正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

馬祖禅の核心 入矢義高

馬祖禅の核心

入矢 義高

 

 中国の禅は、実質的に馬祖(709―788)から始まった。禅を以て仏教の帰結とする理念が明確な自覚として宣明されたからであり、しかもその自覚が、教義の解釈や研究という形でなしに、具体的な日常の営為のなかで、実践的に形成され体認されたものだったからである。

 その馬祖が、やがて八百人ないし一千人を超える大教団を形成するに至ったのは、それほど多くの修行者を吸引するだけの、新鮮な魅力を具えていたからであった。盛唐から中唐への転変の時期なればこそ、多くの人々を引きつけ得た、馬祖禅の魅力は、では一体何処にあったのであろうか。そのことは、馬祖禅の核心は何であったか、という問いに関わってくる。

 いま馬祖自身の言葉と、彼が弟子たちを接化した記録、また弟子たちが、彼について語った言葉などから帰納して、敢えて一言でその端的をいうならば、「作用即性」または「日用即妙用」ということになろう。ダルマの著と伝えられる『血脈論』に、あたかもこの定理を解説したかとさえ思われる一段がある。日く、「仏とはインドの言葉で、わが国でいう覚性のことである。覚とは霊覚であり、機に応じ物に対して、眉を揚げ目を瞬(まばた)き、手を働かせ足を動かすという〔日常の営み〕が、すべて自己の霊覚の性にほかならない。性はつまり心であり、心はつまり仏であり、仏はつまり道であり、道はつまり禅である」。いわば教学的な仏の聖性を剥ぎ取って、仏そのものを己(おの)れに奪取し主体化するのである。馬祖が「いま君が見たり聞いたり、知覚したり認識したりするその働き、それがもともと君の本性あるいは本心というものであり、この心を離れて別に仏があるのではない」(『宗鏡録』巻十四「大正蔵」48・488c)と述べている趣旨も、これと全く同じであり、彼の禅の代名詞ともなっているテーゼ「即心即仏」は、以上の趣旨の要約であったといえる。

 ここにいう「心」とは、純粋培養によって析出された真心でもなければ、理念的に超越化ないし内在化されたイデア(理念)としての本心でもない。それは生き生きと日常底に於いて働く平常心であり、それも、〔平常心〕一般なのではなくて、個々の人それぞれの、それなりな「あたりまえの心」である。『景徳伝灯録』七によると、大梅法常が初めて馬祖に参じて、「如何なるか是れ仏」と問うた時、馬祖は「即心是仏」(心こそが仏である「大正蔵」51・254c4)と答えた、と書いてある。しかし『祖堂集』では、この答えは「即汝心是」(564頁)となっている。「君の心こそがそれだ」または「君の心そのものがそれだ」という意であって、相手の心そのものをズバリと直指した語気が鮮やかに示されている。『景徳伝灯録』の「即心是仏」は、これに比べると至上命題的にテーゼ(定立)化していて、個性的な響きの直截さに欠ける。一旦テーゼ化すれば、それは一つのパターンに定着して硬直化する運命を免れ得ない。さればこそ馬祖も、あとでこれを「非心非仏」と逆転せざるを得なくなった。表顕(表詮)から捨遣(遮詮)へ転回したわけである。しかし馬祖の本領は飽くまで表顕の呈示に在った。現に彼は「無心」を言うことは一度もなかったのである。

 心が「本来心」だけに限定されたものではなく、個々の人間それぞれの平常心を直指した心であったからには、「作用即性」という時の「作用」も、まさに個々の人格に則しての日常底の「日用」(平常の営為)にほかならない。それがそのまま仏の「妙用」そのものとして無媒介に等置されるのである。ここには西洋の論理にいう矛盾律は最初から排除されており、否定命題の契機は入り込みようはない。いわば手放しの開けっぴろげなオプティミズム楽天主義)であり、個々の人の心が即仏(そくぶつ)であり得るか否かは、それぞれの人がこのオプティミズムに徹し得るか否かにかかっており、それは個々人の責任に任される。人はそれぞれに自らの力量を計って、その責任を果たすべき事を馬祖は教える。故に其の門下に多彩で個性的な嗣法者が輩出した由縁である。それは又、機に応じた彼の接化の巧みさを証する事でもあった。

 彼は「仏心と同じであるはずの君の心を、ここに示せ」と云った形で修行者に迫る事はしなかった。それぞれの機に対応した善巧方便を用いることを厭わなかったのである。時には「君の其の不会(わからぬ)という心が、実は仏性にほかならぬのだ」とまで言い聞かせる。「不会という心も」ではなく、「不会之心即仏性」と言い切る。彼は「善をも取らず、悪をも捨てず」人であったから、下根の者をも門前払いすることはしないで、巧みに向上へのヒントと勇気を与えた。しかし方便の手立てを用いる事の危険性は一方で十分に心得ていた。だから「我が語を記(おぼ)ゆる莫れ」と付け加える事を忘れない。「私の言葉を覚えこんで、金科玉条としてはならぬ」というのである。

 しかし、そも馬祖禅がやがて「雑貨鋪」(よろず屋)扱いされるようになったのは、すぐれた禅の教師であったからこその、やむを得ない仕儀であったと言うべきか。「我が語を記(おぼ)ゆる莫れ」(または「取る莫れ」)とは、馬祖系の禅師たちが弟子を戒める時に常に用いた言葉であった。特に百丈や臨済は繰り返してこれを言う。師と同じことを言い、師と同じ法を嗣ぐのでは、それは師を辱かしめる事になる。洞山も言った、「もし先師を肯(うけ)がったら、それは先師に孤負(そむ)くことである」と(『景徳伝灯録』巻十五「大正蔵」51・322a18)。馬祖は自分を透出する後継者をこそ期待したのであり、自分の禅をそのまま伝承する、まじめな嗣法者を養成したのではなかった。

 しかも、敢えて言えば、馬祖は教化の手段として方便を用いることを、本来は好まなかった人であった。「事に即し理に即し」つつ、一切の日常の営為を法性三昧として、現実を全肯定するという壮大な見地に立つ以上、本来は方便を用いる必要さえ無かったはずである。現に権徳輿(759―818)の撰した「塔銘序」には、馬祖の禅法を要約して、「三を去って以て一に就き、権を捨てて以て実に趣き、不遷不染の性を示して、差別次第の門なし」と言っている。しかもなお〔雑貨店〕を開設せざるを得なかったのは、右に述べた彼の見地そのものが、当時にあっては正に画期的かつ革新的であったという点で、おおきな魅力では有り得たものの、実は一般の修行者にとっては、容易に取り付き難い境地だったからである。この店を開いた為に、しかしその門下は大教団となり、個性豊かな後継者が輩出し、多くの語録がまとめられ、さらには教団維持の為の清規も作られて、ここに「禅宗」という宗派が確立した。かくて馬祖は、いわば教祖として位置づけられるに至ったのであるが、しかし彼自身は後世から、そのように扱われる事を果たして喜ぶであろうか。(一九八四年)

 

 これは長年pdfの形で保存していたものを、

ワード化したもので修訂を為した。(2022年・タイ国にて。二谷・記)