正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

驢事と馬事 入矢義高

驢事と馬事

入矢 義高

 

 満開の桃の花を見て悟りを開いたという霊雲禅師に、稜(りょう)道者が訊ねた、「仏法の大意は何でしょうか」と。大意とは根本義または本質のこと。これに対する霊雲に答えは、「驢事未だ去らざるに、馬事到来す」であった。「ロバの仕事が済まぬうちに、もう馬の仕事がやって来おった」というのである。問われた事柄そのものが、いきなり馬の事柄に置き代えられてしまっている。彼は何のことか判らず、雪峰禅師に教えを請うたところ、「直下に是れ你」という答えであった。「ずばりお前でしかない」という意である。それでも彼は判らず、今度は玄沙禅師に教えを請うと、「君は稜道者だ、それがなぜ判らぬ」という仰せであった。

 それでも彼はまだ判らず、なお後日談が続くのであるが、ここでまず最初の霊雲の答えに立ち戻って見よう。あの答え方は、端的に言えば、「やれやれ、もういい加減にしてくれ」という語気であり、〔仏法〕という荷を背負って、うろつき廻るロバやウマがこうも多くては、とても一々(いちいち)付き合ってはおれぬ、という口吻なのである。趙州禅師は「南方から行脚僧がやって来たら、まずそいつの肩の荷を下ろしてやる」と言ったが、その肩の荷とはかれがはるばる担いで来た南の仏法というお荷物のことであった。雪峰が「直下に是れ你」と答え、玄沙が「君は稜道者だ」と答えてやったのは、そのお荷物を肩から下して、体ひとつになった己れを取り戻すべき事の示唆なのであった。

 以上は『玄沙広録』(「続蔵」七三・二b一〇)の記述によったのであるが、『景徳伝灯録』巻十一によると、〔驢事未だ了(おわ)らざるに、馬事到来す〕が判らなかった相手に、霊雲みずからこう説き明かしてやっているー「彩気は夜常に動き、精霊は日(ひる)逢うこと少9まれ」なり」。ここにいう精霊とは、人に乗り移り易い〔仏法〕というスピリット(魔魅)、彩気とは「直下の我れ」から発する光彩、いわば皆既日食のときに暦々と見られる、あのコロナである。

 

   もしもこの眼が太陽でなかったならば

なぜに光を見ることができようか

われらのなかに神の力がなかったならば

聖なるものが、なぜに心を惹きつけようか

ゲーテ「色彩論」序。高橋義人他訳『ゲーテ 自然と象徴』より)

(一九八五年)

 

後記

「驢事未だ去らざるに、馬事到来す」に対する従来の理解は、『仏教語大辞典』が与えている以下のような説明に要約される。「仏道の修行を一瞬の絶え間もなく続けて努めていくこと。一つのこと(驢事)がまだ終わらない内に、次のこと(馬事)に取りかかる、の意」

『禅学大辞典』では「あれこれ、いろいろなこと。種々雑多なこと。ろばや、うまを出したのは、別に意味がなく、言葉を巧みに使ったもの。「従来の転いまもさらにやむことなしといへども、おのづからかへりて法華を転ずるなり。驢事いまだをはらざれども、馬事到来すべし」〔眼蔵、法華転法華〕。一つのことが終わらない内に、次のことがやって来たの意。「一轉語を自賣することいまだやまざるに、一転心を自買する商客に相逢す。驢事未了、馬事到来なり」〔眼蔵、菩提分法〕での説明も、ほとんど同じ解釈である。

 

これは入矢義高氏の論考が一般化していない為、Pdfからワードとして文字化したものである。一部修訂を行なった事を記す。(2022年・タイ国にて)