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現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵六十八 大修行 註解(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵六十八 大修行 註解(聞書・抄)

洪州百丈山大智禅師〈嗣馬祖、諱懷海〉、凡三次、有一老人、常随衆聴法。大衆若退、老人亦退。忽一日不退。師遂問、面前立者、復是何人。老人対云、某甲是非人也、於過去迦葉仏時、曾住大此山。因学人問、大修行底人、還落因果也無。某甲答佗云、不落因果。後五百生、墮野狐身。今請和尚代一転語、貴脱野狐身。遂問云、大修行底人、還落因果也無 師云、不昧因果。老人於言下大悟。作礼云、某甲已脱野狐身、住在山後。敢告和尚、乞依亡僧事例。師令維那白槌告衆云、食後送亡僧。大衆言議、一衆皆安、涅槃堂又無病人、何故如是。食後只見、師領衆至山後岩下、以杖指出一死野狐。乃依法火葬。師至晩上堂、挙前因縁。黄檗便問、古人錯対一転語、堕五百生野狐身。転々不錯、合作箇什麼。師云、近前来、与你道。檗遂近前、与師一掌。師拍手笑云、将為胡鬚赤、更有赤鬚胡。

而今現成の公案、これ大修行なり。老人道のごときは、過去迦葉仏のとき、洪州百丈山あり。現在釈迦牟尼仏のとき、洪州百丈山あり。これ現成の一転語なり。

詮慧 この「大修行」殊に難心得。先々の祖師の詞にも不似条々不審なり。

〇一には五百生事野狐可知哉と云難あり。実にも畜生争可知過去事。百丈は老人の詞をこそ聞く時に、野狐五百生を知ると難云有疑、狐の五百枚とあるは五百生事也。抑も此の生は何に付きて数うべきぞや、人間界の五百生歟、仏道の五百生歟、是等の義に付けて長短懸隔なるべし。迦葉仏の世も正法末法の時代不審也。人間畜生の生を、前仏の劫数に数え合わせんは及びがたかるべし。二には過去迦葉仏、今世の釈迦牟尼仏、前後二仏并百丈山の二。大智禅師も二人あるべきにや、是も仏法には三世を分かたず不審也。其の上すでに「一にあらず異にあらず、前三々にあらず後三々にあらず。過去の百丈山来たりて而今の百丈山となるにあらず、今の百丈山先だちて迦葉仏時の百丈山にあらず」とあり、大智禅師も過去・現世二人と云い難し。其の上、「野狐ありて先百丈を招きおとさしむるにあらず。先百丈もとより野狐なるべからず、先百丈の精魂いでて、野狐の皮袋に撞入すと云うは外道なり。野狐きたりて、先百丈を呑却すべからず。先百丈さらに野狐となると云わば、まず脱先百丈身あるべし、のちに堕野狐身すべき也」と云う(は)、尤有疑。然者此の理(は)、只仏道の道理にて可心得歟。「百丈山にあらざれども曾住此山の公案あり、為学人道それ今百丈の為老人道の如し。挙一不得挙二放過一著落在第二なり」とある上は、ただ公案と心得ぬべき様なれども、総此因縁のなからんには、先師も是程に非じおわしますべき様なし、なかるべきにあらず。百丈と云われて曾住するとでも、誤りのあらんは無力事歟。誤らぬ五百生の畜類と生ぜん事も流転の業報あらん、又いわれなきにあらず。但今仏法の解脱する前にこそ、仏法には三世を置かざれば、前後の百丈と立てて能所もあるべきにあらね、畜生の果報も受くべからず。随って又五百生の事も争か知るべきと覚れ。抑も又此の五百生は仏道の五百生歟、人間界歟畜生道歟尤も不審なり。是等の面々に付いて長短の不同懸隔なるべし。所詮さとりの時は不可置迷、然而迷は又ある事也。此の定めに心得べし。不落も落も解脱落と今は心得、故に「転々不錯、合作箇什麼と黄檗問する時、近前来と被仰る処にはやがて与師一掌也、師も又拍手笑す」。「将為胡鬚赤」の詞は、たたらなし(?)と云う心地なり。非人が請和尚代一転語と云いし答には、不昧の詞(を)不落と云いし上は解脱の詞と聞こゆ。疑いも残りつべし。落において昧(くら)からざらん(は)似無詮、能々可了見事也。

〇又五百生の知事、世間の畜生と取り伏せん時は、努々(ゆめゆめ)五百生の知、許し難し。然而狐という者、百丈の問答已前も在りき。世間の狐、又今の非人と同じかるべからず。先(の)百丈と云われて仏法を問答せし程の狐にて、力ありて五百生を知るも一向なしと云うべからず。

〇「曾住此山」と云う、この住は長老に付けたる住なり、ただ大衆に列するを住とは云わざるべし。旦因学人問大修行底人還落因果也、無某甲答他云とあり、旁当長老なり。

〇「学人問」と云う、此の問わるる人は今の野狐老人。

経豪

  • 此の帖殊に心得にくく、七十五帖の中には六借草子也。其と云うは仏法の方より心得とすれば、指し当たる文の面に不審多し。任せて文を心得んとすれば、又仏法の理に違すべし。然而詮は、所落居(の)仏法の理に心得合わせん(は)、参学の本意なるべし。先(の)公案の詞(の)文に見たり。「面前立者、復是何人」の詞も、能々留心めて可思量なり、即不中の義なるべし、何是仏と問する程の詞也。受人界生猶隔生即忘して、過去の事を不知、「況於畜類身、争於過去迦葉仏時、曾住此山」の詞あるべき、是先(の)大いなる不審也。又此の「大修行底人、還落因果也無、某甲答佗云、不落因果」と云う詞を、打ち任せて心得には、大修行の人は因果に落や無と不審したるを、大修行の人は不可落因果と答たり。大修行の人也とも、争無因果物総に不落因果と答たり、撥無因果の心地す。此の答に依りて、五百生堕野狐身と云いたりと云い得ねべし、不可然。大修行の上の因果の落不落更不可有得失、打ち任せて心得る因果なるべくは、大修行人の上には、不相応なるべし。又大修行の人と云わるべからず。所詮今の落因果も不可歎、不落因果(の)詞、又非可悦離得失、以之大修行の上の因果とすべし。大乗因者諸法実相也、大乗果者亦諸法実相なるべし。又五百生堕野狐身と云うも、此の見解の悪しきに依りて、野狐身を受かと聞こゆ、又如此心得ぬべし。仏性の沙汰の時、或いは蚯蚓とも談じ、或いは狗子とも談ぜしに、今の野狐すこしも不可違歟。仏祖と等しき程の野狐なるべし。如此心得れば、又不背仏法理なり、所詮此の草子の本意(で)、文の面(が)心得にくき所を、人あしく心得ぬべき事を、今委被釈なり。又此師の不昧因果の詞、不落因果の詞に聊かも不可違也。其の時の老人(の)大悟、又亡僧の事例(の)事(は)、返々おぼつかなし。寺院大檀那等、猶俗形の時、死後亡僧事例不行之、況於畜類乎。如何さまにも行亡僧事例(の)事(は)、衣鉢を受け叢林に交わりての事也、難一決。次に黄檗(の)師と問答の文に見えたり。黄檗の問いの心は錯対一転語の咎によりて、五百生野狐身に堕(す)。「転々不錯、合作箇什麼」とは、たとえば、あやまらざる物は、なにとならむぞと問うなり。文の面は如此被心得ぬべし、錯の字(は)此の宗門に心得るよう、先々事旧了。将錯就錯なるべし。錯対も不錯も是又非得失、将錯就錯なるべし。此の錯対一転語、堕五百生野狐身もあやまりて悪しく成りたりと不可心得。五百塵点劫の仏也などと云う程に可心得なり。又師の詞に「将為胡鬚赤、更有赤鬚胡」とは、不落因果も落因果も、又不昧因果と云うも乃至錯対一転語と云うも、転々不錯と云うも、只同詞同心也。故に将為胡鬚赤、更有赤鬚胡と云うなり、非別物所を云う也。
  • 右に如云談ぜん時、大修行とは云わるべきなり。打ち任せて人の心得るように談じては、仏祖の大修行にはあらざるべし。又「過去迦葉仏の時も、洪州百丈山あり。現在釈迦牟尼仏の時も、洪州百丈山あり」と云うは、百丈は山の名なり。昔も今も同山にて、迦葉仏釈迦牟尼仏との変わりたる許り也と、心得られぬべき所を、今は過去迦葉仏の時の百丈山と、現在釈迦牟尼仏の百丈山と、一にあらず異にあらず、前三三後三三にあらぬとは被釈也。

 

かくのごとくなりといへども、過去迦葉仏時の百丈山と、現在釈迦牟尼仏時の百丈山と、一にあらず異にあらず、前三々にあらず後三々にあらず。過去の百丈山きたりて而今の百丈山となれるにあらず、いまの百丈山さきだちて迦葉仏時の百丈山にあらざれども、曾住此山の公案あり。

為学人道、それ今百丈の為老人道のごとし。因学人問、それ今老人問のごとし。挙一不得挙二、放過一著、落在第二なり。

詮慧

〇「挙一不得挙二、放過一著、落在第二なり」。因という非一二義同の心地也、「一著落在第二」と云う故に。

経豪

  • 已下如御釈。「過去の百丈山来たりて、而今の百丈山と成れるにあらず、今の百丈山さきだちて、迦葉仏時の百丈山にあらざれども、曾住此山の公案ある也」とは、只所詮彼が是になり、是が彼と同じとは云われねども、曾住此山の詞ある也と被釈也。
  • 御釈に分明也。昔「為学人道も今の百丈の為老人道の如し。因学人問も、今の老人の問の如し」と云う也。古今の道問百丈の老人の為に道するが如し。因学人問も、今老人問に不可違となり。又此の「挙一不得挙二、放過一著、落在第二」と云うは、喩えば非一非異と云う程の心也。一の上に又一を重ぬれば、二と談ず、是れ世間の見解なるべし。今は一の上に二と談ず、此心なるべし。

 

過去学人問、過去百丈山の大修行底人、還落因果也無。この問、まことに卒爾に容易会すべからず。

そのゆゑは、後漢永平のなかに仏法東漸よりのち、梁代普通のなか、祖師西来ののち、はじめて老野狐の道より過去の学人問をきく。これよりさきはいまだあらざるところなり。しかあれば、まれにきくといふべし。

大修行を摸得するに、これ大因果なり。この因果かならず円因満果なるがゆゑに、いまだかつて落不落の論あらず、昧不昧の道あらず。不落因果もしあやまりならば、不昧因果もあやまりなるべし。将錯就錯すといへども、堕野狐身あり、脱野狐身あり。

詮慧

〇「大因果」と云う(は)是れ大乗也。故は大乗因者諸法実相也、大乗果者亦諸法実相也なり。

〇「円因満果」は、教に云うが如く、因にて満の果は得と云うまじ。やがて果を不待なり、因に待たれぬ果を円因満果と云うべし。

経豪

  • 「大修行の人、還落因果也無」と云う詞、あながちに煩あるべきにあらず。様がましく「卒爾に容易会すべからず」などとあるべしとも不覚。但此の因果に「落也否」の詞(は)、不審の詞にあらず。「円因満果」の因果なるべし。故に卒爾なるべからず、容易会すべからずとは云う也。
  • 仏法の道理、三世に隠没あるべきにあらず。然而過去の学人問の詞、老野狐道より始めて出で来たる所を如此被釈なり。
  • 如御釈。「大因果」と云うは、「円因満果」の道理なる因果を指す也。今の大修行の姿を因果とは可談也。然者実(に)落不落に不可滞、昧不昧に非可煩道理顕然なり。「不落因果を、もし錯まりて云うべくは、不昧因果も錯まりなるべし」。不落因果あやまりなるべからず。今のあやまりと云う詞は非嫌、将錯就錯のあやまりなるべし。又「堕野狐身あり」とは堕野狐身と云えば悪しく、「脱野狐身」と云えば畜類を脱して、善く成りたるように聞こゆ。堕脱共に得失浅深なるべきにあらず。野狐の上の堕脱なるべし、会不会・見不見程の理なり。仏性の上に有無を断じ、仏性の時の狗子なるべし。

 

不落因果たとひ迦葉仏時にはあやまりなりとも、釈迦仏時はあやまりにあらざる道理もあり。不昧因果たとひ現成釈迦仏のときは脱野狐身すとも、迦葉仏時しかあらざる道理も現成すべきなり。

経豪

  • 是又御釈分明也。「過去迦葉仏の時、不落因果の詞あやまりなりと云うとも、釈迦仏時はあやまりにあらざる道理あるべし」と也。是れ則ち得失浅深を離れたる故也。「不昧因果の詞に依りて、現在釈迦仏の時は脱野狐身すとも、迦葉仏時しかあらざる道理も現成すべき也」とは、如先云。「不昧因果の詞に依りて、脱野狐身と」云えば、善く成りたるように覚えたれども、「迦葉仏時しかあらざる道理も現成すべし」と云う也。是又堕脱の詞、徳失にあらざる道理顕然なり。

 

老人道の後五百生堕野狐身は、作麼生是堕野狐身。さきより野狐ありて先百丈をまねきおとさしむるにあらず。先百丈もとより野狐なるべからず。先百丈の精魂いでて野狐皮袋に撞入すといふは外道なり。野狐きたりて先百丈を呑却すべからず。もし先百丈さらに野狐となるといはば、まづ脱先百丈身あるべし、のちに堕野狐身すべきなり。以百丈山換野狐身なるべからず。因果のいかでかしかあらん。

経豪

  • 御釈委細なり。是は不落因果の詞に依りて、「後五百生堕野狐身は、何として堕野狐身なるぞ」と云う不審を重々被挙なり、御釈分明也。実にも先百丈さらに野狐となると云わば、先脱先百丈身あるべし。後に堕野狐身すべき道理なり。先百丈と云うは、今の老非人を指す歟。

 

因果の本有にあらず、始起にあらず、因果のいたづらなるありて人をまつことなし。たとひ不落因果の祗対たとひあやまれりとも、かならず野狐身に堕すべからず。

学人の問著を錯対する業因によりて野狐身に堕すること必然ならば、近来ある臨済徳山、およびかの門人等、いく千万枚の野狐にか堕在せん。そのほか二三百年来の杜撰長老等、そこばくの野狐ならん。しかあれども、堕野狐せりときこえず。おほからば見聞にもあまるべきなり。あやまらずもあるらんといふつべしといへども、不落因果よりもはなはだしき胡乱答話のみおほし。仏法の辺におくべからざるもおほきなり。参学眼ありてしるべきなり、未具眼はわきまふべからず。

しかあればしりぬ、あしく祗対するによりて野狐身となり、よく祗対するによりて野狐身とならずといふべからず。この因縁のなかに、脱野狐身ののち、いかなりといはず。さだめて破袋につつめる真珠あるべきなり。

詮慧

〇「脱野狐身ののち、いかなりと云わず、さだめて破袋につつめる真珠あるべきなり」と云う、皮袋は真珠なりと可心得。

経豪

  • 又此の因果、まことに本有始起等にあらざるべし。因果ありて、人を待事あるべからず。実にも不落因果の詞を余まれとも、野狐身に堕する事、尤も不審也。
  • 委御釈に聞こえたり。実(に)「不落因果の詞、たといあ錯まり也とも、必ずしも野狐身に堕すべき」(は)、尤も不審事也。若し「学人の問著を錯対する業因に依りて、野狐身に堕する事必然也」と、思って重々被釈之見于文、尤有謂事也。
  • 不落因果の詞に依りて脱野狐身すと、人の心得て得失浅深を立て、所談を如此被嫌也。今の野狐の姿、不落不昧の詞、更に善悪得失に拘わるべからず。実にも脱野狐身の後、いかにも成りたるとは不見。此の野狐畜生なる徒ら物なるべからざる所を、皮袋に包める真珠あるべき也とは被釈也。

 

しかあるに、すべていまだ仏法を見聞せざるともがらいはく、野狐を脱しをはりぬれば、本覚の性海に帰するなり。迷妄によりてしばらく野狐に堕生すといへども、大悟すれば、野狐身はすでに本性に帰するなり。これは外道の本我にかへるといふ義なり、さらに仏法にあらず。

もし野狐は本性にあらず、野狐に本覚なしといふは仏法にあらず。大悟すれば野狐身ははなれぬ、すてつるといはば、野狐の大悟にあらず、閑野狐あるべし。しかいふべからざるなり。

経豪

  • 打ち任せて人の思(いし)所を委被釈、実にも皆如此談ずる也。
  • 是又御釈に聞こえたり。人の見解の悪しき所を被挙如文。野狐すなわち本性なり、野狐すなわち本覚也。如此不談して如前云い嫌わば閑野狐なるべしと云う。「閑野狐」と云うは、徒らなる野狐あるべしと云う也。仏法の所談には、総ていたづらに嫌棄と云う事あるべからざる道理也。

 

今百丈の一転語によりて、先百丈五百生の野狐たちまちに脱野狐すといふ、この道理あきらむべし。もし傍観の一転語すれば傍観脱野狐身すといはば、従来のあひだ、山河大地いく一転語となく、おほくの一転語しきりなるべし。しかあれども、従来いまだ脱野狐身せず。いまの百丈の一転語に脱野狐身す。これ疑殺古先なり。

山河大地いまだ一転語せずといはば、今百丈つひに開口のところなからん。

詮慧

〇「疑殺古先」と云うは殺すと云えばとて、殺生のようには思うべからず、古きを疑いつめたるこころなり。

経豪

  • 是は「傍観の一転語に依りて、傍観脱野狐身すと云わば、従来の間、山河大地等のいく一転語となく、多く云い来しかども、いまだ脱野狐身せず」。不落不昧の詞許りを一転語とすべからず。山河大地等の詞(には)、更(に)勝劣あるべからず。不落因果の詞に依りて堕野狐身し、不昧因果の詞に依りて脱野狐すと、勝劣浅深を立て云うべきは、疑殺古先也と云うなり。「疑殺古先」とは、古き祖師先達等も疑わしと云う心なり。
  • 如前云、山河大地必ずしも、一転語せずと云うべからず。人を置いて一転語し、此の二転語の善悪に依りて、堕脱すと心得所を被嫌也。山河大地の姿、是則一転語也。此の道理にあらずば、「今百丈ついに開口の所なからん」と云う也。

 

また往々の古徳、おほく不落不昧の道おなじく道是なるといふを競頭道とせり。しかあれども、いまだ不落不昧の語脈に体達せず。かるがゆゑに、堕野狐身の皮肉骨髄を参ぜず、脱野狐身の皮肉骨髄を参ぜず。頭正あらざれば尾正いまだし。

経豪

  • 是は不落不昧の詞、得失にあらず道是也と云う事もあれども、真実に「不落不昧の語脈に体達したる事なし」。故に「堕野狐身の皮肉骨髄をも参ぜず、脱野狐身の皮肉骨髄をもも不辦ず」と云う也。頭正尾正こそ仏法の理なるべきに、詞には道是也と云えども、理を明らめざる故に、「頭正あらざれば尾正いまだし」と被嫌なり。

 

老人道の後五百生堕野狐身、なにかこれ能堕、なにかこれ所堕なる。正当堕野狐身のとき、従来の尽界、いまいかなる形段かある。不落因果の語脈、なにとしてか五百枚なる。

経豪

  • 「老人道の五百生堕野狐」と云わるる堕の詞いかなるべきぞ、「能堕・所堕」実にも辦じがたからん。此の「堕野狐身のとき、従来の尽界実にいかなる形段なるべきぞ、不落因果の語脈、なにとしてか五百枚なるべき」。枚の詞、野狐に付いて出でくるか、就此字、不可有別子細也。

 

いま山後岩下の一条皮、那裏得来なりとかせん。

不落因果の道は堕野狐身なり、不昧因果の聞は脱野狐身なり。堕脱ありといへども、なほこれ野狐の因果なり。

詮慧

〇「堕脱」の詞、此の両字はしばらく受けて聞くべし。脱も落、堕も落に当たる、脱も脱なり、仏の解脱也。しからば又堕の字、脱の字ともに取るべし。仏の解脱という時、残る堕因果等あるべからず。

経豪

  • 是は「後巌下の一条皮、那裏得来也とかせん」とは、唯是什麽物恁麽来程の詞也、非不審詞。巌下の死野狐精が、全皮なる道理を如此云う也。
  • 如文所詮、就今詞返々得失勝劣に拘わるべからざる事を、何度も被挙也。いかにも世人、就此詞は如此見解出でぬべき所を、所々に被誡嫌也。所詮此因果、野狐身の上に可心得也、野狐身の因果とは、勝劣浅深に拘わらざるべき理也。以野狐為因、以野狐為果。

 

しかあるに、古来いはく、不落因果は撥無因果に相似の道なるが故に墜堕すと云う。この道、その宗旨なし、暗き人の云う処なり。

たとい先百丈因みありて不落因果と道取すとも、大修行の瞞佗不得なるあり、撥無因果なるべからず。

経豪

  • 是は世間に人の思い習わしたる所を被嫌也、如文。
  • 如文。先(の)百丈の不昧因果の詞は、「大修行の瞞佗不得なる上は、全非撥無因果也」。

 

またいはく、不昧因果は、因果にくらからずといふは、大修行は超脱の因果なるがゆゑに脱野狐身すといふ。まことにこれ八成の参学眼なり。

しかありといへども、迦葉仏時、曾住此山。釈迦仏時、今住此山。曾身今身、日面月面。遮野狐精、現野狐精するなり。

野狐いかにしてか五百生の生をしらん。もし野狐の知をもちゐて五百生をしるといはば、野狐の知、いまだ一生の事を尽知せず、一生いまだ野狐皮に撞入するにあらず。

野狐はかならず五百生の堕を知取する公案現成するなり。

詮慧

〇凡そ大修行底人還落因果也無の詞、猶能々可学可落と答えせしによりて、五百生野狐身を受ければ畜生也。三悪道の報を受くる程の邪見と聞こゆ。さらば今の答えには落因果と云うべきかと覚ゆるを、不昧因果と答えしぬる時に、落ぞ不落ぞと仏法の道理に非ざる事顕然也。不昧の詞いづれも不足なるまじと聞こゆ、落つる道理あるべくとも不昧ならんよし、不落ならん時も同じかるべし。但落不落はしばらく置く、此の因果いか程と定むべし、大修行と云えば大乗なるべし。大乗には抑も此の因果あるべきか、なかるべきか、大乗因者諸法実相也。大乗果者亦諸法実相也と談ぜん時は、なかるべきにあらず。其の時は又堕の詞、脱の詞いかなるべきぞ、落不落の字も両様に心得る方あるべし。

経豪

  • 又不昧因果は超脱の因果なるが故に、脱野狐すと人(は)思えたり。「是は八九成の参学眼也」とて、暫く許されたるに似たり。然而真実には不被許。
  • 是は先百丈の不落因果、今百丈の不昧因果。堕脱の野狐身は、「迦葉仏与釈迦仏。曾住此山今住此山。曾身今身、日面月面。遮野狐精、現野狐精」。是等同道理証據に被引也。聊かも不可違也。只詞の替えりたる許也と可心得。
  • 如文。畜類の野狐たらば、まことに五百生の生を知る事あらん。「野狐の知未、一生の事を尽知せず、一生いまだ野狐皮に撞入するに非ず」とは、一生未解決の野狐皮に撞入する事あらざる也。かかる野狐まことに、五百生を不可知之条、勿論事也。
  • 是は解脱の野狐を云う也。解脱の野狐、争か又五百生を知らざらん。其時の五百生と云わるるは、又我等が打ち任せたる算数の五百にあらざるべし。

 

一生の生を尽知せず、しることあり、しらざることあり。もし身知ともに生滅せずは、五百生を算数すべからず。算数することあたはずは、五百生の言、それ虚説なるべし。

経豪

  • 文に聞こえたり。尋常の野狐は「一生の生を尽知せず、知る事もあり、不知なる事もあり、身知ともに生滅せずは、五百生を不可算数」とは、此の身知と云うは解脱の上の野狐の身を指す也。生滅共に仏法の上の生滅に非ずは、五百生をば争か算数すべきと云う也。実(に)我等が如思の野狐ならんには、争か五百生を知るばき。「算数せずば、又五百生を知る」と云う詞は、虚設なるべきかと被疑也。

 

もし野狐の知にあらざる知をもちゐてしるといはば、野狐のしるにあらず。たれ人か野狐のためにこれを代知せん。

知不知の通路すべてなくは、堕野狐身といふべからず。堕野狐身せずは脱野狐身あるべからず、堕脱ともになくは先百丈あるべからず、先百丈なくは今百丈あるべからず。みだりにゆるすべからず。かくのごとく参詳すべきなり。この宗旨を挙拈して、梁陳隋唐宋のあひだに、ままにきこゆる謬説、ともに勘破すべきなり。

経豪

  • 如御釈。実に「野狐に非ざる知を用いるは、野狐の知に非ざるべし。誰人ありて代わって知るべきと也、是は解脱の上の知不知の道理なくば、先百丈と云う事も、今百丈も共にあるべからずと也」。所詮今の義、只任本文心得は、不審のみ有りて、解脱の理あらわるべからず。知不知の通路ありて可解脱也。能々閑可了見事也。堕脱の詞も、先百丈も、今百丈も皆、知不知の通路の上に可参学也。
  • 是は解脱の理を以て、梁陳隋唐宋の間に、聞こゆる詞共をも勘破すべしと也。

 

老非人また今百丈に告していはく、乞依亡僧事例。この道しかあるべからず。百丈よりこのかた、そこばくの善知識、この道を疑著せず、おどろかず。その宗趣は、死野狐いかにしてか亡僧ならん。得戒なし、夏臘なし、威儀なし、僧宗なし。かくのごとくなる物類、みだりに亡僧の事例に依行せば、未出家の何人死、ともに亡僧の例に準ずべきならん。死優婆塞、死優婆夷、もし請ずることあらば、死野狐のごとく亡僧の事例に依準すべし。依例をもとむるに、あらず、きかず。仏道にその事例を正伝せず、おこなはんとおもふとも、かなふべからず。いま百丈の依法火葬すといふ、これあきらかならず。おそらくはあやまりなり。しるべし、亡僧の事例は、入涅槃堂の功夫より、到菩提園の辦道におよぶまで、みな事例ありてみだりならず。  岩下の死野狐、たとひ先百丈の自称すとも、いかでか大僧の行李あらん、仏祖の骨髓あらん。たれか先百丈なることを証據する。いたづらに野狐精の変怪をまことなりとして、仏祖の法儀を軽慢すべからず。

仏祖の児孫としては、仏祖の法儀をおもくすべきなり。百丈のごとく、請ずるにまかすることなかれ。一事一法もあひがたきなり。世俗にひかれ、人情にひかれざるべし。この日本国のごとくは、仏儀祖儀あひがたく、きゝがたかりしなり。而今まれにもきくことあり、みることあらば、ふかく髻珠よりもおもく崇重すべきなり。無福のともがら、尊崇の信心あつからず、あはれむべし。それ事の軽重を、かつていまだしらざるによりてなり。

五百歳の智なし、一千年の智なきによりてなり。

しかありといふとも、自己をはげますべし、佗己をすゝむべし。一礼拝なりとも、一端坐なりとも、仏祖より正伝することあらば、ふかくあひがたきにあふ大慶快をなすべし、大福徳を懽喜すべし。このこゝろなからんともがら、千仏の出世にあふとも、一功徳あるべからず、一得益あるべからず。いたづらに付仏法の外道なるべし。くちに仏法をまなぶに相似なりとも、くちに仏法をとくに証実あるべからず。しかあればすなはち、たとひ国王大臣なりとも、たとひ梵天釈天なりとも、未作僧のともがら、きたりて亡僧の事例を請ぜんに、さらに聴許することなかれ。出家受戒し、大僧となりてきたるべしと答すべし。三界の業報を愛惜して、三宝の尊位を願求せざらんともがら、たとひ千枚の死皮袋を拈来して亡僧の事例をけがしやぶるとも、さらにこれ、をかしのはなはだしきなり、功徳となるべからず。もし仏法の功徳を結良縁せんとおもはば、すみやかに仏法によりて出家受戒し、大僧となるべし。

経豪

  • 御釈に分明に見えたり。所詮只亡僧事例を行う事、返々不可然と云う事を、くれぐれ被釈なり、あやまりと可知也。
  • 是又御釈分明也。「死野狐たとい先百丈の自称ありとも、争か大僧の行李あるべしと也」、如文。
  • 実にも顕然也。至って拙なく成りぬる時は、可悦事をも不悦、嘆くべき事をも不嘆。惘然蒙昧たる也、非可不審也。我等剃髪して、如形衣鉢を持し、仏法をも見聞す、可悦は尤可悦事也。然而堅固不思入、又一生如夢流転の苦果、尤可歎事也。是又徒あかし徒くらして、つやつや不歎。顕然の証據、不可求于外事也。
  • 是は五百歳の後、賢人いづなんど云う事あり、其心地也。
  • 御釈委細也。可見後無殊子細、只いくたびも妄りに亡僧事例を行う事を誡めらるるなり。

 

今百丈、至晩上堂、挙前因縁。この挙底の道理、もとも未審なり。作麼生挙ならん。

老人すでに五百生来のをはり、脱従来身といふがごとし。いまいふ五百生、そのかず人間のごとく算取すべきか、野狐道のごとく算取すべきか。仏道のごとく算数するか。

経豪

  • 是は依法火葬後、「師至晩上堂、挙前因縁」とある事をここに被釈也。此の上堂に此の因果を被挙事を、此道理尤未不審也、とはあるなり。
  • 是は前の不審也、作作麽生挙ならんと被疑所を、不落因果の詞に依りて、五百生堕野狐身し、不昧因果の詞に依りて、脱野狐身すと人の心得たる程の事ぞと。前の上堂の詞を疑われ、避けらるるなり。悪しく人の見解のある所を如此被釈なり。

 

いはんや老野狐の眼睛、いかでか百丈を覰見することあらん。野狐に覰見せらるるは野狐精なるべし。百丈に覰見せらるるは仏祖なり。

このゆゑに、枯木禅師法成和尚、頌曰、百丈親曾見野狐、為渠参請太心麁。而今敢問諸参学、吐得狐涎尽也無。

しかあれば、野狐は百丈親曾眼睛なり。吐得狐涎たとひ半分なりとも、出広長舌、代一転語なり。

正当恁麼時、脱野狐身、脱百丈身、脱老非人身、脱尽界身なり。

詮慧

〇「百丈を覰見する野狐あるべからず、覰見せられば又百丈とは難云、野狐精なるべし」。依亡僧事例条も不可然とあり。衆中には死野狐を准亡僧例と見るとも知らず。百丈は祖師亡僧ともや被准らん。詞の始終を見るに弥々許りがたし。亡僧の事例とあれども、ただ巌下に衆を引率して、百丈のゆきたる許り也、亡僧礼不見火葬と云う許り也。下火(あこ)は在家も此儀あり、亡僧の事例を難定。涅槃堂より、菩提園に至るまで、其儀非一、然而事として不被注之尤不審也。

〇枯木禅師段。「百丈親曾見野狐これは野狐に覰見せらるるは仏祖なり。この故に」と云いて、この枯木禅師の頌に引きのせらる、「百丈野狐仏祖の親曾なるを見野狐」と云う、これ眼睛也。

〇「為渠参請太心麁」と云うは、この参学はと云う詞也、然者この参請を麁とは云うべからず。麁はあらじと云う詞なれば、参の具には難用と覚えたれども、堕脱などと云う詞も、有無善悪も会不会も、仏家に用いる様、日来我等が思うには相違する事なり。虚空を取り鼻孔を取るなどと云う時も、太麁なりと云う詞はあり驚くべからず。対妙なる麁とは心得まじ。

〇「而今敢問諸参学」如文。諸参学とは、もろもろの学人の事也。

〇「吐得狐涎尽也無」よだれを吐き得、尽くすやいなやと云う、脱落の心地也。

〇「吐得狐涎たとい半分なりとも、出広長舌、代一転語也」と云う、たとい半分也とも、出広長舌、代一転語ならん上は、残る所あるべからず、吐得に対して半分と云う許り也。但一半の道理もあるべし。

経豪

  • 是は如御釈老野狐の面にては、「争か百丈を覰見すべき、野狐に覰見せらるる程の百丈は野狐精なるべし」、蹔く嫌わるるなり。「百丈に覰見せらるるは仏祖也」とあり、実にも百丈・覰見の野狐仏祖なるべし。
  • 「百丈親曾」の野狐は、打ち任せたる畜類の野狐なるべからず。賓頭盧尊者の親見仏程の事なるべし。「為渠参請太心麁」とは、称美の詞歟、「而今敢問諸参学」とは、いかなるか仏などと云う程の義歟、「吐得狐涎尽なり無し」とは、狐涎とは狐のよたり(よだれ)と云う心歟。打ち任すは狐涎は吐き尽したらんぞ、よかりぬべけれども、今(の)詞は、善悪得失に拘わるべからず。「百丈親曾見、野狐の狐涎」(は)、全く善悪に拘わるべきにあらず。
  • 「野狐は百丈親曾眼睛也」とあれば分明也。錯べき畜類にあらず、只百丈程の野狐なるべし、御釈分明也。「吐得たとい半分也とも」とは、尽きたるは得、吐尽せざるは失なるべきように聞こゆ、今の道理は、吐得も尽也無も全如前云。非徳失浅深義上は、はき尽くすとも、全不可有不足所を、たとい半分也とは云うなり。はきつくすとも・はきつくさずとも、ここの道理は、出広長舌代一転語の理なるべし。
  • 如御釈。所詮此道理と云うは、「脱野狐身、脱百丈身、脱老非人身、脱尽界身」と云わるる。皆是解脱の上の野狐、解脱の上の百丈、解脱の上の老非人、悉是脱尽界身の理なるべき也。

 

黄檗便問、古人錯対一転語、堕五百生野狐身。転々不錯、合作箇什麼。いまこの問、これ仏祖道現成なり。南嶽下の尊宿のなかに黄檗のごとくなるは、さきにもいまだあらず、のちにもなし。しかあれども老人もいまだいはず、錯対学人と。百丈もいまだいはず、錯対せりけると。なにとしてかいま黄檗みだりにいふ、古人錯対一転語と。

詮慧

〇「錯対一転語」と云う、此の詞は百丈も云わず古非人も云わず黄檗是を云い出す。「この問い、これ仏祖道現成なり」とあれば、悪しき詞にてはあるべからず。「南嶽下の尊宿のなかに黄檗の如きなるは、先にもいまだあらず、後にもなし」と褒める。但「古人錯対一転語と、もし錯によれりと云う、ならんと云わば、百丈の大意を得たるにあらず」とあり、しかれば此の錯りは、世間の錯りにはあるべからず。将錯就錯の錯るべし、たとえば如迷中又迷也。

経豪

  • 是は此の黄檗の詞を、先被讃嘆也。已下南嶽を被褒美御釈也。

 

もし錯によれりといふならんといはば、黄檗いまだ百丈の大意をえたるにあらず。仏祖道の錯対不錯対は黄檗いまだ参究せざるがごとし。

経豪

  • 是は本の詞に錯と云う詞なし。今黄檗はじめて、錯の字を被云出。是は百丈与黄檗、師資のあわい、曾人の思いたる錯の心地は不可有。而人皆不落因果の詞にあやまりて、堕野狐身となり、不昧因果の詞によりて、堕野狐身とあれば徳失に聞こゆ、又人皆如此心得る所を遮所々に被釈也。黄檗を実に懸かる見解ありとは云わねども、悪しく人の心得ぬべき所を汲みて、黄檗もし如此心得ばとて承けて被述也。

 

この一段の因縁に、先百丈も錯対といはず、今百丈も錯対といはずと参学すべきなり。

経豪

  • 是は如御釈。先百丈も今百丈も、人の存したるが如く、錯対の詞を不可心得と被釈也。故に「錯対すと云わずと参学すべし」と被決也。仏祖道の上は、錯と云う詞なかるべきにあらず。随所々々に多く錯の字ある也。

 

しかありといへども、野狐皮五百枚、あつさ三寸なるをもて、曾住此山し、為学人道するなり。

野狐皮に脱落の尖毛あるによりて、今百丈一枚の臭皮袋あり。

度量するに、半野狐皮の脱来なり。転々不錯の堕脱あり、転々代語の因果あり、歴然の大修行なり。

詮慧

〇「野狐皮五百枚、あつさ三寸なるを以て、曾住此山し、為学人道するなり」と云う、此の野狐すでに仏道の野狐也、不可准世間者也。野狐皮に脱落し尖毛あるに依りて今百丈一枚の臭皮袋あり。「度量するに半野狐皮の脱来なり。転々不錯の堕脱あり」と云う野狐の丈、如此。

〇「正法眼蔵第二十八」『礼拝得髄』云、「それ(の)導師は男女等の相にあらず、大丈夫なるべし、恁麽人なるべし。古今人にあらず、野狐精にして善知識ならん。これ得髄の面目なり、導師(利)なるべし。不昧因果なり、你我渠なるべし」とあれば、この野狐はさとりなるべき歟。

〇「転々代語の因果あり、歴然の大修行なり」と云う、今の公案、大修行と取り伏すべし。

経豪

  • 此の「野狐皮五百枚、あつさ三寸」などと云うに付いて、殊なる子細なし。只脱落の上の五百枚、三寸なるべし。五百塵点劫とも、三千大千世界とも云う程の三寸なるべし、広狭多少に拘わるべきにあらず。此の道理が曾住此山とも云われ、為学人とも被談也。所詮脱落の上の曾住為学なるべし。
  • 「野狐皮に脱落の尖毛」とは、此の野狐親曾・百丈野狐精の野狐を指すなり。「今百丈一枚の臭皮袋あり」と云うも、只野狐皮の尖毛と云う程の詞、又理なるべし。
  • 老人与百丈が、「半野狐皮」とは云わるる也。百丈なるべきか、半野狐なるべきか、ここのあわいを半とは名づくる也。「野狐も転々不錯も堕脱も代語も因果も」、所詮大修行の上の詞共なりと可心得也。大修行の上と云うは、今の正法眼蔵の道理なるべし。

 

いま黄檗きたりて、転々不錯、合作箇什麼と問著せんに、いふべし、也堕作野狐身と。黄檗もしなにとしてか恁麼なるといはば、さらにいふべし、這野狐精。かくのごとくなりとも、錯不錯にあらず。黄檗の問を、問得是なりとゆるすことなかれ。

詮慧

〇「転々不錯、合作箇什麼と問著せんに云うべし、也堕作野狐身と、黄檗もし何としてか恁麼なると云わば、さらに云うべし。這野狐精如此也とも錯不錯にあらず」と云う、此の転々

不錯合作箇什麼の詞は無別事。野狐の五百生をやがて解脱と取る故に、近前来して与一掌也。

転々不錯の所に将為胡鬚赤を付け、何にか為らんの所に更有赤鬚胡を付くべし。凡そは錯まらずば、何にか為るべきと云わば、仏祖にこそなるべけれども、何れとも云うべきを其の義はなく、やがて堕作野狐身ぞ這野狐精ぞなんどと云う時に、錯まるに依りて野狐に堕在し錯まらずば、仏祖に為るべしなんど、能所を置く義なき事あきらけし。

経豪

  • 是は前に云う、黄檗の「転々不錯、合作箇什麼」と云う詞に付けて云うべくは、「也堕作野狐身」と云う詞もあるべし。是に付けて「黄檗なにとしてか、恁麼なると云わば、這野狐精と云うべし」、かかる道理ともにあるべしと、開山日付御詞也。黄檗の「合作箇什麼」の詞の理に付いて、無尽の道理のある所を、重々被述也。如此也とも狐不狐に関わるべきにあらずと云う也。又「黄檗の問を、問得是也とゆるす事なかれ」と云えば、嫌いなるように聞こゆ。但是は此の錯不錯の詞が打ち任せて思い習わしたる。「錯不錯なるべく」は、黄檗の問也とも許すべからずと、人の如此思わぬべき所を汲んで被釈也。黄檗の詞、何としてかは打ち任せて人の心得たる、錯不錯の詞に心得ては云わるべき勿論、不及示給事也。

 

また黄檗、合作箇什麼と問著せんとき、摸索得面皮也未といふべし。また你脱野狐身也未といふべし。また你答佗学人、不落因果也未といふべし。

しかあれども、百丈道の近前来、与你道、すでに合作箇這箇の道処あり。黄檗近前す、亡前失後なり。

与百丈一掌する、そこばくの野狐変なり。

詮慧

〇「黄檗近前は、亡前失後なり」と云う、これ世間に思うが如くの前後亡失とは不可心得。前に対したる後、後に対したる前に非ず。

〇「与百丈一掌する、そこばくの野狐変なり」と云う、野狐の問答に付きて、そこばくの道あることを今変と仕う。

経豪

  • 是は所詮、「黄檗の合作箇什麼」の詞に付いて、あまたの理の云われぬべき詞共を被引出也。「摸索得面皮也未」の詞も何事ぞと聞いたれども、野狐に付いて面皮の詞も出でくるか、「摸索」の詞も枕子を模索せし程の道理なるべし。さぐり得たるは得、さぐり得ぬは失と思うべからず、面皮の上の模索なるべし。「未」の詞も即不中の義なるべし。模索得の理もあるべし、模索也未の道理もあるべし。所詮彼も是も非得失浅深軽重べし、大修行の上の理なり。又「你答佗学人、不落因果也未」と云う詞も、前には学人不落因果と云いし詞に依りて堕野狐身なり。其を「不落因果也未」と云うは、落不落を超越したる詞なり。「未」の詞如前云、不審の詞にあらざるべし。
  • 是は「百丈道の近前来の詞は、合作箇這箇の道処あり」とは、近前来と、百丈の被仰せたるは、合作箇這箇の道処ありと云うなり。又「黄檗の近前は亡前失後なるべし」とは、此の近前の姿は、前をも亡じ、後をも失したる姿なるべし。其と云うは前後際断したる道理なるべし。近前の姿、合作箇什麼の理ありとなり。
  • 是は百丈の一掌の姿を野狐変と指すなり。尽野狐の道理の上の一掌なるべし、此理無尽なるべければ、「そこばくの野狐変也」とは云う也。

 

百丈、拍手笑云、将為胡鬚赤、更有赤鬚胡。

この道取、いまだ十成の志気にあらず、わづかに八九成なり。たとひ八九成をゆるすとも、いまだ八九成あらず。十成をゆるすとも、八九成なきものなり。

詮慧

〇「百丈、拍手笑云、将為胡鬚赤、更有赤鬚胡。この道取いまだ十成の志気にあらず、わづかに八九成なり。たとい八九成をゆるすとも、いまだ八九成あらず。十成をゆるすとも、八九成なきものなり」と云う、黄檗の問いに錯まりざらん。何にか為るべきと云う詞に別答もなし。近前来とて進立時は一掌一拍手笑也、これ何と云う事はなくして将為胡鬚赤の詞いでく、これ又別子細なし。この鬚の赤きも、赤き鬚の事なるも同じかるべし。「十成ぞ八九成ぞ、許すぞ許さずぞ」と云う義、所詮いづれ、まさり(勝り・優り)を取ると云う事なき詞なり。

経豪

  • 是は重々右に所挙の道理(の)詞、さまざまに多くに似たれども、只一(の)道理なる所を「将為胡鬚赤、更有赤鬚胡」とは云う也。只一物拘わらぬ道理を如此云也。但猶二物を置いて、是が只一理なる故に、此の将為の詞ありと心得るは、同事なれども猶いかにも凡見も指し出だすべし。只一物の上の道理にも、将為胡鬚赤、更有赤鬚胡の理はあるべき也。此義甚深也、独立の姿なるべし。
  • 如御釈。「十成に非ず、八九成也」と云えば、猶不満足、不足なる心地す。祖門に仕う所の十成八九成の道理(の)事旧(ふる)びぬ、所詮十成与八九成総て勝劣多少に関わりたる詞にあらず、故に如此云也。十成の時は八九成あるべからず、八九成の時は十成ゆるすべからず。さればこそ、十成与八九成(は)勝劣なき義も現わるべし。

 

しかあれどもいふべし、百丈道処通方、雖然未出野狐窟。黄檗脚跟点地、雖然猶滞螗螂径。与掌拍手、一有二無。赤鬚胡、胡鬚赤。

詮慧

〇「未出野狐窟、滞螗螂径」などと云う、これは百丈道通方をば未出野狐窟と云う。この畜生の窟を出でねば、悪ろき方に聞こゆれども、無其義。これ野狐(の)仏祖眼なるべし。「螗螂の径に滞る」と云うも、又先の未出野狐窟の丈なるべし。百丈通方と黄檗の脚跟点地と同じ程の事也、未出野狐窟と滞螗螂径と同じ丈なり。云い終りて「与掌拍手、一は有二は無、赤鬚胡、胡鬚赤」と云うにて可心得、無差別なり。野狐窟をいでずと云う、螗螂の径にとどこおると云う(は)只同じ詞なる、野狐が仏性、又螗螂が仏祖なる時に、出でずと云い滞ると云うが尤も道理に叶うなり。仏祖の道を捨てて、いづくへか出でん、仏祖の道に尤も滞るべき物也。百丈・黄檗(は)野狐の窟を出でず、螗螂の道に滞るべし、世間の詞に習うべからず。

経豪

  • 「通方」とは、脱落の詞と云う也。滞る所もなき義也。「未出野狐窟」とは、此の野狐窟とは、不出仏祖道なんど云わん程の道理なるべし、全く嫌いたる詞に非ず。「黄檗脚跟点地」と云うも、百丈道処通方と云う程の詞なり。此の脚跟(は)不可有辺際、此の螗螂径(も)又野狐窟程の義也。対野狐云(は)螗螂歟、是皆解脱の上の詞、解脱の上の道理なるべし。又「与掌拍手」と云うも無殊事。此の与掌拍手の理「一は有二は無」とは、拍手も一も二も有も無も、只「赤鬚胡胡鬚赤」の道理也と云うなり。実にも一掌拍手、一二有無共多少・広狭・浅深・軽重等の義あるべからず。尤も赤鬚胡胡鬚赤の道理なるべし。

大修行(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。