正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

親鸞像の形成 末木 文美士

親鸞像の形成 ︱︱ 親鸞の見た親鸞︑惠信尼の見た親鸞 ︱︱

末木 文美士

                 はじめに

日本佛敎の特徴といえば︑敎理な問題以に︑僧侶の肉食妻帶という現象がすぐに指摘される︒妻帶僧はチベット系佛敎の一部や︑民地時代に日本から導入された韓國佛敎の一部にも見られるが︑これほど廣範に公されているのは︑確かに日本佛敎の大きな特徴と言っていいであろう︒それは、一方ではアジアの他の佛敎國の人たちから奇異な現象と見られ︑本來の佛敎のあり方を逸脫したものとして蔑まれることもあり︑他方ではそれ故に日本の佛敎は世俗社會の中に定着して根を張ることができたという肯定的な價価を得ることもある︒

 

もっとも日本佛敎における戒律弛緩は早くから見られるとしても︑肉食妻帶が制度的 に公されたのは一八七二年 (明治五)のことであり︑決して古いことではない︒それまでは︑淨土眞宗のみが︑開祖親鸞の事例に從うということで肉食妻帶を公認されていたが︑他の宗派では認められなかった︒近代における全宗派の肉食妻帶の公認は︑ある意味で佛敎界 全體の眞宗化とも言うことができる︒眞宗は︑世俗社會における個人の﹁信﹂に立脚した新しい敎學の構築により︑西歐のプロテスタントをモデルにした近代的な宗敎形態を確立し︑近代の佛敎界をリードするようになる︒それに伴い︑親鸞は一躍日本佛敎の代表者としての地位に躍り出る︒近世においては︑確かに眞宗は多數の信者を擁した大敎團であったが︑佛敎界の中では特殊視され︑必ずしも佛敎界をリードする位置にはなかったし︑親鸞が日本佛敎の代表者と見られることもなかった︒このように︑親鸞像は近代になって大きく變貌し︑それに伴い︑硏究面でも︑親鸞硏究は他の日本の佛敎者を壓倒して先端を進むことになった︒

 

今日︑近代の行き詰まりの中で︑近代的な親鸞像を洗い直し︑再檢討していくことが急務となっている︒それには︑近代の偏見を捨ててもう一度中世に立ち戾り︑親鸞像がどのように形成されてきたかを檢證していく作業が不可缺である︒本稿では︑その手掛かりとして︑親鸞自身とその妻惠信尼が︑どのように親鸞像を描いていたかを檢討する︒その中から︑近代的合理性の中に解消されない︑日本の中世という場の中での一人の佛敎者の姿が明らかになっていくであろう︒

一︑親鸞傳と親鸞

親鸞の傳記硏究は︑大正期になって﹃惠信尼文書﹄の發見により︑大きく進展することになった︒いわゆる實證的な歷史硏究により︑傳說が入り混じった從來の傳記に對して︑確實な史料に基づいて︑﹁人閒親鸞﹂の生涯を明らかにすることが目指された︒それは赤松俊秀﹃親鸞﹄(一九六一)によって一つの達成を見︑その後も硏究が進められている︒しかしそれに對して︑近年深刻な反省がなされるようになってきた︒結局のところ︑確實な史料は限られており︑そこから描かれる親鸞像には限界があるということである︒史料の足りないところは推測で補うことになるが︑それを近代的な合理性に基づいて行なうと︑あまりに近代的な親鸞像になり︑中世という時代とかけ離れたものになってしまう︒とりわけ︑かつて主流であった鎌倉新佛敎中心論的な親鸞像にその傾向が著しい︒

 

黑田俊雄や網野善彥による中世硏究は︑中世が近代とは全く異なる獨自の世界を持っていたことを示している︒近年︑密敎や神佛習合の硏究は大きく進展し︑中世の豐かな精神世界が少しずつ明らかにされつつある︒しかし︑親鸞に關してはそのような觀點からの新しい硏究が必ずしも十分に進んでいない︒それは︑近代的な親鸞硏究があまりに成果が大きく︑そこからの切り替えがうまくいかないということである︒親鸞は︑純粹な阿彌陀佛のみの信仰を貫き︑神佛習合を否定し︑權力からの彈壓に屈せず︑關東の民衆とともに步み︑惠信尼とのうるわしい一夫一妻を一生涯通した︱︱というあたりが︑今日常識している親鸞像であろう︒

 

このような親鸞像は︑近代的な宗敎者像としての理想に合致するものである︒だが︑本當にそう言えるのであろうか︒親鸞が阿彌陀佛信仰に篤いことは言うまでもないが︑聖德太子や善光寺如來︑また觀音・勢至などの菩薩も重んじていた︒古い傳記にも神佛習合的 な要素は入っており︑それほど純粹に神祇否定とは言えない︒やはり古い傳記では︑天臺座主慈圓の弟子と傳え︑九條家との關係もあったと傳えており︑權力を否定して民衆の立場に立ったという近代的な民衆史觀で切るのは一面 ではないか︒惠信尼のほかに︑古い傳承では九條兼實の女玉日との結婚も傳えている︒こうした要素を︑單なる傳承として切り捨てることができるであろうか︒

 

思想面に關しては︑從來の﹃歎異抄﹄中心の親鸞像が批判され︑その著作をもう一度讀み直そうという傾向が少しずつ定着しつつある︒それに對して︑傳記硏究は遲れているが近年︑從來用いられてきた本願寺系の﹃御傳鈔﹄に對して︑傳說的で實證性に薄いとされてきた高田系の﹃親鸞聖人正傳﹄や﹃親鸞聖人正明傳﹄を見直そうという動向が現われた︒それとともに︑玉日の墓の發掘などを通して︑その結婚を再檢討しようという動きもある︒しかし︑﹃御傳鈔﹄﹃正明傳﹄﹃正統傳﹄など︑そもそも傳記に關するしっかりした文獻的な硏究が遲れていて︑それぞれをどのように用いたらよいのか明らかでない︒そもそも宗敎者の傳記は︑biographyでなく︑hagiographyと言われるように︑客觀的な事實を記したものではない︒それ故︑それらの傳記の性格を明らかにすることがまず必要である︒それとともに︑單純に客觀的な事實というよりも︑それらの傳記がどのような親鸞像を描こうとしているのかを檢討する必要がある︒事實そのものよりも︑まずある程度傳承をも含めた中世的な親鸞像の捉え方というところから見ていかなければならない︒(以上に關しては︑末木﹃淨土思想論﹄(二〇一三)︑第六章に槪略を述べた︒)

 

こうした點から︑鹽谷菊美﹃語られた親鸞﹄(二〇一一)は新しい方向を示す注目される硏究である︒鹽谷は︑親鸞の傳記を時代順に分け︑それぞれの時代の傳記の特徴を明らかにしていく︒例えば︑鎌倉時代後期から南北朝時代の﹃親鸞;聖人御因緣﹄や﹃御傳鈔﹄﹃(傳繪﹄)は﹁物語型の敎義書﹂という性格を持っているという︒その後︑﹁正しい解釋﹂の追求﹂(南北朝から室町初期)︑﹁物語不在の時代﹂(室町中期)︑﹁眞宗流メディアミックス﹂(室町後期から江戶初期)︑﹁﹁東國の親鸞﹂の發見﹂(江戶中期)︑﹁讀本から代代史學へ﹂(江戶後期から明治)という展開を示しているという︒同書は一般向けの本という性格上︑細かい論證を缺いており︑これらの傳記の展開にはなお檢討を要するところも大きいが︑﹁事實﹂よりは︑﹁いかに語られたか﹂という語り方︑描き方に重點を置いて傳記の讀み直しを圖った點で︑今後の硏究の方向を示すものということができる︒

 

ところで︑親鸞自身や惠信尼が描く親鸞像は︑そのまま事實として受け取ってよいのであろうか︒老齡になってからの記錄が︑確實に事實を記していると言えるであろうか︒あるいはもし事實としても︑そこには選擇が働いていて︑記憶し︑記錄したいことだけが記されているはずである︒そうであれば︑何故その事實だけが記錄されたのか︑探ることが必要となる︒このような觀點から︑初期の傳記の親鸞像の形成に先立ち︑まず親鸞自身や惠信尼の親鸞像から考え直さなければならないであろう︒

 

二︑親鸞自身の親鸞

1︑﹃敎行信證﹄における自己理解

親鸞自身は自分のことをどのように語っているであろうか︒まず注目されるのは︑﹃敎行信證﹄化身土卷の三願轉入の箇所であろう︒

ここを以て愚禿釋の鸞︑論主の解義を仰ぎ︑宗師の勸化に依りて︑久しく萬行諸善の假門を出でて︑永く雙樹林下の往生を離る︒善本德本の眞門に回入して︑ひとへに難思往生の心を發しき︒しかるに︑今まことに方便の眞門を出でて︑選擇の願海に轉入せり︒すみやかに難思議往生の心を離れて︑難思議往生を遂げんと欲す︒果遂の誓︑まことに由あるかな︒ここに久しく願海に入りて︑深く佛恩を知れり︒至德を報謝のために︑眞宗の簡要をひろふて︑恒常に不可思議の德海を稱念す︒いよいよこれを喜愛し︑ことにこれを頂戴するなり︒(日本思想大系﹃親鸞﹄︑二一四頁)

これは親鸞の信仰的な體驗吿白とも言うべき箇所として有名である︒萬行諸善の假門 (自力諸行=十九願)→方便の眞門 (自力念佛=二十願)→「選擇の願海﹂(他力の念佛=十八願)という展開で︑他力の信を得たという過程を振り返っている︒しかし︑これは內面 なことであり︑これだけではいつという時點を定め難い︒

そこで︑それとも關連しながら︑より事實なことを述べているのは︑化身土卷の後のところで﹁後序﹂と呼ばれる箇所である︒假に段落を分けて引用する︒

A1 竊かにおもんみれば、聖道の諸敎は行證ひさしく廢れ︑淨土の眞宗は證道いま盛りなり︒しかるに諸寺の釋門︑敎に昏くして眞假の門戶を知らず︑洛都の儒林︑行に迷ふて邪正の道路をわきまふることなし︒ここを以て︑興福寺の學徒︑太上天皇︹後鳥羽の院と號す︺︿諱尊成﹀︑今上︹土御門の院と號す︺︿諱爲仁﹀聖曆︑承元丁卯の歲︑仲春上旬の候に奏達す︒主上臣下︑法に背き義に違し︑忿をなし怨を結ぶ︒これに因りて︑眞宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒數輩︑罪科を考へず︑みだりがわしく死罪に坐す︒あるいは僧儀を改めて姓名を賜ふて遠流に處す︒豫はその一なり︒しかればすでに僧にあらず俗にあらず︒この故に禿の字を以て姓とす︒空師 (源空)ならびに弟子等︑諸方の邊州に坐して五年の居諸を經たりき︒

A2 皇帝︹佐土の院︺︿諱守成﹀聖代︑円曆辛未の歲︑子月の中旬第七日に︑敕免を蒙りて入洛して已後︑空︑洛陽の東山の西の麓︑鳥部野の北の邊︑大谷に居たまひき︒同じき二年壬申寅月の下旬第五日午のときに入滅したまふ︒奇瑞稱計すべからず︒別傳に見えたり︒

B1 しかるに愚禿釋の鸞︑円仁辛酉の曆︑雜行を棄てて本願に歸す︒元久乙丑の歲︑恩恕を蒙りて選擇を書しき︒同じき年の初夏中旬第四日に︑﹁選擇本願念佛集﹂の內題の字︑ならびに﹁南無阿彌陀佛︑往生之業︑念佛爲本﹂と﹁釋綽空﹂の字と︑空の眞筆を以て︑これを書かしめたまひき︒同じき日︑空の眞影申し預りて︑圖畫したてまつる︒同じき二年閏七月下旬第九日︑眞影の銘に︑眞筆を以て﹁南無阿彌陀佛﹂と﹁若我成佛十方衆生︑稱我名號下至十聲︑若不生者不取正覺︑彼佛今現在成佛︑當知本誓重願不虛︑衆生稱念必得往生﹂の眞とを書かしめたまふ︒また夢の吿げに依りて︑綽空の字を改めて︑同じき日御筆をもって名の字を書かしめたまひ畢んぬ︒本師聖人︑今年は七旬三の御歲なり︒

B2 『選擇本願念佛集﹄は︑禪定博陸︿月輪殿兼實︑法名圓照﹀の敎命に依りて選集せしめるところなり︒眞宗の簡要︑念佛の奧義︑これに攝在せり︒見るもの諭りやすし︒誠にこれ希有最勝の華文︑無上甚深の寶典なり︒年を涉り日を涉りて︑その敎誨を蒙るの人︑千萬なりといへども︑親といひ疎といひ︑この見寫を獲るの徒︑はなはだ以て難し︒しかるにすでに製作を書寫し︑眞影を圖畫せり︒これ專念正業の德なり︑これ決定往生の徴︹徴                 の字︑千の反︑あらはす︺なり︒よりて悲喜の淚を抑へて由來の緣を註す︒

C 慶ばしいかな︑心を弘誓の佛地に樹て︑念を難思の法海に流す︒深く如來の矜哀を知りて︑まことに師敎の恩厚を仰ぐ︒慶喜いよいよ至り︑至孝いよいよ重し︒これに因りて︑眞宗の詮を鈔し︑淨土の要を摭ふ︒ただ佛恩の深きことを念うて︑人倫のりを恥ぢず︒もしこの書を見聞せん者︑信順を因とし︑疑謗を緣として︑信樂を願力に頴はし︑妙果を安養に顯はさんと︒(同︑二五七−九頁)

Aは承元の法難に關することで︑A1は法難そのもののこと︑A2は敕免によって法然が都に歸って往生を遂げたことを記す︒Bは親鸞法然への歸依と︑﹃選擇集﹄書寫のことを記す︒B1はその經緯であり︑B2はそれに對する注釈的な補足である︒後にCにおいて︑﹃敎行信證﹄執筆の目的を記す︒

ここには︑承元・建曆・建仁などの年號の入った記事が竝び︑親鸞自身による傳記事實の記載としてこれまでも重視されてきたところである︒しかし︑法難に關する記述が先にあり︑その後︑時期を遡って法然への入門と﹃選擇集﹄書寫が出るという構成が何を意味するのか︑そのあたりがいまだ十分に明確にはされておらず︑檢討が必要である︒

 

2︑﹃敎行信證﹄後序の檢討

この點に關して詳細な檢討を行ったのは︑古田武彥であった (古田武彥﹃親鸞思想﹄(一九七五)︑第三章第一節)︒古田は︑この部分が四つの書をつなぎ合わせたものだと考えた︒卽ち︑A1は︑越後流罪中︑承元四 (一二一〇)~五年 (一二一一)頃著わされたもので︑公に訴えた﹁申狀﹂としての性格を持つもので︑古田はこれを﹁承元の奏狀﹂と呼んでいる︒それに對して︑A2は﹁法然追悼の贊﹂としての性質を持つもので︑承元三年 (一二二一)から﹃敎行信證﹄執筆の元仁元年 (一二二四)の閒の成立とする︒B1のうち︑﹁愚禿釋の鸞︑円仁辛酉の曆︑雜行を棄てて本願に歸す﹂の箇所は︑吉水入室の記錄であり︑その續きから︑B2の﹁これ決定往生の徴なり﹂までを︑元久二年 (一二〇五)の元久文書であるとする︒以上のように︑この部分は︑親鸞自身がかつて執筆した四つの書をつなぎ合わせたものだというのである︒古田の議論はやや無理が大きく︑そのままは從えないが︑A1の部分に關しては︑土御門を﹁今上﹂としていることから︑實際に奏上したかどうかはともかく︑土御門在位中に執筆した書がもとになっているということはありうることで

ある︒それ以後も︑月日まで正確に記入しているので︑その時の記錄か日記がもとになっていることは閒違いない︒

古田は︑AとBが年代順としては順序が逆轉しているところに︑﹃敎行信證﹄執筆の圖を讀む︒卽ち︑まずA1で︑後鳥羽院らが﹁逆謗闡提﹂であることを明らかにし︑その﹁逆謗闡提﹂の救濟にこそ︑﹃敎行信證﹄の目指すところであり︑それを亡き法然に報吿するのが︑本書の意圖であったとする︒古田によれば︑﹁﹁念佛迫害者へのあわれみ﹂こそ︑法然生前の志であった﹂(同︑二二四頁)のであり︑親鸞は︑﹁法然の十三回忌たる元仁元年︑師の遺志・遺吿を反芻しつつ︑法然への﹁報答﹂の書︑原敎行信證を執筆していた︒そこには︑師の望んだごとく︑原始專修念佛運動が﹁逆謗闡提者﹂のいかなる迫害・彈壓にも耐えて生きのびつづけていること︑その﹁逆謗闡提者﹂も︑必ず﹁回心﹂によって救濟されるであろう︑という歸結が確固としてしるされ︑師に﹁報答﹂されていたのである﹂(同︑二二五−二二六頁)と解する︒この古田の說も︑必ずしも全面的には從えないまでも︑それまで無視されていた大きな問題を提起しており︑注目される︒

そこで︑古田說を念頭に置きながら︑この﹁後序﹂の部分をもう一度見直してみよう︒まず考えるべきは︑はたして﹁後序﹂がその前の部分と無關係に︑﹃敎行信證﹄全體の﹁あとがき﹂的なものとして書かれたのか︑ということである︒ 化身土卷の構成を見ると︑前半は第十九願︑二十願による自力諸行︑自力念佛の機が化土に生まれることを述べ︑三願轉入で結ばれている︒その後︑﹁信に知んぬ︑聖道の諸敎は在世・正法のためにして︑全く像末・法滅の時機にあらず︒すでに時を失し機に乖けるなり︒淨土眞宗は在世・正法︑像末・法滅︑濁惡の群萌ひとしく悲引したまふをや﹂(日本思想大系﹃親鸞﹄︑二一四−五頁)として︑聖道・淨土の分別を說く︒法然の﹃選擇集﹄が聖道・淨土分別を出發として︑全體として敎判論として成されているのに對して︑﹃敎行信證﹄は︑敎卷がいきなり﹁謹んで淨土眞宗を案ずるに︑二種の廽向あり﹂(同︑一五頁)と始まっており︑﹁淨土眞宗﹂を提としている︒聖道門の問題は︑化

化身土卷のここに至ってはじめて出てくるのである︒

續いて︑﹁ここを以て經家に據りて師釋を披きたるに︑說人の差別を辨ぜば︑おほよそ諸經の起說五種に過ぎず︒一つには佛說︑二つには聖弟子說︑三つには天仙說︑四つには鬼神說︑五つには變化說なり︒しかれば四種の所說は信用するにたらず︒この三經はすなはち大聖(釋尊)の自說なり﹂(同︑二一五頁)と私釋が續く︒ここでは︑佛說のみが信ずるに足り︑それ以外は信用してはいけないということであり︑聖道・淨土の問題とずれている︒なぜならば︑聖道門も佛說であるから︑佛說と佛說以外を分けるのではなく︑佛說の中を分別する敎判論が必要だからである︒

實際親鸞はその後︑正像末の時機の問題から︑聖道門が末法の時機にふさわしくないことを論ずるが︑分量的には必ずしも多くない︒しかも﹃末法灯明記﹄を引くなど︑末法の樣相を示すほうに重點が置かれ︑聖道門の問題には必ずしも深く入っていかない︒親鸞にとって︑聖道門はそれほど大きな問題ではなかったということであろう︒

坂東本などで化身土卷を上下に分ける時︑ここまでで上卷が終わり︑下卷はまるまる外敎の問題に宛てられる︒それは︑﹁それもろもろの修多羅に據りて︑眞僞を勘決して︑外敎邪僞の衣執を敎誡せば﹂で始まり︑ここでは徹底して﹁外敎邪僞﹂の排擊を行なう︒他と異なり︑この部分は淨土論師のをほとんど引かず︑﹃大集經﹄をはじめとする經典を引き︑さらに﹃辨正論﹄を長く引くなど︑外典をも引用している︒そこで言われているのは︑﹁外敎邪僞﹂に依るべからざることである︒特にその後のほうは︑﹃摩訶止觀﹄︑源信︑﹃論語﹄を引いて︑﹁魔﹂や﹁鬼神﹂について︑その說が菩提を妨げるものであり︑近づいてはならないことを說いている︒

このような液れで﹁後序﹂の﹁竊かにおもんみれば﹂に入っているのである︒そこでまず︑﹁聖道の諸敎は行證ひさしく廢れ︑淨土の眞宗は證道いま盛りなり﹂というのは︑末法である以上︑當然ということである︒ところが︑﹁諸寺の釋門︑敎に昏くして眞假の門戶を知らず︑洛都の儒林︑行に迷ふて邪正の道路をわきまふることなし﹂と︑いまだに聖道諸門を說き︑儒敎を說いているのは︑まったく時機を辨えない行爲ということになる︒この前提に立って︑承元の彈壓へと進んでいくのであるから︑ここでの﹁主上臣下﹂の行爲は︑まさしく﹁魔﹂や﹁鬼神﹂の行爲ということになる︒

重要なことは︑化身土卷の前半の第十九︑二十願の機に對しては︑化土という形での救濟が示されるが︑聖道門や︑さらには﹁外敎邪僞﹂に對しては全く救濟の道が示されていないということである︒とりわけ﹁魔﹂や﹁鬼神﹂の說は︑ひたすら否定し︑拒否すべきものであり︑その救濟ははじめから問題となっていないのである︒もっとも︑化身土卷の後の最後に至ると︑救濟の方向性が示されるが︑それについては後ほど觸れる︒

ともあれ︑以上のようなつながりから見れば︑﹁後序﹂は決して︑﹃敎行信證﹄の跋文ではなく︑そこまで﹁魔﹂や﹁鬼神﹂の邪說を說いてきたことに對する私釋と見るべきではないかと考えられる︒その箇所の激烈な非難の言葉を見れば︑むしろこの私釋に行き着くために︑そのに﹁魔﹂や﹁鬼神﹂について說いてきたとも言えるくらいである︒それ故︑古田の說とは異なり︑﹁主上臣下﹂の救濟は問題になっていないと言わなければならない︒

ところで︑A1の後のほうで﹁しかればすでに僧にあらず俗にあらず︒この故に禿の字を以て姓とす﹂というところは︑それまでの一方的な論難とやや異なって︑親鸞自身の側の主体的な對應を述べている︒﹁僧儀を改めて姓名を賜ふて遠流に處す﹂のであり︑親鸞も還俗させられて藤井善信(よしざね)という姓名を與えられたことである︒それ故︑﹁非僧﹂ではあるが︑﹁非俗﹂ではないはずである︒ところが︑親鸞はその流罪を逆手にとって︑﹁非僧﹂であるとともに﹁非俗﹂を宣言し︑與えられた﹁藤井﹂ではなく︑自ら﹁(愚)禿﹂を姓とする︒そしてそれを生涯通すことになる︒これはもはや受身の法難でなく︑それをきっかけに自らの立場を確立したことの宣言である︒

そう見るならば︑法難の別の側面が見えてくる︒それは一面では絕對に許すことのできない魔や鬼神の行爲でありながら︑他面ではそれをきっかけに自らの立場を確立できたとも言えるのである︒その兩義性がここに表されている︒法難が親鸞の立場の確立になることは︑﹃歎異抄﹄後序に流罪記事があり︑﹃血脈文集﹄にも流罪と﹁愚禿﹂の由來を記した文章が收められていることからも知られる︒それは︑親鸞一人でなく︑親鸞門流にとっても一門としてのアイデンティティをなす出來事であった︒

次のA2の部分は︑A1からの流れとして自然であろう︒ところが︑そこからBに移ると︑古田の指摘の通り︑時閒 には逆行することになる︒しかし︑A2の法然の入滅ということから、遡って法然の生前のことに戾るというのは︑流れとしては不自然とは言えない︒こうして︑Aにおける法難から非僧非俗の確立ということが︑﹁後序﹂の第一のポイントとすれば︑Bにおいては︑親鸞法然の眞影に銘を頂き︑﹃選擇集﹄の書寫を許されたことをもって︑自らを法然の正統を繼ぐものとして表している︒卽ち︑密敎や禪で言えば︑まさしく師の印可を蒙り︑その法を正しく受け繼いでいるということである︒﹁しかるにすでに製作を書寫し︑眞影を圖畫せり︒これ專念正業の德なり︑これ決定往生の徴なり﹂というのは︑その意味であり︑單に己心中に信心を得たというだけでなく︑法然によってその正しさが承認されたということである︒それ故︑﹁その敎誨を蒙るの人︑千萬なりといへども︑親といひ疎といひ︑この見寫を獲るの徒︑はなはだ以て難し﹂と言われるように︑自らが多數の法然門弟の一人というのではなく︑法然によって特に選ばれ︑正しさを認められた少數者であるということを主張しているのである︒翻って︑A1の流罪記錄を見ると︑そこにも﹁予はその一なり﹂

と言われ︑法然と同じく液罪に遭ったことを誇らしく表明している︒

このように︑親鸞法然門下における自らの正統性を強く表しているとすれば︑﹃敎行信證﹄は單に己證のために書かれたのではなく︑一方で法然門下に向かっての自己主張という面を強く持ち︑他方で自分の弟子たちに向かって︑自らの敎えが法然を正しく受け繼いだものだと保證する目的があったと思われる︒Cの後︑親鸞は﹃安樂集﹄の︑﹁眞言を採り集めて︑往益を助修せしむ︒いかんとなれば︑前に生まれむ者は後を導き︑後に生まれん者は前を訪へ︑連續無窮にして︑願はくは休止せざらしめんと欲す︒無邊の生死海を盡くさんがための故なり﹂(日本思想大系﹃親鸞﹄︑二五九頁)という文を引いているが︑これはまさにその繼承の有效性を確認するためである︒親鸞門流が︑密敎や禪と等しく法脈・血脈を重視するようになるもとは︑このような親鸞の態度にあったといえよう︒

化身土卷のいちばん後の文︑從って︑﹃敎行信證﹄のいちばん最後の文は︑﹁﹃華嚴經﹄の偈に云ふがごとし︒﹁もし菩薩︑種種の行を修行するを見て︑善・不善の心を起こすことありとも︑菩薩みな攝取せん﹂と﹂(同)という引用で終っている︒これは︑戾って﹁主上臣下﹂の謗法の振舞いをも含めて︑救濟の可能性を僅かに示しているが︑その具體的 な展開はない︒

以上︑﹃敎行信證﹄化身土卷のいわゆる﹁後序﹂を檢討してみた︒それは︑最初から本文と全く獨立して︑跋文として書かれたものではなく︑化身土卷後半の魔や鬼神の說の私釋として法難を論じ︑そこから法然について記すという具合に展開して︑次第に﹁後序﹂として形を整えていくという構成になっている︒

そこで︑親鸞が自ら取り出した人生上の畫期は︑第一に︑法難であり︑そこでは﹁主上臣下﹂の逆謗闡提の行爲を糾彈するとともに︑﹁非僧非俗﹂の﹁愚禿﹂を選んだ大きな轉機と見なされている︒第二に︑法然との關係であり︑とりわけ眞影を描き銘を頂いたことと︑﹃選擇集﹄の書寫を許されたことがあげられている︒これは︑親鸞が自らを法然の正統な繼承者として位置付けていたことを示している︒

三︑惠信尼の親鸞

1︑惠信尼文書について

惠信尼文書は︑すべて越後に住む惠信尼が︑都に住む覺信尼に宛てたもので︑全十通からなる︒そのうち︑最初の二通は消息というよりも讓狀と見るべきものとされるが︑ここでは︑それも含めて十通をまとめて考え︑もっとも新しい成果である今井雅晴﹃現代語譯惠信尼からの手紙﹄(二〇一二)によって引用する︒惠信尼書の槪略は以下の通りである︒   第一︱建長八年 (一二五六)︒惠信尼七五歲︒下人の讓狀︒

第二︱建長九年 (一二五七)︒惠信尼七六歲︒下人の讓狀︒

第三︱弘長三年 (一二六三)︒惠信尼八二歲︒年︑親鸞の死を吿げた覺信尼の手紙に對する返事︒親鸞法然入門のいきさつ︑親鸞が觀音菩薩の生まれ變わりであると夢見たことなど︒

第四︱同年︒第三通の追伸︒

第五︱同年︒第四通に續く︒親鸞の寛喜三年 (一二三一)の夢 (三部經讀誦)︒

第六︱同年︒第五通の訂正︒

第七︱文永元年 (一二六四)︒惠信尼八三歲︒五輪塔を建てたいという願望︒

第八︱同年︒五輪塔の願望など︒

第九︱文永四年 (一二六七)︒惠信尼八六歲︒老年の感慨︒

第十︱文永五年 (一二六八)︒惠信尼八七歲︒老年の感慨︒以上のように︑十通はほぼ三つに分けることができる︒

第一群 第一︑二通︱︱下人の讓り狀︒

第二群 第三~六通︱︱親鸞の死をきっかけに︑親鸞の思い出を記す︒

第三群 第七~十通︱︱老齡になっての願望や感慨︒

このうち︑惠信尼が描く親鸞像が明確にうかがわれるのは︑第二群である︒第三通は︑弘長二年 (一二六二)一一月二八日に親鸞が亡くなったことを覺信尼が傳えたのに對する返事で︑親鸞が閒違いなく往生したことを記し︑それを證據立てる意味で︑惠信尼が重要と考えることを記すのであるが︑それを補足したり︑訂正したりで︑第六通まで續くことになる︒その中で︑大きく取り上げられているのは︑第一に︑親鸞の六角堂夢吿と法然入門のいきさつであり︑第二に︑三部經讀誦をやめたことに關する關東でのできごとである︒この二つが︑惠信尼にとっての親鸞像の中核となるものであった︒

2︑六角堂夢吿

まず︑第三通によって︑六角堂の夢吿と法然への入門のいきさつを見てみよう︒

A やまをいでゝ︑六かくだうに百日こもらせ給て︑ごせをいのらせ給けるに︑九十五日のあか月︑しやうとくたいしのもんをむすびて︑じげんにあづからせ給ひ候ければ︑やがてそのあか月いでさせ給て︑

B ごせのたすからんずるえんにあいまいらせんと︑たづねまいらせて︑ほうねん上人にあいまいらせて︑又︑六かくだうに百日こもらせ給て候けるやうに︑また百か日︑ふるにもてるにもいかなるたい風 (ふつうは﹁大事﹂と取る) にもまいりてありしに︑たゞごせの事は︑よき人にもあしきにもおなじやうに︑しやうじいづべきみちをば︑たゞ一すぢにおほせられ候しをうけたまはりさだめて候ひしかば︑

C しやうにんのわたらせ給はんところには︑人はいかにも申せ︑たとひあくだうにわたらせ給ふべしと申とも︑せゝしやう〳〵にもまよいければこそありけめ︑とまで思まいらするみなればと︑やう〳〵に人の申候し時もおほせ候しなり︒(今井︑前揭書︑二四−二五頁)

非常に分かりにくい文章で︑解釋が分かれるが︑ここでは︑今井の解釋をもとに︑少し改めて三段に分けてみた︒Aは六角堂に百日籠もったとき︑九十五日目の曉に示現を得たということである︒この時に得た示現のについては︑この消息の最後に︑

このもんぞ︑殿のひへのやまにだうそうつとめておはしましけるが︑やまをいでゝ︑六かくだうに百日こもらせ給て︑ごせの事いのり申させ給ける︑九十五日のあか月の御じげんのもんなり︒ごらん候へとてかきしるしてまいらせ候︒(同︑四四頁)

とあるところから︑はっきり文章として得ていたもので︑それを惠信尼も知っていたことが明らかである︒﹁ごらん候へ﹂とあるから︑この消息にその文章が付されていたことになるが︑それは散逸して現存しない︒多くの硏究者は︑それが﹁行者宿報偈﹂(いわゆる﹁女犯偈﹂)であろうとしている︒それは︑

行者宿報設女犯 行者 宿報に設い女犯すとも

我成玉女身被犯 我 玉女と成りて 身 犯されん

一生之閒能莊嚴 一生の閒 能く莊嚴し

臨終引生極樂        臨終に引して 極樂に生ぜしめん                      

というものである︒この偈であるという絕對的な證據はないが︑他に可能性のあるものがなく︑おそらくこの偈と認めてよいであろう︒そうなると問題は︑この偈と法然入門との關係がはっきりしないということである︒偈はあくまでも女犯を認めたものであって︑ただちに法然への入門を促すものとは讀めない︒

鹽谷菊美の指摘のように︑六角堂の夢吿に關して︑古い傳記の位置づけは曖昧である (鹽谷︑前揭書︑四五頁)︒﹃御傳鈔﹄などでは︑六角堂參籠と夢吿は法然入門以後に位置づけられているが︑﹃惠信尼書﹄では︑それは法然入門以後とされている︒赤松俊秀によれば︑覺如は最初﹃惠信尼文書﹄を知らずに﹃御傳鈔﹄を書いたため︑六角堂參籠を法然入門以後に入れたが︑後に﹃惠信尼文書﹄を見たために︑混亂したとの見方を示している (赤松︑前揭書︑五三頁)︒今はそのような事實關係よりも︑二つの系統があることを確認しておくだけに留めたい︒

もう一つ大きな問題になるのは︑夢吿の意味づけである︒﹃御傳鈔﹄では︑次のように述べられている︒

そのとき善信夢のうちにありながら︑御堂の正面にして東方をみれば︑峨々たる嶽山あり︒その高山に數千萬億の有情群集せりとみゆ︒そのとき吿命のごとく︑この文のこころを︑かの山にあつまれる有情に對して說ききかしめをはるとおぼえて︑夢さめをはりぬと云々︒つらつらこの記錄を披きてかの夢想を案ずるに︑ひとへに眞宗繁昌の奇瑞︑

念佛弘興の表示なり︒﹃(淨土眞宗聖典 (註釋版)﹄︑一〇四五頁)

卽ち︑この夢吿は﹁眞宗繁昌の奇瑞︑念佛弘興の表示﹂だというのである︒しかし︑夢吿の偈は︑どう讀んでもそのように解釋することは困難であり︑文字通り女犯を認めたものと解する他ないであろう︒

それに對して︑﹃惠信尼文書﹄ではどうであろうか︒本願寺の現代語譯によると︑この箇所は︑﹁九十五日目の明け方に︑夢の中に聖德太子が現れてお言葉をお示しくださいました︒それで︑すぐに六角堂を出て︑來世に救われる敎えを求め︑法然上人にお會いになりました﹂﹃(親鸞聖人御消息・惠信尼消息 (現代語譯)﹄︑二〇〇七︑一二三頁)とされている︒文字通りの譯としてはそのとおりであろうが︑ここでの問題は︑夢吿と法然入門の關係である︒このままだと夢吿が法然入門のきっかけとなったとも讀めるが︑夢吿が女犯偈であるとすると︑それがどうして法然入門を指示するのか︑やはり十分に說明できない︒

今井雅晴は︑﹁法然を訪ねたのは﹁六角堂の參籠で出現した聖德太子の指示による﹂說は︑史料的な根據がない﹂として︑﹁六角堂を出た親鸞は︑直接法然の吉水草庵を訪ねたのではなく︑﹁たづねまいらせて﹂とあるように︑訪問先を探し求めたのである﹂(今井︑前揭書︑三二頁)とするが︑そのほうが適切なように思われる︒夢吿を得て︑そこでひとまず一つの問題が決着したので︑そこで﹁ごせのたすからんずるえんにあいまいらせんと︑たづねまいらせて﹂と︑次に後世の救濟の問題へと進んだということになる︒そうとすると︑六角堂の夢吿(A)と法然入門 (B)とはまったく切り離された別のことになる︒卽ち︑夢吿によって︑それまで惱んでいた女犯の問題に解決が付いたので︑そこで改めて後世の救濟を求めて法然の門を叩いた︑というわけである︒

ところが︑そのように二つを完全に切り離すのも問題がある︒六角堂參籠は︑﹁ごせをいのらせ給ける﹂ものとはっきり言われており︑この消息の後に偈を付した追伸の文にも︑﹁やまをいでゝ︑六かくだうに百日こもらせ給て︑ごせの事いのり申させ給ける﹂と︑六角堂參籠が﹁後世の事﹂に關係していることが述べられている︒そうとすれば︑それが法然入門と結び付けて解されたとしても︑おかしくはないであろう︒ただ︑その場合にはまた︑夢吿の內容である女犯と﹁後世﹂との關係が問題になる︒

このように︑惠信尼文書の二箇所を較べ合せる時︑夢吿と法然入門との關係は︑二つの解釋のいずれも成り立ちうる曖昧さを殘している︒興味深いことに︑﹃御傳鈔﹄以前のもっとも古い親鸞の傳記的な物語である﹃親鸞聖人御因緣事﹄では︑こうした女犯偈の位置の曖昧さを生かす重層的な解釋がなされている︒﹃御因緣﹄は︑一生不犯のつもりであった親鸞が︑凡夫往生の實例を示すために︑法然の命で九條兼實の女玉日と結婚することになるいきさつを描いているが︑その鍵となるのが女犯偈である︒結婚をためらう親鸞に對して︑法然は︑﹁御邊コノ門徒ニキタルコトハ六角堂ノ觀音ノ御示現コサンメレ︑ソノ示現ニマカセテ︑落墮スヘシ﹂(あなたが︑私の門に來たのは︑六角堂の觀音のご示現によるものだったのでしょう︒それならば︑その示現通りに︑妻帶しなさい)﹃(大系眞宗史料﹄傳記­1︑四頁)と迫り︑承諾させるのである︒

ここには︑親鸞本人しか知らないはずの示現の偈を法然も實は知っていたという︑師弟一體の神秘という別のモチーフもあるが︑ともあれ︑偈が法然入門のきっかけとなったとともに︑妻帶を促す契機ともなるという二重の味を持つものと理解されている︒卽ち︑その曖昧さを巧みに生かしているのである︒

そこで︑改めて女犯偈を見てみると︑﹁一生の閒 能く莊嚴し/臨終に引導して 極樂に生ぜしめん﹂と︑玉女=觀音 =聖德太子が︑現世に (一生の閒)添い遂げてその生を完成させるとともに︑臨終に極樂に導く役割をも果たすことが誓われている︒そうとすれば︑この偈は後世のことを祈ったことに對する返答として︑適切であったと考えることができる︒それは︑女犯の承認とともに︑後世の救濟に對する答えでもあった︒それによって救濟が得られる確信を得たうえで︑今度は具體的に︑﹁ごせのたすからんずるえん﹂を求めて法然を訪ねることになるのである︒

ところで︑惠信尼はなぜこの偈をわざわざ後に添えて︑覺信尼に傳えたのであろうか︒上述のように︑第三通は︑覺信尼が親鸞の亡くなったことを傳えた手紙に對する返答であるが︑最初のところに︑﹁なによりも殿の御わうじやう︑中〳〵はじめて申におよばず候﹂とあるように︑親鸞の往生が疑いようがないということを述べており︑この偈もその證據ということになる︒逆に言えば︑﹁覺信尼が︑親鸞は極樂へ往生できなかったのではないか︑という不安を覺えていた﹂ (今井︑前揭書︑二三頁)ということである︒惠信尼がこの偈を引いたのは︑何よりも觀音=聖德太子が︑親鸞の往生を保證していたというところに主眼があったということになる︒

しかし︑偈の內容はそれに留まらない︒そこでは︑觀音=聖德太子が︑玉女となって親鸞と交わり︑一生添い遂げ︑その上で極樂に導くと言われており︑それでは︑具體的に玉女は誰なのかが問題とならざるを得ない︒惠信尼としては︑たとえ晚年離れていても︑まさしく親鸞に一生添い遂げたのは︑他の女性ではなく︑自分だと確信していなければ︑この偈を付する意味はないであろう︒惠信尼にとって︑この偈は親鸞と自分との關係を示すものであり︑そうとすれば︑惠信尼自身こそが觀音の身たる玉女ということになろう︒

このことは︑﹃御因緣﹄で︑この偈が親鸞と九條兼實の女玉日との結婚を豫知するものと解しているのと相違することになる︒玉日が實在であったか︑玉日と惠信尼はどのような關係だったのか︑などの問題に︑ここでは立ち入らない︒ただ︑偈に對して︑惠信尼の理解と﹃御因緣﹄の理解が異なり︑二つの解釋傳承があったことを確認しておきたい︒

ところで︑ここにわざわざ偈を引いて︑親鸞と惠信尼自身の關係の緊密さを述べたのは︑もちろん單なる麗しい思い出というだけではない︒惠信尼がこと細かに覺信尼に下人を讓ることを述べた讓り狀と較べあわせるとき︑一見︑讓り狀の極めて現實的な財產問題と︑夢吿の話とはかみ合わないように見える︒しかし︑實はそうではなく︑おそらく當時不安定な狀況にあった覺信尼を經濟面と精神面の兩方でサポートする必要があったのである︒

ややうがちすぎた見方かもしれないが︑親鸞の晚年から沒後へかけて︑門人たちや︑善鸞のような (おそらくは異母の)子供たちの中で︑惠信尼自身の子供である覺信尼たちの地位を確保するために︑この偈が親鸞と他の女性ではなく︑惠信尼との關係を示すものとして覺信尼に傳えられることは︑惠信尼−覺信尼こそが︑親鸞のもっとも正統的な繼承者であることを示すことになるという意味もあったであろう︒第四通でも︑最初に﹁このもん﹂を大事にするようにと改めて記されており︑﹁このもん﹂がいかに重要なものであったか知られる︒

3︑惠信尼書の親鸞

六角堂の夢吿は︑親鸞が夢で得たお吿げであった︒第二通の後半は︑一轉して惠信尼が見た夢に話が移る︒それは︑﹁ひたちのしもつま﹂(常陸の下妻)の﹁さかいのがう﹂(坂井郷)に滯在していた時に惠信尼が見た夢である︒それは︑﹁だうくやう﹂(お堂の落成式)のようで︑お堂の前の鳥居のようなものに︑二幅の佛の繪姿を掛けてあった︒

一たいはたゞ︑ほとけの御かほにてわたらせ給はで︑たゞひかりのま中︑ほとけのづくわうのやうにて︑まさしき御かたちはみへさせ給はず︑たゞひかりばかりにてわたらせ給︒いま一たいは︑まさしき佛の御かほにてわたらせ給候しかば︑これはなにほとけにてわたらせ給ぞと申候へば︑申人はなに人ともおぼえず︑あのひかりばかりにてわたらせ給は︑あれこそはほうねん上人にてわたらせ給へ︒せいしぼさつにてわたらせ給ぞかしと申せば︑

さて又︑いま一たいはと申せば︑あれはくわんおんにてわたらせ給ぞかし︒あれこそぜんしんの御房よと申とおぼえて︑うちおどろきて候しにこそゆめにて候けりとは思て候しか︒(今井︑前揭書︑三四−三五頁)

光ばかりの佛は︑勢至菩薩法然であり︑顏だちのはっきりした佛は觀音菩薩で善信 (親鸞)だと敎えられたというのである︒そこで惠信尼は︑前半のほうだけ親鸞に吿げたところ︑それこそ實夢で︑勢至菩薩智慧そのものであるから︑光でいらっしゃるのだと言われたという︒親鸞の﹃高僧和讚﹄にも︑﹁源空勢至と示現し/あるひは彌陀と顯現す/上皇群臣尊敬し/京夷庶民欽仰す﹂とあって︑法然勢至菩薩︑あるいは彌陀自身であると歌われている︒それは當時少なくとも法然の弟子たちの閒では公のことであった︒

ところで︑問題はもう一體の佛のほうである︒惠信尼は︑夢の中で︑それが觀音であり︑親鸞その人であると敎えられた︒法然のほうが正しければ︑こちらも同樣に實夢でなければならない︒惠信尼はそのことを親鸞にも他の人にも言わなかったが︑それをはじめて覺信尼に語るのは︑﹁御りんずはいかにもわたらせ給へ︑うたがひ思まいらさぬ﹂(臨終がどうであっても︑往生は疑いない)ことを示すために他ならない︒親鸞にとっては︑惠信尼は觀音の化身であり︑惠信尼にとっては親鸞は觀音の化身であったわけである︒

ちなみに︑﹃御傳鈔﹄第四段では︑建長八年 (一二五六)︑親鸞八四歲の時に︑弟子の蓮位の夢に︑聖德太子が親鸞を禮拜したという夢を見たという話を擧げ︑﹁しかれは祖師上人は彌陀如來の身にてましますといふことあきらかなり﹂と︑親鸞は阿彌陀佛の化身に高められている︒

第三通では︑このように親鸞の夢と惠信尼の夢が重要な役割を果たしている︒第五通で述べられるのは︑夢ではないが︑親鸞が風邪から重態に陷り︑夢うつつ狀態の時のことである︒﹃無量壽經﹄の文句がありありと見え︑そらで讀誦していたというのである︒第五通では︑寛喜三年 (一二三一)四月十四日に風邪となり︑二日目から經を讀み始め︑四日目に﹁まはさてあらん﹂と言ってやめたとされていたが︑第六通では︑日記を確認して︑四月四日に病氣になり︑十一日に﹁まはさてあらん﹂と言ったと訂正している︒これは︑きちんと日記に記錄されていた事實であることを示すとともに︑それだけ重要な意味を持っていたことを示すものである︒

この話は重層的になっていて︑﹁この十七八ねんがそのかみ︑げに〳〵しく三ぶきやうをせんぶよみてすざうりやくのためにとて︑よみはじめてありしを﹂(今井︑前揭書︑五六頁)︑思い返してやめたという︑過去のできごとがあり︑その﹁ひとのしうしん︑じりきのしん﹂が殘っていたのだと︑自力を捨てることの難しさが述懷されることになる︒

なぜこの時點で︑過去のこの話が特に取り上げられなければならないのであろうか︒第四通に﹁おさなく御身のやつにておはしまし候しとしの四月十四日より︑かぜ大事におはしましし候しときの事どもをかきしるして候也﹂とあることから︑第五通のこの話は︑第四通と同じときに書かれたものと考えられる︒とすれば︑これもまた︑單なる思い出話ではなく︑親鸞沒後の危機的な狀況の中で︑覺信尼に關して﹁他力の信﹂のあり方を說いたものと考えなければならない︒親鸞の晚年の消息や﹃歎異抄﹄を見れば︑當時︑﹁他力の信﹂のあり方が門人たちの閒で大きな問題になっていたことが知られる︒そうした流れの中でこのことが取り上げられているのは︑年時のはっきりした二回の事實の重層によって︑親鸞の他力觀を明確化するという意圖があったと思われる︒六角堂夢吿に關して︑わざわざ文書を添えるのと同じく︑あくまで脚色でなく︑事實であることを確認する必要があったと考えられる︒

以上︑惠信尼の見た親鸞像を檢討してみた︒親鸞はまず觀音の化身であり︑その人生の大きな轉機は六角堂の夢吿に求められ︑女犯偈がもっとも大事に傳えられるべきものとして︑覺信尼に渡された︒それとともに︑三部經千部讀誦の話がクローズアップされ︑それが他力の信のあり方の範型とされた︒それは︑單なる思い出ではなく︑惠信尼から覺信尼へと親鸞の敎えが正統的に傳わることの確證として︑親鸞の人生上のできごとが取り上げられてくるのである︒

先に見た親鸞自身の﹃敎行信證﹄後序においては︑法難と法然との關係が中心的な問題になっている︒法然との關係では︑﹃選擇集﹄書寫の許可が大きく取り上げられ︑法然親鸞の傳授の正統性がもっとも中心に置かれている︒親鸞が︑法然親鸞の緊密な傳授に重點を置くとすれば︑惠信尼は︑親鸞−惠信尼−覺信尼という傳授の正統性に力點を置くのである︒

「信﹂という見えざる心のあり方に最高の價値を置く親鸞門流にとって︑自らの正しさは︑どのように親鸞につながるかという系譜的由緖に求められる︒それは︑同時代の禪が師資相承の印可に正統性の根據を求めるのと全く同じであり︑その源流は︑密敎事相の傳授に求められる︒親鸞自身の自己像も︑惠信尼の親鸞像も︑そのような相承の正統性を核心に置いて︑その生涯を描いている︒それ故︑そこに傳記的事實が描かれているとしても︑すでにこのような意圖で取捨選択された事實であることを︑十分に認識しておくことが必要である︒そして︑そのような正統性の要求が︑後の傳記の展開において︑さらに大きな意味を持っていくことになるのである︒

【引用史料︼

惠信尼﹃惠信尼文書﹄(今井雅晴﹃現代語譯惠信尼からの手紙﹄︑法藏館︑二〇一二)

覺如﹃御傳鈔﹄﹃(淨土眞宗聖典﹄註釋版︑第二版︑本願寺出版社︑二〇〇四) 親鸞﹃敎行信證﹄(日本思想大系﹃親鸞﹄︑岩波書店︑一九七一)

親鸞聖人御因緣﹄﹃(大系眞宗史料﹄傳記編1﹁親鸞傳﹂︑法藏館︑二〇一一)

【參考獻︼

赤松俊秀︹一九六一︺﹃親鸞﹄(吉川弘文館)

今井雅晴︹二〇一二︺﹃現代語譯惠信尼からの手紙﹄(法藏館)

鹽谷菊美︹二〇一一︺﹃語られた親鸞﹄(法藏館)

末木美士︹二〇一三︺﹃淨土思想論﹄(春秋社)

古田武彥︹一九七五︺﹃親鸞思想﹄(冨山房)

本願寺敎學傳道硏究所︹二〇〇七︺﹃親鸞聖人御消息・惠信尼消息 (現代語譯)﹄(本願寺出版社)

 

 

   これはインターネットにてダウンロードしたpdf論文を、ワード化し修正

   したものである。(2022年 タイ国 バンコク近郊にて 二谷)