、已来住持枯槁、志效古人。僧堂無前後架、旋営斎食。縄床一脚折、以焼断薪、用繩繋之。毎有別制新者、師不許也。住持四十年来、未嘗齎一封書告其檀越」(「前掲書」)を底本にしての解釈になりますが、先ほど同様に『柏樹子』巻では「観音院人天化導四十年来」→「観音院住する又三十年」(「前掲書」三九五)・「古仏の家風」→「古仏の操行」・「古龍の家風」→「思斉の龍象」と、提唱時の内容等には微細な差異が生じますが、その時々の各巻での構文の配置による差違と考えられます。

簡潔に訳すると、「八十歳に至って、始めて趙州城(河北省石家荘)の東に在る観音院に住して、人天界を指導教化すること四十年来なり。未だ曾て一通の書を以て檀越に懇願することはせず。僧堂は大きくはなく、前架(僧堂前方の器物収納棚)や後架(僧堂後方の洗面所)も完備せず。ある時には、坐禅単を支える脚が折れ、一本の焼け残った棒杭を縄で結び、年月を経過し修行した処、(直歳)知事が床脚を交換するよう請願するが、趙州和尚は許可せず。古仏の家風を見習うべし。趙州が観音院に住持するは八十歳より後であり、(南泉からの)伝法以後である。正法を正伝するを諸の人は古仏と呼ぶ。まだ正法を正伝しない余の人は趙州より軽率で、まだ八十歳にならない余の人は趙州よりも強健であろう。働き盛り(壮年)にして軽爾な彼らには、どうして老年の崇重なる趙州とは云い難いが、励んで辦道行持すべきである。八十歳から四十年間には世俗の財産は備蓄せず、常住(公界所)には米はなく、栗や椎の実を拾って食物とし、或いは食事を翌日に回す(旋転飯食)こともある。まことに上古の龍象(仏道の勝れた実践者)の家風であり、恋慕すべき操行(志を持った修行)である。

このように『柏樹子』巻(仁治三年(1242)五月二十一日)が先に撰述され、それを元に此の箇所が書かれたものと推察されます。

「あるとき衆に示して云く、你若一生不離叢林、不語十年五載、無人喚你作唖漢、已後諸仏也不奈你何。 これ行持を示すなり。知るべし、十年五載の不語、愚かなるに相似せりと云えども、不離叢林の功夫によりて、不語なりと云えども唖漢にあらざらん。仏道かくの如し。佛道聲をきかざらんは、不語の不唖漢なる道理あるべからず。しかあれば、行持の至妙は不離叢林なり。不離叢林は脱落なる全語なり。至愚のみづからは不唖漢を知らず、不唖漢を知らせず。阿誰か遮障せざれども、知らせざるなり。不唖漢なるを得恁麼なりと聞かず、得恁麼なりと知らざらんは、憐れむべき自己なり。不離叢林の行持、しづかに行持すべし。東西の風に東西する事なかれ。十年五載の春風秋月、知られざれども声色透脱の道あり。その道得、われに不知なり、われに不会なり。行持の寸陰を可惜許なりと参学すべし。不語を空然なると怪しむ事なかれ。入之一叢林なり、出之一叢林なり。鳥路一叢林なり、徧界一叢林なり」

この処も本則話頭出典籍は『聯灯会要』六趙州章「示衆云、汝若一生、不離叢林、不語十年五載、無人喚汝作唖漢。已後仏也不奈汝何」(「続蔵」七九・五八上)を「你(汝)が若し叢林を離れず、十年五年と語らずも、人は你を喚んで唖漢と作すこと無し。已後は諸仏も也(また)你を何とも奈せず」と改変した文体に仕上げますが、『道得』巻(仁治三年(1242)十月五日)では「你若一生不離叢林、兀坐不道十年五歳、無人喚你作唖漢、已後諸仏也不及你哉」(「岩波文庫」㈡二八五)と、標題の道い得る道理は不道兀坐との同等性を示す主眼で説かれるものです。さらには『永平広録』頌古では「趙州示衆云、汝若一生不離叢林、十年五歳兀坐不道。無人喚你作唖漢」と『道得』巻との聯関が示されます。

道元禅師による趙州評価は「不離叢林」の一言に尽きると思われます。叢林での生活では「不語」が原則ですが「不語」≠「唖漢」を詳説されます。

しかしながら、仏道の真の声を聞かない学人は、「不語」=「不唖漢」という道理がわからないのであるが、この道理を会する要は「不離叢林」である。

「不離叢林」とは単なる団体生活ではなく、僧伽自体が「脱落」の動態であり全ての語言を言表するのであるが、愚人は自分自身は「不唖漢」である真実を知らず、その事実を他の人には知らせないのである。誰人も遮障(じゃま)していないけれども、愚か人は「不語」=「不唖漢」を知らせる力量がないのである。

「不唖漢」が真実(得恁麼)であるを聞かず(自覚せず)、知らない(無神経)事は哀れむべき自己の存在である。そういう無自覚な学人は、「不離叢林」の行持を、心しづかに修行住持すべきである。と、「不唖漢」の自覚を促す拈提です。

叢林に於いては風見鶏の如くに東西に右往左往してはならない。十年五年の歳月(春風秋月)は意識しなくても、自然(じねん)に声色の感覚から透脱した道(ことば)があるはずである。と説かれる処を「沢木本」では「声色解脱の道環である」(一四四頁)と、冒頭言である道環の語を用いて説明されます。

しかしながら、この声色透脱の道得は、我々には知り難く、理解し得ないものである。行持は寸陰を惜しみ参禅学道すべきで、「不語」=「空然」と思ってはならない。と改めて「不語」と「唖漢」との違いを示し、結句では先に取り挙げた鏡清による「為汝出一叢林入一叢林」(「続蔵」七九・二一二下)を示し、さらには洞山による「不行鳥道」(「大正蔵」五一・三二二下)を援用した「鳥路一叢林」で以て叢林での修行では跡形を残さぬ只管打坐を示し、重ねて尽十方界の真実態それぞれが叢林の具現化した「徧界一叢林」である。と、趙州に対する本則拈提を締め括られます。

 

    十三 大梅法常

大梅山は慶元府にあり。この山に護聖寺を草創す、法常禪師その本元なり。禪師は襄陽人なり。かつて馬祖の會に參じてとふ、如何是佛と。馬祖いはく、即心是佛と。法常このことばをきゝて、言下大悟す。ちなみに大梅山の絶頂にのぼりて人倫に不群なり、草庵に獨居す。松實を食し、荷葉を衣とす。かの山に少池あり、池に荷おほし。坐禪辦道すること三十餘年なり。人事たえて見聞せず、年暦おほよそおぼえず、四山青又黄のみをみる。おもひやるにはあはれむべき風霜なり。師の坐禪には、八寸の鐵塔一基を頂上におく、如戴寶冠なり。この塔を落地卻せしめざらんと功夫すれば、ねぶらざるなり。その塔いま本山にあり、庫下に交割す。かくのごとく辦道すること、死にいたりて懈惓なし。かくのごとくして年月を經歴するに、鹽官の會より一僧きたりて、やまにいりて拄杖をもとむるちなみに、迷山路して、はからざるに師の庵所にいたる。不期のなかに師をみる、すなはちとふ、和尚、この山に住してよりこのかた、多少時也。師いはく、只見四山青又黄。この僧またとふ、出山路、向什麼處去。師いはく、隨流去。この僧あやしむこゝろあり。かへりて鹽官に擧似するに、鹽官いはく、そのかみ江西にありしとき、一僧を曾見す。それよりのち、消息をしらず。莫是此僧否。つひに僧に命じて師を請ずるに出山せず。偈をつくりて答するにいはく、摧殘枯木倚寒林、 幾度逢春不變心、樵客遇之猶不顧、郢人那得苦追尋。つひにおもむかず。これよりのちに、なほ山奥へいらんとせしちなみに、有頌するにいはく、一池荷葉衣無盡、數樹松花食有餘。剛被世人知住處、 更移茅舎入深居。つひに庵を山奥にうつす。あるとき、馬祖ことさら僧をつかはしてとはしむ。和尚そのかみ馬祖を參見せしに、得何道理、便住此山なる。師いはく、馬祖、われにむかひていふ、即心是佛。すなはちこの山に住す。僧いはく、近日は佛法また別なり。師いはく、作麼生別なる。僧いはく、馬祖いはく、非心非佛とあり。師いはく、這老漢、ひとを惑亂すること了期あるべからず。任佗非心非佛、我祗管即心是佛。この道をもちて馬祖に擧似す。馬祖いはく、梅子熟也。この因縁は、人天みなしれるところなり。天龍は師の神足なり、倶胝は師の法孫なり。高麗の迦智は、師の法を傳持して本國の初祖なり。いま高麗の諸師は師の遠孫なり。生前には一虎一象、よのつねに給侍す、あひあらそはず。師の圓寂ののち、虎象いしをはこび、泥をはこびて師の塔をつくる。その塔、いま護聖寺に現存せり。師の行持、むかしいまの知識とあるは、おなじくほむるところなり。劣慧のものはほむべしとしらず。貪名愛利のなかに佛法あらましと強爲するは小量の愚見

大梅法常(752―839)を取り挙げたものに「当巻」のほかには、『嗣書』(仁治二年1241)・『諸法実相』(寛元元年1243)各巻、『永平広録』(三一九・建長元年1249)などに詳述されるが、そこでは如浄(1162―1227)と大梅との関連をも説き示されます。

「大梅山は慶元府にあり。この山に護聖寺を草創す、法常禅師その本元なり。禅師は襄陽人なり。曾て馬祖の会に参じて問う、如何是仏と。馬祖云く、即心是仏と。法常この詞を聞きて、言下大悟す。因みに大梅山の絶頂に登りて人倫に不群なり、草庵に独居す。松実を食し、荷葉を衣とす。かの山に少池あり、池に荷多し。坐禅辦道すること三十余年なり。人事絶えて見聞せず、年暦おほよそ覚えず、四山青又黄のみを見る。思い遣るには哀れむべき風霜なり。師の坐禅には、八寸の鉄塔一基を頂上に置く、如戴宝冠なり。この塔を落地せしめざらんと功夫すれば、ねぶらざるなり。その塔いま本山にあり、庫下に交割す。かくの如く辦道する事、死に至りて懈惓なし」

この処の出典籍は『景徳伝灯録』七に於ける「明州大梅山法常禅師者、襄陽人也、姓鄭氏。幼歳従師於荊州玉泉寺、初参大寂。問如何是仏。大寂云、即心是仏。師即大悟。唐貞元中居於天台山餘姚南七十里、梅子真旧隠。時塩官会下一僧入山采拄杖、迷路至庵所。問曰。和尚在此山来多少時也。師曰。只見四山青又黄。又問。出山路向什麼処去。師曰、随流去。僧帰説似塩官。塩官曰、我在江西時曾見一僧、自後不知消息、莫是此僧否。遂令僧去 請出師。師有偈曰、摧残枯木倚寒林、幾度逢春不変心。樵客遇之猶不顧、郢人那得苦追尋。大寂聞師住山、乃令一僧到問云、和尚見馬師得箇什麼便住此山。師云、馬師向我道即心是仏、我便向遮裏住。僧云、馬師近日仏法又別。師云、作麼生別。僧云、近日又道非心非仏。師云、遮老漢惑乱人未有了日。任汝非心非仏。我只管即心即仏。其僧迴挙似禅祖。祖云、大衆、梅子熟也」(「大正蔵」五一・二五四下)に於ける―部を基に記述されたものと思われます。

「大梅山は慶元府にあり。この山に護聖寺を草創す、法常禅師その本元なり。禅師は襄陽人なり。曾て馬祖の会に参じて問う、如何是仏と。馬祖云く、即心是仏と。法常この詞を聞きて、言下大悟す。因みに大梅山の絶頂に登りて人倫に不群なり、草庵に独居す。松実を食し、荷葉を衣とす。かの山に少池あり、池に荷多し。坐禅辦道すること三十余年なり。人事絶えて見聞せず、年暦凡そ覚えず、四山青又黄のみを見る。思い遣るには哀れむべき風霜なり。師の坐禅には、八寸の鉄塔一基を頂上に置く、如戴宝冠なり。この塔を落地却せしめざらんと功夫すれば、ねぶらざるなり。その塔いま本山にあり、庫下に交割す。かくの如く辦道する事、死に至りて懈惓なし」

「慶元府」とは現在の寧波(ニンポー)に当たり、「襄陽人」とは今の湖北省出身の意。「坐禅辦道三十余年」とするが、『宋高僧伝』によると貞元十二年(796)大梅山に入山し、示寂は開成四年(839)とする(「大正蔵」五〇・七七六上)と古住は四十四年の計算になるが、重箱を突く詮索は止め概数としよう。「八寸の鉄塔」の話の出典は不明で、在宋時代に於ける見聞であり、「その塔いま本山にあり、庫下に交割す」とは『嗣書』巻に記される「台山より天童に帰る路程に、大梅山護聖寺の旦過に宿した」(「岩波文庫」㈡三八七)時に実際に目にされたものと想像されます。

「かくの如くして年月を経過歴するに、塩官の会より一僧来たりて、山に入りて拄杖を求むる因みに、迷山路して、計らざるに師の庵所に到る。不期の中に師を見る、即ち問う、和尚、この山に住してよりこのかた、多少時也。師云く、只見四山青又黄。この僧また問う、出山路、向什麼處去。師云く、随流去。この僧怪しむ心あり。帰りて塩官に挙似するに、塩官云く、そのかみ江西に在りし時、一僧を曾見す。それより後、消息を知らず。莫是此僧否。遂に僧に命じて師を請ずるに出山せず。偈を作りて答するに云く、摧残枯木倚寒林、 幾度逢春不変心、樵客遇之猶不顧、郢人那得苦追尋。遂に赴むかず。これより後に、なお山奥へ入らんとせし因みに、有頌するに云く、一池荷葉衣無尽、数樹松花食有余。剛被世人知住処、 更移茅舎入深居。遂に庵を山奥に移す。ある時、馬祖ことさら僧を遣わして問わしむ。和尚そのかみ馬祖を参見せしに、得何道理、便住此山なる。師云く、馬祖、我に向いて云う、即心是仏。則ちこの山に住す。僧云く、近日は仏法また別なり。師云く、作麼生別なる。僧云く、馬祖云く、非心非仏とあり。師云く、這老漢、人を惑乱すること了期あるべからず。任他非心非仏、我祗管即心是仏。この道をもちて馬祖に挙似す。馬祖云く、梅子熟也。この因縁は、人天みな知れる所なり」

此の処は先の…部に該当するものですが、「随流去」とは、水の流れに随って山を下れば里山に出、安全である。との意であり、一般には時流に乗れ。と云われる喩えですが、石井修道『道元霊夢の中での大梅法常との出会いと修証観』注⑸で示されるように、「流れに随いて去け。と云う一言は、実は即心是仏の語と密かに共鳴し合っている」(小川隆『語録の思想史』)との指摘は、興味深い考察である。

「摧残枯木倚寒林」とは、法常自身を摧残の枯木に喩え、「幾度逢春不変化」と、自身の心の変遷を語り、「樵客遇之猶不顧」と、山中では杣人と遭遇しても、自然と一体化した法常には振り向きもせず、「郢人那得苦追尋」と、塩官が追い尋ねても得られるものではない。との意です。

さらに「遷居偈頌」である「一池荷葉衣無尽」(一つの池の荷葉で衣の心配はなく)、「数樹松花食有余」(数本の松花で不足なし)。「剛被世人知住処」(剛(いま)世の人に住処を知られたが)、「更移茅舎入深居」(更に房を移し深居に入る)。と示されますが、この頌は『明州大梅山常禅師語録』に確認できる(『中世禅籍叢刊』九大梅章14オ)。

「天龍は師の神足なり、倶胝は師の法孫なり。高麗の迦智は、師の法を伝持して本国の初祖なり。いま高麗の諸師は師の遠孫なり。生前には一虎一象、よの常に給侍す、相い争わず。師の円寂の後、虎象石を運び、泥を運びて師の塔を作る。その塔、いま護聖寺に現存せり。師の行持、昔いまの知識とあるは、同じく誉むる処なり。劣慧の者は誉むべしと知らず。貪名愛利の中に仏法あらましと強為するは小量の愚見なり」

最後に拈提という形で語られます。大梅法常を嗣ぐ者として高弟の天龍(生没不詳)・倶胝(生没不詳)を輩出し、彼らを神足・法孫として紹介し、さらには朝鮮高麗出身の迦智(生没不詳)を輩出した法常の力量を言わんとするものです。因みに天龍の語録としては「僧問、如何是仏祖意。師竪起払子」、迦智には「新羅国迦智禅師。僧問、如何是西来意。師云、待汝裏頭来、即与汝道」(「大正蔵」五一・二八〇上)などの説法話が散見されます。

「虎象」の話は、恐らくは護聖寺を訪れた際に仄聞した話で、そこには虎・象が作ったとされた塔を実見された旨を記述されます。

このような法常禅師の「行持」は、古今に善知識(指導者)を有する者には讃仰するが、智慧の劣なる者は貪名愛利の道具として仏法を見るは、器量の小さな愚見である。と大梅法常による「行持」を纏められます。

 

    十四 五祖法演

五祖山の法演禪師いはく、師翁はじめて楊岐に住せしとき、老屋敗椽して風雨之敝はなはだし。ときに冬暮なり、殿堂ことごとく舊損せり。そのなかに僧堂ことにやぶれ、雪霰滿床、居不遑處なり。雪頂の耆宿なほ澡雪し、厖眉の尊年、皺眉のうれへあるがごとし。衆僧やすく坐禪することなし。衲子、投誠して修造せんことを請ぜしに、師翁却之いはく、我佛有言、時當減劫高岸深谷、遷變不常。安得圓滿如意、自求稱足ならん。古往の聖人、おほく樹下露地に經行す。古來の勝躅なり、履空の玄風なり。なんだち出家學道する、做手脚なほいまだおだやかならず。わづかにこれ四五十歳なり、たれかいたづらなるいとまありて豐屋をこととせん。つひに不從なり。翌日に上堂して、衆にしめしていはく、楊岐乍住屋壁疎、滿床盡撒雪珍珠。縮却項、暗嗟嘘、飜憶古人樹下居。つひにゆるさず。しかあれども、四海五湖の雲衲霞袂、この會に掛錫するをねがふところとせり。耽道の人おほきことをよろこぶべし。この道、こゝろにそむべし、この語、みに銘ずべし。演和尚、あるときしめしていはく、行無越思、思無越行。この語、おもくすべし。日夜思之、朝夕行之、いたづらに東西南北の風にふかるゝがごとくなるべからず。いはんやこの日本國は、王臣の宮殿なほその豐屋あらず、わづかにおろそかなる白屋なり。出家學道の、いかでか豐屋に幽棲するあらん。もし豐屋をえたる、邪命にあらざるなし、清淨なるまれなり。もとよりあらんは論にあらず、はじめてさらに經営することなかれ。草庵白屋は古聖の所住なり、古聖の所愛なり。晩學したひ參學すべし、たがふることなかれ。黄帝堯舜等は、俗なりといへども草屋に居す、世界の勝躅なり。尸子曰、欲觀黄帝之行、於合宮。欲觀堯舜之行、於總章。黄帝明堂以草蓋之、名曰合宮。舜之明堂以草蓋之、名曰總章。しるべし、合宮總章はともに草をふくなり。いま黄帝堯舜をもてわれらにならべんとするに、なほ天地の論にあらず。これなほ草蓋を明堂とせり。俗なほ草屋に居す、出家人いかでか高堂大觀を所居に擬せん。慚愧すべきなり。古人の樹下に居し、林間にすむ、在家出家ともに愛する所在なり。黄帝は崆峒道人廣成の弟子なり、廣成は崆峒といふ岩のなかにすむ。いま大宋國の國王大臣、おほくこの玄風をつたふるなり。しかあればすなはち、塵勞中人なほかくのごとし。出家人いかでか塵勞中人よりも劣ならん、塵勞中人よりもにごれらん。向來の佛祖のなかに、天の供養をうくるおほし。しかあれども、すでに得道のとき、天眼およばず、鬼神たよりなし。そのむね、あきらむべし。天衆神道もし佛祖の行履をふむときは、佛祖にちかづくみちあり。佛祖あまねく天衆神道を超證するには、天衆神道はるかに見上のたよりなし、佛祖のほとりにちかづきがたきなり。南泉いはく、老僧修行のちからなくして鬼神に覰見せらる。しるべし、無修の鬼神に覰見せらるゝは、修行のちからなきなり。

標題では「五祖法演」としたが説かれる内容は、

法演の孫師匠に当たる楊岐方会(992―1049)の讃仰を説くもので、出典籍は『禅林宝訓』を底本とするものである。

演祖曰。師翁初住楊岐、老屋敗椽僅蔽風雨。適臨冬莫、雪霰満床、居不遑処。衲子、投誠願

充修造、師翁却之曰、我仏有言、時当減劫、高岸深谷、遷変不常。安得円満如意、自求称足。汝等出家学道、做手脚未穏。已是四五十歳、詎有閒工夫、事豊屋耶。竟不従。翌日上堂曰、

楊岐乍住屋壁疎、満床尽撒雪珍珠。縮却項、暗嗟吁、翻憶古人樹下居。広録演祖曰、衲子守心城、奉戒律。日夜思之、朝夕行之。行無越思、思無越行。有其始而成其終、猶耕者之有畔、其過鮮矣。(「大正蔵」四八・一〇一八下)

「五祖山の法演禅師云く、師翁はじめて楊岐に住せし時、老屋敗椽して風雨之敝甚だし。時に冬暮なり、殿堂悉く旧損せり。その中に僧堂殊に破れ、雪霰満床、居不遑処なり。雪頂の耆宿なお澡雪し、厖眉の尊年、皺眉の愁え有るが如し。衆僧やすく坐禅する事なし。衲子、投誠して修造せん事を請ぜしに、師翁却之云く、我仏有言、時当減劫高岸深谷、遷変不常。安得円満如意、自求称足ならん。古往の聖人、多く樹下露地に経行す。古来の勝躅なり、履空の玄風なり。なんだち出家学道する、做手脚なお未だ穏やかならず。僅かにこれ四五十歳なり、誰かいたづらなる暇ありて豊屋を事とせん。遂に不従なり。翌日に上堂して、衆に示して云く、楊岐乍住屋壁疎、満床尽撒雪珍珠。縮却項、暗嗟嘘、飜憶古人樹下居。遂に許さず。しかあれども、四海五湖の雲衲霞袂、この会に掛錫するを願う処とせり。耽道の人多き事を喜ぶべし。この道、心に染むべし、この語、身に銘ずべし」

先に示した原典―部を和文に提示されたものであるが、「殿堂悉く旧損せり。その中に僧堂殊に破れ」「雪頂の耆宿なお澡雪し、厖眉の尊年、皺眉の愁え有るが如し。衆僧やすく坐禅する事なし」「古往の聖人、多く樹下露地に経行す。古来の勝躅なり、履空の玄風なり」はほかの文献(不明)からの添付であろうか。

「老屋敗椽」は寺院が老朽化し椽(たるき)が腐り始める状況を云う。「雪霰満床、居不遑処」は雪や霰(あられ)が床に満ち、居するに遑(いとま)処せず。「雪頂の耆宿なお澡雪」は、雪頂とは白髪の老僧が、雪を払い修行する様態。「我仏有言、時当減劫高岸深谷、遷変不常。安得円満如意、自求称足」は、わが仏が言うには、時は劫を減ずる(末世)に至り、切り立つ岸・深谷の、遷り変わりは常ならず。安(いづ)くんぞ円満如意にして、自ら称足なるを求むを得ん。

「楊岐乍住屋壁疎、満床尽撒雪珍珠。縮却項、暗嗟嘘、飜憶古人樹下居」は楊岐(山)に乍(はじ・たちま)めて住す屋壁は疎(おろそ)かで、大衆が坐禅するどの単でも雪の真珠を

撒らした様である。(大衆は)項(くびすじ)を縮め、暗(ひそか)に溜息(嗟嘘)するが、飜って憶うに古人は樹下に居すを。

「遂に許さず」からが、本則話に対する著語としますが、このように廃屋の如きをも修復させなかった楊岐方会の姿勢は、趙州段にても「ある時、牀脚折れき。一隻の燒断の燼木を、縄を以てこれを結い付けて、年月を経歴し修行するに、知事、この床脚を替えんと請するに、趙州許さず」に連語するもので、道元の敬慕する辦道法が窺い知れるものである。

因みに、この本則話頭は『永平寺知事清規』(「大正蔵」八二・三三六下)にも取り挙げられる。

「演和尚、あるとき示して云く、行無越思、思無越行。この語、重くすべし。日夜思之、朝夕行之、いたづらに東西南北の風に吹かるるが如くなるべからず。いわんやこの日本国は、王臣の宮殿なおその豊屋あらず、わづかに疎かなる白屋なり。出家学道の、いかでか豊屋に幽棲するあらん。もし豊屋を得たる、邪命にあらざるなし、清浄なる稀なり。元よりあらんは論にあらず、初めて更に経営する事なかれ。草庵白屋は古聖の所住なり、古聖の所愛なり。晩学慕い参学すべし、たがうる事なかれ。黄帝堯舜等は、俗なりと云えども草屋に居す、世界の勝躅なり」

先に示した『禅林宝訓』…部に於ける法演和尚が語られた「行持は思いを越える事無く、思いは行持を越える事なし」(行無越思、思無越行)に対する思いを語られます。

まずは「行」と「思」を対立的に捉えるのではなく重く受け取り、日夜に思いをかけ、朝夕に実践する。との基本的辦道姿勢を示されるもので、「いたづらに東西南北の風に吹かれるな」とは、趙州が云う不離叢林と同事の類いを謂わんとするものです。

ここで唐突に「日本国の王臣の宮殿」に言及されますが、自身の周辺事情等を回顧されての文章のようにも拝察されます。とにもかくにも、清浄心を保つには白屋・草屋が絶対条件であり、「黄帝・堯・舜」の古代中国を例えに挙げる文体構成になります。

「尸子曰、欲観黄帝之行、於合宮。欲観堯舜之行、於総章。黄帝明堂以草蓋之、名曰合宮。舜之明堂以草蓋之、名曰総章。しるべし、合宮総章はともに草を葺くなり。いま黄帝堯舜をもて我ら並べんとするに、なお天地の論にあらず。これなお草蓋を明堂とせり。俗なお草屋に居す、出家人いかでか高堂大観を所居に擬せん。慚愧すべきなり。古人の樹下に居し、林間にすむ、在家出家ともに愛する所在なり。黄帝は崆峒道人広成の弟子なり、広成は崆峒と云う岩の中に棲む。いま大宋国の国王大臣、多くこの玄風を伝うるなり。しかあれば即ち、塵勞中人なおかくの如し。出家人いかでか塵勞中人よりも劣ならん、塵勞中人よりも濁れらん。向来の仏祖の中に、天の供養を受くる多し。しかあれども、すでに得道の時、天眼及ばず、鬼神たよりなし。その旨、明らむべし。天衆神道もし仏祖の行履を踏む時は、仏祖に近づく道あり。仏祖あまねく天衆神道を超証するには、天衆神道はるかに見上のたよりなし、仏祖の畔に近づき難きなり。南泉云く、老僧修行の力なくして鬼神に覰見せらる。知るべし、無修の鬼神に覰見せらるるは、修行の力なきなり」

本則である「尸子曰」の文は、尸佼の著作十三篇の内の明堂に当該されるもので、「黄帝の行を観んと欲(おも)うなら、合宮(政治をする建物)に於いてすべし。堯舜の行を観んと欲わば、総章(執政の部屋)に於いてすべし」の文体は先述同様『永平寺知事清規』にも援用されますが、次いで「以之知之、古聖賢之君、宮垣宮屋弗崇。茅茨之蓋不剪、況乎仏祖之児孫。誰事豊屋、経営于朱樓玉殿者乎。一生光陰不幾、莫虚度矣」(「大正蔵」八二・三三七上)と記述され、白屋と菩提心との連関を示されます。なお黄帝に関しては『古鏡』(「岩波文庫」㈡二三)『山水経』(「同」㈡二〇一)それぞれの巻にて取り挙げられる。

「合宮・総章は共に草を葺くなり」と言及されますが、明治の初頭に於いては永平寺の僧堂はわらぶきであった(「沢木本」一六五)ようだが、現今の近代化された七堂伽藍からは想像も出来ないほど質素であったようであるが、道元禅師を慕古し古(いにしえ)に戻すは実質不可能ではあるが、ディレンマが生じる問題である。

在俗である黄帝・堯・舜等の具体的事例を示し、それらを「塵勞中人」と比定し「出家人」と相対視させる論述は、能所観的手法とも受け取られるものである。

「向来の仏祖の中に、天の供養を受くる多し」からは話題が雲居・鏡清・三平章に於ける「天衆神道」と「仏道」との次元の差異を、「南泉云く、老僧修行の力なくして鬼神に覰見せらる。知るべし、無修の鬼神に覰見せらるるは、修行の力なきなり」(『景徳伝灯録』八「王老師修行無力、被鬼神覰見」(「大正蔵」五一・二五七下)との言句を引き合いに語られます。

 

    十五 宏智正覚

太白山宏智禪師正覺和尚の會に、護伽藍神いはく、われきく、覺和尚この山に住すること十餘年なり。つねに寝堂いたりてみんとするに、不能前なり、未之識なり。まことに有道の先蹤にあひあふなり。この天童山は、もとは小院なり。覺和尚の住裡に、道士觀尼寺教院等を掃除して、いまの景徳寺となせり。師、遷化ののち、左朝奉大夫侍御史王伯庠、ちなみに師の行業記を記するに、ある人いはく、かの道士觀尼寺教寺をうばひて、いまの天童寺となせることを記すべし。御史いはく、不可也、此事非僧徳矣。ときの人、おほく侍御史をほむ。しるべし、かくのごとくの事は俗の能なり、僧の徳にあらず。おほよそ佛道に登入する最初より、はるかに三界の人天をこゆるなり。三界の所使にあらず、三界の所見にあらざること、審細に咨問すべし。身口意および依正をきたして功夫參究すべし。佛祖行持の功徳、もとより人天を濟度する巨益ありとも、人天さらに佛祖の行持にたすけらるゝと覺知せざるなり。いま佛祖の大道を行持せんには、大隱小隱を論ずることなく、聰明鈍癡をいとふことなかれ。たゞながく名利をなげすてて、萬縁に繋縛せらるゝことなかれ。光陰をすごさず、頭燃をはらふべし。大悟をまつことなかれ、大悟は家常の茶飯なり。不悟をねがふことなかれ、不悟は髻中の寶珠なり。たゞまさに家郷あらんは家郷をはなれ、恩愛あらんは恩愛をはなれ、名あらんは名をのがれ、利あらんは利をのがれ、田園あらんは田園をのがれ、親族あらんは親族をはなるべし。名利等なからんも又はなるべし。すでにあるをはなる、なきをもはなるべき道理あきらかなり。それすなはち一條の行持なり。生前に名利をなげすてて一事を行持せん、佛壽長遠の行持なり。いまこの行持、さだめて行持に行持せらるゝなり。この行持あらん身心、みづからも愛すべし、みづからもうやまふべし。

宏智正覚(1091―1157)は天童寺第十六世住持であり、道元の師にあたる長翁如浄(1162―1227)は第三十一世となる。道元からすれば宏智の存在は、如浄―智鑑―宗珏―宏智となるわけで、四世代・百年前の老古仏と称されるわけである。一方同世代の大慧宗杲(1089―1163)とは親交密であり、宏智の葬儀は大慧が仕切り、十七世天童寺後住には宏智直弟子の法為(生没不詳)を継がせた事実がある。「正法眼蔵」に於いては『坐禅箴』『春秋』『王索仙陀婆』『深信因果』各巻に宏智の章を設け賛仰するものではあるが、殊に特筆すべきは宏智による「坐禅箴」を、道元自身による再構成した「坐禅箴」に新たに改め、単なる仰讃に留まることなく常に向上路を歩む姿勢に、宏智を古仏と讃嘆する由縁が見て取れるものである。

太白山宏智禅師正覚和尚の会に、護伽藍神云く、われ聞く、覚和尚この山に住すること十余年なり。常に寝堂至りて見んとするに、不能前なり、未之識なり。まことに有道の先蹤に相い逢うなり。この天童山は、もとは小院なり。覚和尚の住裡に、道士観尼寺教院等を掃除して、今の景徳寺となせり。師、遷化の後、左朝奉大夫侍御史王伯庠、因みに師の行業記を記するに、ある人云く、かの道士観尼寺教寺を奪いて、今の天童寺と成せる事を記すべし。御史云く、不可也、此事非僧徳矣。時の人、多く侍御史を誉む」

冒頭部は『宏智広録』九勅諡宏智禅師行業記「僵仆於地言曰、我護伽藍神也。与太白神角力、可令僧衆誦咒助我。或曰、何不以告堂頭。神曰、我聞覚和尚住此十余年矣。毎至寢堂欲見之、即戦慄不能前、竟未之識也。其為文初不経意、下筆即成」(「大正蔵」四八・一二〇下)からの―部に即して記述されたものであるが、この「護伽藍神」は先述の「無修の鬼神」にも同定されるものであり、道元の説き示す「行持」の主眼が無修と修証の違いに在りそうである。

続いて現在の景徳寺の外観は、宏智正覚の住持した時に、道教の建物(道士観)や尼寺や天台の教学の建物(教院)などを整理統合し、今の外観としたが、元々は小さな寺院であった。と述べられますが、この話は「行業記」等には見られず、自身の安居時に仄聞したものかとも思われます。

「師(宏智)の遷化」は紹興二十年(1157)十月八日。「左朝奉大夫」は位階「侍御史」は職務の名。「王伯庠」は行業記撰者名。「師の行業記を記す」は乾道二年(1166)六月であるから、遷化後十年となる。その撰する時に、前述に云う道士観・尼寺・教院等を行業記に記載するよう王伯庠に求めたが、侍御史の云うには、そのような事業は「僧の徳分に非ず」。と云い切る態度を、周囲の多くの人も賞賛した。と記すが、これも恐らく現地で聞き及んだものであろう。

「知るべし、かくの如くの事は俗の能なり、僧の徳にあらず。凡そ仏道に登入する最初より、はるかに三界の人天を越ゆるなり。三界の所使にあらず、三界の所見にあらざる事、審細に咨問すべし。身口意および依正を来たして功夫参究すべし。仏祖行持の功徳、もとより人天を済度する巨益ありとも、人天さらに仏祖の行持に助けらるると覚知せざるなり」

これからが拈提になるわけであるが、冒頭に於いては無修の鬼神(護伽藍神)と仏道修証との違いを説かれましたが、改めて世俗の能力と僧の徳分との差異を力説されます。

僧は仏道に入った最初から、欲界・色界・無色界の世界である三界の人界・天界を超出するのではあるが、それは三界に使われるのでも、三界から見られる所でもない事を、殊細かに指導者に問い質しなさい。

その方法としては、身口意の体全体および依正(環境世界と自分自身)を以て功夫を重ね参究すべきである。

仏祖による行持の功徳は、元来は人間界・天上界を済度する巨大な利益があるけれども、人界・天界からは全く、覚知する事はないのである。

「いま仏祖の大道を行持せんには、大隠小隠を論ずる事なく、聡明鈍癡を厭う事なかれ。ただ長く名利を投げ捨てて、万縁に繋縛せらるる事なかれ。光陰を過さず、頭燃を払うべし。大悟を待つ事なかれ、大悟は家常の茶飯なり。不悟を願う事なかれ、不悟は髻中の宝珠なり。只まさに家郷あらんは家郷を離れ、恩愛あらんは恩愛を離れ、名あらんは名を遁れ、利あらんは利を遁れ、田園あらんは田園を遁れ、親族あらんは親族を離るべし。名利等なからんも又離るべし。すでにあるを離る、なきをも離るべき道理あきらかなり。それ即ち一条の行持なり。生前に名利を投げ捨てて一事を行持せん、仏寿長遠の行持なり。今この行持、定めて行持に行持せらるるなり。この行持あらん身心、みづからも愛すべし、みづからも敬うべし」

この処の評著は、宏智に対する個別的著語ではなく、一般論としての行持の在り方を述べられるものである。

「大隠小隠」とは、白楽天『白氏文集』巻五十二「中隠」に於ける「大隠住朝市小隠入丘樊。丘樊太冷落、朝市太囂諠。不如作中隠、隠在留司官。似出復似処、非忙亦非閑」(白氏長慶集 kanripo.ore/text/kr4c0069/052/)で云う所の、隠者のカテゴリー化を論ずることなく、頭が良い(聡明)とか愚か(鈍癡)である事を嫌い、避けてはならない。

要は名門利養を投げ棄て、万縁に繋縛されてはならない。時間(光陰)を無駄に過ごさずに、頭燃を払うように行持(修行)に務むべきである。その状況下では大悟は期待してはならない。大悟とは日常の茶飯と同格である。逆に不悟をも願ってはならず、いわば不悟とは髻中の宝珠である。と、「行持」の肝要を説き示されますが、主客未分なる諸法真実相を謂わんとするものと考えられます。

実際には、家と郷里ある者は家郷を離れ、肉親の恩愛ある者は恩愛を離れ、名門利養ある者は名利を離れ、田園の資産や親族ある者は田園・親族をも離れるべきである。と、出家学道人としての原理原則を提示するもので、さらには有るものから離れるは当然で、名利などが無いという存在をも離れる道理は明らかである。

これらの世俗から離れる事が一条(筋)の「行持」である。生前に名利を投げ捨て一事を行持する事は、仏寿(真実態)の永続性につながる行持である。今の行持は間違いなく、「行持」自体が行持させられているのである。このように行持が行われる身心(尽十方界真実人体)は、自分自身が大切にし敬うべきである。と、太白山宏智禅師正覚和尚に対する「行持」の具体事例はほとんど列記する事なく終わらせますが、「宏智坐禅箴」などを援用しての「行持」評著など見たかったものです。

 

    十六 大慈寰中・洞山良价・雲居道膺

大慈寰中禪師いはく、説得一丈、不如行取一尺。説得一尺、不如行取一寸。これは、時人の行持おろそかにして佛道の通達をわすれたるがごとくなるをいましむるににたりといへども、一丈の説は不是とにはあらず、一尺の行は一丈説よりも大功なるといふなり。なんぞたゞ丈尺の度量のみならん、はるかに須彌と芥子との論功もあるべきなり。須彌に全量あり、芥子に全量あり。行持の大節、これかくのごとし。いまの道得は寰中の自爲道にあらず、寰中の自爲道なり。洞山悟本大師道、説取行不得底、行取説不得底。これ高祖の道なり。その宗旨は、行は説に通ずるみちをあきらめ、説の行に通ずるみちあり。しかあれば、終日とくところに終日おこなふなり。その宗旨は、行不得底を行取し、説不得底を説取するなり。

雲居山弘覺大師、この道を七通八達するにいはく、説時無行路、行時無説路。この道得は行説なきにあらず、その説時は、一生不離叢林なり。その行時は、洗頭到雪峰前なり。説時無行路、行時無説路、さしおくべからず、みだらざるべし。古來の佛祖いひきたれることあり、いはゆる若人生百歳、不會諸佛機、未若生一日、而能決了之。これは一佛二佛のいふところにあらず、諸佛の道取しきたれるところ、諸佛の行取しきたれるところなり。百千萬劫の回生回死のなかに、行持ある一日は、髻中の明珠なり、同生同死の古鏡なり。よろこぶべき一日なり、行持力みづからよろこばるゝなり。行持のちからいまだいたらず、佛祖の骨髓うけざるがごときは、佛祖の身心ををしまず、佛祖の面目をよろこばざるなり。佛祖の面目骨髓、これ不去なり、如去なり、如來なり、不來なりといへども、かならず一日の行持に稟受するなり。しかあれば、一日はおもかるべきなり。いたづらに百歳いけらんは、うらむべき日月なり、かなしむべき形骸なり。たとひ百歳の日月は聲色の奴婢と馳走すとも、そのなか一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の佗生をも度取すべきなり。この一日の身命はたふとぶべき身命なり、たふとぶべき形骸なり。かるがゆゑに、いけらんこと一日ならんは、諸佛の機を會せば、この一日を曠劫多生にもすぐれたりとするなり。このゆゑに、いまだ決了せざらんときは、一日をいたづらにつかふことなかれ。この一日はをしむべき重寶なり。尺璧の價直に擬すべからず、驪珠にかふることなかれ。古賢をしむこと身命よりもすぎたり。しづかにおもふべし、驪珠はもとめつべし、尺璧はうることもあらん。一生百歳のうちの一日は、ひとたびうしなはん、ふたゝびうることなからん。いづれの善巧方便ありてか、すぎにし一日をふたゝびかへしえたる。紀事の書にしるさざるところなり。もしいたづらにすごさざるは、日月を皮袋に包含して、もらさざるなり。しかあるを、古聖先賢は、日月ををしみ光陰ををしむこと、眼睛よりもをしむ、國土よりもをしむ。そのいたづらに蹉過するといふは、名利の浮世に濁亂しゆくなり。いたづらに蹉過せずといふは、道にありながら道のためにするなり。すでに決了することをえたらん、また一日をいたづらにせざるべし。ひとへに道のために行取し、道のために説取すべし。このゆゑにしりぬ、古來の佛祖いたづらに一日の功夫をつひやさざる儀、よのつねに觀想すべし。遲々花日も明窓に坐しておもふべし、蕭々雨夜も白屋に坐してわするゝことなかれ。光陰なにとしてかわが功夫をぬすむ。一日をぬすむのみにあらず、多劫の功徳をぬすむ。光陰とわれと、なんの怨家ぞ。うらむべし、わが不修のしかあらしむるなるべし。われ、われとしたしからず、われ、われをうらむるなり。佛祖も恩愛なきにあらず、しかあれどもなげすてきたる。佛祖も諸縁なきにあらず、しかあれどもなげすてきたる。たとひをしむとも、自佗の因縁をしまるべきにあらざるがゆゑに、われもし恩愛をなげすてずは、恩愛かへりてわれをなげすつべき云爲あるなり。恩愛をあはれむべくは恩愛をあはれむべし。恩愛をあはれむといふは、恩愛をなげすつるなり。

今回の「行持」の主眼は、「説」と「行」の関係性を解き明かすものですが、何処の社会に於いても、理論(説)があって実践(行)が成立するもの。片や、修行(行)が先ず在り論蔵(説)が後世に成立した。とし、互いを怨家の如く云い放つ俗習には辟易の感を覚えるものである。

ここで登場する大慈寰中(780―862)は百丈懐海(749―814)を師とし、同門には潙山霊祐(771―853)・黄檗希運(―856)がいる。洞山良价(807―869)ならびに雲居道膺(827―902)は中国曹洞宗門に列する宗祖である。出典籍は『聯灯会要』七・大慈章「示衆云、説得一丈、不如行取一尺。説得一尺、不如行取一寸。洞山云、説取行不得底、行取説不得底。雲居云、行時無説路、説時無行路。不行不説時、合行甚麼路。 洛浦云、行説倶到、則本事無。―以下略」(「続蔵」七九・六八下)と考えられるが、雲居に於ける「行」「説」のみが差し替えられ、体裁が整えられる構成に改変されます。なお、この則は『永平広録』十則に於いての上堂説法で取り挙げられ、仁治元年(1240)以前の興聖寺創設当初から、これら三氏による「行持」動向に関心が向けられていた状況が窺い知れる。

大慈寰中禅師云く、説得一丈、不如行取一尺。説得一尺、不如行取一寸。これは、時人の行持疎かにして仏道の通達を忘れたるが如くなるを戒むるに似たりと云えども、一丈の説は不是とにはあらず、一尺の行は一丈説よりも大功なると云うなり。なんぞただ丈尺の度量のみならん、はるかに須弥と芥子との論功もあるべきなり。須弥に全量あり、芥子に全量あり。行持の大節、これかくの如し。今の道得は寰中の自為道にあらず、寰中の自為道なり」

大慈が云う処の「一丈(約三m)を説き得るよりは、一尺を行取するには如かず。一尺を説き得るよりは、一寸を行取するには如かず」。に対する拈提を述べられます。

この寰中の云い様は、当時の人の行持に対する二面性(説・行)を、説より行を重視するような言い方に似ているが、「一丈の説」を間違い(否定)と謂うのではなく、一尺の行は一丈の説よい大きな功徳(大功)があると云うのである。

さらに拈提では、単なる「丈・尺」に関する問題ばかりではなく、「須弥と芥子」といった論功もあるべきではないか。と拈提される対象は、大慈寰中に対する注文及び現今の我々に対する提言に連なる言い用のようです。その須弥と芥子との関係は大小を論ずるのではなく、「須弥に全量・芥子に全量」と、各々に須弥の面目・芥子の面目を尊重すべきと説かれる所ですが、「行持」の大切な節目は仏法に於いては須弥と芥子は同一と見なす論理です。

結語として「いまの道得は㈠寰中の自為道にあらず、㈡寰中の自為道なり」と述べられますが、文章の整合性が合わず難解と謂うよりは、ないように見られますが、三人(沢木興道・詮慧・経豪)の解説では「これは寰中ひとりの自為道でないということじゃ。その寰中は、天地と同根万物とわれと一体の、この寰中の自為道で、じゃから寰中を二つに分けて、ここに道環しておる」(「沢木本」一七六)・「非自為道・自為道也と云うは、たとえば『法華経』は三世の諸仏の説とは云えども、又釈迦出家して解之此心なるべし、又三世の諸仏に釈迦漏るべからず」(「註解全書」四・四五七)・この詮慧の説を承けて経豪は「此の道得は寰中の自為道ばかりにあらず、三世諸仏祖等の自為道なる。この道理なる故に、又寰中の自為道也」(「同書」三八七)などと付言するを参考にするなら、㈠の寰中は固有名詞の寰中を指し㈡の寰中は三世諸仏・天地・尽界をも包接した諸法真実義態自身の「自為道」と言い含められる。

「自為道なり。洞山悟本大師道、説取行不得底、行取説不得底。これ高祖の道なり。その宗旨は、行は説に通ずる道を明らめ、説の行に通ずる道あり。しかあれば、終日説く処に終日行う也。その宗旨は、行不得底を行取し、説不得底を説取するなり」

「説取行不得底、行取説不得底」(行じ得ないところを説き、説き得ないところを行ずる)の洞山に対し、「行不得底を行じ、説不得底を説く」と言い替えての拈提ですが、謂う所は行と説の同等・同時・同体を説明せんが為に、「行は説に通じ、説の行に通ずる道あり」と講ずるもので、別喩では一方を証する時は一方は暗き道理。と同趣旨と推察されます。

「雲居山弘覚大師、この道を七通八達するに云く、説時無行路、行時無説路。この道得は行説なきにあらず、その説時は、一生不離叢林なり。その行時は、洗頭到雪峰前なり。説時無行路、行時無説路、さしおくべからず、乱らざるべし」

雲居道膺は、洞山の道(ことば)を精錬させ「説く時には行ずる路はなく、行ずる時には説く路はない」(説時無行路、行時無説路)と講ずるが、そこには「行」「説」の区分はなく、説の時には趙州の云う「一生不離叢林」つまり打坐を意味し、行の時は雪峰の云う「洗頭到雪峰前」つまり通身を意味し、謂わんとする処は行や説の優劣を論じるのではなく、全身心が「行持」である事実を聞き流さず、勝手な行説を論じてはならない。と三者三様の説行を解き明かすものです。

古来の仏祖言い来たれる事あり、いわゆる若人生百歳、不会諸仏機、未若生一日、而能決了之。これは一仏二仏の言う所にあらず、諸仏の道取し来たれる所、諸仏の行取し来たれる所なり。百千万劫の回生回死の中に、行持ある一日は、髻中の明珠なり、同生同死の古鏡なり。喜ぶべき一日なり、行持力みづから喜ばるるなり。行持のちから未だ至らず、仏祖の骨髄受けざるが如きは、仏祖の身心を惜しまず、仏祖の面目を喜ばざるなり。仏祖の面目骨髄、これ不去なり、如去なり、如来なり、不来なりと云えども、必ず一日の行持に稟受するなり」

「古来の仏祖」とは釈尊から僧伽難提・伽耶舎多に至る仏祖を示すものです。「若人生百歳、不会諸仏機、未若生一日、而能決了之」の出典籍は『景徳伝灯録』二・第十七祖僧伽難提章「仏言、若人生百歳、不会諸仏機、未若生一日、而決了之」(「大正蔵」五一・二一二中)からの直接引用で得→能に改変が為されますが、瑩山『伝光録』第十八祖伽耶舎多章に於いては「仏言、若人生百歳、不会諸仏機、未若生一日、而決了之」(「大正蔵」八二・三六六上)では、道元の説示を踏襲せず原典を引用する。また似通った文言としては『法句経』上「若人寿百歳、邪偽無有智、不如生一日、一心学正智」 (「大正蔵」四・五六四下)や、『御抄』では「 若人生百歳不見水老鶴、未若生一日、不能覩見之」(「註解全書」四・三九二)や『付法蔵因縁伝』(「大正蔵」五十・三〇二下)の言辞を引用し解説がなされます。

これより右の本則に対する拈提ですが、本来的には大慈・洞山・雲居には直接関わるものではない為、段替えをし、僧伽難提章とでもすべきでしょうが、便宜的に通論とし以下意訳す。

右の百歳・一日の言は、釈尊や阿難という一仏二仏の言辞ではなく、尽界諸仏の道取・行取する問題である。百千万劫での生死流転(回生回死)の繰り返しのなかの「行持」の一例を「髻中の明珠(『法華経』十四「大正蔵」九・三八下)・同生同死の古鏡(『古鏡』「岩波文庫」㈡一二)と表現されます。謂う所は真実人体に内在する実相・仏性に喩え、「行持」に対する特殊な見方を嫌い、普遍性を言わんとする処です。「行持」の真実義が自身に及ばず、仏祖の骨髄を受けないような時には、自身に内在する仏祖の面目を喜ばないようなものである。仏祖の面目・骨髄は不去・如去・如来・不来、つまり呼吸の入息・出息と同様、必ず一日の「行持」に於いては自身に内在する「明珠・古鏡」を稟受でき得るものである。

「しかあれば、一日は重かるべきなり。いたづらに百歳生けらんは、怨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり。たとい百歳の日月は声色の奴婢と馳走すとも、そのなか一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の他生をも度取すべきなり。この一日の身命は尊ぶべき身命なり、尊ぶべき形骸なり。かるが故に、生けらんこと一日ならんは、諸仏の機を会せば、この一日を曠劫多生にも勝れたりとするなり」

百歳は一日の積み重ねですから、一日は重要である。徒労に百歳を生きたのでは自身が残念に思うであろうし、悲惨な形骸である。たとえ百歳の年月をその日暮らしで過ごしたとしても、そのなかの一日でも真実の「行持」を行じ切れれば、生涯の百歳を行じ切るだけではなく、今世の百歳のみならず他生をも生き切るはずである。このような一日の身命は貴重な身命であり、尊ぶべき真実人体である。ですから、一日かぎりの生涯であったとしても、その時に諸仏の機要を会得するならば、この一日は曠劫多生の生涯よりも勝れた事と為るはずである。

「この故に、未だ決了せざらん時は、一日をいたづらに使う事なかれ。この一日は惜しむべき重宝なり。尺璧の価直に擬すべからず、驪珠に換うる事なかれ。古賢惜しむこと身命よりも過ぎたり」

いまだサトリの認得が得られない時は、一日を無駄に費やしてはならず、この一日は大切にすべき貴重な宝であり、一尺もの宝玉や驪龍の頷下にある珠などと、比較対象にしてはならない。古今の賢人は日時を惜しむ事、身命よりも大切にしたのである。

「静かに思うべし、驪珠は求めつべし、尺璧は得る事もあらん。一生百歳の内の一日は、ひとたび失わん、再び得る事なからん。いづれの善巧方便ありてか、過ぎにし一日を再び返し得たる。紀事の書に記さざる処なり。もしいたづらに過ごさざるは、日月を皮袋に包含して、漏らさざるなり。しかあるを、古聖先賢は、日月を惜しみ光陰を惜しむ事、眼睛よりも惜しむ、国土よりも惜しむ。そのいたづらに蹉過すると云うは、名利の浮世に濁乱し往くなり。いたづらに蹉過せずと云うは、道にありながら道の為にするなり」

こころ静かに思うなら、驪珠や尺璧などは入手可能ではあるが、一生百歳の中での一日は、一度失ったら二度と取り戻す事は不可能である。過ぎ去った一日を取り戻す最善の方法はあるだろうか。歴史書にも記載は有りはしない。もし一日を無駄に過ごさないようにするには、時間を肉身に包み込んで漏らさぬようにしなくてはならない。こういう具合であるからこそ、古今の聖人や先代の賢者は、過ぎ去る時間を惜しむ事は、自身の眼睛や国土よりも惜しむものである。その一日を無駄に過ごすという事は、名聞利養の浮世に濁乱し往くのであるが、日月を無駄に過ごさずとは、仏道の為に生きる事である。

「すでに決了する事を得たらん、又一日をいたづらにせざるべし。ひとえに道の為に行取し、道の為に説取すべし。この故に知りぬ、古来の仏祖いたづらに一日の功夫を費やさざる儀、世の常に観想すべし。遅々花日も明窓に坐して想うべし、蕭々雨夜も白屋に坐して忘るる事なかれ。光陰何としてか我が功夫を盗む。一日を盗むのみにあらず、多劫の功徳を盗む。光陰と我と、何の怨家ぞ。恨むべし、わが不修のしかあらしむるなるべし。我、われと親しからず、我、われを恨むるなり」

これよりは「而能決了之」に対する拈提になります。一刹那をも蹉過せずと決了する事を得た人ならば、更に一日を無駄に過ごしてはならず、一向に仏道の為に行じ説くべきである。ですから、古来の仏祖が一日の功夫を無駄にしなかった生活の仕方を、常日頃から想いを観察すべきである。春の日長たる花日も明窓下に坐し、秋の雨の夜も草庵に坐し一日の功夫を忘れてはならない。時の流れ(名利の追求)は如何にして我らの修行を邪魔するか、一日のみならず多劫の功徳を奪い取るが、時の流れの光陰と我とはどんな対立的関係か。恨むらくは自身の不修であり、自身(我)と真実人体(吾)不一致が、我、吾を恨むるなり。

「仏祖も恩愛なきにあらず、しかあれども投げ捨て来たる。仏祖も諸縁なきにあらず、しかあれども投げ捨て来たる。たとい惜しむとも、自他の因縁惜しまるべきにあらざるが故に、我もし恩愛を投げ捨てずは、恩愛返りて我を投げ捨つべき云為あるなり。恩愛を憐れむべくは恩愛を哀れむべし。恩愛を憐れむと云うは、恩愛を投げ捨つるなり」

仏祖と云われる人々も恩情や愛情が無い訳ではなく自身から投げ捨て去り、諸縁も同様である。たとえ恩愛や諸縁を惜しんでも、諸縁は自他の接合で成り立つわけであるから、自らの恩愛を投げ捨てる結末があるのである。恩愛は愍れむべきであり、大切にしなければならないが、大切にするとは恩情・愛情の渇愛を断ち切る事なのである。

「百歳不会・一日決了」の結語は、世俗では最重要視される恩愛を、仏道では憐みながらも、投げ捨てる志気が「行持」の本来義であるとの事です。

最後に「仏道修行と自他の聯関」については『学道用心集』に於ける「夫仏法修行者尚不為自身況為名聞利養修之乎但為仏法可修之也諸仏慈悲・哀愍衆生不為自身不為他人唯仏法之常也」(「大正蔵」八二・三上)の文言を参照する(「行持に学ぶ」二一九)ことで、初期興聖寺僧団に於ける道元門下に提示される「行持」が読み解かれるものである。

 

    十七 南嶽懐譲

南嶽大慧禪師懷譲和尚、そのかみ曹谿に參じて、執侍すること十五秋なり。しかうして傳道授業すること、一器水瀉一器なることをえたり。古先の行履、もとも慕古すべし。十五秋の風霜、われをわづらはすおほかるべし。しかあれども純一に究辦す、これ晩進の龜鏡なり。寒爐に炭なく、ひとり虚堂にふせり、涼夜に燭なく、ひとり明窓に坐する、たとひ一知半解なくとも、無爲の絶學なり。これ行持なるべし。おほよそ、ひそかに貪名愛利をなげすてきたりぬれば、日々に行持の積功のみなり。このむね、わするゝことなかれ。説似一物即不中は、八箇年の行持なり。古今のまれなりとするところ、賢不肖ともにこひねがふ行持なり。

禅宗の法系は六祖慧能を基点に南嶽懐譲(677―744)から馬祖に続く流れと、片や石頭を生む青原行思(673―740)の二派に分かれるわけですが、今話で取り扱う南嶽の大慧禅師(敬宗皇帝(在位824―827)からの諡号)懐譲(荊州玉泉寺の弘景律師による安名)和尚の「行持純一」を短文ではあるが説き明かされます。

「南嶽大慧禅師懷譲和尚、そのかみ曹谿に参じて、執侍すること十五秋なり。然うして伝道授業する事、一器水瀉一器なる事を得たり。古先の行履、最も慕古すべし」

ここで扱う本則出典は見当たらず幾つかの話頭の合糅のようで、参照する文献としては『真字正法眼蔵』中一『天聖広灯録』八・『遍参』巻などが挙げられます。

「曹谿に参じて執侍十五秋」は『広灯録』「師侍奉一十五載」(「続蔵」七八・四四八上)を捩ったもので、「真字中」では「執侍八年」、「遍参」では「八年現成」(「岩波文庫」㈢二四一)とされます。「一器水瀉一器」の表記は、当該所以外には見当たらず、一器水の純一なる伝道授業こそが「行持」としての慕古すべき対象との認識です。

「これ晩進の亀鏡なり。寒炉に炭なく、ひとり虚堂に臥せり、涼夜に燭なく、ひとり明窓に坐する、たとい一知半解なくとも、無為の絶学なり。これ行持なるべし」

一器の水を伝道することが、後輩(晩進)への手本(亀鏡)である。絶学無為の閑道人(永嘉真覚・「証道歌」)の「行持」としての「ひとり明窓に坐する」枯淡なる姿を「行持なるべし」と提言されます。因みに「亀鏡」に類似する語として『即心是仏』巻での亀鑑及び『古鏡』巻に於ける二か所のみにて示されます。

「凡そ、密かに貪名愛利を投げ捨て来たりぬれば、日々に行持の積功のみなり。この旨忘るる事なかれ。説似一物即不中は、八箇年の行持なり。古今の希なりとする所、賢不肖ともに冀う行持なり」

これは『遍参』巻「懷譲会得当初来時、和尚接懷譲、是甚麼物恁麼来。ちなみに曹谿古仏道、你作麼生会。ときに大慧まうさく、説似一物即不中。これ遍参現成なり、八年現成なり」(「前掲同所」)を参考に、さらに「名利」を棄しての、日々の行持の功徳の積み重なりが重要との主旨となりますが、先の「十五秋」の内訳は、六祖に到るまでの七年と曹谿での八年を以て十五と算した数字とも考察できます。

 

    十八 香厳智閑

香嚴の智閑禪師は、大潙に耕道せしとき、一句を道得せんとするに數番つひに道不得なり。これをかなしみて、書籍を火にやきて、行粥飯僧となりて年月を經歴しき。のちに武當山にいりて、大證の舊跡をたづねて結草爲庵し、放下幽棲す。一日わづかに道路を併淨するに、礫のほどばしりて竹にあたりて聲をなすによりて、忽然として悟道す。のちに香嚴寺に住して、一盂一衲を平生に不換なり。奇岩清泉をしめて、一生偃息の幽棲とせり。行跡おほく本山にのこれり。平生に山をいでざりけるといふ。

今回取り扱う話頭は「香厳撃竹の話」として親しまれるもので、『景徳伝灯録』十一(「大正蔵」五一・二八三下)や『聯灯会要』八(「続蔵」七九・七六下)などの灯録を参照したもので、独自に文章化したものです。関連する著述では『真字正法眼蔵』上一七・『谿声山色』巻(「岩波文庫」㈡一一〇)・『永平広録』四五七(建長三年(1251)九月頃)などが香厳智閑の「一撃亡所知」の大悟偈を讃ずるものです。しかし『碧巌録』十八則・慧忠国師無縫塔に於いては評唱に、「山南府青銼山和尚、昔与国師同行。国師嘗奏帝令詔他。三詔不起。常罵国師耽名愛利恋著人間」(「大正蔵」四八・一五八上)。このように『他神通』『即心是仏』『古仏心』各巻にて説き示される大証国師南陽慧忠(―776)とは真反対の評価が為された事実もここに記す。

「香厳の禅は、大潙に耕道せし時、一句を道得せんとするに数番ついに道不得なり。これを悲しみて、書籍を火に焼きて、行粥飯僧となりて年月を経歴しき。後に武当山に入りて、大証の旧跡を訪ねて結草為庵し、放下幽棲す」

香厳寺の智閑禅師(―898)は、大潙山霊祐禅師(771―853)のもとで修行する折に、真実態としての一句を表現しようと数回試すが、云い表せなかった。これに悲嘆して、書籍を焼却処分し、霊祐の道場にて行粥飯僧となり年月を送ったのである。霊祐の会を辞して武当山(大和山とも云う・湖北省にある七十二峰からなる道教寺院群)に入り、大証国師南陽慧忠の旧跡を訪ねて草を結んで庵と為し、万事を放下し幽棲したのである。

この処で南陽慧忠の旧跡を「武当山」に比定するは道元の誤認で、正確には南陽河南省)白崖山党子谷としなければならず、この誤りは『谿声山色』巻・『永平広録』六二則・『真字正法眼蔵』一七則と、いづれも初期の著述では「武当山」を用いるが、『永平広録』四五七則(建長三年(1251)九月頃)での上堂では「後到南陽国師之庵基」と述べられ、「武当山」は語られない事情を勘案すると、当初は大証の旧跡を武当山と思い込んでいたものを、晩年の建長三年時点に於いては修正されたものと見られる。

「一日わづかに道路を併浄するに、礫のほどばしりて竹に当たりて声を成すによりて、忽然として悟道す。後に香厳寺に住して、一盂一衲を平生に不換なり。奇岩清泉を占めて、一生偃息の幽棲とせり。行跡多く本山に残れり。平生に山を出でざりけると云う」

ある日智閑が道路を掃き清めている時に、偶然に小石が竹に当たる声(音)を聞くことで、忽然と悟道したのである。のちに白崖山に位置する香厳寺に住し、普段から鉄鉢と袈裟だけで過ごし、余計な物は持ち合わせなかったのである。山奥の奇岩・清泉に囲まれて、一生偃息の幽棲の地としたのである。その時の行跡の資料の多くは香厳寺に残っている。智閑禅師は平生から出世は望まなかったと伝えられているのである。

この処での謂わんとする「行持」は、「一句を道得せんとする」説取→「行粥飯僧・道路併浄」の行取にと転換する香厳の行持を讃ずるもの歟。

 

    十九 臨済黄檗

臨濟院慧照大師は、黄檗の嫡嗣なり。黄檗の會にありて三年なり。純一に辦道するに、睦州陳尊宿の教訓によりて、佛法の大意を黄檗にとふこと三番するに、かさねて六十棒を喫す。なほ勵志たゆむことなし。大愚にいたりて大悟することも、すなはち黄檗睦州兩尊宿の教訓なり。祖席の英雄は臨濟徳山といふ。しかあれども、徳山いかにしてか臨濟におよばん。まことに臨濟のごときは群に群せざるなり。そのときの群は、近代の抜群よりも抜群なり。行業純一にして行持抜群せりといふ。幾枚幾般の行持なりとおもひ、擬せんとするに、あたるべからざるものなり。師在黄檗、與黄檗栽杉松次、黄檗師曰、深山裏、栽許多樹作麼。師曰、一與山門爲境致。二與後人作標榜。乃將鍬拍地兩下。黄檗拈起柱杖曰、雖然如是、汝已喫我三十棒了也。師作嘘々聲。黄檗曰、吾宗到汝大興於世。しかあればすなはち、得道ののちも杉松などをうゑけるに、てづからみづから鍬柄をたづさへけるとしるべし。吾宗到汝大興於世、これによるべきものならん。栽松道者の古蹤、まさに單傳直指なるべし。黄蘗も臨濟とともに栽樹するなり。黄蘗のむかしは、捨衆して、大安精舎の勞侶に混迹して、殿堂を掃洒する行持あり。佛殿を掃洒し、法堂を掃洒す。心を掃洒すると行持をまたず、ひかりを掃洒すると行持をまたず。裴相國と相見せし、この時節なり。

ここでは臨済義玄(―866)を中心に語り、後半では師僧である黄檗希運(―856)に於ける行業純一を述べられます。

臨済院慧照大師は、黄檗の嫡嗣なり。黄檗の会に在りて三年なり。純一に辦道するに、睦州陳尊宿の教訓によりて、仏法の大意を黄檗に問う事三番するに、重ねて六十棒を喫す。なお励志たゆむ事なし。大愚に到りて大悟する事も、即ち黄檗睦州両尊宿の教訓なり。祖席の英雄は臨済徳山と云う。しかあれども、徳山如何にしてか臨済に及ばん。まことに臨済の如きは群に群せざるなり。その時の群は、近代の抜群よりも抜群なり。行業純一にして行持抜群せりと云う。幾枚幾般の行持なりと思い、擬せんとするに、当たるべからざるものなり」

ここでの話頭は『臨済録』に於ける「行録」(「大正蔵」四七・五〇四中)の文言を、自身のことばに置き換えられたものと推察されますが、当巻から半年後(寛元元年九月)に提唱された『仏経』巻に於いても字句の入れ替えはありますが、臨済黄檗の会に於ける行持が示されます。

「睦州陳尊宿の教訓」としますが、「行録」では「首座」による教示とし、『仏経』巻に於いても「陳尊宿すすむるとき」(「岩波文庫」㈢八四)と記されるが、睦州陳尊宿の個別人名を挙げるは道元禅師による独断の解釈である。

陳尊宿に促され、「如何仏法的々大意」を黄檗に問するが、質問の声が終わらない内に「打」(二十棒)を受け、それを三回繰り返す。とするが、俯瞰視すれば三年もの間、黄檗の道場にて粥飯をを共にした人柄を知り得ず。とは、臨済の未熟さを謂うものか。

「大愚に到りて大悟する」とは、おう六十棒に対し意気消沈する臨済に対する黄檗の導きで、高安大愚(生没不詳)の会処での「元来黄檗仏法無多子」を云うのであるが、従来の語釈では「もともと、黄檗の仏法は、それほどでもない」といったニュアンスを含んだものであったが、「無多子」の解釈を入矢義高訳注『臨済録』によると「ああ、黄檗の仏法は端的だったのだ」(「岩波文庫」一八三)と、語釈するようになってきた。詳しくは「行持に学ぶ」(二五一頁)を参照のこと。

但し、臨済の大悟は前話の香厳智閑や南嶽懐譲のような悟道ではなく、先輩の睦州や黄檗両人の教訓から為されたもので、あるとの文意から推察すると、「行業純一にして行持抜群」という形容には、不可解さを懐かざる得ない。

「祖席の英雄は臨済・徳山と云う」の文言は、在宋時代に聞き及んだものであり、両員の評を『即心是仏』『仏向上事』『仏道』『転法輪』等々の各巻では祖仏に及び難しと論破するを旨とするが、当処に於いては徳山を列位し臨済を「近代の抜群よりも抜群なり」との優劣を用いる手法には多少とも疑義を感ずる思いである。

「師在黄檗、与黄檗栽杉松次、黄檗師曰、深山裏、栽許多樹作麼。師曰、一与山門為境致。二与後人作標榜。乃将鍬拍地両下。黄檗拈起拄杖曰、雖然如是、汝已喫我三十棒了也。師作嘘々声。黄檗曰、吾宗到汝大興於世。しかあれば即ち、得道の後も杉松などを栽えけるに、手づから自づから鍬柄を携えけると知るべし。吾宗到汝大興於世、これに依るべき者ならん。栽松道者の古蹤、まさに単伝直指なるべし。黄檗臨済と共に栽樹するなり。黄檗の昔は、捨衆して、大安精舎の労侶に混迹して、殿堂を掃洒する行持あり。仏殿を掃洒し、法堂を掃洒す。心を掃洒すると行持を待たず、光を掃洒すると行持を待たず。裴相国と相見せし、この時節なり」

これより臨済栽松の話による具象事例を提示されます。先ず本則出典は先出「行録」からの「師栽松次。黄檗問、深山裏栽許多作什麼。師云、一与山門作境致、二与後人作標榜、道了

将钁頭打地三下。黄檗云、雖然如是、子已喫吾三十棒了也。師又以钁頭打地三下、作嘘嘘声。黄檗云、吾宗到汝大興於世」(「大正蔵」四七・五〇五上)と少々の字句の違いはありますが試訳するに、「師(臨済)は黄檗の会に在って、黄檗と杉松を栽える時に、黄檗臨済に問うた、深い山の中で、これほどの多くの樹を栽えてどうする。臨済が云うには、一つには山門と環境整備、二つには後人に対する標榜、そして鍬で地面を二回拍く。この臨済の「行持」に対する黄檗は拄杖を拈起して云うに、そうではあるが、このように正直な返答で、汝は已に我の三十棒を喫し了り。すると臨済は音もなくハーッと嘆息するのであるが、臨済の感慨に迫る対応である。黄檗が言うには、吾が宗旨は汝に到り、大いに世に興隆するであろう」と、語釈するものである。

本則に対する拈提として、大愚の会処にて黄檗の端的なる仏法を得道して後も、黄檗の道場にて二十年もの間、自身が率先して鍬の柄を握り作務する姿を、黄檗の「吾宗到汝大興於世」と言わしめ、師資相承。啐啄同期的なる行持を「単伝直指」と言語表現するものです。

因みに臨済黄檗―百丈―馬祖と嗣ぐ法系であるが、共通する考え方に作用即性を挙げられる。『馬祖語録』では「伝上乗一心之法」(「続蔵」六九・二中)・『百丈広録』では「心心如土木石」(「続蔵」六九・八中)・『伝心法要』では「諸仏与一切衆生、唯是一心、更無別法」(「大正蔵」四八・三七九下)・『臨済録』では「如幻化、更無一塵一法」(「大正蔵」四七・四九八中)と、このように通底する禅考が在るのであるが、『臨済録』に於いては八十六箇所にわたり心の作用を頻用される。

次いで補足的に黄檗に対する「行持」を取り扱われます。出典は『景徳伝灯録』十二裴休章「初於黄檗捨衆入大安精舍混迹労侶掃灑殿堂」(「大正蔵」五一・二九三上)と思われ、『真字正法眼蔵』上九則にても黄檗山断際禅師として取り扱われます。ここでの黄檗の「行持」の特筆すべきは、住持職を放下し一介の労働者として、仏殿・法堂などを掃除する姿を黄檗の「行持」と位置づけるものですが、それは六祖慧能が僧形ではなく俗人のままで接化した「行持」と共通するものである。また「裴相国と相見せし」について詳述すると、裴休(791―864)が江南西道観察使として江西省南昌(鍾陵)にある龍興寺に参じた会昌二年(842)を以てする『伝心法要』序に従うべきであろう(『裴休伝―唐代の一士大夫と仏教』「東方学報」第六四冊二四三頁)。

 

    二十 宣宗皇帝

唐宣宗皇帝は、憲宗皇帝第二の子なり。少而より敏黠なり。よのつねに結跏趺坐を愛す。宮にありてつねに坐禪す。穆宗は宣宗の兄なり。穆宗在位のとき、早朝罷に、宣宗すなはち戲而して、龍床にのぼりて、揖群臣勢をなす。大臣これをみて心風なりとす。すなはち穆宗に奏す。穆宗みて宣宗を撫而していはく、我弟乃吾宗之英胄也。ときに宣宗、としはじめて十三なり。穆宗は長慶四年晏駕あり。穆宗に三子あり、一は敬宗、二は文宗、三は武宗なり。敬宗父位をつぎて、三年に崩ず。文宗繼位するに、一年といふに、内臣謀而、これを易す。武宗即位するに、宣宗いまだ即位せずして、をひのくににあり。武宗つねに宣宗をよぶに癡叔といふ。武宗は會昌の天子なり。佛法を廢せし人なり。武宗あるとき宣宗をめして、昔日ちゝのくらゐにのぼりしことを罰して、一頓打殺して、後花園のなかにおきて、不淨を灌するに復生す。つひに父王の邦をはなれて、ひそかに香嚴の閑禪師の會に參じて、剃頭して沙彌となりぬ。しかあれど、いまだ不具戒なり。志閑禪師をともとして遊方するに、廬山にいたる。ちなみに志閑みづから瀑布を題していはく、穿崖透石不辭勞、遠地方知出處高。この兩句をもて、沙彌を釣佗して、これいかなる人ぞとみんとするなり。沙彌これを續していはく、谿澗豈能留得住、終歸大海作波濤。この兩句をみて、沙彌はこれつねの人にあらずとしりぬ。のちに杭州鹽官齊安國師の會にいたりて書記に充するに、黄蘗禪師、ときに鹽官の首座に充す。ゆゑに黄蘗と連單なり。黄蘗、ときに佛殿にいたりて禮佛するに、書記いたりてとふ、不著佛求、不著法求、不著僧求、長老用禮何爲。かくのごとく問著するに、黄蘗便掌して、沙彌書記にむかひて道す、不著佛求、不著法求、不著僧求、常禮如是事。かくのごとく道しをはりて、又掌すること一掌す。書記いはく、太麁生なり。黄蘗いはく、遮裡是什麼所在、更説什麼麁細。また書記を掌すること一掌す。書記ちなみに休去す。武宗ののち、書記つひに還俗して即位す。武宗の廢佛法を廢して、宣宗すなはち佛法を中興す。宣宗は即位在位のあひだ、つねに坐禪をこのむ。未即位のとき、父王のくにをはなれて、遠地の谿澗に遊方せしとき、純一に辦道す。即位ののち、昼夜に坐禪すといふ。まことに父王すでに崩御す、兄帝また晏駕す、をひのために打殺せらる。あはれむべき窮子なるがごとし。しかあれども、勵志うつらず辦道功夫す、奇代の勝躅なり、天眞の行持なるべし。

「当巻」で挙名される中で、唯一の在俗者であり中国皇帝を取り挙げるものです。筆者の意見が聞き入れられるなら、東坡居士(谿声山色)・龐居士(神通)・維摩居士(三十七品)を除外する理由を問い質したいものである。

まずは十六代宣宗(810―859・在位846―859)に聯関する系譜を見ると、父が憲宗(778―820・在位805―820)で十一代。兄は穆宗(795―824・在位820―824)で十二代、その長男で十三代が敬宗(809―826・在位824―826)、次男で十四代武宗(814―846・在位840―846)、五男で十五代武宗(814―846・在位840―846)。となり十七代皇帝には宣宗の長男である懿宗(833―873・在位859―873)が嗣ぐわけである。

  • 唐宣宗皇帝は、㈡憲宗皇帝第二の子なり。㈢少而より敏黠なり。世の常に結跏趺坐を愛す。宮に在りて常に坐禅す。穆宗は宣宗の兄なり。㈣穆宗在位の時、早朝罷に、㈤宣宗即ち戲而して、龍床にのぼりて、揖群臣勢をなす。㈥大臣これをみて心風なりとす。即ち穆宗に奏す。㈦穆宗見て宣宗を撫而して云く、我弟乃吾宗之英胄也。㈧時に宣宗、歳はじめて十三なり」

この本則話頭の出典籍は『仏果碧巌破関撃節』世にいう「一夜碧巌」第十一則「黄檗噇酒糟漢」頌・評唱からの引用である(『道元禅師の碧巌録将来について』竹内道雄)。

  • 大中天子(宣宗)者、続咸通伝中載。㈡唐憲宗有二子、一曰穆宗、一曰宣宗。宣宗乃大中也。㈧年十三、㈢少而敏黠、常愛跏趺坐。㈣穆宗在位時、因早朝罷。㈤大中乃戲登龍床、作揖群臣勢。㈥大臣見而謂之心風、乃奏穆宗。㈦穆宗見而撫歎曰、我弟乃吾宗英胄也」(「大正蔵」四八・一五二中)
  • 穆宗は長慶四年晏駕あり。㈡穆宗に三子あり、一は敬宗、二は文宗、三は武宗なり。㈢敬宗父位を継ぎて、三年に崩ず。㈣文宗継位するに、一年というに、内臣謀而、これを易す。武宗即位するに、宣宗いまだ即位せずして、甥の国に在り。㈤武宗つねに宣宗を呼ぶに癡叔と云う。武宗は会昌の天子なり。仏法を廃せし人なり。㈥武宗ある時宣宗を召して、昔日父の位に登りし事を罰して、一頓打殺して、後花園の中に置きて、不浄を灌するに復生す」
  • 穆宗於長慶四年晏駕。㈡穆宗有三子。一敬宗二文宗三武宗。㈢敬宗継父位、三年而崩。㈣文宗継位一年、内臣謀而易之武宗即位。㈤只喚大中作癡叔。㈥一日武宗恨大中昔日戲登父位、遂打殺致後苑中、以不潔灌而復甦」(「同」)
  • 遂に父王の邦を離れて、密かに香厳の閑禅師の会に参じて、剃頭して沙弥となりぬ。しかあれど、未だ不具戒なり。㈡志閑禅師を友として遊方するに、廬山に到る。㈢因みに志閑みづから瀑布を題して云く、穿崖透石不辞労、遠地方知出処高。㈣この両句をもて、沙弥を釣他して、これ如何なる人ぞと見んとするなり。㈤沙弥これを続して云く、谿澗豈能留得住、終帰大海作波濤。㈥この両句を見て、沙弥はこれ常の人にあらずと知りぬ」
  • 遂潜遁在香厳閑和尚会下。後剃度為沙弥。未受具戒。㈡後与志閑遊方到廬山。㈢因志閑題瀑布詩云。穿雲透石不辞労。地遠方知出処高。㈣閑吟 此両句佇思久之。欲釣他語脈看如何。㈤大中続云。溪澗豈能留得住。終帰大海作波涛。㈥閑方知不是尋常人。乃默而識之」(「同」)

「後に杭州鹽官斉安国師の会に到りて書記に充するに、黄檗禅師、時に鹽官の首座に充す。故に黄檗と連単なり。黄檗、時に仏殿に到りて礼仏するに、書記到りて問う、不著仏求、不著法求、不著僧求、長老用礼何為。かくの如く問著するに、黄檗便掌して、沙弥書記に向かいて道す、不著仏求、不著法求、不著僧求、常礼如是事。かくの如く道し終りて、又掌すること一掌す。書記云く、太麁生なり。黄檗云く、遮裡是什麼所在、更説什麼麁細。また書記を掌すること一掌す。書記因みに休去す。武宗の後、書記ついに還俗して即位す。武宗の廃仏法を廃して、宣宗即ち仏法を中興す。宣宗は即位在位の間常に坐禅を好む。未即位の時、父王の国を離れて、遠地の谿澗に遊方せし時、純一に辦道す。即位の後、昼夜に坐禅すと云う。まことに父王すでに崩御す、兄帝また晏駕す、甥の為に打殺せらる。哀れむべき窮子なるが如し。しかあれども、励志移らず辦道功夫す、奇代の勝躅なり、天真の行持なるべし」

  • 後到鹽官会中、請大中作書記。黄檗在彼作首座。㈡檗一日礼仏次、大中見而問曰、不著仏求、不著法求、不著衆求、礼拝當何所求。㈢檗云、不著仏求、不著法求、不著衆求、常礼如是。大中云、用礼何為。㈣檗便掌。大中云、太麁生。㈤檗云、這裏什麼所在、説麁説細。檗又掌。㈥大中後継国位、賜黄檗為麁行沙門。裴相国在朝、後奏賜断際禅師」(「大正蔵」四八・一五二下)

注記 長慶四年824年。晏駕―晏は遅く駕は乗り物の意で、天子の常より遅いお出ましの喩え・崩御と同義。香厳智閑(―898)・灌谿志閑(―895)・廬山―江西省九江市南部にある名山。瀑布の頌―崖を穿ち石を透して、労を辞せず、遠地は方に知らん、出処の高きを。渓間豈能く留め得て住せんや、終に大海に帰し、波涛を作す。鹽官斉安(―842)・大中作書記―香厳の会では沙弥であったが、鹽官会では比丘となり、法嗣者八人の内で四位に列す。不著仏求・不著法求・不著僧(衆)求の出典は『維摩経』(「大正蔵」十四・五四六上)。

宣宗に対する「行持」の特質は、武宗による会昌の破仏から仏法の中興に於いて、常に坐禅功夫が在ったからである。

 

    二十一 雪峰義存

雪峰眞覺大師義存和尚、かつて發心よりこのかた、掛錫の叢林および行程の接待、みちはるかなりといへども、ところをきらはず、日夜の坐禪おこたることなし。雪峰草創の露堂堂にいたるまで、おこたらずして坐禪と同死す。咨參のそのかみは九上洞山、三到投子する、奇世の辦道なり。行持の清嚴をすゝむるには、いまの人、おほく雪峰高行といふ。雪峰の昏昧は諸人とひとしといへども、雪峰の伶俐は、諸人のおよぶところにあらず。これ行持のしかあるなり。いまの道人、かならず雪峰の澡雪をまなぶべし。しづかに雪峰の諸方に參學せし筋力をかへりみれば、まことに宿有靈骨の功徳なるべし。いま有道の宗匠の會をのぞむに、眞實請參せんとするとき、そのたより、もとも難辨なり。たゞ二十三十箇の皮袋にあらず、百千人の面々なり。おのおの實歸をもとむ、授手の日くれなんとす、打舂の夜あけなんとす。あるいは師の普説するときは、わが耳目なくしていたづらに見聞をへだつ。耳目そなはるときは、師またときをはりぬ。耆宿尊年の老古錐すでに拊掌笑呵呵のとき、新戒晩進のおのれとしては、むしろのすゑを接するたよりなほまれなるがごとし。堂奥にいるといらざると、師決をきくときかざるとあり。光陰は矢よりもすみやかなり、露命は身よりももろし。師はあれどもわれ參不得なるうらみあり、參ぜんとするに師不得なるかなしみあり。かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり。大善知識かならず人をしる徳あれども、耕道功夫のとき、あくまで親近する良縁まれなるものなり。雪峰のむかし洞山にのぼれりけんにも、投子にのぼれりけんにも、さだめてこの事煩をしのびけん。この行持の法操あはれむべし、參學せざらんはかなしむべし。

今話の雪峰義存(822―908)は徳山宣鑑(780―865)を師とし、法を嗣いだ玄沙師備(835―908)・雲門文偃(864―949)は法眼宗雲門宗を導き、ほかには長慶慧陵(854―932)・鏡清道怤(868―937)など十四人の法嗣者を育てあげた人物です。雪峰の言録を扱った「眼蔵」は『行仏威儀』『古仏心』『光明』『古鏡』『諸法実相』各巻に見られ、『真字正法眼蔵』に於いては三八・六〇・一〇九・一三七・一四四・一四九・一六三・一七六・一八三・二一八・二八三・二八七・二九〇・二九四の各則にて、特に雪峰と玄沙との「行持」が取り扱われる状況です。ここでの出典籍は確認されず運筆のままに記載された感じの文章である。

「雪峰真覚大師義存和尚、かつて発心よりこのかた、掛錫の叢林及び行程の接待、道はるかなりと云えをども、所を嫌わず、日夜の坐禅怠る事なし。雪峰草創の露堂堂に到るまで、怠らずして坐禅と同死す。咨参のそのかみは九上洞山、三到投子する、奇世の辦道なり」

「真覚大師」は懿宗(宣宗の子)から賜った大師号(「大正蔵」五一・三二七上)。「行程の接待」は出向いていく接(説)得。「日夜の坐禅」は「巌頭毎日祗是打睡゚雪峰一向坐禅」(『真字眼蔵』二一八則)、「雪峰化衆切乎杜黙禅坐」(『宋高僧伝』「大正蔵」五〇・七八二下)。「咨参」は遍参のこと。「九上洞山・三到投子」は「雪峰和尚三迴到投子九度上洞山」五雲山華厳道場志逢大師章(「大正蔵」五一・四二二下)、「雪峰日、老漢九転上洞山」雪峰章(「大正蔵」五一・三二七上)。また『典座教訓』では雪峰が洞山会に於ける「行持」を「雪峰在洞山作典座」と役職名を記される次第です。

「行持の清厳を薦むるには、今の人、多く雪峰高行と云う。雪峰の昏昧は諸人と等しと云えども、雪峰の伶俐は、諸人の及ぶ所にあらず。これ行持のしかあるなり。今の道人、必ず雪峰の澡雪を学ぶべし。静かに雪峰の諸方に参学せし筋力を顧みれば、まことに宿有霊骨の功徳なるべし」

「行持の清厳―雪峰高行」は修行の清浄厳粛さを伝言する人は、雪峰による高い志の行持を推奨するものである。「雪峰の昏昧―及ぶ所にあらず」は、各位の努力を促す文意。「雪峰の澡雪」は、弛まない清厳な修行を云う。「筋力」は肉体・体力を意味する。「宿有霊骨」とは生まれついての恩恵。

「いま有道の宗匠の会を臨むに、真実請参せんとする時、その便り、もとも難辨なり。ただ二十三十箇の皮袋にあらず、百千人の面々なり。おのおの実帰を求む、授手の日暮れなんとす、打舂の夜明けなんとす。或いは師の普説する時は、わが耳目なくしていたづらに見聞を隔つ。耳目備わる時は、師また時終りぬ。耆宿尊年の老古錐すでに拊掌笑呵呵の時、新戒晩進のおのれとしては、筵の末を接する便り猶まれなるが如し。堂奥に入ると入らざると、師決を聞くと聞かざるとあり」

「有道の宗匠の会」とは言説だけではなく、実参実修を常態とする道場。「真実請参」は、本当に師家から教道を願う態度。「百千人の面々」とは、雪峰会下に於ける千五百人の善知識を示唆。「師の普説する時」以下は、雪峰会上での学人の立ち居振る舞いを述べたもの。

「光陰は矢よりも速やかなり、露命は身よりも脆し。師はあれども我れ参不得なる恨みあり、参ぜんとするに師不得なる悲しみあり。かくの如くの事、まのあたり見聞せしなり。大善知識必ず人を知る徳あれども、耕道功夫の時、あくまで親近する良縁稀なるものなり。雪峰のむかし洞山に登れりけんにも、投子に登れりけんにも、定めてこの事煩を忍びけん。この行持の法操哀れむべし、参学せざらんは哀しむべし」

「光陰―露命」は比喩として有名な句で、無常をいう。「雪峰のむかし洞山」以下は、師資ともに良縁に恵まれてこそ啐啄同期的な法操を心に深く思いなさい。との言で以て雪峰の「行持」を終筆とし、これで以て上巻を終わらせます。

 

    仏祖行持(下)

    二十二 菩提達磨

眞丹初祖の西來東土は、般若多羅尊者の教勅なり。航海三載の霜華、その風雪いたましきのみならんや、雲煙いくかさなりの嶮浪なりとかせん、不知のくににいらんとす、身命ををしまん凡類、おもひよるべからず。これひとへに傳法救迷情の大慈よりなれる行持なるべし。傳法の自己なるがゆゑにしかあり、傳法の遍界なるがゆゑにしかあり、盡十方界は眞實道なるがゆゑにしかあり、盡十方界自己なるがゆゑにしかあり、盡十方界盡十方界なるがゆゑにしかあり。いづれの生縁か王宮にあらざらん、いづれの王宮か道場をさへん。このゆゑにかくのごとく西來せり。救迷情の自己なるゆゑに驚疑なく、怖畏せず。救迷情の遍界なるゆゑに驚疑せず、怖畏なし。ながく父王の國土を辭して、大舟をよそほうて、南海をへて廣州にとづく。使船の人おほく、巾瓶の僧あまたありといへども、史者失録せり。著岸よりこのかた、しれる人なし。すなはち梁代の普通八年丁未歳九月二十一日なり。廣州の刺史蕭昂といふもの、主禮をかざりて迎接したてまつる。ちなみに表を修して武帝にきこゆる、蕭昂が勤恪なり。武帝すなはち奏を覧じて、欣悦して、使に詔をもたせて迎請したてまつる。すなはちそのとし十月一日なり。初祖金陵にいたりて梁武と相見するに、梁武とふ、朕即位已來、造寺・冩經・度僧、不可勝紀。有何功徳。師曰、竝無功徳。帝曰、何以無功徳。師曰、此但人天小果、有漏之因。如影隨形、雖有非實。帝曰、如何是眞功徳。師曰、淨智妙圓、體自空寂。如是功徳、不以世求。帝又問、如何是聖諦第一義諦。師曰、廓然無聖。帝曰、對朕者誰。師曰、不識。帝、不領悟。師知機不契。ゆゑにこの十月十九日、ひそかに江北にゆく。そのとし十一月二十三日、洛陽にいたりぬ。嵩山少林寺に寓止して、面壁而坐、終日黙然なり。しかあれども、魏主も不肖にしてしらず、はぢつべき理もしらず。師は南天竺の刹利種なり、大國の皇子なり。大國の王宮、その法ひさしく慣熟せり。小國の風俗は、大國の帝者に爲見のはぢつべきあれども、初祖、うごかしむるこゝろあらず。くにをすてず、人をすてず。ときに菩提流支の訕謗を救せず、にくまず、光統律師が邪心をうらむるにたらず、きくにおよばず。かくのごとくの功徳おほしといへども、東地の人物、たゞ尋常の三藏および經論師のごとくにおもふは至愚なり。小人なるゆゑなり。あるいはおもふ、禪宗とて一途の法門を開演するが、自餘の論師等の所云も、初祖の正法もおなじかるべきとおもふ。これは佛法を濫穢せしむる小畜なり。初祖は釋迦牟尼佛より二十八世の嫡嗣なり、父王の大國をはなれて、東地の衆生を救濟する、たれのかたをひとしくするかあらん。もし、祖師西來せずは、東地の衆生いかにしてか佛正法を見聞せん。いたづらに名相の沙石にわづらふのみならん。いまわれらがごときの邊地遠方の披毛戴角までも、あくまで正法をきくことえたり。いまは田夫農父、野老村童までも見聞する、しかしながら祖師航海の行持にすくはるゝなり。西天と中華と、土風はるかに勝劣せり、方俗はるかに邪正あり。大忍力の大慈にあらずよりは、傳持法藏の大聖、むかふべき處在にあらず。住すべき道場なし、知人の人まれなり。しばらく嵩山に掛錫すること九年なり。人これを壁觀婆羅門といふ。史者、これを習禪の列に編集すれども、しかにはあらず。佛佛嫡嫡相傳する正法眼藏、ひとり祖師のみなり。

今話より「下巻」に入るわけであるが、これは便宜的に釈迦仏より始まる方を「上巻」とするものです。「当巻」尾題に標される『仏祖行持』が元来の題号として下巻(当巻)が書き上げられたが、達磨以前の仏祖を補完的に書き続けた文章が「上巻」であったとする見方が、現在の解釈である。

最初に扱う「菩提達磨」の文字数は五千四百余字にもわたり語られ、インドから中華に仏法を伝来したダルマ大師と、中華から日本に仏法を単伝相承する自身おを重ね合わせた論考のようにも思われる次第である。

「真丹初祖の西来東土は、般若多羅尊者の教勅なり。航海三載の霜華、その風雪痛ましきのみならんや、雲煙幾重なりの嶮浪なりとかせん、不知の国に入らんとす、身命を惜しまん凡類、思い依るべからず。これ偏えに伝法救迷情の大慈よりなれる行持なるべし。伝法の自己なるが故にしかあり、伝法の遍界なるが故にしかあり、尽十方界は真実道なるが故にしかあり、尽十方界自己なるが故にしかあり、尽十方界尽十方界なるが故にしかあり。いづれの生縁か王宮に在らざらん、いづれの王宮か道場を礙えん。この故にかくの如く西来せり。救迷情の自己なる故に驚疑なく、怖畏せず。救迷情の遍界なる故に驚疑せず、怖畏なし。永く父王の国土を辞して、大舟を装うて、南海を経て広州にとづく。使船の人多く、巾瓶の僧数多ありと云えども、史者失録せり。著岸よりこのかた、知れる人なし。即ち梁代の普通八年丁未歳九月二十一日なり」

「真丹初祖」は震旦とも記し、初祖は中華から数えて第一祖の意であるが、インド側からすれば西天二十八祖となる。「般若多羅尊者の教勅」とは、釈迦仏より般若多羅まではインドに於いて仏法の場を広説するが、インド人である達磨は師である般若多羅の指示に従い、中華に仏法の場を求めた事実をいう。

「航海三載の霜華」の同等句を『景徳伝灯録』では「三周寒暑達于南海」(「大正蔵」五一・二一九上)と表記。「身命を惜しまん凡類、思い依るべからず」これは自身をも含め、栄西・明全なども身命を顧みず渡宋し、明全などは現地で客死した事情も加味したもの歟。

「伝法救迷情の大慈」とは、「吾本来此土、伝法救迷情。一華開五葉、結果自然成」(「前掲同所」下)。「永く父王の国土を辞して」以下は、「唯願不忘父母之国。事畢早回。王即具大舟実以衆宝。躬率臣寮送至海壖。師汎重溟凡三周寒暑達于南海。実梁普通八年丁未歳九月二十一日也」に比定。

「広州の刺史蕭昂といふ者、主礼を飾りて迎接し奉る。因みに表を修して武帝に聞こゆる、蕭昂が勤恪なり。武帝即ち奏を覧じて、欣悦して、使に詔をもたせて迎請し奉る。即ちその年十月一日なり。初祖金陵に至りて梁武と相見するに、梁武問う、朕即位已来、造寺・写経・度僧、不可勝紀。有何功徳。師曰、竝無功徳。帝曰、何以無功徳。師曰、此但人天小果、有漏之因。如影随形、雖有非実。帝曰、如何是真功徳。師曰、浄智妙円、体自空寂。如是功徳、不以世求。帝又問、如何是聖諦第一義諦。師曰、廓然無聖。帝曰、対朕者誰。師曰、不識。帝、不領悟。師知機不契。故にこの十月十九日、ひそかに江北にゆく。その年十一月二十三日、洛陽にいたりぬ。嵩山少林寺に寓止して、面壁而坐、終日黙然なり。しかあれども、魏主も不肖にして知らず、はぢつべき理も知らず」

ここに説かれる話は「無功徳の話」として法戦式などで用いられ、所謂の禅問答であり公案としても世に知られる「達磨と武帝の問答」である。出典録は先述に示された『景徳伝灯録』三・第二十八祖菩提達磨章「広州刺史蕭昂具主礼迎接。表聞武帝。帝覽奏遣。十月一日至金陵」までは前半の「初祖金陵に至りて梁武と相見するに」に相当し、後半部の「故にこの十月十九日―はぢつべき理も知らず」に比定される原文は「是月十九日潜迴広灯迴作過字江北

十一月二十三日屆于洛陽当後魏孝明太和十年也当云後魏孝明正光元年也。若據太和十年乃後魏文帝時是年即南齊武帝永明四年丙寅歳也寓止于嵩山少林寺面壁而坐終日默然人莫之測」(「大正蔵」五一・二一九中)に該当するもので、武帝との問答に当たる部分は原文と一致する。

ところで菩提達磨(摩)の存在は、荷沢神会(684―758)による『菩提達摩南宗定是非論』(732年成立)による創作話であり、同様に「六代伝衣説」をも捏造した。とする研究は、二十世紀に発見された敦煌文書を読み解いた結果である(関口真大著『達摩と達磨』参照)。

いま一つ禅宗では何故、武帝の説が菩提達磨に認められない理由は「吾滅後六十余年彼国有難。水中文布自善降之。汝至時南方勿住。彼唯好有為功業不見部長仏理。汝縦到彼亦不可久留」(吾が滅後六十余年にして彼の国に難あり。水中の文布は自ら善く之れを降さん。汝至る時南方に住する勿れ。彼(梁の武帝を予言)は唯だ有為の功業のみ好みて仏理を見ず。汝は縦い彼に到るとも亦た久しく留まるべからず「大正蔵」五一・二一七上)。に起因するとは石井修道博士による指摘である(「行持に学ぶ」二九一頁)。

「師は南天竺の刹利種なり、大国の皇子なり。大国の王宮、その法久しく慣熟せり。小国の風俗は、大国の帝者に為見の恥つべき有れども、初祖、動かしむる心あらず。国を捨てず、人を捨てず。時に菩提流支の訕謗を救せず、憎まず、光統律師が邪心を恨むるに足らず、聞くに及ばず。かくの如くの功徳多しと云えども、東地の人物、ただ尋常の三蔵及び経論師の如くに思うは至愚なり。小人なる故なり。或いは思う、禅宗とて一途の法門を開演するが、自余の論師等の所云も、初祖の正法も同じかるべきと思う。これは仏法を濫穢せしむる小畜なり」

「師は南天竺の刹利種なり、大国の皇子なり」は灯録冒頭部「南天竺国香至王第三子也、姓刹帝利」からの引用で、「刹利」とはブラフミン(婆羅門)・クシャトリ(王族)・バイシャ(商人)・スードラ(隷民)のクシャトリの音写を刹利とするもので、「姓」はカースト身分制度)の意である。

「菩提流支・光統律師」については「光統律師・流支三蔵者、乃僧中之鸞鳳也―競起害心数加毒薬至第六度」(「前掲所」二二〇上)と記すように、達磨を六度に渡り毒殺に及んだ仏法の怨敵とされるが、史実とは無関係であるは周知の事実である。『渓声山色』巻では「初祖西来よりのち、嵩山に掛錫するに、梁武もしらず、魏主もしらず。ときに両箇のいぬあり、いはゆる菩提流支三蔵光統律師となり」(「岩波文庫」㈡一二一)と酷評されます。

禅宗とて一途の法門を開演するが」云々は、菩提達磨を絶対視する道元の立ち位置からして、地論宗や浄土系の祖師とされる「自余の論師等の云う所」と「初祖の正法と同等」とは耐え難いものであり、このような三蔵・経論師は黒豆法師と侮蔑されそうな筆法である。

「初祖は釈迦牟尼仏より二十八世の嫡嗣なり、父王の大国を離れて、東地の衆生を救済する、誰の肩を等しくするか在らん。もし、祖師西来せずは、東地の衆生いかにしてか仏正法を見聞せん。いたづらに名相の沙石に煩うのみならん。いま吾等が如きの辺地遠方の披毛戴角までも、あくまで正法を聞くこと得たり。今は田夫農父、野老村童までも見聞する、しかしながら祖師航海の行持に救わるるなり。西天と中華と、土風はるかに勝劣せり、方俗はるかに邪正あり。大忍力の大慈にあらずよりは、伝持法蔵の大聖、向かうべき処在にあらず。住すべき道場なし、知人の人まれなり。しばらく嵩山に掛錫すること九年なり。人これを壁観婆羅門と云う。史者、これを習禅の列に編集すれども、しかにはあらず。仏仏嫡嫡相伝する正法眼蔵、ひとり祖師のみなり」

「初祖は釈迦牟尼仏より二十八世の嫡嗣」現今のカウントの方法では、この言い用では釈迦仏を第一にし摩訶迦葉うぃ第二とするが、「眼蔵」の読み解きでは釈迦仏はカウントせず摩訶迦葉を第一祖とする事を言い含め、「初祖」とは中華に於ける菩提達磨とし、「二十八世」とはインドに於いての数値であるから、正確には初祖ではなく「菩提達磨は」と言わなければならないのである。同義の表記として『光明』巻では「釈迦牟尼仏より二十八世の法孫なり」とし、『伝衣』巻にては「高祖はすなはち釈迦牟尼仏より第二十八代の祖師なり。西天二十八代、嫡々あひつたはれ、震旦に六代」と位置づける次第です。

「祖師西来せずは」とは、もし達磨が西方より来なかったならば。との仮定であり虚論の甚だしきであり、「辺地遠方の披毛戴角」とは自身を卑下する極端な言い回しに聞こえるが、特に興聖寺時代に撰述された『礼拝得髄』『伝衣』『嗣書』『洗面』各巻では「辺地」や「小国」等の語、さらに「勝劣。邪正」を以て印度・中華・日本とのヒエラルキーを想定した思考が在ったようである。

「嵩山に掛錫すること九年なり。人これを壁観婆羅門と云う」いわゆる「面壁九年」はダルマを表徴するフレーズであるが、「婆羅門」とは四姓カーストの最上位に属するものであるから、正確には壁観刹利と喚ぶべきを『景徳伝灯録』による「寓止于嵩山少林寺、面壁而坐終日默然、人莫之測。謂之壁観婆羅門」(「前掲所」二一九中)の記載に従った結果である。

「史者、これを習禅の列に編集」とは、『続高僧伝』を編集した南山道宣(596―667)が第十六巻にて「習禅篇」を設け、その中で「菩提達摩、南天竺婆羅門種。随其所止誨以禅教、于時合国盛弘講授」(「大正蔵」五〇・五五一下)と、禅の教えを以て盛んに講授を弘めた。とし習禅の列人に為るを記し、次の『林間録』に繋げる伏線となるものです。

 

石門林間録云、菩提達磨、初自梁之魏。經行於嵩山之下、倚杖於少林。 面壁燕坐而已、非習禪也。久之人莫測其故。因以達磨爲習禪。夫禪那、諸行之一耳。何足以盡聖人。而當時之人以之、爲史者、又從而傳於習禪之列、使與枯木死灰之徒爲伍。雖然、聖人非止於禪那、而亦不違禪那。如易出于陰陽、而亦不違乎陰陽。梁武初見達磨之時、即問、如何是聖諦第一義。答曰、廓然無聖。進曰、對朕者誰。又曰、不識。使達磨不通方言、則何於是時、使能爾耶。

しかあればすなはち、梁より魏へゆくことあきらけし。嵩山に經行して少林に倚杖す。面壁燕坐すといへども、習禪にはあらざるなり。一巻の經書を將來せざれども、正法傳來の正主なり。しかあるを、史者あきらめず、習禪の篇につらぬるは、至愚なり、かなしむべし。かくのごとくして嵩山に經行するに、犬あり、堯をほゆ。あはれむべし、至愚なり。たれのこゝろあらんか、この慈恩をかろくせん。たれのこゝろあらんか、この恩を報ぜざらん。世恩なほわすれず、おもくする人おほし、これを人といふ。祖師の大恩は父母にもすぐるべし、祖師の慈愛は親子にもたくらべざれ。

「石門林間録」に関しては、石門寺の覚範慧洪(1071―1128)が195則にわたり道俗の弟子の為に、古来の尊宿・高行大丈夫などの逸話を談話形式に、門人の本明が筆録したものである。覚範の法脈は真浄克文(1025―1102)―黄龍慧南(1002―1069)と嗣続する黄龍派に属し、黄龍祖心(1025―1100)―長霊守卓(1065―1123)と続く系譜は建仁栄西(1141―1215)・明全(1184―1225)にと連脈する流れを俯瞰できます。

前半部「而亦不違乎陰陽」までは『林間録』(「続蔵」八七・二四七下)からの引用で、武帝との問答は前話からの援用になります。また『宝慶記』第十四問・『仏道』巻、さらには最晩年にあたる『永平広録』四九一則(建長四年(1252)三月頃)に於いても『林間録』に於ける達磨を讃仰される。

「石門林間録云、菩提達磨、初自梁之魏。経行於嵩山之下、倚杖於少林。 面壁燕坐而已、非習禅也。久之人莫測其故。因以達磨為習禅。夫禅那、諸行之一耳。何足以尽聖人。而当時之人以之為史者、又従而伝於(茲)習禅之列、使与枯木死灰之徒為伍。雖然聖人非止於禅那、而亦不違禅那。如易出于陰陽、而亦不違于(乎)陰陽」()は原文

石門の林間録は云う、菩提達磨、初め梁より魏に之(ゆ)く。於嵩山の下(もと)で経行し、少林に倚杖す。面壁燕坐するのみで、習禅には非ず。久しく人には其の故を測る莫し。因って達磨を以て習禅と為す。夫れ禅那は、諸行の一のみ。何を以って聖人(達磨)を尽くすと足る。而も当時の人は之を以って史者と為し、又従って習禅の列に伝え、枯木死灰の徒と伍す。然ると雖も聖人(達磨)は禅那に止まるに非ず、而も亦禅那に違せず。易の陰陽より出でて、而も亦陰陽に違せざるが如し。

「梁武初見達磨之時、即問、如何是聖諦第一義。答曰、廓然無聖。進曰、対朕者誰。又曰、不識。使達磨不通方言、則何於是時、使能爾耶」

この言句は前述を繰り返すことで、改めて達磨の武帝に対する的確な答話を示さんが為で、「帝、不領悟。師、知機不契」に対しては独自の見方の「もし、達磨が方言(中国語)に通じていなかったならば、則ち何ぞ是の時に於いて、能く爾かあらしむや(使達磨不通方言、則何於是時、使能爾耶)との著語とも言うべき詞でもって、達磨が言語にも通じていた事を説き示されます。

「しかあれば則ち、梁より魏へ往くこと明らけし。嵩山に経行して少林に倚杖す。面壁燕坐すと云えども、習禅にはあらざるなり。一巻の経書を将来せざれども、正法伝来の正主なり。しかあるを、史者諦めず、習禅の篇に列ぬるは、至愚なり、悲しむべし」

先の『林間録』に対する訳文であり解説文で、菩提達磨に対する絶対的信仰とも思われる「正法伝来の正主なり」の語が際立ちます。

「かくの如くして嵩山に経行するに、犬あり、堯を吠ゆ。憐れむべし、至愚なり。誰の心あらんか、この慈恩を軽くせん。誰の心あらんか、この恩を報ぜざらん。世恩なお忘れず、重くする人多し、これを人と云う。祖師の大恩は父母にも勝るべし、祖師の慈愛は親子にもた比べざれ」

「嵩山に経行する」は『林間録』からの援用で、「犬あり、堯を吠ゆ」とは聖人の堯に悪逆無道な桀の飼っていた犬が吠えた。事例を挙げるものですが、実際的には「菩提流支・光統律師の両箇のいぬあり」を示唆するものである。

「世恩忘れず、これを人と云う。祖師の大恩は父母にも勝れ、慈愛は親子にも比べざれ」は、世俗と仏法との差違を説かんとするもので、優劣を謂うものではない事は「達磨(祖師)の慈愛と親子の世恩とは比較の対象ではない」との言で明確で、謂うなれば次元の相違とも解釈できます。

 

われらが卑賤おもひやれば、驚怖しつべし。中土をみず、中華にむまれず、聖をしらず、賢をみず、天上にのぼれる人いまだなし、人心ひとへにおろかなり。開闢よりこのかた化俗の人なし、國をすますときをきかず。いはゆるは、いかなるか清、いかなるか濁としらざるによる。二柄三才の本末にくらきによりてかくのごとくなり。いはんや五才の盛衰をしらんや。この愚は、眼前の聲色にくらきによりてなり。くらきことは、經書をしらざるによりてなり、經書に師なきによりてなり。その師なしといふは、この經書いく十巻といふことをしらず、この經いく百偈いく千言としらず、たゞ文の説相をのみよむ。いく千偈いく萬言といふことをしらざるなり。すでに古經をしり、古書をよむがごときは、すなはち慕古の意旨あるなり。慕古のこゝろあれば、古經きたり現前するなり。漢高祖および魏太祖、これら天象の偈をあきらめ、地形の言をつたへし帝者なり。かくのごときの經典あきらむるとき、いさゝか三才あきらめきたるなり。いまだかくのごとくの聖君の化にあはざる百姓のともがらは、いかなるを事君とならひ、いかなるを事親とならふとしらざれば、君子としてもあはれむべきものなり。親族としてもあはれむべきなり。臣となれるも子となれるも、尺璧もいたづらにすぎぬ、寸陰もいたづらにすぎぬるなり。かくのごとくなる家門にむまれて、國土のおもき職、なほさづくる人なし、かろき官位なほをしむ。にごれるときなほしかあり、すめらんときは見聞もまれならん。かくのごときの邊地、かくのごときの卑賤の身命をもちながら、あくまで如來の正法をきかんみちに、いかでかこの卑賤の身命ををしむこゝろあらん。をしんでのちになにもののためにかすてんとする。おもくかしこからん、なほ法のためにをしむべからず、いはんや卑賤の身命をや。たとひ卑賤なりといふとも、爲道爲法のところに、をしまずすつることあらば、上天よりも貴なるべし、輪王よりも貴なるべし、おほよそ天神地祇、三界衆生よりも貴なるべし。しかあるに、初祖は南天竺國香至王の第三皇子なり。すでに天竺國の帝胤なり、皇子なり。高貴のうやまふべき、東地邊國には、かしづきたてまつるべき儀もいまだしらざるなり。香なし、花なし、坐褥おろそかなり、殿臺つたなし。いはんやわがくには、遠方の絶岸なり、いかでか大國の皇をうやまふ儀をしらん。たとひならふとも、迂曲してわきまふべからざるなり。諸侯と帝者と、その儀ことなるべし、その禮も、輕重あれども、わきまへしらず。自己の貴賤をしらざれば、自己を保任せず。自己を保任せざれば、自己の貴賤もともあきらむべきなり。

「我らが卑賤思いやれば、驚怖しつべし。中土を見ず、中華に生まれず、聖を知らず、賢を見ず、天上に昇れる人未だなし、人心ひとえに愚かなり。開闢よりこのかた化俗の人なし、国を澄ます時を聞かず。謂わゆるは、如何なるか清、如何なるか濁と知らざるによる。二柄三才の本末に暗きによりてかくの如くなり」

「卑賤」は身分や地位が低く、卑しいこと。「中土」は世界の中央の地の意で、インドを指す。「中華」は宋代の中国を指す。「開闢」は日本の国はじまって以来。「化俗」は風俗を教化する。「二柄三才」の二柄とは文武両柄、三才は天・地・人をいう。

日本は中国・印度に比して愚なる例を挙すが、これは明らかに優劣を説くものである。

「謂わんや五才の盛衰を知らんや。この愚は、眼前の声色に暗きによりてなり。暗き事は、経書を知らざるによりてなり、経書に師なきによりてなり。その師なしと云うは、この経書いく十巻といふ事を知らず、この経いく百偈いく千言と知らず、ただ文の説相をのみ読む。いく千偈いく万言云う事を知らざるなり。すでに古経を知り、古書を読むが如きは、即ち慕古の意旨あるなり。慕古の心あれば、古経来たり現前するなり」

「五才の盛衰」の五才は易でいう所の「木・火・土・金・水」で各々は春・夏・夏終・秋・冬に喩え、それぞれに五行相生(木は火を生じ)五行相剋(水は火に剋し)の盛衰を云う。

経書に師なき」とは、経書の十巻・百偈・千言は文字列の何ものでもない事実を云うが、穿ってみれば説取・行取の問題にも絡められる提示である。

「古経・古書」とは天地の真実態を具したるもの、つまりは尽十方界を謂うものか。「慕古」とは永遠・無限を示唆し古経・古書と同義となり、「慕古」↔「古経」↔「現前」の図式が成立するわけである。

「漢高祖および魏太祖、これら天象の偈を明らめ、地形の言を伝えし帝者なり。かくの如きの経典明らむる時、聊か三才明らめ来たるなり。未だかくの如くの聖君の化に会わざる百姓の輩は、如何なるを事君と習い、如何なるを事親と習うと知らざれば、君子としても憐れむべき者なり。親族としても哀れむべきなり。臣と為れるも子と為れるも、尺璧もいたづらに過ぎぬ、寸陰もいたづらに過ぎぬるなり。かくの如くなる家門に生まれて、国土の重き職、なお授くる人なし、軽き官位なお惜しむ。濁れる時なお然あり、澄めらん時は見聞も稀ならん」

「漢高祖」は劉邦(前247―195)を指し、項羽を下した前漢皇帝。「魏太祖」は曹操(155―220)を指し、後漢末期の武将・詩人。「天象の偈」は前言の古経にいう千偈・万言を云う。

「聖君の化に会わざる百姓」とは、事君(君主に事する)や事親(親に事する)との接し方を知らない無智なる者との意に解せられ、君子も親族も憐れむべき対象であり、このような家門に生まれる人々には、国家の要職には著き難し。と解説されます。

「かくの如きの辺地、かくの如きの卑賤の身命を持ちながら、あくまで如来の正法を聞かん道に、如何でか、この卑賤の身命を惜しむ心あらん。惜しんで後に何者の為にか捨てんとする。重く賢からん、なお法の為に惜しむべからず、いわんや卑賤の身命をや。たとい卑賤なりと云うとも、為道為法の処に、惜しまず捨つる事あらば、上天よりも貴なるべし、輪王よりも貴なるべし、おおよそ天神地祇、三界衆生よりも貴なるべし」

「かくの如きの辺地・卑賤云々」は日本及び日本人を示唆する。「如来の正法を聞かんー卑賤の身命を惜しむ」は『法華経』で説く処の不惜身命(譬喩品・勧持品)に相当。「卑賤なりとも為道為法―上天・輪王・天神地祇・三界衆生よりも貴なり」とは、卑賤は何もしなければ、三界衆生と優劣は変化しないが、為道為法に不惜身命すれば上天・輪王よりも貴なる。とは行取を重んじる釈尊以来の教えと読み取るべき歟。

 

しかあるに、初祖は南天竺國香至王の第三皇子なり。すでに天竺國の帝胤なり、皇子なり。高貴のうやまふべき、東地邊國には、かしづきたてまつるべき儀もいまだしらざるなり。香なし、花なし、坐褥おろそかなり、殿臺つたなし。いはんやわがくには、遠方の絶岸なり、いかでか大國の皇をうやまふ儀をしらん。たとひならふとも、迂曲してわきまふべからざるなり。諸侯と帝者と、その儀ことなるべし、その禮も、輕重あれども、わきまへしらず。自己の貴賤をしらざれば、自己を保任せず。自己を保任せざれば、自己の貴賤もともあきらむべきなり。

「しかあるに、初祖は南天竺国香至王の第三皇子なり。すでに天竺国の帝胤なり、皇子なり。高貴の敬うべき、東地辺国には、傅き奉るべき儀も未だ知らざるなり。香なし、花なし、坐褥おろそかなり、殿台つたなし」

「初祖は南天竺国香至王の第三皇子なり」は、『景徳伝灯録』達磨章冒頭に掲げられる「第二十八祖菩提達磨南天竺国香至第三子也」(「大正蔵」五一・二一七上)の菩提達磨を初祖に置き換えた引用です。「東地辺国」は中華を指す。

「いわんや吾が国は、遠方の絶岸なり、如何でか大国の皇を敬う儀を知らん。たとい習うとも、迂曲してわきまうべからざるなり。諸侯と帝者と、その儀異なるべし、その礼も、軽重あれども、わきまえ知らず。自己の貴賤を知らざれば、自己を保任せず。自己を保任せざれば、自己の貴賤もとも明らむべきなり」

「吾が国」とは日本国であり、印度を上位、中華を列位に、日本は遠方の絶岸とするヒエラルキー的位置づけである。

 

初祖は 釋尊第二十八世の附法なり。道にありてよりこのかた、いよいよおもし。かくのごとくなる大聖至尊、なほ師勅によりて身命ををしまざるは、傳法のためなり、救生のためなり。眞丹國には、いまだ初祖西來よりさきに、嫡嫡單傳の佛子をみず、嫡嫡面授の祖面を面授せず、見佛いまだしかりき。のちにも初祖の遠孫のほか、さらに西來せざるなり。曇花の一現はやすかるべし、年月をまちて算數しつべし、初祖の西來はふたゝびあるべからざるなり。しかあるに、祖師の遠孫と稱するともがらも、楚國の至愚にゑうて、玉石いまだわきまへず、經師論師も齊肩すべきとおもへり。少聞薄解によりてしかあるなり。宿殖般若の正種なきやからは祖道の遠孫とならず、いたづらに名相の邪路に跰するもの、あはれむべし

「初祖は 釈尊第二十八世の附法なり。道に在りてよりこのかた、いよいよ重し。かくの如くなる大聖至尊、なお師勅によりて身命を惜しまざるは、伝法の為なり、救生のた為なり」

「初祖は 釈尊」と一文字空白にするは欠字の礼で、敬意を表する為、名前の上に一字二字分の空白を置くこと。「大聖至尊」は菩提達磨を指す。「師勅によりて」とは師匠の般若多羅尊者の指示により、中華への伝法・救生を命じられた。

「真丹国には、未だ初祖西来より先に、嫡々単伝の仏子を見ず、嫡嫡面授の祖面を面授せず、見仏未だしかりき。後にも初祖の遠孫のほか、更に西来せざるなり。曇花の一現はやすかるべし、年月を待ちて算数しつべし、初祖の西来は再びあるべからざるなり」

「真丹」は中国の異称であるが、「正法眼蔵」では震旦(四十四回)が多く使用され、真丹は「当巻」(四回)及び「十方」(一回)巻にて計五回記されるのみである。「嫡々単伝」とは途絶える事のない通脈する事実を言うもので、「大正蔵検索」satでは「嫡々単伝」なる語は「正法眼蔵」(行持・後心不可得)のみに使用され、道元による造語と思われる。因みに「正法眼蔵」内では「嫡々」は四十五回・「単伝」も四十五回使用される。「曇花」は優曇花(udumbara)の略語。

「しかあるに、祖師の遠孫と称する輩も、楚国の至愚に酔うて、玉石未だ弁まえず、経師論師も斉肩すべきと思えり。少聞薄解によりてしかあるなり。宿殖般若の正種なき族は祖道の遠孫とならず、いたづらに名相の邪路に跰する者、憐れむべし」

「楚国の至愚に酔う」は、『太平御覧』からの援用で「燕石と大宝を同類」とした事例。『太平御覧』は宋代の千巻にも及ぶ類書で983年完成。ここでは達磨を玉、経師論師は石に比定する論述法である。「宿殖般若」は般若の智慧を前生に植え付けること。「跉跰」は『法華経』「信解品」に説く「捨父逃逝久住他国」を捩ったもの。

 

梁の普通より後、なお西天に往く者あり、それ何の為ぞ。至愚のはなはだしきなり。惡業のひくによりて、佗國に跰するなり。歩々に謗法の邪路におもむく、歩々に親父の家郷を逃逝す。なんだち西天にいたりてなんの所得かある。たゞ山水に辛苦するのみなり。西天の東來する宗旨を學せず、佛法の東漸をあきらめざるによりて、いたづらに西天に迷路するなり。佛法をもとむる名稱ありといへども、佛法をもとむる道念なきによりて、西天にしても正師にあはず、いたづらに論師經師にのみあへり。そのゆゑは、正師は西天にも現在せれども、正法をもとむる正心なきによりて、正法なんだちが手にいらざるなり。西天にいたりて正師をみたるといふ、たれかその人、いまだきこえざるなり。もし正師にあはば、いくそばくの名稱をも自稱せん。なきによりて自稱いまだあらず。

「梁の普通より後、なお西天に往く者あり、それ何の為ぞ。至愚の甚だしきなり。悪業の引くによりて、他国に跰するなり。歩々に謗法の邪路に赴く、歩々に親父の家郷を逃逝す。なんだち西天に至りて何の所得かある。ただ山水に辛苦するのみなり。西天の東来する宗旨を学せず、仏法の東漸を明らめざるによりて、いたづらに西天に迷路するなり」

「梁の普通」とは達磨が527年に西来した年。「西天に往く者」とは、玄奘三蔵(602―664)が629年にインドに出向いての仏教研究の成果として、645年に経典等を持ち帰った事象を示す(「行持に学ぶ」三〇五頁参照)と考えられる(三波栗湿縛章にて『大唐西域記』出典引用を示す)。「他国に跉跰―親父の家郷を逃逝」は先に示す『法華経』「信解品」の援用で、親父は菩提達磨、他国に跉跰を玄奘や真諦・法顕・羅什なども指すものか。

現今の仏法伝播の役割については文化的側面を強調し、訳経僧による梵語から漢文への翻訳作業を評価する考えが標準である。

「仏法を求むる名称ありと云えども、仏法を求むる道念なきによりて、西天にしても正師に会わず、いたづらに論師経師にのみ会えり。その故は、正師は西天にも現在せれども、正法を求むる正心なきによりて、正法なんだちが手に入らざるなり。西天に至りて正師を見たると云う、誰かその人、未だ聞こえざるなり。もし正師に会わば、幾そばくの名称をも自称せん。なきによりて自称未だあらず」

「正師に会わず、いたづらに論師経師にのみ会えり」この場合の正師とは菩提達磨を指し、論師は玄奘・経師は羅什等を示唆する。

 

また眞丹國にも、祖師西來よりのち、經論に倚解して、正法をとぶらはざる僧侶おほし。これ經論を披閲すといへども經論の旨趣にくらし。この黒業は今日の業力のみにあらず、宿生の惡業力なり。今生つひに如來の眞訣をきかず、如來の正法をみず、如來の面授にてらされず、如來の佛心を使用せず、諸佛の家風をきかざる、かなしむべき一生ならん。隋唐宋の諸代、かくのごときのたぐひおほし、たゞ宿殖般若の種子ある人は、不期に入門せるも、あるは算砂の業を解脱して、祖師の遠孫となれりしは、ともに利根の機なり、上上の機なり、正人の正種なり。愚蒙のやから、ひさしく經論の草庵に止宿するのみなり。しかあるに、かくのごとくの嶮難あるさかひを辭せずいとはず、初祖西來する玄風、いまなほあふぐところに、われらが臭皮袋を、をしんでつひになににかせん。香嚴禪師いはく、百計千方只爲身、不知身是塚中塵。莫言白髪無言語、 此是黄泉傳語人。しかあればすなはち、をしむにたとひ百計千方をもてすといふとも、つひにはこれ塚中一堆の塵と化するものなり。いはんやいたづらに小國の王民につかはれて、東西に馳走するあひだ、千辛萬苦いくばくの身心をかくるしむる。義によりては身命をかろくす、殉死の禮わすれざるがごとし。恩につかはるゝ前途、たゞ暗頭の雲霧なり。小臣につかはれ、民間に身命をすつるもの、むかしよりおほし。をしむべき人身なり、道器となりぬべきゆゑに。いま正法にあふ、百千恒沙の身命をすてても、正法を參學すべし。いたづらなる小人と、廣大深遠の佛法と、いづれのためにか身命をすつべき。賢不肖ともに進退にわづらふべからざるものなり。

「また真丹国にも、祖師西来より後、経論に倚解して、正法を訪わざる僧侶多し。これ経論を披閲すと云えども経論の旨趣に暗し。この黒業は今日の業力のみにあらず、宿生の悪業力なり。今生ついに如来の真訣を聞かず、如来の正法を見ず、如来の面授に照らされず、如来の仏心を使用せず、諸仏の家風を聞かざる、悲しむべき一生ならん」

「黒業」は悪い報いを受ける因を云う。対語は白業。「業力」業因の力、善悪業。「宿生の悪業力」は前世からの悪因より生じた結果。「真訣」は指導者が学人に伝授する修行の要心・極意。「如来」(tathagataha)如実に来至する者の意で、永遠の真理を云う。

「隋唐宋の諸代、かくの如きの類い多し、たゞ宿殖般若の種子ある人は、不期に入門せるも、あるは算砂の業を解脱して、祖師の遠孫となれりしは、共に利根の機なり、上上の機なり、正人の正種なり。愚蒙のやから、久しく経論の草庵に止宿するのみなり」

「隋」581―618。「唐」618―907。「宋」960―1279(北宋は1127年)。「宿殖般若の種子ある人はー利根の機なり」『仏性』巻では「仏性は草木の種子のごとし。―かくのごとく見解する、凡夫の情量なり」(「岩波文庫」㈠七六)と示す。

「しかあるに、かくの如くの嶮難ある境を辞せず厭わず、初祖西来する玄風、今なお仰ぐ所に、我らが臭皮袋を、惜しんで遂に何にかせん。香厳禅師云く、百計千方只為身、不知身是塚中塵。莫言白髪無言語、 此是黄泉伝語人」

「臭皮袋」臭い皮袋。つまり修行杜撰な雲衲を罵倒する詞。「香厳禅師云くー以下」の出典籍は金沢文庫管理『香厳頌』七四則であり、百計千方(あらゆる手段)は只だ身の為なり、知らず身は是れ塚の中の塵なるを。言うこと莫れ白髪に言語無し、此れは是れ黄泉伝語の人なり。

「しかあれば即ち、惜しむに喩い百計千方を以てすと云うとも、遂にはこれ塚中一堆の塵と化する者なり。謂わんやいたづらに小国の王民に使われて、東西に馳走する間、千辛万苦幾ばくの身心をか苦しむる。義によりては身命を軽くす、殉死の礼忘れざるが如し。恩に使わるる前途、ただ暗頭の雲霧なり。小臣に使われ、民間に身命を捨つる者、昔より多し。惜しむべき人身なり、道器となりぬべき故に。いま正法に会う、百千恒沙の身命を捨てても、正法を参学すべし。いたづらなる小人と、広大深遠の仏法と、いづれの為にか身命を捨つべき。賢不肖ともに進退に煩うべからざる者なり」

「百計千方―塚中一堆の塵」は先述の香厳が仏道観であり、百千万回の手段を以て世間を処世しても、とどのつまりは塚(はか)の塵と化す。との無常に対する著語です。「殉死の礼」とは臣下や近親者が、主君の死を悼み命を絶つ行為で、昔より多し。と語り、このように百千恒沙の身命を失するよりも、「正法を参学すべし」と俗世と仏法との違いに言及する。

 

しづかにおもふべし、正法よに流布せざらんときは、身命を正法のために捨せんことをねがふともあふべからず。正法にあふ今日のわれらをねがふべし、正法にあうて身命をすてざるわれらを慚愧せん。はづべくは、この道理をはづべきなり。しかあれば、祖師の大恩を報謝せんことは、一日の行持なり。自己の身命をかへりみることなかれ。禽獣よりもおろかなる恩愛、をしんですてざることなかれ。たとひ愛惜すとも、長年のともなるべからず。あくたのごとくなる家門、たのみてとゞまることなかれ。たとひとゞまるとも、つひの幽棲にあらず。むかし佛祖のかしこかりし、みな七寶千子をなげすて、玉殿朱樓をすみやかにすつ。涕唾のごとくみる、糞土のごとくみる。これらみな、古來の佛祖の古來の佛祖を報謝しきたれる知恩報恩の儀なり。病雀なほ恩をわすれず、三府の環よく報謝あり。窮龜なほ恩をわすれず、餘不の印よく報謝あり。かなしむべし、人面ながら畜類よりも愚劣ならんことは。

いまの見佛聞法は、佛祖面々の行持よりきたれる慈恩なり。佛祖もし單傳せずは、いかにしてか今日にいたらん。一句の恩なほ報謝すべし、一法の恩なほ報謝すべし。いはんや正法眼藏無上大法の大恩、これを報謝せざらんや。一日に無量恒河沙の身命すてんこと、ねがふべし。法のためにすてんかばねは、世々のわれら、かへりて禮拝供養すべし。諸天龍神ともに恭敬尊重し、守護讚嘆するところなり、道理それ必然なるがゆゑに。

「静かに思うべし、正法世に流布せざらん時は、身命を正法の為に捨せん事を願うとも会うべからず。正法に会う今日の我らを願うべし、正法に遭うて身命を捨てざる我らを慚愧せん。恥づべくは、この道理を恥づべきなり」

この処は『修証義』五の行持報恩にて記載される。

「しかあれば、祖師の大恩を報謝せん事は、一日の行持なり。自己の身命を顧みる事なかれ。禽獣よりも愚かなる恩愛、惜しんで捨てざる事なかれ。喩い愛惜すとも、長年のともなるべからず。芥の如くなる家門、頼みて留まる事なかれ。喩い留まるとも、終の幽棲にあらず。むかし仏祖の賢かりし、みな七宝千子を投げ捨て、玉殿朱樓を速やかに捨つ。涕唾の如く見る、糞土の如く見る」

原文では「しかあればの次の「祖師の大恩」では平出(平頭抄出の略・文中に敬意を表す為、改行を以て書き出す事)が行われる。「自己の身命を顧みる事なかれ」以下については『知事清規』での「所謂道心者、不抛撒于仏祖之大道、深護惜于仏祖之大道。所以名利抛来、家郷辞去。比黄金於糞土、比声誉於涕唾」(「大正蔵」八二・三三七下)に比定(「行事に学ぶ」三一二頁参照)。

「これら皆、古来の仏祖の古来の仏祖を報謝し来たれる知恩報恩の儀なり。病雀なほ恩を忘れず、三府の環よく報謝あり。窮亀なお恩を忘れず、余不の印よく報謝あり。悲しむべし、人面ながら畜類よりも愚劣ならん事は」

「病雀なほ恩を忘れず」は『蒙求』「楊宝黄雀」話「続斉解諧記日、宝年九歳時、至華陰山北、見一黄雀為鴟梟所博、墜於樹下―略―宝取之以帰―略―百余日毛羽成、乃飛云。其夜有黄衣童子。―略―以白環四枚与宝位登三事当如此環矣」(『西王母譚の展開』一二七頁参照)。この説話がベースになり、「楊宝九歳の時に傷ついた雀を助け、それにより楊宝の子孫が代々栄えた」と要略さ」れる。「三府の環」とは点線部で示すように、黄の衣の童子から渡された白環四枚を以て宝に与えて、位を三事(太尉・司徒・司空=三公)に登るは、当に此の環の如し。を云う。「窮亀なお恩を忘れず」も先述で示す『蒙求』「孔愉放亀」の説話「愉、余不亭を経るに、亀を路に籠にする者を見、愉、買いて之を渓中に放つ」を捩ったもの。「余不の印よく報謝あり」も同文に謂う「孔愉が、余不亭で亀を助け、後に余不亭(浙江省呉興県)の知事となる」故事をいう。

「今の見仏聞法は、仏祖面々の行持より来たれる慈恩なり。仏祖もし単伝せずは、如何にしてか今日に到らん。一句の恩なお報謝すべし、一法の恩なお報謝すべし。いわんや正法眼蔵無上大法の大恩、これを報謝せざらんや。一日に無量恒河沙の身命すてん事、願うべし。法の為に捨てん屍は、世々の我ら、却りて礼拝供養すべし。諸天龍神ともに恭敬尊重し、守護讃嘆する処なり、道理それ必然なるが故に」

「見仏・聞法」は仏祖行持に於ける基本的態度であるが、この姿勢は『出家功徳』巻に引き継がれ「南洲有四種最勝。一見仏、二聞法、三出家、四得道」と提示される。「仏祖単伝」の単伝とは、自己の真実を自己に相伝するものであるが、『如浄録』『宏智録』にも単伝なる語は見当たらないが、『碧巌録』等には二十三か所にわたり散見されるが、仏祖単伝の語句となると検索するかぎりは見当たらず、道元による造語のようである。「一句・一法の恩なお報謝すべし」とは、先の病雀や窮亀すら不忘せず恩に報いるわけであるから、正法眼蔵無上大法の仏祖行持である打坐を実行しなさい。との意を包含したものである。

 

西天竺國には、髑髏をうり髑髏をかふ婆羅門の法、ひさしく風聞せり。これ聞法の人の髑髏形骸の功徳おほきことを尊重するなり。いま道のために身命をすてざれば、聞法の功徳いたらず。身命をかへりみず聞法するがごときは、その聞法成熟するなり。この髑髏は、尊重すべきなり。いまわれら、道のためにすてざらん髑髏は、佗日にさらされて野外にすてらるとも、たれかこれを禮拝せん、たれかこれを賣買せん。今日の精魂、かへりてうらむべし。鬼の先骨をうつありき、天の先骨を禮せしあり。いたづらに塵土に化するときをおもひやれば、いまの愛惜なし、のちのあはれみあり。もよほさるゝところは、みん人のなみだのごとくなるべし。いたづらに塵土に化して人にいとはれん髑髏をもて、よくさいはひに佛正法を行持すべし。このゆゑに、寒苦をおづることなかれ、寒苦いまだ人をやぶらず、寒苦いまだ道をやぶらず。たゞ不修をおづべし、不修それ人をやぶり、道をやぶる。暑熱をおづることなかれ、暑熱いまだ人をやぶらず、暑熱いまだ道をやぶらず。不修よく人をやぶり、道をやぶる。麦をうけ蕨をとるは、道俗の勝躅なり。血をもとめ乳をもとめて、鬼畜にならはざるべし。たゞまさに行持なる一日は、諸佛の行履なり。

「西天竺国には、髑髏を売り髑髏を買う婆羅門の法、久しく風聞せり。これ聞法の人の髑髏形骸の功徳多き事を尊重するなり。いま道の為に身命を捨てざれば、聞法の功徳至らず。身命を顧みず聞法するが如きは、その聞法成熟するなり。この髑髏は、尊重すべきなり。今われら、道の為に捨てざらん髑髏は、他日に晒されて野外に捨てらるとも、誰かこれを礼拝せん、誰かこれを売買せん。今日の精魂、却りて恨むべし」

ここで示される風俗の出典は『止観輔行伝弘決』一―一に示される「伝云、昔有婆羅門持人髑髏其数甚多。詣華氏城遍行衒。―爾時城中諸優婆塞畏其毀謗皆就之。―其通徹者其人生時聴受妙法智慧高貴、故与多価。―諸優婆塞持此聴法人髑髏。起塔供養命終生天。当知大法有大功能」(「大正蔵」四六・一四七中)。

「鬼の先骨を打つありき、天の先骨を礼せしあり。いたづらに塵土に化する時を思いやれば、今の愛惜なし、後の憐れみあり。催さるる処は、見ん人の涙の如くなるべし。いたづらに塵土に化して人に厭われん髑髏を以て、よく幸いに仏正法を行持すべし」

此の話の出典は『天尊説阿育譬喩経』に於ける「鬼神以杖 鞭之。行人問言、此人已死何故鞭之。―天神来下散華於死人屍上、以手摩莏之。―便還家奉持五戒修行十善」(「大正蔵」五〇・一七一下)と推測されるが、『経律異相』(「大正蔵」五三・二〇一下)にも同内容あり。

「この故に、寒苦を怖づる事なかれ、寒苦いまだ人を破らず、寒苦いまだ道を破らず。ただ不修を怖づべし、不修それ人を破り、道を破る。暑熱を怖づる事なかれ、暑熱いまだ人を破らず、暑熱いまだ道を破らず。不修よく人を破り、道を破る。麦を受け蕨を取るは、道俗の勝躅なり。血を求め乳を求めて、鬼畜に習わざるべし。只まさに行持なる一日は、諸仏の行履なり」

「怖づる」とはダ行上二段活用で、恐れる・こわがるの古語。「寒苦・暑熱いまだ人・道を破らず、不修よく人・道を破る」とは、行持を行う必須要件は外的要因によるものではなく、実際に行ずる内的要因の重要性を云う。「麦を受け蕨を取る」故事である麦の話は、釈尊が安居の三か月にわたり馬餌である麦の供養を受けた故事(これは『経律異相』(「大正蔵」五三・一九中)・『仏説興起行経』(「大正蔵」四・一七二上)・『大智度論』(「大正蔵」二五・一二一下)等に出ず。蕨の話は『史記』では「而伯夷・叔斉恥之、義不食周粟。隠於首陽山、采薇而食」と記され、薇はぜんまいに分類されますから、蕨(わらび)は間違いで山菜とでも記すべきであろうか。「道俗の勝躅」の道は麦の供養を受けた釈尊を指し、俗は節を守り通した伯夷・叔斉を示し、これが「行持」の勝れた跡形とする。

これを以て菩提達磨の章は終わりますが、道元の視座に於けるダルマの存在の長遠性・甚大性を具備した宗祖であるかが窺われるものであったようである。

 

    二十三 二祖慧可

眞丹第二祖大祖正宗普覺大師は、神鬼ともに嚮慕す、道俗おなじく尊重せし高徳の祖なり、曠達の士なり。伊洛に久居して群書を博覧す。くにのまれなりとするところ、人のあひがたきなり。法高徳重のゆゑに、神物倐見して、祖にかたりていふ、將欲受果、何滯此耶。大道匪遠、汝其南矣。あくる日、にはかに頭痛すること刺がごとし。其師洛陽龍門香山寶靜禪師、これを治せんとするときに、空中有聲曰、此乃換骨、非常痛也。祖遂以見神事、白于師。師視其頂骨、即如五峰秀出矣。乃曰、汝相吉祥、當有所證。神汝南者、斯則少林寺達磨大士、必汝之師也。この教をきゝて、祖すなはち少室峰に參ず。神はみづからの久遠修道の守道神なり。このとき窮臈寒天なり。十二月初九夜といふ。天大雨雪ならずとも、深山高峰の冬夜は、おもひやるに、人物の窓前に立地すべきにあらず。竹節なほ破す、おそれつべき時候なり。しかあるに、大雪匝地、埋山没峰なり。破雪して道をもとむ、いくばくの嶮難なりとかせん。つひに祖室にとづくといへども、入室ゆるされず、顧眄せざるがごとし。この夜、ねぶらず、坐せず、やすむことなし。堅立不動にしてあくるをまつに、夜雪なさけなきがごとし。やゝつもりて腰をうづむあひだ、おつるなみだ滴々こほる。なみだをみるになみだをかさぬ、身をかへりみて身をかへりみる。自惟すらく、昔人求道、敲骨取髓、刺血濟饑。布髪淹泥、投崖飼虎。古尚若此、我又何人。かくのごとくおもふに、志気いよいよ勵志あり。いまいふ古尚若此、我又何人を、晩進もわすれざるべきなり。しばらくこれをわするゝとき、永劫の沈劫の沈溺あるなり。かくのごとく自惟して、法をもとめ道をもとむる志気のみかさなる。澡雪の操を操とせざるによりて、しかありけるなるべし。遲明のよるの消息、はからんとするに肝胆もくだけぬるがごとし。たゞ身毛の寒怕せらるゝのみなり。初祖、あはれみて昧旦にとふ、汝久立雪中、當求何事。かくのごとくきくに、二祖、悲涙ますますおとしていはく、惟願和尚、慈悲開甘露門、廣度群品。かくのごとくまうすに、初祖曰、諸佛無上妙道、曠劫精勤、難行能行、非忍而忍。豈以小徳小智、輕心慢心、欲冀眞乘、徒勞勤苦。このとき、二祖きゝていよいよ誨勵す。ひそかに利刀をとりて、みづから左臂を斷て、置于師前するに、初祖ちなみに二祖これ法器なりとしりぬ。乃曰、諸佛最初求道、爲法忘形。汝今斷臂吾前、求亦可在。これより堂奥にいる。執侍八年、勤勞千萬、まことにこれ人天の大依怙なるなり、人天の大導師なるなり。かくのごときの勤勞は、西天にもきかず、東地はじめてあり。

前章の菩提達磨に於いては長遠な文字数を駆使しての「行持」を説かれるものでしたが、次いではダルマの法を嗣いだ真丹第二祖である神光慧可(487―593)を取り挙げられます。先の達磨の存在に関しては史実ではない事は明白である為、慧可についても同様に創話と史実が入り組んだ説話として構成されます。

「真丹第二祖大祖正宗普覚大師は、神鬼ともに嚮慕す、道俗同じく尊重せし高徳の祖なり、曠達の士なり。伊洛に久居して群書を博覧す。国の稀なりとする処、人の会い難きなり。法高徳重の故に、神物倐見して、祖に語りて云う、将欲受果、何滞此耶。大道匪遠(遥)、汝其南矣。あくる日、俄かに頭痛すること刺が如し。其師洛陽龍門香山宝静禅師、これを治せんとする時に、空中有声曰、此乃換骨、非常痛也。祖(光)遂以見神事、白于(於)師。師視其頂骨、即如五峰秀出矣。乃曰、汝相吉祥、当有所証。神(令)汝南者、斯則少林寺(なし)達磨大士、必汝之師也」()は原典より補足。

出典籍は『景徳伝灯録』(「大正蔵」五一・二二〇下)による処ですが、冒頭部「真丹第二祖大祖正宗普覚大師」の「真丹二祖」は、達磨章の「真丹初祖」を承けたもので、「大祖」に関しては、「唐徳宗諡大祖禅師」(「大正蔵」五一・二二一上)、「正宗普覚」の呼称は『景徳伝灯録』では確認されず、『建中靖国続灯録』のみ「二祖恵可正宗普覚禅師」(「続蔵」七八・六四四下)と記されます。「大師」の名称は、先の「「唐徳宗諡大祖禅師」の記載は原文の間違いであり、大祖大師と改めたものと思われる(達磨章に於いては「代宗諡円覚大師」)。または「第二十九祖慧可大師者武牢人也」(「大正蔵」五一・二二〇中)に従属したものか。

「嚮慕」は心を寄せる、慕うの意=向慕・景仰。「曠達」は心が広く物事に通達=豁達。「伊洛」は伊水(洛陽の南を流れる川)と洛水との中間地帯で、孔子と弟子が集まった所ともいう。「神物倐見」とは不可思議なものが倐(たちま)ちに見られる。

将に受果を欲うなら、何で此に滞るか。大道は遠きに匪ず、汝は其れ南へ行くべし。

「宝静禅師」は慧可の授業師で、永穆寺で具足戒を受ける。

空中に声有り曰う、此れ乃ち骨を換えるので、常の痛みに非ず。(二)祖は遂に神事を見るを以て、師(宝静)に白す。師は其の頂骨を視ると、即ち五峰が秀出するが如し。乃ち曰く、汝の(人)相は吉祥で、当に所証有り。神の汝に南へとは、斯れ則ち少林寺の達磨大士が、必ず汝の師なり。

「この教を聞きて、祖則ち少室峰に参ず。神はみづからの久遠修道の守道神なり。この時窮臈寒天なり。十二月初九夜と云う。天大雨雪ならずとも、深山高峰の冬夜は、思いやるに、人物の窓前に立地すべきにあらず。竹節なお破す、怖れつべき時候なり。しかあるに、大雪匝地、埋山没峰なり。破雪して道を求む、幾ばくの嶮難なりとかせん。遂に祖室にと着くと云えども、入室許されず、顧眄せざるが如し。この夜、眠らず、坐せず、休む事なし。堅立不動にして明くるを待つに、夜雪情けなきが如し。やや積もりて腰を埋づむ間、落つる涙滴々凍る。涙を見るに涙を重ぬ、身を顧みて身を顧みる」

「十二月初九夜」以下の原文は「其年十二月九日夜天大雨雪、光堅立不動、遅明積雪過膝」(「大正蔵」五一・二一九中)の文章に肉付けしたものであるが、達磨と慧可との決定的違いはインド的仏法観と中華的仏法観の差異とも思われ、その象徴的言辞が「神はみづからの久遠修道の守道神なり」と表徴されるように、神仏補完的な要素が最初期の仏道観に萌芽されていたのであろうか。

「自惟すらく、昔人求道、敲骨取髄、刺血済饑。布髪淹泥、投崖飼虎。古尚若此、我又何人。かくの如く思うに、志気いよいよ励志はあり。今云う古尚若此、我又何人を、晩進も忘れざるべきなり。しばらくこれを忘るる時、永劫の沈劫の沈溺あるなり。かくの如く自惟して、法を求め道を求むる志気のみ重なる。澡雪の操を操とせざるによりて、しかありけるなるべし。遅明の夜の消息、はからんとするに肝胆も砕けぬるが如し。ただ身毛の寒怕せらるるのみなり」

「自惟すらくー我又何人」は前出同文(「大正蔵」五一・二一九中)右に見出され、「自ら惟(おも)うに、昔の人は道を求むるに、㊀骨を敲(う)ちて髄を取り、㊁血を刺して饑えを済(すく)う。㊂髪を布き泥を淹い、㊃崖に投じ虎を飼う。古きは尚此の若し、我又何人ぞ」。

「かくの如く思うに」以下が前生譚(ジャータカ)を踏まえての拈語で、㊀の敲骨取髄は『大般若波羅蜜多経』三九八「破骨出髄」(「大正蔵」六・一〇六三上)、㊁の刺血済饑は『賢愚経』二「以血済其飢乏」(「大正蔵」四・三六〇中)、㊂の布髪淹泥は『仏本行集経』三「解髪布散」(「大正蔵」三・六六七下)、㊃の投崖飼虎は『金光明最勝王経』十「餓虎前委身」(「大正蔵」十六・四五二上)と70話の中から抽出された菩薩行に対し、「晩進(後輩の参学者)も忘れてはならない」と自身をも励志させる言い様となります。このような励志を忘却する時は、永久に仏道の行持には出会えず「沈溺あるなり」と、志気を促す語釈となります。

「澡雪の操を操とせざる」云々は洗い清めて、妄想を綺麗に洗い上げる。との意で、解脱しようなど捨て切った状態を指す。「遅明の夜の消息」は「身毛の寒怕」と対をなすもので、ともに慧可の志気を言語化する文飾です。

「初祖、憐れみて昧旦に問う、汝久立雪中、当求何事。かくの如く聞くに、二祖、悲涙ますます落として云く、惟願和尚、慈悲開甘露門、広度群品。かくの如く申すに、初祖曰、諸仏無上妙道、曠劫精勤、難行能行、非忍而忍。豈以小徳小智、軽心慢心、欲冀真乗、徒労勤苦。この時、二祖聞きていよいよ誨励す。ひそかに利刀を取りて、みづから左臂を断て、置于師前するに、初祖ちなみに二祖これ法器なりと知りぬ。乃曰、諸仏最初求道、為法忘形。汝今断臂吾前、求亦可在。これより堂奥に入る。執侍八年、勤労千万、誠にこれ人天の大依怙なるなり、人天の大導師なるなり。かくの如きの勤労は、西天にも聞かず、東地はじめてあり」

情景は「慧可断臂」として知られ、厳冬十二月九日の雪中に於ける特異な行持として周知されるものですが、史実とは云い難く一箇の伝承話として扱うべきものです。

この処は「前掲同所」を引用するもので、「執侍八年」の年数は見出されないが、達磨の面壁九年から逆算しての独自の考察のようです。「大依怙」とは大いに頼みとする処。「西天にも聞かず、東地はじめて」とは、自身の臂を断じての志気の行持は、印度に於いても聞かれず、真丹に於ける向上意による表出との見解。

 

破顔は古をきく、得髓は祖に學す。しづかに觀想すらくは、初祖いく千萬の西來ありとも、二祖もし行持せずは、今日の飽學措大あるべからず。今日われら正法を見聞するたぐひとなれり、祖の恩かならず報謝すべし。その報謝は、餘外の法はあたるべからず、身命も不足なるべし、國城もおもきにあらず。國城は佗人にもうばはる、親子にもゆづる。身命は無常にもまかす、主君にもまかす、邪道にもまかす。しかあれば、これを擧して報謝に擬するに不道なるべし。たゞまさに日々の行持、その報謝の正道なるべし。いはゆるの道理は、日々の生命を等閑にせず、わたくしにつひやさざらんと行持するなり。そのゆゑはいかん。この生命は、前來の行持の餘慶なり、行持の大恩なり。いそぎ報謝すべし。かなしむべし、はづべし、佛祖行持の功徳分より生成せる形骸を、いたづらなる妻子のつぶねとなし、妻子のもちあそびにまかせて、破落ををしまざらんことは。邪狂にして身命を名利の羅刹にまかす。名利は一頭の大賊なり。名利をおもくせば名利をあはれむべし。名利をあはれむといふは、佛祖となりぬべき身命を、名利にまかせてやぶらしめざるなり。妻子親族あはれまんことも、またかくのごとくすべし。名利は夢幻空花なりと學することなかれ、衆生のごとく學すべし。名利をあはれまず、罪報をつもらしむることなかれ。參學の正眼、あまねく諸法をみんこと、かくのごとくなるべし。

これより二祖慧可に対する拈提部です。

「破顔は古を聞く、得髄は祖に学す。静かに観想すらくは、初祖いく千万の西来ありとも、二祖もし行持せずは、今日の飽学措大あるべからず。今日われら正法を見聞する類いとなれり、祖の恩必ず報謝すべし。その報謝は、余外の法はあたるべからず、身命も不足なるべし、国城も重きにあらず。国城は他人にも奪わる、親子にも譲る。身命は無常にも任す、主君にも任す、邪道にも任す。しかあれば、これを挙して報謝に擬するに不道なるべし」

「破顔は古を聞く」は、霊鷲山に於ける釈尊摩訶迦葉との啐啄同期的な拈華微笑を指す。「得髄は祖に学す」は、達磨と慧可との啐啄を意味するもので、両句は対句に仕立てられるものです。「二祖もし行持せずは」は、達磨章に於ける「祖師西来せずは」の仮定法を継承する文体となります。「祖の恩必ず報謝すべし」とは、二祖慧可による断臂得髄を見習いなさい。と断言され、そこでは「身命や国城」というものは媒介されず、仏祖の行持は余外の方法を以てするを報謝とは言わない(不道)とする見識です。

「只まさに日々の行持、その報謝の正道なるべし。いわゆるの道理は、日々の生命を等閑にせず、わたくしに費さざらんと行持するなり。その故は如何ん。この生命は、前来の行持の余慶なり、行持の大恩なり。急ぎ報謝すべし。悲しむべし、恥づべし、仏祖行持の功徳分より生成せる形骸を、いたづらなる妻子のつぶねと為し、妻子のもちあそびに任せて、破落を惜しまざらん事は。邪狂にして身命を名利の羅刹に任す」

「只まさに―行持するなり」は『修証義』に引用されるが、この場合の二祖慧可の行持は達磨を踏襲する面壁打坐である事は周知の事実ではあるが、曹洞教会『修証義』で通読される「行持」の義は、時間を無駄遣いせぬようにとの意味合いですから、在家者向けの法話と出家者に対する講義では異同が生じること必至である。

「この生命はー急ぎ報謝すべし」の意味する処は、「いのち(生命)」=「行持」の同等を唱えるものです。「余慶」は有り余る慶び、ですからお蔭と意訳できます。「いたづらなる妻子のつぶね」のつぶねとは「奴」と表記し、召し使い・しもべ・奴隷の意。この提唱は興聖宝林下に於ける出家学道衆に対する文言である事から、僧侶による妻帯の常態化を前提としたもので、痛烈なる僧界批評と読みとれる。「名利の羅刹」の語も激烈なる批判である。

「名利は一頭の大賊なり。名利を重くせば名利を憐れむべし。名利を憐れむと云うは、仏祖となりぬべき身命を、名利に任せて破らしめざるなり。妻子親族憐れまん事も、またかくの如くすべし。名利は夢幻空花なりと学する事なかれ、衆生の如く学すべし。名利を憐れまず、罪報を積もらしむる事なかれ。参学の正眼、あまねく諸法を見ん事、かくの如くなるべし」

さらに続けて名利(名門利養)と仏祖としての行持の関わりを、「一頭(匹)の大賊」と表現するあたりに道元道元たらしめる態度の表出が見てとれるが、これは『学道用心集』「発菩提」章に於いても強調される根本要諦である。

「名利を憐(哀)れむ」のあわれむは、大切にするの意ですが、先ほどは「名利は一頭の大賊」と言辞する一方で、「名利を大切にする事は、仏祖となる身命をも大切にし、その帰結として妻子親族も大事に出来る」と言った逆説的説明を以て、すべて行持の範疇に組み込ませる手法のようです。名利は実体のない夢幻や空花といった概念として学んではならず、広く諸法を見るように学びなさい。との提示となります。

 

世人のなさけある、金銀珍玩の蒙恵なほ報謝す、好語好聲のよしみ、こゝろあるはみな報謝のなさけをはげむ。如來無上の正法を見聞する大恩、たれの人面かわするゝときあらん。これをわすれざらん、一生の珍寶なり。この行持を不退轉ならん形骸髑髏は、生時死時、おなじく七寶塔におさめ、一切人天皆應供養の功徳なり。かくのごとく大恩ありとしりなば、かならず草露の命をいたづらに零落せしめず、如山の徳をねんごろに報ずべし。これすなはち行持なり。この行持の功は、祖佛として行持するわれありしなり。おほよそ初祖二祖、かつて精藍を草創せず、薙草の繁務なし。および三祖四祖もまたかくのごとし。五祖六祖の寺院を自草せず、青原南嶽もまたかくのごとし。

「世人の情けある、金銀珍玩の蒙恵なお報謝す、好語好声の好み、心あるは皆報謝の情けを励む。如来無上の正法を見聞する大恩、誰の人面か忘るる時あらん。これを忘れざらん、一生の珍宝なり」

この所の結論として、世間の人の価値観である「金銀・珍玩」の報謝を、「正法を見聞」する事こそ、「一生の珍宝」であると力説する次第です。

「この行持を不退転ならん形骸髑髏は、生時死時、同じく七宝塔に納め、一切人天皆応供養の功徳なり。かくの如く大恩ありと知りなば、必ず草露の命をいたづらに零落せしめず、如山の徳をねんごろに報ずべし。これ則ち行持なり」

「形骸髑髏」の表現は、人間の本源を言い含めるもので、身体を臭皮袋と表明させる語法と同じであろうが、これは先の達磨章での風俗を述べた「諸優婆塞、持此聴法人髑髏起塔供養命終生天、当知大法有大功能」(「大正蔵」四六・一四七中)からの再援となり、起塔を七宝塔と具体的に示し、その効能も「一切人天皆応供養」の功徳であると。『法華経』「見宝塔品」の偈頌である「一切天人、皆応供養」を引用するものである。(「大正蔵」九・三四中)

「この行持の功は、祖仏として行持する我ありしなり。おおよそ初祖二祖、曾て精藍を草創せず、薙草の繁務なし。及び三祖四祖も又かくの如し。五祖六祖の寺院を自草せず、青原南嶽も又かくの如し」

この章での結語としては、これまで述べてきた行持の功徳は、祖師や仏として行持する我(自己)が在るからであり、初祖(達磨)二祖(慧可)三祖(僧璨)四祖(道信)五祖(弘忍)六祖(慧能)の各々の祖仏は精藍・寺院を自草せず、仏祖の行持に務めたのであり、その命脈が青原・南嶽に伝持されたのである。と結語されます。

因みに「祖仏」の語は臨済以前には発語されていないようであり、『臨済録』では「祖仏」九回・「仏祖」五回と使い分けられているが、道元に於いては『正法眼蔵』四十三万余字には祖仏の語は「当巻」の一か所のみですが、仏祖に関しては六百回以上頻出させます。『永平広録』に於いても「祖仏」は0「仏祖」は百回以上発話されます。

 

    二十四 石頭希遷

石頭大師は草庵を大石にむすびて石上に坐禪す。昼夜にねぶらず、坐せざるときなし。衆務を虧闕せずといへども、十二時の坐禪かならずつとめきたれり。いま青原の一派の天下に流通すること、人天を利潤せしむることは、石頭大力の行持堅固のしかあらしむるなり。いまの雲門法眼のあきらむるところある、みな石頭大師の法孫なり。

前話での「精藍を草創せず、寺院を自草せず」を承けての石頭希遷(700―790)和尚を扱われます。

「石頭大師は草庵を大石に結びて石上に坐禅す」

これは『景徳伝灯録』十四「師於唐天宝初、薦之衡山南寺。寺之東有石状如台、乃結庵其上、時号石頭和尚」(「大正蔵」五一・三〇九中)からの援用ですが、「天宝の初め」の天宝の歴号は742―756年。

「昼夜に眠らず、坐せざる時なし。衆務を虧闕せずと云えども、十二時の坐禅必ず務めき来れり」

石頭の略歴を眺めれば、六祖→青原→南嶽の南台山に於ける石状如台の修行を示すものである。『石頭和尚草庵歌』に於ける辦法では「世人住処我不住、世人愛処我不愛」「青松下明窓内、玉殿朱樓未為対。衲帔頭万事休」と示し、また『南嶽石頭和尚参同契』では「万物自有功、当言用及処、事存函蓋合、理応箭鋒拄。―謹白参玄人。光陰莫虚度」(「大正蔵」五一・四五九中)と、十二時の辦法が窺われるものである。

「いま青原の一派の天下に流通する事、人天を利潤せしむる事は、石頭大力の行持堅固の然あらしむるなり。今の雲門・法眼の明らむる処ある、みな石頭大師の法孫なり」

これは在宋当時を回顧してのものですから、『辧道話』に示される「大宋には臨済宗のみ天下にあまねし」(「岩波文庫」㈠一四)が実際の現状だったようで、石頭から派生した門派は雪峰から分派した雲門、玄沙の流れを汲む法眼、薬山からの洞山と命脈が保たれます。一方、南嶽からは百丈から分立した潙山、臨済と通脈されます。

 

    二十五 四祖道信

第三十一祖大醫禪師は、十四歳のそのかみ、三祖大師をみしより、服勞九載なり。すでに佛祖の祖風を嗣續するより、攝心無寐にして脅不至席なること僅六十年なり。化、怨親にかうぶらしめ、徳、人天にあまねし。眞丹の第四祖なり。貞觀癸卯歳、太宗嚮師道味、欲瞻風彩、詔赴京。師上表遜謝、前後三返、竟以疾辭。第四度、命使曰、如果不赴、即取首來。使至山諭旨。師乃引頸就刃、神色儼然。使異之、廻以状聞。帝彌加歎慕。就賜珍繒、以遂其志。しかあればすなはち、四祖禪師は身命を身命とせず、王臣に親近せざらんと行持せる行持、これ千載の一遇なり。太宗は有義の國主なり、相見のものうかるべきにあらざれども、かくのごとく先達の行持はありけると參學すベきなり。人主としては、身命ををしまず引頸就刃して身命ををしまざる人物をも、なほ歎慕するなり。これいたづらなるにあらず、光陰ををしみ、行持を專一にするなり。上表三返、奇代の例なり。いま澆季には、もとめて帝者にまみえんとねがふあり。高宗永徽辛亥歳、閏九月四日、忽垂誡門人曰、一切諸法悉皆解脱。汝等各自護念、流化未來。言訖安坐而逝。壽七十有二、塔于本山。明年四月八日、塔戸無故自開、儀相如生。爾後、門人不敢復閉。しるべし、一切諸法悉皆解脱なり、諸法の空なるにあらず、諸法の諸法ならざるにあらず、悉皆解脱なる諸法なり。いま四祖には、未入塔時の行持あり、既在塔時の行持あるなり。生者かならず滅ありと見聞するは小見なり、滅者は無思覺と知見せるは小聞なり。學道には、これらの小聞小見をならふことなかれ。生者の滅なきもあるべし、滅者の有思覺なるもあるべきなり。

今話で扱う大医道信(580―651)は釈迦仏よりは第三十一祖、初祖達磨よりは東土四祖に数えられ、先の石頭よりは四代前に当たります。

「第三十一祖大医禅師は、十四歳のそのかみ、三祖大師を見しより、服労九載なり。すでに仏祖の祖風を嗣続するより、摂心無寐にして脅不至席なること僅六十年なり。化、怨親に蒙らしめ、徳、人天に普ねし。真丹の第四祖なり」

「服労九載」の出典は『景徳伝灯録』三・第三十祖僧璨章「有沙弥道信年始十四、來礼師曰、願和尚慈悲乞与解脱法門―略―(道)信於言下大悟服労九載」(「大正蔵」五一・二二一下)から抽出するものですが、『永平広録』九・頌古六に於いても同文が記録される。

「摂心無寐―僅六十年」は『景徳伝灯録』三・道信「宛如宿習既嗣祖風。摂心無寐脇不至席者僅六十年。隋大業十三載」(「大正蔵」五一・二二二中)を引用するものです。

貞観癸卯歳、太宗嚮師道味、欲瞻風彩、詔赴京。師上表遜謝、前後三返、竟以疾辞。第四度、命使曰、如果不赴、即取首来。使至山諭旨。師乃引頸就刃、神色𠑊然。使異之、廻以状聞。帝弥加歎慕。就賜珍繒、以遂其志。しかあれば即ち、四祖禅師は身命を身命とせず、王臣に親近せざらんと行持せる行持、これ千載の一遇なり。太宗は有義の国主なり、相見のものうかるべきにあらざれども、かくの如く先達の行持はありけると参学すベきなり。人主としては、身命を惜しまず引頸就刃して身命を惜しまざる人物をも、なお歎慕するなり。これいたづらなるにあらず、光陰を惜しみ、行持を専一にするなり。上表三返、奇代の例なり。いま澆季には、求めて帝者にまみえんと願うあり」

出典は「前掲同頁」道信章です。

貞観十七年癸卯の歳(643)に、太宗(唐朝第二代皇帝・在位626―649)は、師(大医禅師)の仏道の味を嚮(した)い、(大医の)風彩を瞻(み)ようと欲し、京(長安)に赴くよう詔を出す。師(大医)は上表するも遜謝(ことわる)すること前後三返して、竟(つい)に疾(やまい)を以て辞す。第四度目には、勅使に命じて曰く、如(も)し果して不赴なら、即ち首を取り来たれ。勅使は(破頭)山に至り勅旨を伝え諭(さと)す。師(大医)は乃ち頸に刃を当てるが、神色(顔色)は𠑊然(おごさか)であった。勅この態度を奇異とし、廻(かえ)って、書状を以て(上)聞する。皇帝は弥(いよ)いよ歎慕の情を加す。珍繒(ちんぞう・珍しい絹物・天蓋の絹)を下賜して、以て其の志を遂げる。との言で、これは千年に一度の出会いと讃えられます。大医の皇帝からの勅命を三回も断るは奇代の例として、いまの末世(澆季)の時節では、大医の言説とは裏腹に、自分から権力者の皇帝に親近するを願うばかりの人の世である。と讃仰されます。

「高宗永徽辛亥歳、閏九月四日、忽垂誡門人曰、一切諸法悉皆解脱。汝等各自護念、流化未来。言訖安坐而逝。寿七十有二、塔于本山。明年四月八日、塔戸無故自開、儀相如生。爾後、門人不敢復閉。知るべし、一切諸法悉皆解脱なり、諸法の空なるにあらず、諸法の諸法ならざるにあらず、悉皆解脱なる諸法なり。いま四祖には、未入塔時の行持あり、既在塔時の行持あるなり。生者必ず滅ありと見聞するは小見なり、滅者は無思覚と知見せるは小聞なり。学道には、これらの小聞小見を習う事なかれ。生者の滅なきもあるべし、滅者の有思覚なるもあるべきなり」

四祖道信の円寂の様子を偲ぶ段となります。

高宗の永徽二年辛亥の歳(651)の閏九月四日、忽然と門人に垂誡して曰く、一切諸法は悉皆に解脱す。汝等は各自に護念し、未来に流化(化導)せよ。言い訖り安坐して逝く。寿は七十二、破頭山に塔を立て、明年(652)四月八日に、塔の戸が理由なく自づと開く。儀相は生けるが如く。爾の後、門人は敢えて復た閉じず。

本則に対する解説として、「一切諸法悉皆解脱」の諸法は空と云うのではなく、悉皆解脱が諸法である。と分節解体し、眼蔵特有の著語で以て、「未入塔・既在塔」それぞれに「行持」の本来義を説かれるもので、次いで説く「生者=滅・滅者=無思覚」と云った固定概念化された考えは「小聞・小見」と嫌い見習うな。との解釈です。世間では問わない「生者の滅なし・滅者の有思覚」も在るべき理も考察せよ。との言です。

 

    二十六 玄沙師備

福州玄砂宗一大師、法名師備、福州閩縣人也。姓謝氏。幼年より垂釣をこのむ。小艇を南臺江にうかめて、もろもろの漁者になれきたる。唐の咸通のはじめ、年甫三十なり。たちまちに出塵をねがふ。すなはち釣舟をすてて、芙蓉山靈訓禪師に投じて落髪す。豫章開元寺道玄律師に具足戒をうく。布衲芒履、食纔接気、常終日宴坐。衆皆異之。與雪峰義存、本法門昆仲、而親近若師資。雪峰以其苦行、呼爲頭陀。一日雪峰問曰、阿那箇是備頭陀。師對曰、終不敢誑於人。異日雪峰召曰、備頭陀何不徧參去。師曰、達磨不來東土、二祖不往西天。雪峰然之。つひに象骨山にのぼるにおよんで、すなはち師と同力締構するに、玄徒臻萃せり。師の入室咨決するに、晨昏にかはることなし。諸方の玄學のなかに所未決あるは、かならず師にしたがひて請益するに、雪峰和尚いはく、備頭陀にとふべし。師まさに仁にあたりて不譲にしてこれをつとむ。抜群の行持にあらずよりは、恁麼の行履あるべからず。終日宴坐の行持、まれなる行持なり。いたづらに聲色に馳騁することはおほしといへども、終日の宴坐はつとむる人まれなるなり。いま晩學としては、のこりの光陰のすくなきことをおそりて、終日宴坐、これをつとむべきなり。

今話で扱う玄沙師備(835―908)と師である雪峰義存(822―908)の没年は奇しくも同じ歳となります。年代的には一回りの差がありますが、玄沙と雪峰との関係は同等か寧ろ順逆の感さえあります。二人に関わるものは『真字正法眼蔵』では十五・三八・四八・六十・一〇九・一四四・一四九・一六三・一七六・二八七則にもわたり取り挙げられ、『行仏威儀』『一顆明珠』『古鏡』『授記』『十方』各巻にても取り扱われる次第です。

「福州玄砂宗一大師、法名師備、福州閩県人也。姓謝氏。幼年より垂釣を好む。小艇を南台江にうかめて、もろもろの漁者になれきたる。唐の咸通のはじめ、年甫三十なり。忽ちに出塵をねがふ。乃ち釣舟を棄てて、芙蓉山霊訓禅師に投じて落髪す。豫章開元寺道玄律師に具足戒を受く」

出典籍は『景徳伝灯録』十八「福州玄沙宗一大師、法名師備。福州閩県人也。姓謝氏。幼好垂釣。小艇於南台江、諸漁者。唐咸通初、年甫三十。忽出塵。乃棄釣舟、投芙蓉山霊訓禅師落髮。豫章開元寺道玄律師受」(「大正蔵」五一・三四三下)と、一字一句とも引用籍と同文ですが、あらためて和語化にあたりー部の読みを「泛」はうかめて・「狎」はなれきたる・「慕」はねがふ・「具」は具足戒とするが、「往」に関しては読み忘れたか恣意的かは判別できず。

「当巻」より四年前に記された『一顆明珠』冒頭部では「娑婆世界大宋国、福州玄砂山院宗一大師、法諱師備、俗姓者謝なり。在家のそのかみ釣魚を愛し、舟を南台江にうかべて、もろもろのつり人にならひけり。不釣自上の金鱗を不待にもありけん。唐の咸通のはじめ、たちまちに出塵をねがふ。舟をすてて山にいる。そのとし三十歳になりけり」(「岩波文庫」㈠一八〇)と示される。

「閩県」は福建省福州市に曾て在した行政区。「咸通のはじめ」とは、咸通(860―874)の864年にあたる。「芙蓉山霊訓禅師」は帰宗智常(生没不詳)の法嗣で『景徳伝灯録』十「福州芙蓉山霊訓禅師」章(「大正蔵」五一・二八〇下)では帰宗との問答(「一翳在眼空華乱墜」)が収録される。弘照大師を諡号され、塔には円相と刻される。西口芳男著『玄沙の伝記』では「芙蓉山義通上人の教化に遭い、夜を徹して話し合った結果、その導きによって、弘照大師(霊訓禅師)の門をくぐり、それから三年、咸通四年(863)、二十九歳(三十歳か)のとき落髪した」(二四〇頁)と、霊訓以前に義通上人の存在を紹介する。「豫章開元寺」は江西省南昌(鐘陵)に開元二十六年(738)に設置された官立寺で馬祖道一旧跡でもある。「道玄律師に具足戒」道玄が受業師となる。人物不詳。

「布衲芒履、食纔接気、常終日宴坐。衆皆異之。与雪峰義存、本法門昆仲、而親近若師資。雪峰以其苦行、呼為頭陀。一日雪峰問曰、阿那箇是備頭陀。師対曰、終不敢誑於人。異日雪峰召曰、備頭陀何不徧参去。師曰、達磨不来東土、二祖不往西天。雪峰然之」

先は原漢文を和文化したものでしたが、ここでは原漢文そのままに記述されます。

(玄沙の日頃の姿態は)布(木綿)の衲衣に芒履(わらぞうり)で、食は纔かに気力を接いで、常に終日宴坐。大衆は皆が(玄沙の)行動を奇異とする。雪峰義存は、本の法門の仲間であったが、親近するは師資の若しであった。雪峰は其の苦行(布衲芒履・食纔接気)を以てして、呼んで(備)頭陀と為す。一日(ある日)雪峰が問うて曰く、阿那箇(どれ)が是の備頭陀か。師(玄沙)対して曰く、終(つい)に敢えて人を誑せず。異なる日に雪峰は(玄沙を)召して曰く、備頭陀、何ぞ徧参不去。師曰く、達磨は東土(中華)に不来、二祖は西天(印度)に不往。雪峰は之を然とす。

「布衲」の衲は縫い繕う継ぎはぎの意で、粗末な布で繕った僧衣を云う。「芒履」の芒(のぎ)はイネ科の棘状の突起を指し、履は草履ですから粗末さを形容したものです。「食纔接気」は前句に対をなすもの。

「本法門昆仲」とは、雪峰も玄沙も芙蓉山の霊訓に参じたことから昆仲(兄弟)とするが、二人の出会いは咸通六年(865)から咸通九年の頃とされる(前記『玄沙の伝記』(二四八頁)参照)。「呼為頭陀」の頭陀は巴dhutaで修行を指すが雪峰(師)が玄沙(資)の謹厳実直な態度を表徴して頭陀と呼称したのである。

「一日雪峰」の問いの前には、「欲遍歴諸方、参尋知識。攜嚢出嶺、築著脚指頭、流血痛楚。忽然猛省曰、是身非有、痛自何来。即回雪峰」(『聯灯会要』二三「続蔵」七九・二〇二下)というトピックが欠落するが、『一顆明珠』巻では此処を「あるとき、あまねく諸方を参徹せんために、嚢をたづさへて出嶺するちなみに、脚指を石に築著して、流血し、痛楚するに、忽然として猛省していはく、是身非有、痛自何来」(「岩波文庫」㈠一八一)と和文化に供されます。

そこで雪峰が玄沙に向かって、終日宴坐する玄沙と痛楚する師備とは、阿那箇(どちら)が

備頭陀かと詰問される設定です。これに対する玄沙の「不敢誑於人」の意図する処は、阿那箇・彼此箇の問題ではなく、全視眼的な立場を示唆するもので、玄沙に軍配が読みとれる答話のようです。

いま一度雪峰は同様な趣きを以て、頭陀の師備に対し「不徧参去」を質すと、有名な玄沙の「達磨東土に来たらず、二祖西天に往かず」。と断言されます。これは達磨が仏法を携え東方に向かった訳でもなく、慧可が求法の旅に出て何かを持参した訳でもない。ことを云うもので、先の答話と同じく、仏法は誰彼の所有ではなく、人々具足するものであるから、徧参の「去・不去」の問題ではない。事情を云うものであり、これに対する態度として「然之」と印を与えたものです。

「遂に象骨山に登るに曁んで、乃ち師と同力締構するに、玄徒臻萃せり。師の入室咨決するに、晨昏に替わること罔し。諸方の玄学のなかに所未決あるは、必ず師に従いて請益するに、雪峰和尚言わく、備頭陀に問うべし。師まさに仁にあたりて不譲にしてこれを務む。抜群の行持にあらずよりは、恁麼の行履あるべからず。終日宴坐の行持、希なる行持なり。いたづらに声色に馳騁する事は多しと云えども、終日の宴坐は務むる人、希なるなり。いま晩学としては、残りの光陰の少なき事を恐りて、終日宴坐、これを務むべきなり」

「象骨山―仁にあたりて」までの原典は先の『景徳伝灯録』十八・同掲所で「曁登象骨山乃与師同力締構玄徒臻萃師入室咨罔替晨昏。(又閲楞厳経発明心地、由是応機敏捷与修多羅冥契)。諸方玄学有所未決必従之請益、至若与雪峯和向徴詰、亦当仁不譲」のー部は和文化したもので、()内は楞厳経を扱う為、意図的に削除されたものです。『宝慶記』七則では「楞厳経は大乗諸経に不同なり」との言辞で示される如く、現今の通説に於いても偽経との見解が一般的である。「備頭陀に問うべし」は先の『聯灯会要』から抜き書きした形になります。

「抜群の行持」以下が玄沙に対する評価であり、「終日宴坐」つまり只管打坐に打ち込む頭陀こそが「行持」の本源と位置づけられ、後輩(道元を含めた興聖学徒)としては、残り少ない時間を「終日宴坐」に努めよう。との堂頭と衆徒の関係を超越した語り口となります。

このほか、玄沙に関しては「玄沙と雪峰」「玄沙の臨済批判」「玄沙と雲門」など興味ある処ではあるが、入矢義高著『自己と超越』「雪峰と玄沙」章の一読を進言するものである。

 

    二十七 長慶慧陵

長慶の慧稜和尚は、雪峰下の尊宿なり。雪峰と玄沙とに往來して、參學すること僅二十九年なり。その年月に蒲團二十枚を坐破す。いまの人の坐禪を愛するあるは、長慶をあげて慕古の勝躅とす。したふはおほし、およぶすくなし。しかあるに、三十年の功夫むなしからず、あるとき涼簾を巻起せしちなみに、忽然として大悟す。三十來年かつて郷土にかへらず、親族にむかはず、上下肩と談笑せず、專一に功夫す。師の行持は三十年なり。疑滯を疑滯とせること三十年、さしおかざる利機といふべし、大根といふべし。勵志の堅固なる、傳聞するは或從經巻なり。ねがふべきをねがひ、はづべきをはぢとせん、長慶に相逢すべきなり。實を論ずれば、ただ道心なく、操行つたなきによりて、いたづらに名利には繋縛せらるるなり。

今話は先の玄沙師備と同門である長慶慧陵(854―932)に対する仏祖としての「行持」を説き明かされます。

「長慶の慧稜和尚は、雪峰下の尊宿なり。雪峰と玄沙とに往来して、参学すること僅二十九年なり。その年月に蒲団二十枚を坐破す。今の人の坐禅を愛するあるは、長慶を挙げて慕古の勝躅とす。慕うは多し、及ぶ少なし。しかあるに、三十年の功夫むなしからず、あるとき涼簾を巻起せし因みに、忽然として大悟す」

この話頭は玄沙に続き、雪峰下二位に列する慧陵ですから、先述の玄沙章に続く福州長慶慧陵章「師来往雪峰二十九載」(「大正蔵」五一・三四七下)からの引用と考えられるが、『真字正法眼蔵』一五六則「福州長慶慧陵禅師嗣雪峰―略―師往来雪峰玄沙三十年間」が底本に為るものと思われるが。さらには、この則の元になる資料は大慧宗杲『正法眼蔵』二下では「陵如是往来雪峰玄沙二十年間」(「続蔵」六七・六〇二上)と示されるように、従来の年月には「二十九・三十・二十」と差異がありますが、三本の語録等からの合楺とも推論される。

「蒲団二十枚を坐破」つまり二十九年間に二十箇の坐蒲を使い古した。との言ですが、この事情の記述はこれまでの灯録類には見当たらず、道元自身が仄聞した数値と考えられるが、『圜悟語録』九では「陵道者、参雪峰・霊雲・玄沙、来往十五年、坐破七箇蒲団」(「大正蔵」四七・七五三下)及び『同録』十四でも「長慶坐破七蒲団」(「同」四七・七七九下)とという数値が確認され、圜悟以外でも「大正蔵」では六箇所に於いて坐破七箇の言が散見される状況です。

「あるとき涼簾を巻起し、忽然として大悟す」は、「一日巻起簾忽然大悟。乃有頌云、也大差也大差。巻起簾来見天下。有人問我解何宗、拈起払子劈口打」(前記「真字正法」一五六)と答話する段を指し示すものです。因みに「灯録」類では再度の大悟頌「万象之中独露身、

唯人自肯乃方親。昔時謬向途中覓、今日看如火裏氷」と、このように長慶には大悟の実参が数度あったようである。

「三十来年かつて郷土に帰らず、親族に向かわず、上下肩と談笑せず、専一に功夫す。師の行持は三十年なり。疑滞を疑滞とせること三十年、差し置かざる利機と云うべし、大根と云うべし。励志の堅固なる、伝聞するは或従経巻なり。願うべきを願い、恥づべきを恥とせん、長慶に相逢すべきなり。実を論ずれば、ただ道心なく、操行拙なきによりて、いたづらに名利には繋縛せらるるなり」

この処が長慶に対する評唱という形で説かれます。「上下肩と談笑せず」とは、僧堂内にて左右の隣単者同志と向き合わず世間話すらせず、「専一に」坐蒲が破けるほどに坐禅を「三十年」功夫した。。とは一種のデフォルメされた手法を以て、長慶に於ける「行持」は達磨から連続する専一に功夫する只管の座破と解き明かすものです。「疑滞」の語は『景徳伝灯録』十八にて「唐乾符五年(878)入閩中(福建省)、謁西院(長慶院・西禅寺)、訪霊雲、尚有凝滞。後之雪峯疑情氷釈」(「大正蔵」五一・三四七中)と示される部分を援用したものですが、通常で云う処の凝滞・疑団は、公案等を額に掛けて坐する手法を指すが、この場合の「凝滞」は念(サティ)と解釈する事が肝要で、この基本的辦法は「利機(優秀な機根の人)・大根(偉大な根器の人)」にも通底するものである。

興聖に集う参禅学道者には、長慶の如くに専一なる励志を以て、坐破する辦道があるなら長慶に相逢するはずであるが、事実を論ずるなら今時の学人には求道心なく、長慶のような一貫性に劣り、いたづらに名利に束縛せらるるなり。と長慶を慕古し、専一なる功夫坐禅)を促す結論となります。

 

    二十八 潙山霊祐

大潙山大圓禪師は、百丈の授記より、直に潙山の峭絶にゆきて、鳥獣爲伍して結草修練す。風雪を辭勞することなし。橡栗充食せり。堂宇なし、常住なし。しかあれども、行持の見成すること四十來年なり。のちには海内の名藍として龍象蹴踏するものなり。梵刹の現成を願ぜんにも、人情をめぐらすことなかれ、佛法の行持を堅固にすべきなり。修練ありて堂閣なきは古佛の道場なり、露地樹下の風、とほくきこゆ。この處在、ながく結界となる。まさに一人の行持あれば、諸佛の道場につたはるなり。末世の愚人、いたづらに堂閣の結構につかるゝことなかれ。佛祖いまだ堂閣をねがはず。自己の眼目いまだあきらめず、いたづらに殿堂精藍を結構する、またく諸佛に佛宇を供養せんとにはあらず、おのれが名利の窟宅とせんがためなり。潙山のそのかみの行持、しづかにおもひやるべきなり。おもひやるといふは、わがいま潙山にすめらんがごとくおもふべし。深夜のあめの聲、こけをうがつのみならんや、巖石を穿卻するちからもあるべし。冬天のゆきの夜は、禽獣もまれなるべし、いはんや人煙のわれをしるあらんや。命をかろくし法をおもくする行持にあらずは、しかあるべからざる活計なり。薙草すみやかならず、土木いとなまず。たゞ行持修練し、辦道功夫あるのみなり。あはれむべし、正法傳持の嫡祖、いくばくか山中の嶮岨にわづらふ。潙山をつたへきくには、池あり、水あり、こほりかさなり、きりかさなるらん。人物の堪忍すべき幽棲にあらざれども、佛道と玄奥と、化成することあらたなり。かくのごとく行持しきたれりし道得を見聞す、身をやすくしてきくべきにあらざれども、行持の勤勞すべき報謝をしらざれば、たやすくきくといふとも、こゝろあらん晩學、いかでかそのかみの潙山を、目前のいまのごとくおもひやりてあはれまざらん。この潙山の行持の道力化功によりて、風輪うごかず、世界やぶれず。天衆の宮殿おだいかなり、人間の國土も保持せるなり。潙山の遠孫にあらざれども、潙山は祖宗なるべし。のちに仰山きたり侍奉す。仰山、もとは百丈先師のところにして、問十答百の鷲子なりといへども、潙山に參侍して、さらに看牛三年の功夫となる。近來は斷絶し、見聞することなき行持なり。三年の看牛、よく道得を人にもとめざらしむ。

今話の潙山霊祐(771―853)の系譜は南嶽―馬祖―百丈―潙山―仰山と連脈するものでしたが現在は伝法されず、百丈―黄檗臨済と嗣続された系譜のみが流伝された実状である。

「大潙山大円禅師は、百丈の授記より、直に潙山の峭絶に往きて、鳥獣為伍して結草修練す。風雪を辞労する事なし。橡栗充食せり。堂宇なし、常住なし。しかあれども、行持の見成すること四十来年なり。後には海内の名藍として龍象蹴踏するものなり」

この処は『景徳伝灯録』九(「大正蔵」五一・二六四中)から語句を抽出する形で文章化されます。「大潙山大円禅師・行持の見成四十年」に関する処は「師敷揚宗教凡四十余年、達者不可勝数、入室弟子四十一人。唐大中七年(853)正月九日盥漱敷坐怡然而寂。寿八十三、臘六十四。塔于本山、勅諡大円禅師、塔曰 清浄」(二六五下)からの援用です。「潙山の峭絶・鳥獣為伍・橡栗充食」に関しては「是山峭絶、夐無人煙。師、猿猱為伍橡栗充食」(二六四下)が引用されます。

「梵刹の現成を願ぜんにも、人情を巡らす事なかれ、仏法の行持を堅固にすべきなり。修練ありて堂閣なきは古仏の道場なり、露地樹下の風、遠く聞こゆ。この処在、永く結界となる。まさに一人の行持あれば、諸仏の道場に伝わるなり。末世の愚人、いたづらに堂閣の結構に疲るる事なかれ。仏祖いまだ堂閣を願わず。自己の眼目未だ明らめず、いたづらに殿堂精藍を結構する、全く諸仏に仏宇を供養せんとにはあらず、おのれが名利の窟宅とせんが為なり」

これより拈提部で、ここでの「行持」に関しては、「示衆云、夫道人之心、質直無偽。無背無面、無詐妄心行」(二六四下)と示されるように、前来からの「坐」に関する言及ではなく、「堂宇・堂閣」などに心を砕く手間ひまが有るなら、「仏法の行持を堅固にすべきなり」との言及であり、殿堂精藍の普請は名利の窟宅と同等である。との言い用は、東福寺の建設進捗に伴っての打算勘定する族を仄聞しての事情も有るもの歟。この「名利」に対する言及は当巻でも随所に言句し、『学道用心集』(「大正蔵」八二・二中)冒頭部に於いても名利抛捨が学道の主要条件である事が強調される。

「潙山のそのかみの行持、静かに思い遣るべきなり。思い遣ると云うは、わが今潙山に住めらんが如く思うべし。深夜の雨の声、苔を穿つのみならんや、巌石を穿却する力もあるべし。冬天の雪の夜は、禽獣も稀なるべし、いわんや人煙の我を知るあらんや。命を軽くし法を重くする行持にあらずは、しかあるべからざる活計なり。薙草速やかならず、土木営まず。ただ行持修練し、辦道功夫あるのみなり。憐れむべし、正法伝持の嫡祖、幾ばくか山中の嶮岨に煩う。潙山を伝え聞くには、池あり、水あり、氷重なり、霧重なるらん。人物の堪忍すべき幽棲にあらざれども、仏道と玄奥と、化成する事新たなり。かくの如く行持し来たれりし道得を見聞す、身を易くして聞くべきにあらざれども、行持の勤労すべき報謝を知らざれば、たやすく聞くと云うとも、心あらん晩学、如何でかそのかみの潙山を、目前の今の如く思い遣りて憐れまざらん」

ここで謂わんとする「行持」の意旨は、外的な環境(依報)と行持(正報)との不離不即・相即性を説き明かさんとするものと思われます。

その事例として「深夜の雨・冬天の雪」の対句を挙げ、その厳しい自然環境下に於いても「行持修練・辦道功夫あるのみなり」と、坐禅を唱うべき所を、敢えて功夫あるのみ。とシェーマやカテゴライズを避ける手法とも考えられる。

「この潙山の行持の道力化功によりて、風輪運かず、世界破れず。天衆の宮殿おだいかなり、人間の国土も保持せるなり。潙山の遠孫にあらざれども、潙山は祖宗なるべし。後に仰山来たり侍奉す。仰山、もとは百丈先師の処にして、問十答百の鷲子なりと云えども、潙山に参侍して、さらに看牛三年の功夫となる。近来は断絶し、見聞する事なき行持なり。三年の看牛、よく道得を人に求めざらしむ」

「風輪」とは教学(倶舎論)で云う所の概念世界である処の風輪・水輪・金輪が世界の基底部を成し、その上位に九山八海の世界あり(『禅学大辞典』一〇六〇頁参照)。「おだいか」とは穏やかの意。「問十答百」に関しては、『真字正法』一一八則からの「大潙問仰山、承聞子在百丈、問一答十」からの援用で、この出典籍は『宗門統要集』四(『禅学典籍叢刊』一・八七頁)である事は石井修道氏の指摘するものです。

「鷲子」とは舎利弗(sariputra)の意訳である鷲鷺子を略したもので、仰山の智慧第一に相当する褒め言葉である。「鷲子」に関しては『神通』巻にて大潙・仰山・香厳による問答での「大潙ほめていはく、二子の神通智恵、はるかに鷲子・目連よりもすぐれたり」(「岩波文庫」㈡三一六)を参照。「看牛三年」とは「師上堂示衆云、老僧百年後、向山下作一頭水牯牛」(「大正蔵」五一・二六五下)と、このように潙山自身が牛に生まれ変わり、下化衆生に努める旨を述べた話頭を捩り、仰山は潙山和尚(牛)と共に三年、粥飯・坐破を共にし修行(功夫)に励まれた。という意味です。

大円禅師(潙山)の「行持」の特質は、坐は勿論のこと、箱物である堂閣などハード面には心血注がず、自然と共に行持修練・辦道功夫に努め、異類中行(看牛)に到るまで仏道の脈絡を絶やさぬ「行持」を提示するものです。

 

    二十九 芙蓉道楷

芙蓉山の楷祖、もはら行持見成の本源なり。國主より定照禪師号ならびに紫袍をたまふに、祖うけず、修表具辭す。國主とがめあれども、師つひに不受なり。米湯の法味つたはれり。芙蓉山に庵せしに、道俗の川湊するもの、僅數百人なり。日食粥一杯なるゆゑに、おほく引去す。師ちかうて赴齋せず。あるとき衆にしめすにいはく、夫出家者、為厭塵労、求脱生死、休心息念、断絶攀縁。故名出家。豈可以等閑利養、埋没平生。直須両頭撒開、中間放下。遇声遇色、如石上栽華。見利見名、似眼中著屑。況従無始以来、不是不曾経歴、又不是不知次第、不過飜頭作尾。止於如此、何須苦々貪恋。如今不歇、更待何時。所以先聖、教人只要尽却。今時能尽今時、更有何事。若得心中無事、仏祖猶是冤家。一切世事、自然冷淡、方始那辺相応。你不見、隠山至死、不肯見人。趙州至死、不肯告人。匾擔拾橡栗為食、大梅以荷葉為衣、紙衣道者只披紙、玄太上座只著布。石霜置枯木堂、与衆坐臥、只要死了你心。投子使人辦米同煮共餐、要得省取你事。且従上諸聖、有如此榜様。若無長処、如何甘得。諸仁者、若也於斯体究、的不虧人。若也不肯承当、向後深恐費力。山僧行業無取、忝主山門。豈可坐費常住、頓忘先聖附嘱。今者輙欲略斅古人為住持体例。与諸人議定、更不下山、不赴斎、不発化主。唯将本院荘課一歳所得、均作三百六十分、日取一分用之、更不随人添減。可以備飯則作飯、作飯不足則作粥。作粥不足、則作米湯。新到相見、茶湯而已、更不煎点。唯置一茶堂、自去取用。務要省縁、専一辦道。又況活計具足、風景不疎。華解笑、鳥解啼。木馬長鳴、石牛善走。天外之青山寡色、耳畔之鳴泉無声。嶺上猿啼、露湿中霄之月。林間鶴唳、風回清曉之松。春風起時枯木龍吟、秋葉凋而寒林花散。玉堦鋪苔蘚之紋、人面帯煙霞之色。音塵寂爾、消息宛然。一味蕭條、無可趣向。山僧今日、向諸人面前説家門。已是不著便、豈可更去陞堂入室、拈槌豎払、東喝西棒、張眉努目、如癇病発相似。不唯屈沈上座、況亦辜負先聖。你不見、達磨西来、到少室山下面壁九年。二祖至於立雪断臂、可謂、受艱辛。然而達磨不曾措了、二祖不曾問著一句。還喚達磨作不為人得麼、喚二祖做不求師得麼。山僧毎至説著古聖做処、便覚無地容身。慚愧後人軟弱。又況百味珍羞遞相供養。道我四事具足、方可発心。只恐做手脚不迭、便是隔生隔世去也。時光似箭、深為可惜。雖然如是、更在佗人従長相度。山僧也強教你不得。諸仁者、還見古人偈麼。山田脱粟飯、野菜淡黄齏。喫則從君喫、不喫任東西。伏惟同道、各自努力。珍重。これすなはち祖宗單傳の骨髓なり。高祖の行持おほしといへども、しばらくこの一枚を擧するなり。いまわれらが晩學なる、芙蓉高祖の芙蓉山に修練せし行持、したひ參學すべし。それすなはち祇薗の正儀なり。

今話で扱う芙蓉道楷(1043―1118)の生きた時代は、慶暦―政和にかけての北宋末代に生きぬいた禅僧です。この段は『嘉泰普灯録』二五(「続蔵」七九・四四二中)に於ける天寧芙蓉楷禅師章全文を記載され、その前段には短い和語化された文章が附される形態様式です。

「芙蓉山の楷祖、もはら行持見成の本源なり。国主より定照禅師号ならびに紫袍を賜うに、祖受けず、修表具辞す。国主咎めあれども、師ついに不受なり。米湯の法味伝われり。芙蓉山に庵せしに、道俗の川湊する者、僅数百人なり。日食粥一杯なる故に、多く引去す。師誓うて赴斎せず。ある時、衆に示すに云わく」

この和文の出典籍は『嘉泰普灯録』三「賜紫袍号定照禅師」(「続蔵」七九・三〇九下)・「於是修表具辞」(同所)・「明年(1109)冬、勅令自便、庵於芙蓉湖心。道俗川湊僅数百人。日食粥一杯故多引去。政和七年(1117)冬、賜額」(同・三一〇上)からの語句を抽出し和文化に供され、「ある時衆に示すに云わく」以下は『嘉泰録』「諸方広語」からの全文抽出です。

因みに、この一文は「祇園正儀」の名で以て、江戸中後期の寛政四年(1792)より読み継がれるものであるが、「祇園」とは祇園精舎jetavana-vihara)として有名であるが、祇樹給孤独園精舎を略したものである。「芙蓉山」は山東省臨沂市郯城県の西北七十里に在。「国主」は徽宗皇帝(在位1100―1126)北宋第八代皇帝で、桃鳩図などを書画した人物としても有名である。

「夫出家者、為厭塵労、求脱生死、休心息念、断絶攀縁。故名出家。豈可以等閑利養、埋没平生。直須両頭撒開、中間放下。遇声遇色、如石上栽華。見利見名、似眼中著屑。況従無始以来、不是不曾経歴、又不是不知次第、不過飜頭作尾。止於如此、何須苦々貪恋。如今不歇、更待何時。所以先聖、教人只要尽却。今時能尽今時、更有何事。若得心中無事、仏祖猶是冤家。一切世事、自然冷淡、方始那辺相応」

夫れ出家は塵労を厭う為なり。生死を脱するを求め、心息念を休し、攀縁を断絶す。故に出家と名づく。豈に等閑の利養を以て、平生を埋没すべけんや。直に須らく両頭撒開し、石上に華を栽えるが如し。利を見名を見るも、眼中の著屑に似たる。況んや無始より以来、是を曾て経歴せざるにあらず、又是れ次第を知らざるにあらず、飜頭作尾に過ぎず。止(ただ)此(かく)の如くなるに於いて、何ぞ須らく苦々に貪恋せん。如今(いま)歇(や)めずは、更に何(いづ)れの時をか待たん。所以に先聖、人をして只要(かなら)ず尽却せしむ。今時能く今時を尽さば、更に何事か有らん。若し心中の無事を得れば、仏祖も是れ冤家の猶(ごと)し。一切の世事は自然冷淡なり、方に始めて那辺に相応す。

「塵労」は五欲六塵の煩悩を云い、俗世に於ける煩わしさを指す。「休心息念」とは念を息め、心を休すの意で、坐禅を謂う。「断絶攀縁」とは外因により心の平静を得られないこと。「等閑利養」とは、なおざりで無意味の様。「眼中の著屑」は「人眼の金屑」と同義であり、金科玉条にも執着するな。の意。

「石上栽華」に関しては石頭・薬山の問答話が挙げられ、石頭の「言語動用勿交渉」に対し薬山は「不言語動用亦勿交渉」と答え、その境地を「石上に華を栽えるようなものだ」と示し、知覚の意識にふり回されない境涯を解き示すものです。また「仏祖猶是冤家」に意は、仏祖と云えども仇敵・かたきのようなものである。と訳されるが、これは物事に執著するを嫌う喩えで、趙州の云う処の「有仏所にも留まらず、無仏の処をも速やかに走り過ぎ去れ」とも通脈するものである。

「你不見、隠山至死、不肯見人。趙州至死、不肯告人。匾擔拾橡栗為食、大梅以荷葉為衣、紙衣道者只披紙、玄太上座只著布。石霜置枯木堂、与衆坐臥、只要死了你心。投子使人辦米同煮共餐、要得省取你事。且従上諸聖、有如此榜様。若無長処、如何甘得。諸仁者、若也於斯体究、的不虧人。若也不肯承当、向後深恐費力」

你見ずや、隠山は死に至るまで人に見(まみ)えんことを肯せず。趙州は死に至るまで人に告げんを肯せず。匾擔は橡栗を拾って食と為し、大梅は荷葉を以て衣とし、紙衣道者は只紙を披(き)る、玄太上座は只布を著す。石霜は枯木堂を置き、衆(人)と与(とも)に坐臥す、只你の心を死了せんを要す。投子は人を使い米を辦じて、同煮共餐せしむ、你が事を省取せんを要得す。且く従上の諸聖、此(かく)の如くの榜様有り。若し長処無ければ、如何が甘得す。諸仁者、若し也(また)斯(ここ)に於いて体究すれば、的不虧人なり。若也承当を肯ぜずは、向後に深く恐らくは力を費さん。

「隠山」は馬祖法嗣五十六人中、第四十二位に列する潭州(湖南省)龍山(生没不詳)を指す。隠山に関しては『真字正法』二二二則の話則に従えば、洞山の問い掛けに「三間茅屋従来住、一道神光万境閑。莫作是非来辨我、浮生穿鑿不相関」(「大正蔵」五一・二六三中)と、『景徳伝灯録』八では俗世と関わらない隠者としての禅僧が記録されます。「趙州」(778―897)は南泉の法を嗣ぎ、弟子には杭州多福を育て其の門流は途絶えたが、趙州の生き様をみれば、平生底を旨とした事から、生も死も同格とする立場からは、自身の死を告するは是としなかったのだろう。「匾擔(生没不明)」については『景徳伝灯録』五に「匾檐山曉了禅師者伝記不載。唯北宗門人忽雷澄撰塔碑」(「大正蔵」五一・二三七下)と記載されますが、「橡栗を拾って食と為す」の文言は確認されず。

「大梅(752―839)」は「当巻」十三にて「松実を食し、荷葉を衣とす」(「岩波文庫」㈠三一六)としめされる。「紙衣道者」に関しては、臨済法嗣の紙衣克符が挙げられるが、他にも洪州紙衣など数多の紙衣道者が知られている。酒井得元(1912―1996)老師の「眼蔵会」で聞き慣れ親しんだ法話では、戦前の永平寺僧堂では青森出身の某和尚が、厳冬の折に大衣と着物の間に新聞紙を入れた。との懐古談が思い出されるものです。「玄太上座」は石霜慶諸の四十一人法嗣者の二十一位に列し、「南嶽玄泰上坐不知何許人也。沈静寡言未嘗衣帛。衆謂之泰布衲」(「大正蔵」五一・三三〇下)と『景徳伝灯録』十六で扱われます。「石霜」は先の石霜慶諸で石頭―薬山―道吾―石霜―南嶽玄泰と命脈を保つわけである。『同録』十五では「師(慶諸)止石霜山二十年間。天下謂之枯木衆也」(「同所」三二一上)と枯木衆と親しまれていたようである。「投子」は石頭―丹霞―翠微―投子大同と続く人物です。

「山僧行業無取、忝主山門。豈可坐費常住、頓忘先聖附嘱。今者輙欲略斅古人為住持体例。与諸人議定、更不下山、不赴斎、不発化主。唯将本院荘課一歳所得、均作三百六十分、日取一分用之、更不随人添減。可以備飯則作飯、作飯不足則作粥。作粥不足、則作米湯。新到相見、茶湯而已、更不煎点。唯置一茶堂、自去取用。務要省縁、専一辦道」

山僧行業に取無く、忝(かたじけな)く山門の主となす。豈に坐(いなが)ら常住を費やし、頓に先聖の附嘱を忘る可けんや。今は輙(すなわ)ち古人の住持たる体例に略斅せんと欲す。

諸人と議定して、更に山を下らず、斎に赴かず、化主を発せず。唯、本院の荘課一歳の所得を将って、均しく三百六十分に作して、日に一分を取って之を用いる、更に人に随って添減せず。以って備飯すべきに則ち作飯すべし、作飯不足なれば則ち作粥す。作粥不足なれば、則ち米湯に作る。新到の相見は、茶湯のみなり、更に煎点せず。唯、一の茶堂を置いて、自去取用す。務要省縁し、専一に辦道す。

「山門の主」とは寺院の住持職。「常住」とは常住物で、寺院の公共財産を云う。「略斅(こう)」とは前例にならう・従うの意。「化主」とは主人の名代としての僧。「荘課」とは荘園からの収穫物・年貢。「煎点」とは煎茶に点心(茶菓子)を添える意。「自去取用」は自分で去(い)き用を取る(お茶を所望の時は自身で行って飲む)。「務要省縁」は、務めを省くの意。

「又況活計具足、風景不疎。華解笑、鳥解啼。木馬長鳴、石牛善走。天外之青山寡色、耳畔之鳴泉無声。嶺上猿啼、露湿中霄之月。林間鶴唳、風回清曉之松。春風起時枯木龍吟、秋葉凋而寒林花散。玉堦鋪苔蘚之紋、人面帯煙霞之色。音塵寂爾、消息宛然。一味蕭条、無可趣向」

又、況んや活計具足し、風景疎ならず。華は笑(さ)くを解し、鳥は啼くを解す。木馬は長く鳴き、石牛は善く走る。天外の青山は色寡(すくな)く、耳畔の鳴泉に声無し。嶺上に猿啼(さけ)んで、露中霄の月を湿(ぬ)らす。林間に鶴唳(な)いて、風は清曉の松を回(めぐ)る。春風起る時に枯木龍吟す、秋葉凋(しぼ)み寒林に花を散ず。玉堦は苔蘚の紋を鋪き、人面に煙霞の色を帯す。音塵寂爾にして、消息宛然なり。一味蕭条として、趣向すべき無し。

「木馬・石牛」は解脱の心情に喩えたもので、固定観念の払拭を提示。「枯木龍吟」とは、枯れたと思った木が風によって生命を与えられた喩えで、眼前現成する真実相の実態を云う。「人面煙霞」は人の面も煙や霞の如くに常態変化するを云うが、無常の世界を説く。「消息宛然」とは、日々好日なる自然を云い、尽十方世界の精妙なる理を説くものである。

「山僧今日、向諸人面前説家門。已是不著便、豈可更去陞堂入室、拈槌豎払、東喝西棒、張眉努目、如癇病発相似。不唯屈沈上座、況亦辜負先聖。你不見、達磨西来、到少室山下面壁九年。二祖至於立雪断臂、可謂、受艱辛。然而達磨不曾措了、二祖不曾問著一句。還喚達磨作不為人得麼、喚二祖做不求師得麼。山僧毎至説著古聖做処、便覚無地容身。慚愧後人軟弱。又況百味珍羞遞相供養。道我四事具足、方可発心。只恐做手脚不迭、便是隔生隔世去也。時光似箭、深為可惜。雖然如是、更在佗人従長相度。山僧也強教你不得。諸仁者、還見古人偈麼。山田脱粟飯、野菜淡黄齏。喫則従君喫、不喫任東西。伏惟同道、各自努力。珍重」

山僧の今日は、諸人の面前に向かって家門を説く。已に是れ不著便なり、豈に更に去いて陞堂入室し、拈槌豎払し、東喝西棒し、張眉努目し、癇病発の相似の如くなる可けんや。唯上座を屈沈するのみにあらず、況(さら)に亦先聖を辜負せん。你見ずや、達磨は西来して、少室山の下に到って面壁九年す。二祖は雪に立ち断臂に至って謂うべし、艱辛を受くと。然るに達磨は曾て措了せず、二祖は曾て一句をも問著せず。還って達磨を喚んで不為人と作得せん、二祖を喚んで不求師とも做せん。山僧古聖の做処を説著するに至る毎に、便ち地の容身すべき無きを覚ゆ。慚愧すらくは後人の軟弱なること。又況(さら)に百味珍羞、遞(たがい)に相い供養し、道う、我れは四事具足して、方(まさ)に発心すべしと。只恐らくは做手脚不迭にして、便ち是れ隔生隔世し去らん。時光は箭に似たり、深く惜しむべし。然も是の如くなりと雖も、更に佗人の従長して相い度する在らん。山僧也(また)強いて你に教うるは不得なり。諸仁者、還(はた)と古人の偈を見(き)く麼。山田の脱粟の飯、野菜の淡黄の齏(さい)。喫するは則ち君が喫するに従(まか)す、喫せずは東西に任す。伏して惟(おも)んみれば同道、各自が努力せよ。珍重(ごきげんよう)。

「不著便」とは、都合が悪い・手掛かりがない。と云った意訳になるが、おこがましい。と謂った意味合いの言い回しである。「陞堂」法堂上での正式な説法。「拈槌豎払」とは槌(つち)をふり上げ、払子を立てる動作で以て、参禅学道人に対する一つのパフォーマンス的要素であり、「東喝西棒」は東に向かい喝を唱え、西に対しては棒を振り上げ、「張眉努目」とは眉を張り(上げ)、目を怒らす仕草。などを以てして、禪界を席巻した中国北宋時代の様子を窺い知る資料としても活用できそうですが、このような示威動作が現今の日本にも伝播され、禅坊主の傍若無人な姿勢に繋がるのである。「如癇病発相似」の癇病とは癲癇・癇癪の意で、先に示した狂言的示威動作を、このように喚ぶものです。

「不曾措了・不曾問著」とは、達磨と慧可に対して言葉で教える(措了)ことはなく、慧可は達磨に問いただす(問著)ことはない。と謂う喩えは、真実の伝播には言語作用の不必要を説くもの。その処を「作不為人」(達磨)・「做不求師」(二祖)と記すが、作=做は同義語である。

「山僧説著古聖做処」とは、芙蓉道楷による著語(解説)である。「便覚無地容身」とは穴が在ったら入りたいぐらいに「後人軟弱」後輩として軟弱を「慚愧」恥いる次第とつづります。「百味珍羞」は各種のごちそう。「四事具足」の四事とは、飲食・衣服・臥具・医薬の供養品を示し、百味や四事が揃ったら(具足)発心しよう。と目論むのが凡夫の思いと示します。「做手脚不迭」は手脚のとりなしが思うように出来ない状態。

「諸仁者」は芙蓉が大衆に対する呼びかけ語。「古人偈」の古人とは牛頭微(投子大同の法嗣)。『景徳伝灯録』十五福州牛頭微禅師章では「僧問、如何是和尚家風。師曰、山畬粟米飯野菜澹黄齏。僧曰、忽遇上客来又作麼生。師曰、喫即従君喫不喫任東西」(「大正蔵」五一・三二四下)のー部を採録したものです。「山畬」→「山田」に改変されるが、畬の意は開墾して二・三年目の田。焼き畑・雑草を焼きならした耕作地。異体字で畭とも書く。「当巻」では山田でとれた玄米食に、野生の菜っ葉の淡い黄色の齏(あえもの)。こんな粗食でも喫するか、喫せざれば東西(どこでも)すきにせよ。

「これ則ち祖宗単伝の骨髄なり。高祖の行持多しと云えども、しばらくこの一枚を挙するなり。今我らが晩学なる、芙蓉高祖の芙蓉山に修練せし行持、慕い参学すべし。それ即ち祇園の正儀なり」

結語の拈語として「高祖の行持多し」とは『嘉泰普灯録』三(「続蔵」七九・三〇九中)に示す(青山常運歩・石女夜生児・東壁打西壁)ような説法を指すが、「この一枚」とは、先の古人偈が示すような枯淡な態度であり、その態度は即ち祇園精舎での釈尊の儀(ありかた)に直通するものである。と芙蓉道楷の「行持」を読み解き示されます。

 

    三十 馬祖道一(再)

洪州江西開元寺大寂禪師、諱道一、漢州十方縣人なり。南嶽に參侍すること十餘載なり。あるとき、郷里にかへらんとして半路にいたる。半路よりかへりて燒香禮拝するに、南嶽ちなみに偈をつくりて馬祖にたまふにいはく、勸君莫歸郷、歸郷道不行。竝舎老婆子、説汝舊時名。この法語をたまふに、馬祖、うやまひたまはりて、ちかひていはく、われ生々にも漢州にむかはざらんと誓願して、漢州にむかひて一歩をあゆまず。江西に一住して十方を往來せしむ。わづかに即心是佛を道得するほかに、さらに一語の爲人なし。しかありといへども南嶽の嫡嗣なり、人天の命脈なり。いかなるかこれ莫歸郷。莫歸郷とはいかにあるべきぞ。東西南北の歸去來、たゞこれ自己の倒起なり。まことに歸郷道不行なり。道不行なる歸郷なりとや行持する、歸郷にあらざるとや行持する、歸郷なにによりてか道不行なる。不行にさへらるとやせん、自己にさへらるとやせん。竝舎老婆子は説汝舊時名なりとはいはざるなり。竝舎老婆子、説汝舊時名なりといふ道得なり。南嶽いかにしてかこの道得ある、江西いかにしてかこの法語をうる。その道理は、われ向南行するときは大地おなじく向南行するなり、餘方もまたしかあるべし。須彌大海を量としてしかあらずと疑殆し、日月星辰に格量して猶滯するは少見なり。

馬祖道一(709―788)に関しては、第五に於いては南嶽・馬祖の師資相承ならびに普請作務による作用即性を解き示されましたが、今話で取り挙げる「勧君莫帰郷」話は、筆者にとっては四国の山寺に於ける送行時に方丈老師から与えられた偈頌であり、忘れ難い想い出の偈である。

因みに「勧君莫帰郷」の出典籍に関しては不明であるが、「勧君莫還郷、還郷道不成。渓辺老婆子、喚我旧時名」(『五家正宗賛』(宝祐二年(1254)成立。京都大学貴重資料デジタルアーカイブ十三頁)といった類似した文言が流布していたようである。

「洪州江西開元寺大寂禅師、諱道一、漢州十方県人なり。南嶽に参侍すること十余載なり。ある時、郷里に帰らんとして半路に到る。半路より帰りて焼香礼拝するに、南嶽因みに偈を作りて馬祖に賜うに云わく、勧君莫帰郷、帰郷道不行。並舎老婆子、説汝旧時名。この法語を賜うに、馬祖、敬い賜わりて、誓いて云わく、われ生々にも漢州に向わざらんと誓願して、漢州に向かいて一歩を歩まず。江西に一住して十方を往来せしむ。わづかに即心是仏を道得するほかに、さらに一語の為人なし。しかありと云えども南嶽の嫡嗣なり、人天の命脈なり」

「洪州江西開元寺」の洪州は現在の江西省南昌周辺を指し、開元寺は粛綜(502―531南朝・梁の予章王)の大仏寺を、開元年間(713―741)に開元寺と改名(『江西の禅宗の推移』上・一八九頁。鈴木哲雄著)したもので、馬祖が洪州開元寺に入寺したのは、大暦年間(766―779)とされる(『宋高僧伝』「大正蔵」五〇・七六六中)。

「大寂禅師」は元和中(806―820)に追諡(『景徳伝灯録』「大正蔵」五一・二四六下)される。「諱道一」とは僧としての正式な法名であり、馬祖とは出身が馬氏であるからニックネーム的に、馬祖(馬おじさん)と呼ばれ親しまれたのである。「漢州十方県人」は現在の四川省広漢県に該当し、漢州には乾元元年(758)時点では雒・徳陽・什邡・綿竹・金堂の五県が在した。「南嶽に参侍十余載」は『景徳伝灯録』五では「侍奉十秋」(「大正蔵」五一・二四一上)からの援用のようですが、古い資料には馬祖が南嶽に師事する年月の記載がない事から、南嶽と馬祖との師弟関係を強調する後世の要請であろう(『馬祖の伝記』西口芳男「禅学研究」六三号)とする意見もある。

「勧君莫帰郷」の言は南嶽→馬祖に向けられた偈とするが、先の『五家正宗賛』十二頁では「得法南嶽後、帰蜀、郷人喧迎之、渓辺婆子云、将謂有何奇特、元是馬簸箕家小子。師遂日、勧君莫還郷、還郷道不成。渓辺老婆子、喚我旧時名。再返江西」と云うように、「馬祖が帰郷した降りに、婆子から簸箕家の小せがれ」と云われた事情から、馬祖自身が門下に対して語ったものとされる。話の筋からすると、馬祖自身が直接婆子から旧時名を喚ばれ、その体験を門下僧に語るシナリオに説得力がありそうである。

「江西に一住」とあるが西口芳男氏の考察によれば、「開元寺に入寺した馬祖は、示寂時まで住していたと思われているが、実際に馬祖が開元寺に住持する期間は二~三年である(「前掲書」一三九頁)とするが、馬祖に関しては鈴木哲雄氏など多くの論考あり。

「即心是仏を道得」に関しては、『景徳伝灯録』六・馬祖章にては「汝等諸人、各信自心是仏、此心即是仏心」(「大正蔵」五一・二四六上)とするが、『同録』七・大梅章では「問如何是仏。大寂(馬祖)云、即心是仏」(「大正蔵」五一・二五四下)と微妙な差異が生じます。

「如何なるかこれ莫帰郷。莫帰郷とは如何にあるべきぞ。東西南北の帰去来、只これ自己の倒起なり。まことに帰郷道不行なり。道不行なる帰郷なりとや行持する、帰郷にあらざるとや行持する、帰郷なにによりてか道不行なる。不行に礙えらるとやせん、自己に礙えらるとやせん。並舎老婆子は説汝旧時名なりとは云わざるなり。並舎老婆子、説汝旧時名なりと云う道得なり。南嶽如何にしてかこの道得ある、江西如何にしてかこの法語を受る。その道理は、われ向南行する時は大地同じく向南行するなり、余方も又しかあるべし。須弥大海を量としてしかあらずと疑殆し、日月星辰に格量して猶滞するは少見なり」

これより南嶽「莫帰郷」に対する道元流解釈に入ります。

「莫帰郷」とは、故郷に帰る莫れ。と解されますが、「莫帰郷」=「東西南北の帰去来」=「自己の倒起」とのロジックを概観する所からすると、莫帰郷の「莫」は否定的辞句ではなく、「帰郷」に対する絶対的真実態を肯う詞と理解し、「道不行」に対する「不」と同値に置き替えられそうです。

道元示寂後五十余年経た孫弟子に当たる経豪の解釈では、「莫帰郷の詞、尽十方界真実人体の人也、自己の倒起也とは全帰・全去・全来と可心得歟。帰郷道不行、不行帰郷とは帰郷与道不行の一体なる所を表わさるる詞也」(「註解全書」四・四四三)。このように解釈されます。

「並舎老婆子、説汝旧時名」の読みを、和文化して「並舎の老婆子は汝の旧時(むかし)の名を説く」とは述べずに、中国読みに並列的に「並舎老婆子、説汝旧時名」と読みなさい。との言を先程の経豪の解釈では「心得難きようなれども、只生死去来あらざる故に、生死去来也と云いし程の詞なり」(前掲同所)と、やや舌足らずの感が拭えません。謂うなれば『仏性』巻での「一切衆生、悉有仏性」の如くに「一切衆生には仏性が悉く有る」のではなく、「一切衆生それ自体が悉有仏性の全体性を包含・包接」すると云った論述と似通った解釈とも通脈するものです。

「われ向南行、大地同じく向南行」の意は、個人としてのわれ大地とは別物ではなく、尽十方界に於ける真実体としての同等性・一体性を謂うものです。決して「須弥・大海・日月・星辰」などとの比較対照で以て須弥は北・大海は南・日月は東・星辰は西などと謂う表現を以て、「莫帰郷」などを論ずるは少見(小人)なり。と結論づけられます。

「上巻」に於いては「江西馬祖の坐禅する事は二十年」と提示されましたが、「下巻」での馬祖「行持」の特質は「江西に一住して十方を往来せしむ」行持、つまり開元寺を拠点に修行僧を十方から引き寄せ、八十人以上もの法嗣者を世に輩出した事を「行持」とするものである。

最後に入矢義高『自己と超越』内に納められる「馬祖禅の核心」(十二頁)には「その門下は大教団となり、個性豊かな後継者が輩出し、多くの語録がまとめられ、さらには教団維持のための清規も作られて、ここに禅宗という宗派が確立した。かくて馬祖は、いわば教祖として位置づけられるに至ったのであるが、しかし彼自身は後世から、そのように扱われることを果たして喜ぶであろうか」を紹介し馬祖章を擱筆する。

 

    三十一 五祖弘忍

第三十二祖大滿禪師は黄梅人なり。俗姓は周氏なり。母の姓を稱なり。師は無父而生なり。たとへば、李老君のごとし。七歳傳法よりのち、七十有四にいたるまで、佛祖正法眼藏、よくこれを住持し、ひそかに衣法を慧能行者に附屬する、不群の行持なり。衣法を神秀にしらせず、慧能に附屬するゆゑに正法の壽命不斷なるなり。

今話で扱う五祖大満弘忍(601―674)の前後にあたる四祖道信(580―651)に関しては二十五で取り挙げられ、六祖慧能(638―713)は四ですでに記載済みですが、常識的には上巻にて三人を列挙するか、もしくは「下巻」四祖に続いて取り扱うべき事項と考えられるが、道元禅師の配列の意図・趣旨が判然としない。

「第三十二祖大満禅師は黄梅人なり。俗姓は周氏なり。母の姓を称なり。師は無父而生なり。喩えば、李老君の如し」

ここでの書き出しは『仏性』巻での「五祖大満禅師、蘄州黄梅人也無父而生童児得道―略―遂往周氏家女托生―略―至七歳為童子、於黄梅路上逢四祖大医禅師」を援用するものと考えられる(「岩波文庫」㈠八一)。「李老君」とは老子を指す。

「七歳伝法よりのち、七十有四に至るまで、仏祖正法眼蔵、よくこれを住持し、密かに衣法を慧能行者に附属する、不群の行持なり。衣法を神秀に知らせず、慧能に附属する故に正法の寿命不断なるなり」

「七歳伝法」に関しては『林間録』上(「国立国会図書館」pdf(一三左)に見られる文句になります。ここで強調する文言は「衣法を神秀に知らせず、慧能に附属」することが、大満弘忍の群せざる(なみなみならぬ)「行持」と評価し、結果として中華大陸には青原・石頭による曹洞・雲門・法眼の各宗、一方南嶽・馬祖からは臨済・潙仰宗が隆盛し「正法の寿命不断」なる状況が生まれた。と評されるわけです。

一方、大満から認められなかった神秀(―706)からは普寂(651―739)―道璿

(702―760)からは日本の行表(722―797)に受け継がれ、天台の最澄(767―822)に寿命不断なる行持が連綿するのである。

 

    三十二 天童如浄

先師天童和尚は越上人事なり。十九歳にして教學をすてて參學するに、七旬におよんでなほ不退なり。嘉定の皇帝より紫衣師号をたまはるといへどもつひにうけず、修表辭謝す。十方の雲衲ともに崇重す、遠近の有識ともに隨喜するなり。皇帝大悦して御茶をたまふ。しれるものは奇代の事と讚嘆す、まことにこれ眞實の行持なり。そのゆゑは、愛名は犯禁よりもあし。犯禁は一時の非なり、愛名は一生の累なり。おろかにしてすてざることなかれ、くらくしてうくることなかれ。うけざるは行持なり、すつるは行持なり。六代の祖師、おのおの師号あるは、みな滅後の勅謚なり、在世の愛名にあらず。しかあれば、すみやかに生死の愛名をすてて、佛祖の行持をねがふべし。貪愛して禽獣にひとしきことなかれ。おもからざる吾我をむさぼり愛するは禽獣もそのおもひあり、畜生もそのこゝろあり。名利をすつることは人天もまれなりとするところ、佛祖いまだすてざるはなし。あるがいはく、衆生利益のために貪名愛利すといふ、おほきなる邪説なり。附佛法の外道なり、謗正法の魔儻なり。なんぢがいふがごとくならば、不貪名利の佛祖は利生なきか。わらふべし、わらふべし。又、不貪の利生あり、いかん。又そこばくの利生あることを學せず、利生にあらざるを利生と稱ずる、魔類なるべし。なんぢに利益せられん衆生は、墮獄の種類なるべし。一生のくらきことをかなしむべし、愚蒙を利生に稱ずることなかれ。しかあれば、師号を恩賜すとも上表辭謝する、古來の勝躅なり、晩學の參究なるべし。まのあたり先師をみる、これ人にあふなり。先師は十九歳より離郷尋師、辦道功夫すること、六十五載にいたりてなほ不退不轉なり。帝者に親近せず、帝者にみえず。丞相と親厚ならず、官員と親厚ならず。紫衣師号を表辭するのみにあらず、一生まだらなる袈裟を搭せず、よのつねに上堂入室、みなくろき袈裟裰子をもちゐる。衲子を教訓するにいはく、參禪學道は第一有道心、これ學道のはじめなり。いま二百來年、祖師道すたれたり、かなしむべし。いはんや一句を道得せる皮袋すくなし。某甲そのかみ徑山に掛錫するに、光佛照そのときの粥飯頭なりき。上堂していはく、佛法禪道かならずしも佗人の言句をもとむべからず、たゞ各自理會。かくのごとくいひて、僧堂裏都不管なりき。雲來兄弟也都不管なり。祗管與官客相見追尋するのみなり。佛照、ことに佛法の機關をしらず、ひとへに貪名愛利のみなり。佛法もし各自理會ならば、いかでか尋師訪道の老古錐あらん。眞箇是光佛照、不曾參禪也。いま諸方長老無道心なる、たゞ光佛照箇兒子也。佛法那得佗手裏有。可惜、可惜。かくのごとくいふに、佛照兒孫おほくきくものあれど、うらみず。

又いはく、參禪者身心脱落也、不用燒香・禮拝・念佛・修懺・看經、祗管坐始得。まことに、いま大宋國の諸方に、參禪に名字をかけ、祖宗の遠孫と稱する皮袋、たゞ一、二百のみにあらず、稻麻竹葦なりとも、打坐を打坐に勸誘するともがら、たえて風聞せざるなり。たゞ四海五湖のあひだ、先師天童のみなり。諸方もおなじく天童をほむ、天童諸方をほめず。又すべて天童をしらざる大刹の主もあり。これは中華にむまれたりといへども、禽獣の流類ならん。參ずべきを參ぜず、いたづらに光陰を蹉過するがゆゑに。あはれむべし、天童をしらざるやからは、胡説亂道をかまびすしくするを佛祖の家風と錯認せり。

先師よのつねに普説す、われ十九載よりこのかた、あまねく諸方の叢林をふるに、爲人師なし。十九歳よりこのかた、一日一夜も不礙蒲團の日夜あらず。某甲未住院よりこのかた、郷人とものがたりせず。光陰をしきによりてなり。掛錫の處在にあり、庵裏寮舎すべていりてみることなし。いはんや游山翫水に功夫をつひやさんや。雲堂公界の坐禪のほか、あるいは閣上、あるいは屏處をもとめて、獨子ゆきて、穏便のところに坐禪す。つねに袖裡に蒲團をたづさへて、あるいは岩下にも坐禪す。つねにおもひき、金剛座を坐破せんと。これ、もとむる所期なり。臀肉の爛壞するときどきもありき。このとき、いよいよ坐禪をこのむ。某甲今年六十五載、老骨頭懶、不會坐禪なれども、十方兄弟をあはれむによりて、住持山門、曉諭方來、爲衆傳道なり。諸方長老、那裡有什麼佛法なるゆゑに。かくのごとく上堂し、かくのごとく普説するなり。又、諸方の雲水の人事の産をうけず。

趙提擧は嘉定聖主の胤孫なり。知明州軍州事、管内勸農使なり。先師を請じて州府につきて陞座せしむるに、銀子一萬鋌を布施す。先師、陞座了に、提擧にむかうて謝していはく、某甲依例出山陞座、開演正法眼藏涅槃妙心、謹以薦福先公冥府。但是銀子、不敢拝領。僧家不要這般物子。千萬賜恩、依舊拝還。提擧いはく、和尚、下官忝以皇帝陛下親族、到處且貴、寶貝見多。今以先父冥福之日、欲資冥府。和尚如何不納。今日多幸、大慈大悲、卒留少襯。先師曰、提擧台命且嚴、不敢遜謝。只有道理。某甲陞座説法、提擧聰聽得否。提擧曰、下官只聽歡喜。先師いはく、提擧聰明、照鑑山語、不勝皇恐。更望台臨、鈞候萬福。山僧陞座時、説得甚麼法。試道看。若道得、拝領銀子一萬鋌。若道不得、便府使収銀子。提擧起向先師云、即辰伏惟、和尚法候、動止萬福。先師いはく、這箇是擧來底、那箇是聽得底。提擧擬議。先師いはく、先公冥福圓成、襯施且待先公台判。

かくのごとくいひて、すなはち請暇するに、提擧いはく、未恨不領、且喜見師。かくのごとくいひて先師をおくる。浙東浙西の道俗、おほく讚歎す。このこと、平侍者が日録にあり。平侍者いはく、這老和尚、不可得人。那裡容易得見。たれか諸方にうけざる人あらん、一萬鋌の銀子。ふるき人のいはく、金銀珠玉、これをみんこと糞土のごとくみるべし。たとひ金銀のごとくみるとも、不受ならんは衲子の風なり。先師にこの事あり、餘人にこのことなし。

先師つねにいはく、三百年よりこのかた、わがごとくなる知識いまだいでず。諸人審細に辦道功夫すべし。

先師の會に、西蜀の綿州人にて道昇とてありしは、道家流なり。徒儻五人、ともにちかうていはく、われら一生に佛祖の大道を辦取すべし。さらに郷土にかへるべからず。先師ことに隨喜して、經行道業ともに衆僧と一如ならしむ。その排列のときは比丘尼のしもに排立す、奇代の勝躅なり。又、福州の僧、その名善如、ちかひていはく、善如平生さらに一歩をみなみにむかひてうつすべからず。もはら佛祖の大道を參ずべし。先師の會に、かくのごとくのたぐひあまたあり。まのあたりみしところなり。餘師のところになしといへども、大宋國の僧宗の行持なり。われらにこの心操なし、かなしむべし。佛法にあふときなほしかあり、佛法にあはざらんときの身心、はぢてもあまりあり。

しづかにおもふべし、一生いくばくにあらず、佛祖の語句、たとひ三々兩々なりとも、道得せんは佛祖を道得せるならん。ゆゑはいかん。佛祖は身心如一なるがゆゑに、一句兩句、みな佛祖のあたゝかなる身心なり。かの身心きたりてわが身心を道得す。正當道取時、これ道得きたりてわが身心を道取するなり。此生道取累生身なるべし。かるがゆゑに、ほとけとなり祖となるに、佛をこえ祖をこゆるなり。三々兩々の行持の句、それかくのごとし。いたづらなる聲色の名利に馳騁することなかれ。馳騁せざれば、佛祖單傳の行持なるべし。すゝむらくは大隱小隱、一箇半箇なりとも、萬事萬縁をなげすてて、行持を佛祖に行持すべし。

「当巻」最終話は当然の帰結として長翁如浄(紹興32年1162―宝慶3年1227七月十七日)が取り挙げられる。殊に「下巻」の冒頭達磨章では五千余字を以て道得し、最後部では三千字数を以て直に見聞・拝問し、尊師と仰ぐ如浄和尚に対する「仏祖行持」では、一環の宗教世界が構築されているようである。

「先師天童和尚は越上人事なり。十九歳にして教学を捨てて参学するに、七旬に及んでなお不退なり。嘉定の皇帝より紫衣師号を賜ると云えども遂に受けず、修表辞謝す。十方の雲衲ともに崇重す、遠近の有識ともに随喜するなり。皇帝大悦して御茶を賜う。知れる者は奇代の事と讃嘆す、誠にこれ真実の行持なり。その故は、愛名は犯禁よりもあし。犯禁は一時の非なり、愛名は一生の累なり。愚かにして捨てざる事なかれ、暗くして受くる事なかれ。受けざるは行持なり、捨つるは行持なり。六代の祖師、おのおの師号あるは、みな滅後の勅謚なり、在世の愛名にあらず。しかあれば、速やかに生死の愛名を捨てて、仏祖の行持を願うべし。貪愛して禽獣に等しき事なかれ。重からざる吾我を貪り愛するは禽獣もその思いあり、畜生もその心あり。名利を捨つる事は人天も希なりとする所、仏祖未だ捨てざるはなし」

「先師」は遷化した本師に対する敬称。「和尚」とは十年以上の法臘を有する者(upadyaya).

因みに禅師(dhyayin)限定的に使われ、和尚の呼称は禅宗(オショウ)天台宗(カショウ)律宗(ワジョウ)と発音することから、和尚の呼び名は本源的意味合いを有する。

「十九歳に教学を捨て」の「十九歳」に関しては、『如浄』『宝慶記』等の資料にも不見。「教学」とは天台を指すものか。如浄十九歳は淳熙七年(1180)にあたり、師である雪竇智鑑(1105―1192)の報恩光孝寺(慶元府子城)に在した時である。

「嘉定皇帝・紫衣師号」の「嘉定」は南宋に於ける1208―1225年までの元号で、その時の皇帝は寧宗(ねいそう)で、在位は紹熙五年(1194)から嘉定十七年(1224)の三十年にわたる治世。この寧宗から紫衣と大師号を賜ったが辞退する事項の出典は不明。しかしながら『如浄悟録』では嘉定十一年(1218)七月十五―八月十五日に於いて「中宮賜銭、建祝聖水陸会」つまり寧宗の聖寿を祝い施食会を行い、嘉定十六年(1223)十月十八日には「聖節上堂」と称して、寧宗皇后である楊皇(1162―1232)の誕辰節を祝う行事が行われた経緯を察すると、「紫衣師号を修表辞謝」した事例は語録等には未収録ながら史実であったものであろう、と思われる。

この紫衣辞退に対し寧宗皇帝は大変に悦ばれて、その代品として御茶を賜う。ことを奇代の事と讃嘆し、「真実の行持」であると記述されるが、別の観点からすると紫衣=大師号=御茶=いづれも権力者(皇帝)からの贈与であるから、同等の価値と見る視点も必要であろう。

「愛名」とは名誉や名門に愛著する動態を云い、殊に上座部ではtanha渇愛)と称し、執著に捉われない修行に励む。「犯禁」とは十重禁戒を犯すを云うが、特に殺・盗・淫・妄・による四重禁を破るを指す。「犯禁は一時の非・愛名は一生の累」とは、戒(sila)を破るは一時的な出来心の面があるが、名聞に貪著するは一生涯の仇となる。とは、現今の宗教法人下の元に住する人々・偽僧を見れば、一目瞭然であろう。この愛名を「受諾せず・もし受領したなら捨て去る」ことが、先の真実の行持に対する「第二の行持」に比定するものである。

「六代の祖師おのおの師号」とは、菩提達磨(円覚大師)は代宗(在位762―779)・二祖慧可(大祖禅師)は徳宗(在位779―805)・三祖僧璨(鑑智禅師)は玄宗(在位712―756)・四祖道信(大医禅師)は代宗(在位762―779)・五祖弘忍(大満禅師)は代宗(在位762―779)・六祖慧能(大鑑禅師)は憲宗(在位805―820)から、それぞれ滅後の勅謚であり愛名ではない。と説かれるものですが、先の紫衣=師号=御茶も同価値と為す論述からすると、後人の同宗人による推挙から得た師号であるならば、自身は知らずとも愛名のカテゴリーに列せられそうではあるが(筆者おもう)。

「生死の愛名」とは、迷いの世界(生死)に於いて貪名する醜態を捨てる事が「第三の行持」であり、願求しなさい。と「貪愛」=「禽獣」の道理を説かれるものです。

「あるが云く、衆生利益の為に貪名愛利すと云う、大きなる邪説なり。附仏法の外道なり、謗正法の魔儻なり。你が云うが如くならば、不貪名利の仏祖は利生なきか。笑うべし、笑うべし。又、不貪の利生あり、いかん。又そこばくの利生ある事を学せず、利生にあらざるを利生と称ずる、魔類なるべし。汝に利益せられん衆生は、堕獄の種類なるべし。一生の暗き事を悲しむべし、愚蒙を利生に称ずる事なかれ。しかあれば、師号を恩賜すとも上表辞謝する、古来の勝躅なり、晩学の参究なるべし。まのあたり先師を見る、これ人に逢うなり」

衆生利益」については『菩提薩埵四摂法』巻では「 利行といふは、貴賤の衆生におきて、利益の善巧をめぐらすなり。たとへば、遠近の前途をまぼりて、利佗の方便をいとなむ。窮亀をあはれみ、病雀をやしなふし、窮亀をみ、病雀をみしとき、かれが報謝をもとめず、たゞひとへに利行にもよほさるるなり」(「岩波文庫」㈣四二四)と、利他の方便行自体を利行と説かれます。衆生の利益の為には名門や利行も方便義として活用すれば良いものを、「貪・愛」は嫌うものです。

「附仏法の外道」と称す外道とは、普通は仏教外のバラモン等を指すが、ここでは仏法に附随する外道と称し、不貪名利の仏祖と貪名愛利の禿僧との対比を謂わんとするもので、その例を道元自身の尊師である如浄の「師号を恩賜すとも上表辞謝」する行持を「古来勝躅・晩学参究」と位置づけ、先師(如浄)こそ真実人と明言されます。

「先師は十九歳より離郷尋師、辦道功夫する事、六十五載に至りて猶不退不転なり。帝者に親近せず、帝者にみえず。丞相と親厚ならず、官員と親厚ならず。紫衣師号を表辞するのみにあらず、一生斑なる袈裟を搭せず、世の常に上堂入室、みな黒き袈裟裰子を用いる」

如浄に関わる俗姓や出家などのプロセスは不明な部分が多く、先述する「十九歳参学」此の「十九歳離郷尋師」に関しても、『如浄語録』『宝慶記』等々にも『和文正法眼蔵』にも確認できず。

「六十五載不退不転」は如浄遷化(宝慶三年1227・7・17)の前年に天童山景徳禅寺の住持職を引退する。如浄辞世での頌では「六十六ねん罪犯、弥天打箇勃跳、活陷黄泉。咦、従来生死不相干」(「大正蔵」四六・一三三上)と『如浄語録』に記す。

「帝者・丞相・官員」の帝者は皇帝、丞相とは皇帝を補佐する役職で今日の首相にあたる。官員は高級官吏。

「斑(まだら)なる袈裟」の出典は『宝慶記』二三「如浄住持以来不曾著斑袈裟」ならびに『嗣書』巻「先師の会は、これ古仏の会なり、叢林の中興なり。みづからもまだらなる袈裟をかけず」(「岩波文庫」㈡三八一)と記され、同所では芙蓉山の道楷禅師もまだらなる法衣、かつて一生のうちにかけず。と「当巻」に聯脈する内容が窺える。

「衲子を教訓するに云く、参禅学道は第一有道心、これ学道の初めなり。いま二百来年、祖師道廃れたり、悲しむべし。いわんや一句を道得せる皮袋少なし。某甲そのかみ径山に掛錫するに、光仏照その時の粥飯頭なりき。上堂して云く、仏法禅道必ずしも佗人の言句を求むべからず、ただ各自理会。かくの如く云いて、僧堂裏都不管なりき。雲来兄弟也都不管なり。祗管与官客相見追尋するのみなり。仏照、殊に仏法の機関を知らず、ひとえに貪名愛利のみなり。仏法もし各自理会ならば、いかでか尋師訪道の老古錐あらん。真箇是光仏照、不曾参禅也。いま諸方長老無道心なる、ただ光仏照箇児子也。仏法那得佗手裏有。可惜、可惜。かくの如く云うに、仏照児孫多く聞く者あれど、恨みず」

「参禅学道は第一有道心」これは如浄が雲衲を教訓する言ですが、如浄に関連する語録などには見い出されませんが、興味ある事例として『嗣書』巻には「先師古仏、上堂するに、つねに諸方をいましめていはくー略―諸方長老無道心にして学道せざることを」(「岩波文庫」㈡三八二)、『仏経』巻では「先師天童和尚、よのつねにこれをわらうていはくー略―まことにしるべし、諸方長老無道心にして、仏法の身心を参学せざることあきらけし」(「同」㈢八三)、『梅花』巻は「先師古仏、よのつねにいはく、無道心慣頭、我箇裡不可也」(「同」㈢一七〇)、『洗浄』巻に於いては「先師古仏、上堂、あるいは普説のときー略―いま天下の諸山に、道心箇渾無なり、得道箇久絶なり、祗管破落儻のみなり」(「同」㈢一九〇)と提示されますが、いづれの例示に於いても如浄録等には不載で、洗浄以外は「如浄録到」(仁治三年1242・8・5)以降の説示であります。さらには「秘密正法眼蔵」(二十八巻本)『道心』巻冒頭部では「仏道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。道心のありやう、しれる人まれなり。あきらかにしれらん人に問ふべし」(「同」㈣四七〇)と、如浄と道心の関係を強調するいとが見て取れる。

「某甲そのかみ径山に掛錫、光仏照その時の粥飯頭」に於ける光仏照とは、仏照徳光(1121―1203)を指す。仏照の禅師号は孝宗(在位1162―1189)より生前に賜ったもので、ほかには拙庵とも東庵とも称した。江西省臨江府新喩県の出身で、大慧宗杲(1089―1163)からは仏照徳光、その門下には海門師斉・浙翁如琰・無際了派らが居並び、永平寺二代孤雲懐弉(1198―1280)の孫師匠にあたる大日房能忍も列位する。大慧に嗣法した後は、臨安府の径山寺に住したのは紹熙四年(1193)から慶元元年(1195)の足掛け三年の間であるから、その時の如浄の年齢は三十一歳から三十三歳となる。

この文面を額面通りに受け入れると、如浄の師である雪竇智鑑からの法を嗣いだ後に、仏照徳光に参禅した経験談を、三十年後の天童寺にて「衲子を教訓する」目的としての発言であったようである。

一方で仏照徳光を嗣いだ無際了派(1149―1224)に対しては、再住の浄慈寺にては嘉定十七年(1224)四月に「派和尚遺書至」(「大正蔵」四八・一二六下)、浙翁如琰(1151―1225)には天童寺にて宝慶元年(1225)八月に「浙翁遺書至」(「同」四八・一二八上)と、いづれも『如浄語録』にて記載されるが、仏照徳光の弟子としてではなく、如浄と同門・同学的意識からの追悼的上堂であったようである。

仏照徳光の上堂語として、「仏法や禅道は必ずしも他人の言句に頼らず、ただ各自で理会せよ」と、如浄が径山寺にて聞いた堂頭の詞を、三十年後の天童山にて取り挙げた話を、十七年後の興聖寺にて道元日本達磨宗から集団帰依した義介らに教訓する、という筋立てのものです。

日常の徳光の堂内に於ける態度は、僧堂での指導は一切なし(僧堂裏都不管)、雲水に対する指導も一切なし(雲来兄弟也都不管)、ひたすら官吏との面会に追い立てられ(祗管与官客相見追尋)る日課をこなすのみであった。と如浄の語りかけです。

さらに徳光に対する酷評が①貪名愛利②仏法各自理会③不曾参禅と続き、さらには現在(嘉定十七年1224)諸方の禅門の長老が無道心なのは、単純に仏照徳光の門下であるからである。と暗に先の浙翁や無際さらには育王寺の毎巌大光を暗喩するものと考えられる。仏法がどうして徳光にあるか(仏法那得佗手裏有)。残念である(可惜、可惜)。とする如浄の発言を道元はその場で書き留めたか、それとも後日に備忘録に記録し、それを元にこの文章を書き上げたものであろうか。

 

「又云わく、参禅者身心脱落也、不用焼香・礼拝・念仏・修懺・看経、祗管坐始得。まことに、いま大宋国の諸方に、参禅に名字を掛け、祖宗の遠孫と称する皮袋、ただ一、二百のみにあらず、稲麻竹葦なりとも、打坐を打坐に勧誘する輩、絶えて風聞せざるなり。ただ四海五湖の間、先師天童のみなり。諸方も同じく天童を褒む、天童諸方を褒めず。又すべて天童を知らざる大刹の主もあり。これは中華に生まれたりと云えども、禽獣の流類ならん。参ずべきを参ぜず、いたづらに光陰を蹉過するが故に。哀れむべし、天童を知らざる族は、胡説乱道をかまびすしくするを仏祖の家風と錯認せり」

この「参禅は身心脱落」の話頭は、曹洞宗門徒にとっては寝ても覚めても聞き覚えのある一言句ですが、出典籍に関しては『宝慶記』第十五問に於いて「堂頭和尚示云、参禅者身心脱落也。不用焼香、礼拝、念仏、修懺、看経、祇管打坐已」と書き記されていることから、如浄と道元との一対一の問法形式から導かれたものである。これは帰朝早々(寛喜三年1231)に書き記した独立宣言書ともいうべき『辦道話』にても「宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ」(「岩波文庫」㈠一五)と、如浄語話を援用しての教説です。

「身心脱落」に関しては、『如浄語録』に「心塵脱落開岩洞」(「大正蔵」四八・一三〇下)と記載する事から、如浄の心塵を道元が身心と聞き間違いである。との見解が一時まかり通っていたが、心塵のピンインはxin chenであり、身心はshen xinと発音されることから、中国語に堪能な道元の誤筆とは考えられず。との説が一般的である。また『仏経』巻では「先師尋常道、我箇裏、不用焼香・礼拝・念仏・修懺・看経、祗管打坐、辦道功夫身心脱落」(「岩波文庫」㈢七九)、『三昧王三昧』にては「先師古仏云、参禅者身心脱落也、祗管打坐始得。不要焼香・礼拝・念仏・修懺・看経」(「同」㈢三五四)と援用される次第です。

「いま大宋国の諸方に、参禅に名字を掛け」以下は、天童如浄と他の老師と称される人々との差違を唱える道元の拈語である。

「先師、世の常に普説す、われ十九載よりこのかた、普く諸方の叢林をふるに、為人師なし。十九歳よりこのかた、一日一夜も不礙蒲団の日夜あらず。某甲未住院よりこのかた、郷人と物語りせず。光陰惜しきによりてなり。掛錫の処在にあり、庵裏寮舎すべて入りて見る事なし。謂わんや游山翫水に功夫を費やさんや。雲堂公界の坐禅のほか、或いは閣上、或いは屏処を求めて、独子往きて、穏便の所に坐禅す。常に袖裡に蒲団を携えて、或いは岩下にも坐禅す。常に思いき、金剛座を坐破せんと。これ、求むる所期なり。臀肉の爛壞する時々もありき。この時、いよいよ坐禅を好む。某甲今年六十五載、老骨頭懶、不会坐禅なれども、十方兄弟を憐れむによりて、住持山門、暁諭方来、為衆伝道なり。諸方長老、那裡有什麼仏法なる故に。かくの如く上堂し、かくの如く普説するなり。又、諸方の雲水の人事の産を受けず」

「われ十九載よりー那裡有什麼仏法なる故に」の上堂話についても明確な出典元は不詳です。先の「十九歳より離郷尋師―六十五載に至りて猶不退不転なり」を詳述する内容は、如浄十九歳(淳熙七年1180)から六十五歳(宝慶二年1126)に至るまで一途に坐禅する様態を①一日一夜も不礙蒲団の日夜あらず②雲堂公界の坐禅③独子往きて、穏便の所に坐禅④岩下にも坐禅したと述懐し、老骨頭懶・不会坐禅であっても、為衆伝道から「仏祖行持」を続けてきたのであると力説されます。その理由として諸方長老の那裡(ところ)には什麼(なん)の仏法も有りはしない。と如浄が普説したと書き留められますが、最後の「諸方長老、那裡有什麼仏法」のことばは、『宝慶記』第十九問での「育王山長老大光」に対する道元の評価に対する如浄答の「唯非大光一人有妄談、而諸方長老、皆亦如是。諸方長老豈明教家之是非耶。那知祖師之堂奥耶。只是胡乱作来長老而已」のー部に類似することから、実際的に天童寺にて上堂されたものである事は、『宝慶記』後書きに記された懐弉による「猶有余残歟」の識語からも頷けるものです。

「趙提挙は嘉定聖主の胤孫なり。知明州軍州事、管内勧農使なり。先師を請じて州府につきて陞座せしむるに、銀子一万鋌を布施す。先師、陞座了に、提挙に向かうて謝して云く、某甲依例出山陞座、開演正法眼蔵涅槃妙心、謹以薦福先公冥府。但是銀子、不敢拝領。僧家不要這般物子。千万賜恩、依旧拝還。提挙云く、和尚、下官忝以皇帝陛下親族、到処且貴、宝貝見多。今以先父冥福之日、欲資冥府。和尚如何不納。今日多幸、大慈大悲、卒留少襯。先師曰、提挙台命且厳、不敢遜謝。只有道理。某甲陞座説法、提挙聡聴得否。提挙曰、下官只聴歓喜。先師云く、提挙聡明、照鑑山語、不勝皇恐。更望台臨、鈞候万福。山僧陞座時、説得甚麼法。試道看。若道得、拝領銀子一万鋌。若道不得、便府使収銀子。提挙起向先師云、即辰伏惟、和尚法候、動止万福。先師云く、這箇是挙来底、那箇是聴得底。提挙擬議。先師云く、先公冥福円成、襯施且待先公台判。かくの如く云いて、即ち請暇するに、提挙云く、未恨不領、且喜見師。

かくの如く云いて先師を送る。浙東浙西の道俗、多く讃嘆す。この事、平侍者が日録にあり。平侍者云く、這老和尚、不可得人。那裡容易得見。誰か諸方に受けざる人あらん、一万鋌の銀子。古き人の云く、金銀珠玉、これを見んこと糞土の如く見るべし。たとい金銀の如く見るとも、不受ならんは衲子の風なり。先師にこの事あり、余人にこの事なし。先師つねに云く、三百年よりこのかた、わが如くなる知識未だ出でず。諸人審細に辦道功夫すべし」

ここに示す高官役人との応答話に於いても出典不明ですが、先述の如くに『宝慶記』などの原稿ともどもに、如浄に参随する時期に、書き記された資料から援用したものであろう。

「趙提挙」の趙は趙師嵒と推測される(「行事に学ぶ」五〇〇)。提挙とは官職の名で、『如浄語録』偈頌には「提挙太尉張求頌」(「大正蔵」四八・一三二下)と、軍事官僚の張氏が頌を求むる。と述べられます。

「嘉定聖主」とは寧宗(南宋第四代の皇帝。在位1194―1224)であり、趙師嵒の父親は趙伯圭(1119―1196)であるが、孝宗(1127―1194・在位1162―1189)皇帝の同母(夫人張氏)の兄に当たりますから、孝宗在位中には知明州兼沿海節度使に任ぜられ、孝宗(趙眘)の第三子の光宗(趙惇)が即位すると、趙伯圭は崇信軍節度使に任官されると云った具合です。その光宗の次子が寧宗(趙拡)である事から、「趙提挙は嘉定聖主の胤孫」と趙提挙と寧宗との血縁関係を示されるものです。「知明州軍州事」明州(浙江省鄞県)の行政長官にあたる。「管内勧農使」管轄内の農事を見て回る役職。

先師(如浄)が説法の後に、施主(趙提挙)に向かって辞退(謝)して云うには、某甲依例出山陞座(それがし(私)例に依って出山(天童山を下って)し陞座(説法)し、開演正法眼蔵涅槃妙心(正法眼蔵涅槃妙心を開演し)、謹以薦福先公冥府(謹んで以て先公(提挙の父の趙伯圭)の冥府(天界)に薦福(追善)す。但是銀子、不敢拝領(但し是の銀子は、敢えて拝領せず)。僧家不要這般物子(僧家には、このような(這般)物は不要。千万賜恩(無量(千万)の恩を賜る)は、依旧拝還(旧来のように(銀子は)返還します。

提挙が云うには、和尚、下官忝以皇帝陛下親族(和尚(如浄)さん、下官(提挙)は忝くも皇帝陛下(寧宗)の親族なるを以て、到処且貴、宝貝見多(到る処で貴ばれ、財産(宝貝)も多く見られます。今以先父冥福之日、欲資冥府(今日は先父(伯圭)の冥福の日を以て、冥府(天界)に資せんと欲す。和尚如何不納(和尚(如浄)はどうして(銀子を)納めないですか)。今日多幸、大慈大悲、卒留少襯(今日は多幸にも、大慈大悲をもて、少しばかりの布施(襯)を留めください。

如浄(先師)が云うには、提挙台命且厳、不敢遜謝(提挙の命令(台命)は絶対ですから、敢えて辞退はせず。只有道理(只し道理有り)。某甲陞座説法、提挙聡聴得否(某甲(如浄)は座に陞り説法はしたが、提挙は聡(あきら)かに聴き得る否や。

提挙が云うには、下官只聴歓喜(私は只、歓喜して聴くだけです。

先師(如浄)が云うには、提挙聡明、照鑑山語、不勝皇恐(あなた(提挙)は聡明でありますから、やつがれ(奴吾)のことば(山語)を聞き分け(照鑑)くださり、恐れ多い(皇恐)次第です。更望台臨、鈞候万福(更に望むらくは、お出まし(台臨)いただき、ご機嫌(鈞候)うるわし(万福)く。山僧陞座時、説得甚麼法(山僧(如浄)が陞座の時、どんな(甚麼)法を説いたか。試道看。若道得、拝領銀子一万鋌(試しに道って看よ、若し道い得るなら、銀子(布施)一万鋌を拝領す。若道不得、便府使収銀子(若し道い得ないならば、便ち役人(府使)に銀子を収めさせて下さい。

提挙起向先師云(提挙が先師に向かって云う)には、即辰伏惟、和尚法候、動止万福(本日(即辰)伏して惟みれば、和尚のご機嫌(法候)、起居振舞(動止)も最上(万福)と見受けられます。先師(如浄)が云うには、這箇是挙来底、那箇是聴得底(この(這箇)(即辰伏惟、万福)は私(如浄)が取り挙げたもので、どれ(那箇)聴き得たのですか。提挙擬議(提挙は何を云いかけた)。

先師(如浄)が云った、先公冥福円成、襯施且待先公台判(亡父(先公)の冥福は円成す、布施(襯施)の件は且く先公の御判断(台判)を待つべし。

このように如浄は云い、すぐに暇乞い(請暇)しようとしたので、提挙は云った、未恨不領、且喜見師(未だ(説法が)領解せずは恨みず、とにかく(且)師(如浄)に見(まみ)えた事を喜ぶとす。

これよりが道元和尚による評著となります。

提挙は如浄の尊顔を拝見できた事を云って、如浄をお見送りした。浙東・浙西とは銭塘江を挟む両岸を指し、その道俗とは浙江省を含む中華全域の住人が、如浄の人となりを讃嘆した。と評するものです。この事情は福州の広平侍者(『仏祖正伝菩薩戒作法』奥書に「右大宋宝慶元年九月十八日、前住天童景徳寺堂頭和尚、道元に授く・宗端知客・広平侍者等、周施して此の戒儀を行ず」(「つらつら日暮らし・曹洞宗関連用語集」参照)の日鑑に記録される。平侍者云く這老和尚、不可得人。那裡容易得見(這の老和尚は得がたい人物である。どこでも容易に見得できようか)。

再度の評著として、誰が一万鋌もの銀子を、受けない人があろうか。古人(龐居士)が云うには、金銀珠玉、これを見るは糞土の如し(『続灯録』十三「続蔵」七八・七二五下)と見るべし。たとい金銀であっても、受け取らないのが禅僧(衲子)の家風である。如浄和尚には金銀を糞土と見なす事が出来るが、ほかの禿僧には出来ない事である。

如浄和尚が常日頃かた言っていたのは、三百年来、私のような指導者(知識)は世に出た事実がない。諸人は審細に辦道(修行)の功夫(実践)をしなさい。

「先師の会に、西蜀の綿州人にて道昇とて在りしは、道家流なり。徒儻五人、共に誓うて云く、我ら一生に仏祖の大道を辦取すべし。さらに郷土に帰るべからず。先師殊に随喜して、経行道業ともに衆僧と一如ならしむ。その排列の時は比丘尼の下に排立す、奇代の勝躅なり。又、福州の僧、その名善如、誓いて云く、善如平生さらに一歩を南に向かいて移すべからず。専ら仏祖の大道を参ずべし。先師の会に、かくの如くの類い数多あり。目の当たり見し処なり。余師の所に無しと云えども、大宋国の僧宗の行持なり。我らにこの心操なし、悲しむべし。仏法に逢う時なおしかあり、仏法に逢わざらん時の身心、恥じても余りあり」

如浄の道場には西蜀(四川省)の北部地方の綿州人である。道昇という人は道教の学人であった。仲間五人と共に如浄会下では、仏道を修得するまでは帰郷せず。と謂うことであるが、これは先の馬祖段での「莫帰郷」にも通底する行持である。

如浄は特に道昇などを優遇し、雲衲と同様に経行や寺院の日課を、仏道道家を分け隔てしない接化法は、如浄和尚の徳分であり奇代の勝躅である。との道元禅師の評著となります。

いま一人、福建省東部出身で善如という僧も南には向かわずと、道元も含めた周囲の人々に語りかけていたのであろう。このような例示は数多く見聞した所である。と、自身の安居当時の状況を回顧しつつ、述懐するものである。

「静かに思うべし、一生幾ばくにあらず、仏祖の語句、たとい三々両々なりとも、道得せんは仏祖を道得せるならん。故は如何。仏祖は身心如一なるが故に、一句両句、みな仏祖の温かなる身心なり。かの身心来たりてわが身心を道得す。正当道取時、これ道得来たりて我が身心を道取するなり。此生道取累生身なるべし。かるが故に、仏となり祖となるに、仏を越え祖を越ゆるなり。三々両々の行持の句、それかくの如し。いたづらなる声色の名利に馳騁する事なかれ。馳騁せざれば、仏祖単伝の行持なるべし。勧むらくは大隠小隠、一箇半箇なりとも、万事万縁を投げ捨てて、行持を仏祖に行持すべし」

長文の「仏祖行持」も最終項を迎え、行持と道得の相補完的な結論に導かれるものである。

平静に考えても一生には限りがあり、仏祖の語句が二つや三つであったとしても、その語句を表明(道得)できるならば、仏祖を表現すると同等価が与えられるものである。その理由としては、仏祖とは身と心の全体であるから、一句二句は仏祖に包含され「道得」=「身心」=「仏祖」の一面態が唱えられるものである。

「此生道取累生身」の語は「当話」執筆二年前の『渓声山色』巻(「岩波文庫」㈡一二五)で、すでに「昔生未了今須了、此生度取累生身。古仏未悟同今者、悟了今人即古人」(『禅門諸祖師頌』上之上「続蔵」六六・七二八上)を援用するが、この結論部では「此生度取」を「此生道取」に変換し、道取と仏祖の一物なる理が解き明かされます。

仏祖を称する人は、外界の感覚だけに頼り名利を貪る為に馳騁(かけずり回る)してはならず、名利に馳騁しなければ仏祖の単伝する行持に直結するものである。望むらくは都市に住する大隠・山間に住む小隠や、一人でも半人でも万事万縁を放捨して、行持を仏祖に行持すべし。とー部で示す処に、冒頭部で説く「仏祖の大道、かならず無上の行持あり。道環して断絶せず」に連動通脈する文章構成に仕立てられ、二万七千余字にも及ぶ「仏祖行持」を擱筆されます。