正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

詮慧・経豪 正法眼蔵第四十七 仏経 (聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第四十七 仏経 (聞書・抄)

このなかに、教菩薩法あり、教諸仏法あり。おなじくこれ大道の調度なり。調度ぬしにしたがふ、ぬし調度をつかふ。

詮慧

〇先の『無情説法』と今の『仏経』と、只一なり。聊かも其心不可違也。

〇凡そ仏身を習うにも、形式を離れ慮知念覚にあらずと談ず。法を習うにも、大小乗しなじなあり。今の「経」と云う事は、依経成仏す。仍て仏を解す。正覚の根本を尋ぬれば、経巻に依る。経巻の流布は、正覚の仏の所説也。仍て仏説法也、法説仏也と云う。説を互いに交われども、経巻の皮肉、仏の皮肉なり。教の家には、付仏判教。

〇抑も世間に云う禅家には、言句に拘わらずと云いて、世間の文字とのみ言句をば思いたり。法の文字に拘わらざる道理を云わず、理の文字に拘わらざる義をば不心得。今聞仏経とき(の)経の詞(は)、源は僧家より出づるなり。仏説をば仏経と云う理を、経巻に置く時は、尽界(は)経巻にして残る所なし。経に色の経と云うは、紙に書き木に書く、是を色の経巻と名づく。以此分、如来の説教をば、猶言語とくだして、仏智の現わるる所とせず。此事無謂。大乗小乗の機あり、頓漸に対して説くゆえに、対機随情の説にてあれば、まさしき仏教にあらず。五十余年の説は、只言理にてあれば、直指人心、見性成仏などと談じて、不可用経巻。以心伝心こそ、心をもて法を伝えれば、禅宗なれなどと云う。仏経を立て解するは、根機に対して解すれば、法も猶浅しと云う、甚無謂。輪転相続の法也と説かばこそ、生死繋縛とならめ。仏は繋縛の業を解脱せよとこそ説き御せば、衆生に依りて法は説き給えども、法さらに非繋縛法。一切の衆生をして、如仏して事ならしめすと説き給えば、不可用と云うべき法ならず。仏もとより、一乗を説かせ御せども、不信は衆生也。機に対するを三乗の法ぞなどと云えば、此の説の中に実もあり、方便もありて、二に分くるまでこそあれ、諸乗一仏乗と開会する上は、顕然の道理也。文字も数多あるべし、今の文字に付けて、立不立と云うとは、習わぬか正伝にてあるなり。不立文字の詞、滅後の事也。

〇「このなか」と云う、此の草子の一番に此の詞あり。是は如是我聞と経に云えるが如し。「このなか」と挙げて、仏経の意を奥に説くべき故なり。

〇「教菩薩法」という、次の詞(を)やがて又「教諸仏法」と云う、これ菩薩と仏とを各別に置きて、法と云う文字を付けたるにあらず。仏・菩薩は一なる道理を表すなり、更に不可有勝劣也。菩薩をば、自十地等、等覚まで連ねおく。似有浅深、然者証理と云えども、猶残る煩悩ありと云う。是等は、しばらく修行門に付けて云う也。今の仏菩薩の化儀、実(に)難知。諸仏は菩薩の師也、菩薩は仏の師也。文殊を仏の九代の祖師と云う、以之可知知事也。「教諸仏法」という、仔細同上。又「教」の字を上に置く事、打ち任せねども、『仏教』の草子に悉く此心あり。教仏とも云うべし也、この心也。

〇大乗因者、諸法実相也。大乗果者、亦諸法実相なれば、仏菩薩(の)因果(は)一なるべし。経(『無所有菩薩経』「大正蔵」一四・六七六上・注)にも教諸仏法と説くなり。

〇「おなじくこれ大道の調度也」と云う、調度を仕うと云うは、其の人を見んと思わば、其人の行李を見るべしと云う事あり。大道の調度には、教菩薩法、教諸仏法なり、無情説法、無情得聞の義なるべし。

経豪

  • 「仏経」の様、西天の梵本を漢字に翻して、一代の諸経を文字に表して、黄紙朱軸の経巻として用之、以之常の経巻と思い習わしたり。但今祖門の経巻の所談、非此儀。先ず「このなかに」と云うは、今の仏経の事を指す歟。「教菩薩あり、教諸仏の法」と云えば、菩薩与諸仏、全不可有差別浅深義。只所詮教菩薩を以て経巻とし、教諸仏を以て経巻と可談也。ゆえに「同じく是大道の調度也」と被決也。此の「大道」と云うは、しばらく今の仏祖の法を指すなり。「調度」とは、しばらく名経巻也。「調度ぬしに随う」とは、経巻の大道と等しきを、調度ぬしに随うとは云う也。「ぬし調度を仕う」と云うは、此の大道の経巻の道理、親しきを如此云う歟。所詮大道と調度と、ぬしと随うと云うも、仕うと云うも、只一体(で)経巻の理なるべし。

 

これによりて、西天東地の仏祖、かならず或従知識、或従経巻の正当恁麼時、おのおの発意修行証果、かつて間隙あらざるものなり。

発意も経巻知識により、修行も経巻知識による、証果も経巻知識に一親なり。機先句後、おなじく経巻知識に同参なり。機中句裏、おなじく経巻知識に同参なり。

知識はかならず経巻を通利す。通利すといふは、経巻を国土とし、経巻を身心とす。経巻を為佗の施設とせり、経巻を坐臥経行とせり。経巻を父母とし、経巻を児孫とせり。経巻を行解とせるがゆゑに、これ知識の経巻を参究せるなり。

知識の洗面喫茶、これ古経なり。経巻の知識を出生するといふは、黄檗の六十拄杖よく児孫を生長せしめ、黄梅の打三杖よく伝衣附法せしむるのみにあらず、桃花をみて悟道し、竹響をきゝて悟道する、および見明星悟道、みなこれ経巻の知識を生長せしむるなり。

詮慧

〇「西天東地の仏祖、必ず或従知識、或従経巻の正当恁麼時、おのおの発意修行証果、かつて間隙あらざるものなり」という、国師大証)の無間歇(『無情説法』)を説く(と)同心なるべし。或従知識・或従経巻は発意修行の時は、さもありなん。証果の時は不可依経巻と覚ゆれども、調度を仕い習う(は)如此、能所自他なきゆえなり。発意経巻による、経巻発意によるなり。人に知識と云う事をばつけ、経に知識すと云う、不然事也。「経巻を通利す」と云うは、次の文に委注之、如文。通利は得聞不聞の義に心得合すべし。知識という「知識の洗面喫茶、これ古経なり」とあれば、知識のよう古経の体あらわなり。「知識を出生すると云うは、黄檗の六十拄杖」と云う(已下之略)。「伝衣附法、桃花竹響の悟道、これ経巻の知識を生長せしむるなり」とあり。

経豪

  • 人を置きて、此の上に発意修行証果すとも云わば、争か間隔なかるべき。是は此の発意修行証果を、やがて経巻と談ずる間、間隔なしとは、此の道理を云う也。
  • 発意・修行・証果等、皆経巻なる道理、此御解釈分明也。「よる」とあるは、それがそれ也と云う心なり。所詮先後と云うも中裏と云うも、皆経巻知識の上の談なるべし。「同参也」と云うも、二物相対して彼是同参というにあらず。只経巻知識が経巻知識と同参也と云う程の理なり。
  • 此の詞は、世間の情にまがいぬべし。「知識は必ず経巻を通利す」と云えば、学人ありて経巻を立て抜きに覚悟して、諳誦し解義せぬとするを云う歟と聞こえたり、非爾。如今(の)御釈は経巻を国土とし、身心とす。乃至経巻を為他施設、坐臥・経行・父母・児孫とらするを「通利」とは云うべきなり。右に所挙の各々の姿を皆、今は経巻と可談也、委見于文。「洗面・喫茶・古経也」とあり、不始于今事也。
  • 「経巻の知識を出生する」とは、此の知識が経巻なる所を出生と云うなり。「黄檗の六十拄杖、黄梅の打三杖、伝衣附法、乃至桃花を見て悟道し、竹響を聞いて悟道、及び見明星悟道、皆是を経巻の知識を生長せしむるなり」、経巻の響く所、如右云。各々に談ぜられる姿を、経巻の知識を生長するとは云う也。経巻知識、更に非各別一体、一物なるべし。打ち任すは経巻知識、各別なるべし(と)、今(の)所談(は)非爾也。

 

あるいはまなこをえて経巻をうる皮袋拳頭あり、あるいは経巻をえてまなこをうる木杓漆桶あり。いはゆる経巻は、尽十方界これなり。経巻にあらざる時処なし。

経豪

  • 尽十方界・沙門一隻眼と云う、是れ則ち経巻なるべし。ゆえに眼をえて経巻をえるとは云わるる也。「経巻をえて眼をうる」と云うは、此の眼与経巻(は)非別ゆえに、如此云わるる也。只此の道理は、経巻が経巻を得、眼が眼を得たる理なるべし。「皮袋拳頭、木杓漆桶あり」と云わるるは、経巻をうると云う許りにてはあるまじ。皮袋拳頭も木杓漆桶も、悉く経巻なるべしと云い表わさるるなり。

 

勝義諦の文字をもちゐ、世俗諦の文字をもちゐ、あるいは天上の文字をもちゐ、あるいは人間の文字をもちゐ、あるいは畜生道の文字をもちゐ、あるいは修羅道の文字をもちゐ、あるいは百草の文字をもちゐ、あるいは万木の文字をもちゐる。このゆゑに、尽十方界に森々として羅列せる長短方円、青黄赤白、しかしながら経巻の文字なり、経巻の表面なり。これを大道の調度とし、仏家の経巻とせり。

詮慧

〇「勝義諦」という、(仏法の事也、第一義諦とも云い、勝はすぐれたる義なり)。「世俗諦」という、(世間の事也。此の世俗諦をやがて勝義諦と仕うべし。非棄世俗、諸法実相と云うが如し、諸法を棄てず)。「或いは天上の文字、人間、修羅、百草万木の文字(取要略已下宇)を用いる、このゆえに尽十方界に森々として羅列せるは、長短方円、青黄赤白、しかしながら経巻の文字也」と云う、文字の様(は)是にて可心得。実にも松・竹を見ず、知らざらん

物に、松の字、竹の字を書いて教えたらん。何の詮かあるべき、知りたると云い難し。世間の文字許りを知りて、声にもあれ汲むにもあれ、読みたらん許りは何れ(の)詮かあらん。仏法には知識と云い経巻と云うも、古経と云うも文字と云うも、如此参学する也。但大乗経の如きは、ただ文字に任せて読誦する。これも似無詮とも、これは大乗至極の義、超越于世間ゆえに、得益なきにあらず、非無功徳也。

〇いわゆる経巻は、尽十方界是也。経巻にあらざる時処なしと云う。是も『無情説法』の所にことふり、又時処なしと云うも、説無間歇も同じ詞なり。

〇得証の後は、先に三祇劫・百大劫をも経よ。無他物(は)、さとりの時なり。

経豪

  • 「勝義諦・世俗諦」とは、真俗二諦と云う詞也。此の文字「あり・あり」とて、さまざまに挙げらるるは、この各々の文字が、或いは梵字にても漢字にても、あらんずるにてはなし。右に所挙の天上・人間・畜生・修羅・百草万木等を収めて、皆経巻と可談也。ゆえに如此説かるる也。已下文に見えたり。

 

この経巻、よく蓋時に流布し、蓋国に流通す。教人の門をひらきて尽地の人家をすてず、教物の門をひらきと尽地の物類をすくふ。教諸仏し、教菩薩するに、尽地尽界なるなり。

詮慧

〇「教人の門を開きて、尽地の人家を捨てず、教物の門を開きて、尽地の物類を救う」という、天台には教行人理の四一(『天台真言二宗同異章』「略寄四一教行人理二宗不別」「大正蔵」七四・四一七上・又教行人理は『袈裟功徳』に提示される・注)と談ず。教も経也、行も経也、人も経也。四一と云うは、教行人理を合して、一と云わんとにはあらず。教行人理(の)一づつを四一と云うなり、心仏及衆生の如し。

経豪

  • 此の経巻の理、三世に約すれば「蓋時に流布し、蓋国に流通す」と云わる。人を教うと云う時も、「尽地の人家」悉く経巻なり、物を教うと云う時も、「尽地の物類」皆経巻也と談ず也。以此理「救うとも、教諸仏し、教菩薩するに、尽地尽界なる也」とは被釈也。

 

開方便門し、開住位門して、一箇半箇をすてず、示真実相するなり。

この正恁麼時、あるいは諸仏、あるいは菩薩の慮知念覚と無慮知念覚と、みづからおのおの強為にあらざれども、この経巻をうるを、各面の大期とせり。

詮慧

〇「開方便門し、開住位門して」という、方便の門を開くが、住法住位の理(ことわり)を開くにてあるなり。方便を不棄きらわぬなり。

経豪

  • 経に「開方便門、示真実相」(『法華経』「法師品」・「大正蔵」九・三一下・注)という、「開方便門」と云えば、真実を表わさん(と)する序分かと聞こゆ、非爾。開方便門と云わるるも示真実相と云うも、共に経巻なるべし。全て相待浅深の義に非ず。
  • 此の経巻の現るる時節、「或いは諸仏菩薩の慮知念覚と、無慮知念覚と、各強為せざれども、この経巻を得るを、各面の大期とせり」とは、諸仏も菩薩も、無慮知念覚と云うも、無慮知念覚と云うも、強いて為すにあらざれども、只此の経巻の道理、無始本有の理なる所を如此云う也。「大期」と云えばとて、又極位を置きて非待。只此理の現るる所を大期とは仕う也。

 

必得是経のときは、古今にあらず、古今は得経の時節なるがゆゑに。尽十方界の目前に現前せるは、これ得是経なり。

経豪

  • 此の古今を是経と談ずる上は、実(に)古今にあらざるべし。ゆえに「古今は得経の時節なるゆえに」とあり。尽十方界森々として羅列する姿を、「得是経」と談ずべき也。

 

この経を読誦通利するに、仏智、自然智、無師智、こゝろよりさきに現成し、身よりさきに現成す。このとき、新条の特地とあやしむことなし。

詮慧

〇「仏智・自然智・無師智」と云う、不対自他事也。

経豪

  • 「経を読誦通利」と云うは、打ち任しては今の経を人ありて読誦し、此の経巻の理を通達するとこそ心得たれ。「心より先に現成し、身より先に現成す」とあり、この上は誠に古きぞ、新しきぞと云う沙汰に不可及事也。

 

この経のわれらに受持読誦せらるゝは、経のわれらを接取するなり。文先句外、向下節上の消息、すみやかに散花貫花なり。

詮慧

〇「散花貫花」と云う、是は経を供養の心なり。「貫」と云うも立花心歟、同前也。

経豪

  • 経と我等と至りて親なる時、如此被談なり。「我等に受持読誦せらるる」と云うは、我等(と)則ち此の経なる道理が、如此云わるる也。所詮只先と云うも外と云うも、下も上も此の経なる道理を、「散花貫花」とも談ず也。

 

この経をすなはち法となづく。これに八万四千の説法蘊あり。この経のなかに、成等正覚の諸仏なる文字あり、現住世間の諸仏なる文字あり、入般涅槃の諸仏なる文字あり。如来如去、ともに経中の文字なり、法上の法文なり。拈花瞬目、微笑破顔、すなはち七仏正伝の古経なり。腰雪断臂、礼拝得髄、まさしく師資相承の古経なり。

詮慧

〇「現住世間の諸仏なる文字あり、入般涅槃の諸仏なる文字あり、如来如去ともに経中の文字也」と云う、此の来去は非世間来去、仏如来の来と心得也。現住世間の仏は来に当たる、入般涅槃は去に当たるべし。これら皆文字と心得也。

経豪

  • 「八万四千の説法蘊有り」と云うも、「成等正覚」(の)姿も、「現住世間・入般涅槃」の当体も、皆此の経と取るなり。「文字あり・あり」と云うは、如前云う。只其れを抑えて、経巻と談ずる所を「文字あり」とは云う也。「来去共に経中也、法上の法文なり、拈花瞬目、微笑破顔」と云う(は)、皆是「正伝の古経也」と云う。「腰雪断臂、礼拝得髄、師資相承、古経也」とあり、如文。釈尊・迦葉のあわいも、初祖・二祖の姿も、皆「古経」と談ず也。実(に)日来思い習わしたる黄紙朱軸の経を、人ありて受持・読誦・解説・書写するとのみ心得たりつる旧見には、以外相違したり。広博なる経なるべし。如此談ずる時、今の妙経も捨つべきにあらざる道理顕然也。今の読誦の人(は)則ち「古経」なるべし。

 

つひにすなはち伝法附衣する、これすなはち広文全巻を附嘱せしむる時節至なり。みたび臼をうち、みたび箕の米をひる、経の経を出手せしめ、経の経に正嗣するなり。

経豪

  • 右に所挙の色々(の)姿を以て、「経の経を出手せしめ、経の経に正嗣する」と談ず也。

 

しかのみにあらず、是什麼物恁麼来、これ教諸仏の千経なり、教菩薩の万経なり。説似一物即不中、よく八万蘊をとき、十二部をとく。

いはんや拳頭脚跟、拄杖払子、すなはち古経新経なり、有経空経なり。在衆辦道、功夫坐禅、もとより頭正也仏経なり、尾正也仏経なり。

詮慧

〇以言句法を表す事なしとて、拳頭を挙げ拈払子を以て示法と云う邪也。いかなればか、仏口に科(とが)あるべき、いかなればか、凡夫の手に道理あるべき。「是什麼物恁麼来」、言説にあらずや。但如此云えば、是什麼物恁麼来の詞を言説に等しむるように聞こゆ、しかにはあらざるなり。詞をばひたたけて、世間の教えと下し、無語の拳頭、拈払子の仏法と褒むる所の無謂事を云うなり。

経豪

  • 実に「是什麼物恁麼来」の道理(は)、「教諸仏の千経」なるべし。「説似一物即不中」の理(は)、又「八万蘊を説き、十二部を説く」道理なるべし。あたらずと云う一法あるべからざるがゆえに。
  • 仏祖の「拳頭脚跟、拄杖払子等の古経」なるべき条(を)、今更非可疑。此の新古の詞(は)、打ち任せたる分にあらず、「古経」の上の新古なるべし。「有経空経」とも、此の理を可談也。「在衆辦道、功夫坐禅」の姿、皆経巻なるべし。首尾仏経なるべき道理を、「頭正也仏経、尾正也仏経也」とは云うなり。

 

菩提葉に経し、虚空面に経す。おほよそ仏祖の一動両静、あはせて把定放行、おのれづから仏経の巻舒なり。窮極あらざるを、窮極の標準と参学するゆゑに、鼻孔より受経出経す、脚尖よりも受経出経す。父母未生前にも受経出経あり、威音王已前にも受経出経あり。山河大地をもて経をうけ経をとく。日月星辰をもて経をうけ経をとく。あるいは空劫已前の自己をして経を持し経をさづく。あるいは面目已前の身心をもて経を持し経をさづく。かくのごとくの経は、微塵を破して出現せしむ、法界を破していださしむるなり。

詮慧

〇「窮極あらざるを窮極の標準と参学するゆえに、鼻孔より受経出経す」という。・・「父母未生前、窮極已前」とも云うは、窮極を標準とするゆえに、空劫已前と説く。この「窮極・空劫已前」等の詞も、一の文字と云うべきなり。

〇「法界を破して、いださしむるなり」、破すと云えばとて、造作義にてなし。丸くなりつるものを破するにてはなし、解脱の破なり。

経豪

  • 是は多羅葉、梵本経を写す其の事なり。又「虚空に経す」とは、貝多羅樹(多羅葉是也)に経を写す。又虚空に経を写すと云う事もあるか。其の事を被取寄せて被書たるなり。所詮「仏祖の一動両静」、又「把定・放行」も仏経なり。仏法には「窮極」という事不可有。窮極のなき道理を以て、窮極とすべきなりとあり。又「鼻孔より受経出経す、脚尖よりも受経出経」と云うは、やがて此の鼻孔・脚尖を以て「仏経」と談ず也、別に物が出でて現ぜんずるにてはなし。今の「山河大地・日月星辰」を以て経と談ず也。其の理が如此云わるるなり。「受」と云うも、他人に伝受の儀なし。「説」と云うも能説所説にあらず、只此の「仏経」の理を説とも受とも読とも書とも可談也。「空劫已前の自己」と云えば、久しく「面目已前の身心」と云えば近きように聞こゆれども、空劫已前と云うも「経」、面目已前と談ずも「経」なり。又「微塵」と云えば狭少に、「法界」と云えば広しと不可思。微塵も「経」也、法界も「経」なるべし。此理を「微塵を破す」とも、「法界を破す」とも仕うなり。

 

二十七祖般若多羅尊者道、貧道出息不随衆縁、入息不居蘊界。常転如是経、百千万億巻。非但一巻両巻。かくのごとくの祖師道を聞取して、出息入息のところに転経せらるゝことを参学すべし。

転経をしるがごときは、在経のところをしるべきなり。能転所転、転経経転なるがゆゑに、悉知悉見なるべきなり。

詮慧 二十七祖

〇「第二十七祖般若多羅尊者道、貧道、出息不随衆縁、入息不居蘊界、常転如是経、百千万億巻、非但一巻両巻」、この言(は)難心得。出息入息(を)衆生界に仰せて心得んには、不随衆縁・不居蘊界(は)、甚だ其の義あたらず。いかなるべきぞ、「出息不随衆縁」は尽十方界真実人体と云うべし。「入息不居蘊界」は諸法実相なるべし。世間の字をやがて「経」と説くにはあらず。

〇「在経の所を知るべき也」という、この「所」は右に経巻を国土とし身心とすと云う。尽十方界の目前に現前する得是経とも云う、これらにて可心得也。

〇「悉知悉見」と云う、この「悉」は悉有仏性の悉なり。経(は)悉知せられ、経に悉見せらるるなり。経を他所に置きて、人が悉く知り、もしは見るにてはなき也。世間の悉見に異なるべし。

経豪

  • 是は尊者の出入の息(の)尋常ならず、不随衆縁かと覚えたり。「衆縁」とは、たとえば打ち任せて、悪しき縁に不随、而(に)尊者の出入息許りが忌みじきと云うように聞こゆ、非爾。所詮今の出息も入息も、衆縁も蘊界も、皆「仏経」なるべし。非浅深勝劣儀。仏経の独立する道理が、不随衆縁とも不居蘊界とも云わるるなり。此の道理を「常転如是経」とも、「百千万億巻・非但一巻両巻」とも談ず也。此理を以て、「出息入息の所に転経せらるる事を可参学」とは被釈なり。
  • 「在経」の所とて、別に其の所のあるべきにてはなし。只尽十方界(は)、在経の所ならぬ所あるべからず。やがて此の在経の道理が、「能転所転、転経経転」の理なるべし。此の理を「知見」とも可談也。

 

先師尋常道、我箇裏、不用焼香礼拝念仏修懺看経、祗管打坐、辦道功夫、身心脱落。かくのごとくの道取、あきらむるともがらまれなり。ゆゑはいかん。看経をよんで看経とすれば触す、よんで看経とせざればそむく。不得有語、不得無語。速道、速道。この道理、参学すべし。

この宗旨あるゆゑに、古人云、看経須具看経眼。まさにしるべし、古今にもし経なくは、かくのごときの道取あるべからず。脱落の看経あり、不用の看経あること、参学すべきなり。

詮慧 先師段

〇世間の看経の如く思いて、山河大地をもて経を受け経を説かざらんは、「触す」とも云うべし。但この触、この背くは「看経」とすべし。邪見と云うにはあらずとも可心得。「不得有語、不得無語」と云うがゆえに。

〇『仏経』と云う草子に不用看経と(の)証拠被引事、尤可有子細、能々審細に可了見。但此の「不用」の字は、三世不可得の心に心得合すべし。不用打坐も可同前也。

〇「不用焼香礼拝」と云う、この「不用」は看経の声にも不用、坐禅の方にも不用なり。其の故は、坐禅の時は不用焼香礼拝なるゆえなり。看経の時は又、不用打坐すべきゆえなり。不用と云えばとて、捨てて不用とにあらず。今の「経」の心地をやがて「打坐辦道」と取るなり。経をば不用とも仕い、坐禅をば打坐と云うにはあらず。能々審細に可究辦者也。

〇「古人云、看経須具看経眼」(『雲門録』「大正蔵」四七・五七二下・注)と云う、今現成せる正法眼蔵は、則ち「仏経」なりとあれば、正法眼蔵を心得て、「看経眼」を具すべし。

「祗管打坐・辦道功夫・身心脱落」とあればとて、看経を捨てよと云うとは心得ぬべし。

経豪

  • 此の天童の御詞は、「焼香・礼拝・念仏・修懺・看経」等を嫌いて、「不用」と制して、只「祗管打坐・辦道功夫・身心脱落」とて、坐禅許りを被勧めたるように聞こゆ、非爾。此の焼香・礼拝・念仏・修懺・看経等の姿(は)、悉く経巻なるべし。不用の詞(は)、嫌うにはあらず。入の一字も不用得とて、出入の心地にあらず。又焼香・礼拝・念仏・修懺の姿(は)、可用人にあらず。各究尽の理(は)、独立の姿なるべし。此の方を又「不用」と云う儀もありぬべけれども、只ここには不用焼、不用礼拝、乃至不用辦道功夫等なるべし。此の「看経を看経を読んで看経とすれば触す」とは、此の看経を読んで看経とすれば、悪しく成りぬ。さればとて、看経と云う事を云わねば、看経の理に背くと云う様に、文の面は聞こゆ。是は只触すと云うも看経、背くと云うも看経なるべし。「不得有語、不得無語」も看経なり。ゆえに「速道速道」と云う也。
  • 看経の時節には看経の眼の外、余眼不可有。祖道に仏経(を)可抛しと云う僻見を被嫌うとて、「古今に経なくば、如此の道取不可有」とは云う也。「脱落の看経あり、不用の看経あり」、如前云。

 

しかあればすなはち、参学の一箇半箇、かならず仏経を伝持して仏子なるべし。いたづらに外道の邪見をまなぶことなかれ。いま現成せる正法眼蔵はすなはち仏経なるがゆゑに、あらゆる仏経は正法眼蔵なり。一異にあらず、自佗にあらず。しるべし、正法眼蔵そこばくおほしといへども、なんだちことごとく開明せず。しかあれども、正法眼蔵を開演す、信ぜざることなし。仏経もしかあるべし。そこばくおほしといへども、信受奉行せんこと、一偈一句なるべし。八万を解会すべからず、仏経の達者にあらざればとて、みだりに仏経は仏法にあらずといふことなかれ。

経豪

  • 実(に)正法眼蔵多しと云えども、皆悉く開明せず。しかれども正法眼蔵を開演せずと云う事なし。此の定めに仏経も許多(そこばく)多けれども、信受奉行せんこと、一句一偈不可有不足。必ず(しも)八万聖教を解会せずとも云う也。「仏経の達者に非ざればとて、仏経は仏法に非ずと云うことなかれ」と被制也。

 

なんだちが仏祖の骨髄を称じきこゆるも、正眼をもてこれをみれば、依文の晩進なり。一句一偈を受持せるにひとしかるべし、一句一偈の受持におよばざることもあるべし。この薄解をたのんで、仏正法を謗ずることなかれ。

経豪

  • 如文。是は世間に禅門とては、死を慣らして仏経等(は)、不可用と云う人を被出也。如此云う人を見れば「依文の晩進也」。一句一偈を受持せる人にも、まさらず誤まりて、「一句一偈の受持せる人にも不及」と避けらるるなり。

 

声色の仏経よりも功徳なるあるべからず。声色のなんぢを惑乱する、なほもとめむさぼる。仏経のなんぢを惑乱せざる、信ぜずして謗ずることなかれ。

経豪

  • 「声色の仏経」とは、経読みなどを請して読経(の)事歟。是は経の儀理に了達するにあらず。只能声なるを信じて、求め貪る此の事を「汝を惑乱する」とはある也。仏経は「汝を惑乱する事なきを、不信して謗ずることなかれ」と云う也。

 

しかあるに、大宋国の一二百余年の前後にあらゆる杜撰の臭皮袋いはく、祖師の言句、なほこゝろにおくべからず。いはんや経教は、ながくみるべからず、もちゐるべからず。たゞ身心をして枯木死灰のごとくなるべし。破木杓、脱底桶のごとくなるべし。かくのごとくのともがら、いたづらに外道天魔の流類となれり。もちゐるべからざるをもとめてもちゐる、これによりて、仏祖の法むなしく狂顛の法となれり。あはれむべし、かなしむべし。

経豪

  • 是以下無殊子細、御釈に悉見たり。

 

たとひ破木杓、脱底桶も、すなはち仏祖の古経なり。この経の巻数部帙、きはむる仏祖まれなるなり。仏経を仏法にあらずといふは、仏祖の経をもちゐし時節をうかゞはず、仏祖の従経出の時節を参学せず、仏祖と仏経との親疎の量をしらざるなり。かくのごとくの杜撰のやから、稲麻竹葦のごとし。獅子の座にのぼり、人天の師として、天下に叢林をなせり。杜撰は杜撰に学せるがゆゑに、杜撰にあらざる道理をしらず、しらざればねがはず。従冥入於冥、あはれむべし。いまだかつて仏法の身心なければ、身儀心操、いかにあるべしとしらず。有空のむねあきらめざれば、人もし問取するとき、みだりに拳頭をたつ。しかあれども、たつる宗旨にくらし。正邪のみちあきらめざれば、人もし問取すれば、払子をあぐ。しかあれども、あぐる宗旨にあきらかならず。あるいは為人の手をさづけんとするには、臨済の四料簡四照用、雲門の三句、洞山の三路五位等を挙して、学道の標準とせり。先師天童和尚、よのつねにこれをわらうていはく、学仏あにかくのごとくならんや。

経豪

  • 世間に談ずるは、枯木・死灰、破木杓・脱底桶とて、総て何ともなき物に思い習わしたるを、こなたには破木杓・脱底桶をば、解脱の詞に仕うなり。ゆえに破木杓等も則ち「古経也」と談ず也。此の経の上に「部帙」と云う事をも可談なり。今の非但一巻両巻などと云う巻数(も)、則ちこれなるべし。如文。

 

仏祖正伝する大道、おほく心にかうぶらしめ、身にかうぶらしむ。これを参学するに、参究せんと擬するにいとまあらず。なんの閑暇ありてか晩進の言句をいれん。まことにしるべし、諸方長老無道心にして、仏法の身心を参学せざることあきらけし。先師の示衆かくのごとし。

経豪

  • いみじかりし仏道正伝の大道の心を談じ、身を談ずる様を「参学し参究せんと擬するに、いとまなきに、何の閑暇ありてか、晩進の言句を入れん」と也。如文。

 

まことに臨済黄檗の会下に後生なり。六十拄杖をかうぶりて、つひに大愚に参ず。老婆心話のしたに、従来の行履を照顧して、さらに黄檗にかへる。このこと、雷聞せるゆゑに、黄檗の仏法は臨済ひとり相伝せりとおもへり。あまりさへ黄檗にもすぐれたりとおもへり。またくしかにはあらざるなり。臨済はわづかに黄檗の会にありて随衆すといへども、陳尊宿すゝむるとき、なにごとをとふべしとしらずといふ。大事未明のとき、参学の玄侶として、立地聴法せんに、あにしかのごとく茫然とあらんや。しるべし、上々の機にあらざることを。また臨済かつて勝師の志気あらず、過師の言句きこえず。黄檗は勝師の道取あり、過師の大智あり。仏未道の道を道得せり、祖未会の法を会得せり。黄檗は超越古今の古仏なり。百丈よりも尊長なり、馬祖よりも英俊なり。臨済にかくのごとくの秀気あらざるなり。ゆゑはいかん。古来未道の句、ゆめにもいまだいはず。

経豪

  • 臨済黄檗の弟子也。三箇年の間、黄檗の下に有りしかども、総無所問、而陳尊宿、于時首座也。いたづらに此の下に在りながら、争か何事をも不問と云われて、黄檗から如何なるか仏法と尋ね申す時、二十棒を与えらる。又同じ詞を以て尋ね申すに、又二十棒被与。又同様に尋ね申すに、又二十棒、都合六十棒を与えらる。其の時臨済ものうくして、黄檗の下を出て大愚に被問うて、仏性を尋ね申せば、毎度与棒之間、是へ参りたりと答う。其の時大愚被示ようは、努々汝を仇(仇)みて与うる棒にあらず。汝を憐れみて此の棒をば与うる也。速やかに黄檗の下へ如本帰りて、能々可参学と被教訓じて、従来の行履を照顧して、黄檗に帰りて黄檗の仏法をば得たりき。此の事を被載也。然而黄檗に不及所を、重々被釈挙也。見于文、非上々機道理、能々可了見也。

 

たゞ多を会して一をわすれ、一を達して多にわづらふがごとし。あに四料簡等に道味ありとして、学法の指南とせんや。雲門は雪峰の門人なり。人天の大師に堪為なりとも、なほ学地といふつべし。これらをもて得本とせん、たゞこれ愁末なるべし。臨済いまだきたらず、雲門いまだいでざりし時は、仏祖なにをもてか学道の標準とせし。かるがゆゑにしるべし、かれらが屋裏に仏家の道業つたはれざるなり。憑據すべきところなきがゆゑに、みだりにかくのごとく胡乱説道するなり。このともがら、みだりに仏経をさみす。人、これにしたがはざれ。もし仏経なげすつべくは、臨済雲門をもなげすつべし。

経豪

  • 是は臨済を避けらるる詞也。所詮一多に拘わる所ある事を明かさる。いまだ届かざる所ありと、先師の御心地には許されざるか。

 

仏経もしもちゐるべからずは、のむべき水もなし、くむべき杓もなし。

経豪

  • ここにふと、水杓等の出できたる事、何事ぞと覚えたり。是は只無風情、仏経なくば、何れに付き如何なるべきぞと云う事に、「飲むべき水なし、汲むべき杓なし」とはあるなり。

 

また高祖の三路五位は節目にて、杜撰のしるべき境界にあらず。宗旨正伝し、仏業直指せり。あへて余門にひとしからざるなり。また杜撰のともがらいはく、道教儒教釈教、ともにその極致は一揆なるべし。しばらく入門の別あるのみなり。あるいはこれを鼎の三脚にたとふ。これいまの大宋国の諸僧のさかりに談ずるむねなり。もしかくのごとくいはば、これらのともがらがうへには、仏法すでに地をはらうて滅没せり。また仏法かつて微塵のごとくばかりもきたらずといふべし。かくのごとくのともがら、みだりに仏法の通塞を道取せんとして、あやまりて仏経は不中用なり、祖師の門下に別伝の宗旨ありといふ。少量の機根なり。仏道の辺際をうかゞはざるゆゑなり。仏経もちゐるべからずといはば、祖経あらんとき、もちゐるや、もちゐるべからずや。祖道に仏経のごとくなる法おほし。用捨いかん。もし仏道のほかに祖道ありといはば、たれか祖道を信ぜん。祖師の祖師とあることは、仏道を正伝するによりてなり。仏道を正伝せざらん祖師、たれか祖師といはん。初祖を崇敬することは、第二十八祖なるゆゑなり。仏道のほかに祖道をいはば、十祖二十祖たてがたからん。嫡々相承するによりて、祖師を恭敬するゆゑは、仏道のおもきによりてなり。仏道を正伝せざらん祖師は、なんの面目ありてか人天と相見せん。いはんやほとけをしたふしふかきこゝろざしをひるがへして、あらたに仏道にあらざらん祖師にしたがひがたきなり。いま杜撰の狂者、いたづらに仏道を軽忽するは、仏道所有の法を決擇することあたはざるによりてなり。しばらくかの道教儒教をもて仏教に比する愚癡のかなしむべきのみにあらず、罪業の因縁なり、国土の衰弊なり。三宝の陵夷なるがゆゑに。

経豪

  • 是は「三路・五位」たとい有りとも、余人の所談には不可似。正伝し直指せる義あり。余門に等しかるべからずとある也。已下如文。

 

孔老の道、いまだ阿羅漢に同ずべからず。いはんや等覚妙覚におよばんや。孔老の教は、わづかに聖人の視聴を大地乾坤の大象にわきまふとも、大聖の因果を一生多生にあきらめがたし。わづかに身心の動静を無為の為にわきまふとも、尽十方界の真実を無尽際断にあきらむべからず。おほよそ孔老の教の仏教よりも劣なること、天地懸隔の論におよばざるなり。これをみだりに一揆に論ずるは、謗仏法なり、謗孔老なり。

経豪

  • 「孔老の道」(は)、わづかに一世の事を談ず。実に争か阿羅漢に同じく、況や等覚妙覚に及ばん、勿論事也。

 

たとひ孔老の教に精微ありとも、近来の長老等、いかにしてかその少分をもあきらめん。いはんや万期に大柄をとらんや。かれにも教訓あり、修練あり。いまの庸流たやすくすべきにあらず。修しこゝろむるともがら、なほあるべからず。一微塵なほ佗塵に同ずべからず。いはんや仏経の奥玄ある、いまの晩進、いかでか辦肯することあらん。両頭ともにあきらかならざるに、いたづらに一致の胡説乱道するのみなり。大宋いまかくのごとくのともがら、師号に署し、師職にをり、古今に無慚なるをもて、おろかに仏道を乱辦す。仏法ありと聴許しがたし。しかのごとくの長老等、かれこれともにいはく、仏経は仏道の本意にあらず、祖伝これ本意なり。祖伝に奇特玄妙つたはれり。かくのごとくの言句は、至愚のはなはだしきなり、狂顛のいふところなり。祖師の正伝に、またく一言半句としても、仏経に違せる奇特あらざるなり。仏経と祖道と、おなじくこれ釈迦牟尼仏より正伝流布しきたれるのみなり。たゞし祖伝は、嫡々相承せるのみなり。しかあれども、仏経をいかでかしらざらん、いかでかあきらめざらん、いかでか読誦せざらん。古徳いはく、なんぢ経にまどふ、経なんぢをまよはさず。古徳看経の因縁おほし。杜撰にむかうていふべし、なんぢがいふがごとく、仏経もしなげすつべくは、仏心もなげすつべし、仏身もなげすつべし。仏身心なげすつべくは、仏子なげすつべし。仏子なげすつべくは、仏道なげすつべし。仏道なげすつべくは、祖道なげすてざらんや。仏道祖道ともになげすてば、一枚の禿子の百姓ならん。たれかなんぢを喫棒の分なしといはん。たゞ王臣の駆使のみにあらず、閻老のせめあるべし。近来の長老等、わづかに王臣の帖をたづさへて、梵刹の主人といふをもて、かくのごとくの狂言あり。是非を辦ずるに人なし。ひとり先師のみこのともがらをわらふ。余山の長老等、すべてしらざるところなり。おほよそ異域の僧侶なれば、あきらむる道かならずあるらんとおもひ、大国の帝師なれば、達せるところさだめてあるらんとおもふべからず。異域の衆生かならずしも僧種にたへず。善衆生は善なり、悪衆生は悪なり。法界のいく三界も、衆生の種品おなじかるべきなり。また大国の帝師となること、かならずしも有道をえらばれず。帝者また有道をしりがたし、わづかに臣の挙をきゝて登用するのみなり。古今に有道の帝師あり、有道にあらざる帝師おほし。にごれる代に登用せらるゝは無道の人なり、にごれる世に登用せられざるは有道の人なり。そのゆゑはいかん。知人のとき、不知人のとき、あるゆゑなり。黄梅のむかし、神秀あることをわすれざるべし。神秀は帝師なり。簾前に講法す、箔前に説法す。しかのみにあらず、七百高僧の上座なり。黄梅のむかし、盧行者あること、信ずべし。樵夫より行者にうつる、搬柴をのがるとも、なほ碓米を職とす。卑賤の身、うらむべしといへども、出俗越僧、得法伝衣、かつていまだむかしもきかざるところ、西天にもなし、ひとり東地にのこれる希代の高躅なり。七百の高僧もかたを比せず、天下の龍象あとをたづぬる分なきがごとし。まさしく第三十三代の祖位を嗣続して仏嫡なり。五祖、知人の知識にあらずは、いかでかかくのごとくならん。かくのごとくの道理、しづかに思惟すべし、卒爾にすることなかれ。知人のちからをえんことをこひねがふべし。人をしらざるは自佗の大患なり、天下の大患なり。広学措大は要にあらず。知人のまなこ、知人の力量、いそぎてもとむべし。もし知人のちからなくは、曠劫に沈淪すべきなり。

経豪

  • 孔子の教えの精微有りとも、三教一致と談ずる長老等、争か孔老の精微、その少分を知らんと也。知らずば又、争か一致とも云わん、覚束なし。況や「万期大柄をとらんや」とは、儒教道教等の儀も、随分重々深き所を争か知らん。彼にも教訓あり修練あり、是等を不辦、仏法をも孔老の道をも知らずして、一致と云う事、返々荒量、不可然事也と云うなり。

 

しかあればすなはち、仏道にさだめて仏経あることをしり、広文深義を山海に参学して、辦道の標準とすべきなり。

経豪

  • 此の山海を則ち経巻と談ずべきなり。

仏経(終)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。