正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第六十五「如來全身」を読み解く

正法眼蔵第六十五「如來全身」を読み解く

 

 爾時、釋迦牟尼佛、住王舎城耆闍崛山、告藥王菩薩摩訶薩言、藥王、在々處々、若説若讀、若誦若書、若經巻所住之處、皆應起七寶塔、極令高廣嚴飾。不須復安舎利、所以者何。此中已有如來全身、此塔應以一切華香瓔珞、繒蓋幢幡、妓樂歌頌、供養恭敬、尊重讚歎。若有人得見此塔、禮拝供養、當知、是等皆近阿耨多羅三藐三菩提。

 いはゆる經巻は、若説これなり、若讀これなり、若誦これなり、若書これなり。經巻は實相これなり。應起七寶塔は、實相を塔といふ。極令の高廣、その量かならず實相量なり。此中已有如來全身は、經巻これ全身なり。

 しかあれば、若説若讀、若誦若書等、これ如來全身なり。一切の華香瓔珞、繒蓋幢幡、妓樂歌頌をもて供養恭敬、尊重讚歎すべし。あるいは天華天香、天繒蓋等なり。みなこれ實相なり。あるいは人中上華上香、名衣名服なり。これらみな實相なり。供養恭敬、これ實相なり。起塔すべし。

 不須復安舎利といふ、しりぬ、經巻はこれ如來舎利なり、如來全身なりといふことを。まさしく佛口の金言、これを見聞するよりもすぎたる大功徳あるべからず。いそぎて功をつみ、徳をかさぬべし。もし人ありて、この塔を禮拝供養するは、まさにしるべし、皆近阿耨多羅三藐三菩提なり。この塔をみんとき、この塔を誠心に禮拝供養すべし。すなはち阿耨多羅三藐三菩提に皆近ならん。近は、さりて近なるにあらず、きたりて近なるにあらず。阿耨多羅三藐三菩提を皆近といふなり。而今われら受持讀誦、解説書冩をみる、得見此塔なり。よろこぶべし、皆近阿耨多羅三藐三菩提なり。

 しかあれば、經巻は如來全身なり、經巻を禮拝するは如來を禮拝したてまつるなり。經巻にあふたてまつるは如來にまみえたてまつるなり。經巻は如來舎利なり。かくのごとくなるゆゑに、舎利は此經なるべし。たとひ經巻はこれ舎利なりとしるといふとも、舎利はこれ經巻なりとしらずは、いまだ佛道にあらず。而今の諸法實相は經巻なり。人間天上、海中虚空、此土佗界、みなこれ實相なり。經巻なり、舎利なり。舎利を受持讀誦、解説書冩して開悟すべし、これ或從經巻なり。古佛舎利あり、今佛舎利あり。辟支佛舎利あり、轉輪王舎利あり、獅子舎利あり。あるいは木佛舎利あり、絵佛舎利あり、あるいは人舎利あり。現在大宋國諸代の佛祖、いきたるとき舎利を現出せしむるあり、闍維ののち舎利を生ぜる、おほくあり。これみな經巻なり。

 釋迦牟尼佛告大衆言、我本行菩薩道、所成壽命、今猶未盡、復倍上數。

 いま八斛四斗の舎利は、なほこれ佛壽なり。本行菩薩道の壽命は、三千大千世界のみにあらず、そこばくなるべし。これ如來全身なり、これ經巻なり。

 智積菩薩いはく、我見釋迦如來、於無量劫、難行苦行、積功累徳、求菩薩道、未曾止息。觀三千大千世界、乃至無有如芥子許、非是菩薩捨身命處。然後乃得爲衆生故、成菩提道。

 はかりしりぬ、この三千大千世界は、赤心一片なり、虚空一隻なり。如來全身なり。捨未捨にかゝはるべからず。舎利は佛前佛後にあらず、佛とならべるにあらず。無量劫の難行苦行は、佛胎佛腹の活計消息なり、佛皮肉骨髓なり。すでに未曾止息といふ、佛にいたりてもいよいよ精進なり。大千界に化してもなほすゝむるなり。全身の活計かくのごとし。

 

 正法眼藏如來全身第六十五

 

  爾時寛元二年甲辰二月十五日在越州吉田縣吉峰精舎示衆

  弘安二年六月廾三日在永平禪寺衆寮書冩之

 

正法眼蔵を読み解く如来全身」(二谷正信著)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/nyoraizenshin

 

詮慧・経豪による註解書については

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2020/03/05/000000

 

道元白山信仰ならびに吉峰・波著・禅師峰の関係についてー中世古 祥道

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2022/08/01/145341

 

禅研究に関しては、月間アーカイブをご覧ください

https://karnacitta.hatenablog.jp/

道元永平寺―『福井県史』通史編2中世より抜書(一部改変)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2021/08/14/173407

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正法眼蔵第六五 如来全身 註解(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第六五 如来全身 註解(聞書・抄)

爾時、釈迦牟尼仏、住王舎城耆闍崛山、告薬王菩薩摩訶薩言、薬王、在々処々、若説若読、若誦若書、若経巻所住之処、皆応起七宝塔、極令高広厳飾。不須復安舎利、所以者何。此中已有如来全身、此塔応以一切華香瓔珞、繒蓋幢幡、妓楽歌頌、供養恭敬、尊重讃嘆。若有人得見此塔、礼拝供養、当知、是等皆近阿耨多羅三藐三菩提。いはゆる経巻は、若説これなり、若読これなり、若誦これなり、若書これなり。経巻は実相これなり。

応起七宝塔は、実相を塔といふ。極令の高広、その量かならず実相量なり。

此中已有如来全身は、経巻これ全身なり。しかあれば、若説若読、若誦若書等、これ如来全身なり。

一切の華香瓔珞、繒蓋幢幡、妓楽歌頌をもて供養恭敬、尊重讃嘆すべし。あるいは天華天香、天繒蓋等なり。みなこれ実相なり。あるいは人中上華上香、名衣名服なり。これらみな実相なり。供養恭敬、これ実相なり。

起塔すべし。不須復安舎利といふ、しりぬ、経巻はこれ如来舎利なり、如来全身なりといふことを。まさしく仏口の金言、これを見聞するよりもすぎたる大功徳あるべからず。いそぎて功をつみ、徳をかさぬべし。

もし人ありて、この塔を礼拝供養するは、まさにしるべし、皆近阿耨多羅三藐三菩提なり。この塔をみんとき、この塔を誠心に礼拝供養すべし。すなはち阿耨多羅三藐三菩提に皆近ならん。近は、さりて近なるにあらず、きたりて近なるにあらず。阿耨多羅三藐三菩提を皆近といふなり。

詮慧 爾時釈迦牟尼仏―皆近阿耨多羅三藐三菩提。

〇色の経巻は、仏滅後の事也、在世にはなし。只詞にて真如実相と説く、五千余年の説也。今の如来経巻は離色なり。紙に書きたれば、色の経巻と云うとのみ心得、経の詞は皆色にて表れたれば、色の経巻と云うとも心得るべし。

〇又若説・若読・若誦・若書、皆黄紙赤軸の経に向けてする所作とのみ心得、この説く読誦書等(は)、一々実相也。実相なれば、極令高広の起塔なり、起塔なれば如来全身也。経巻所住之処(が)起七宝塔也。在々処々経巻ならんには、此の外に何物を残して七宝と云わん。極令高広なるべきぞなれば、所詮経巻所住在々処々なり。又在々処々こそ如来の全身なれ、亘天列焔には仏説法、列焔亘天には法説仏と云い同事也。

〇「若説・若読・若誦・若書・若経巻」と云うは、皆是仏の上の所行なり。経に先だちて説読書等の詞出でくる事を覚束なし。但今の経を実相也、如来全身也、七宝塔也と云う時に、説も読もかたを等しめぬれば、前後と立つべきにあらず、能所あるべからず。説も読も誦も四巻の経と心得也。

〇「極令高広厳飾」と云う、必ず高きとて、千丈万丈の丈尺広きとて百町千町を云うにあらず。実相と高かるべし、実相と広かるべきなり、実相量也。

〇「不須復安舎利」と云う、舎利を劣にして不可安と云うにあらず。又如来全身なる故に、不須復安なるべきば、七宝の塔をも不可起歟。三界も如来全身なる故に、然而如来全身と取る上に、起七宝塔の上にも表し、不須復安の方にも表すこそ、詞に拘わらぬ道理とも云うべけれ。起と不安との詞、只会不会なり。

〇「若人欲了、知三世一切仏、応当如是、観心造諸如来」と云う、この文の心にては、経の上に七宝の塔も立つべし、舎利は塔婆なり。

〇「一切華・香・瓔珞」等は、何として残りて今供養するぞや。於舎利上者不須復安と仕い、於塔婆上者起と云う、是親切の義を表す。又此の供養は不須復安と云う詞程也。

経豪

 

  • 被引経文。此の経の面は別に子細もなく聞こゆ。随又人の心得る分も、無相違歟。但今の所談、打ち任せて如文面心得るは、大いに可違仏祖所談義。其の故は如今経文は、「在々処々、若説若読、若誦若書、若経巻所住之処、皆応起七宝塔」とあり。然者人を置きて、説・読・誦・書の詞をば可心得。而今の御釈に、「いはゆる経巻は若説これなり、若読是也、若誦これなり、若書是也、経巻は実相是なり」とあり、分明也。所詮今の若説・若読・若誦・若書等の当体を経巻と談ずるなり。努々(ゆめゆめ)人ありて、此の経を別に置いて説とも読とも、誦とも書とも不可心得。又「経巻は実相是也」とあり、以経巻為実相、以実相為経巻道理明らか也。

是又如文は、「経巻所住之処、皆応起七宝塔、極令高広厳飾」とあり、経巻所住之処、七宝塔を立てんずるように心得たり。「極令の高広、その量如実相量也」とあり、打ち任せては塔は土木の構(かこい)とのみ心得、或いは三重五重七重九重十三重などと立て組み上げたるのみ塔と思い習わしたり。実相量を量として立つる塔、極令高広と云わるべし。只我等が日来(ひごろ)思い付きたる塔は、いかに千万重也とも、極令高広とは云わるべからず、際限あるべき也。所詮今は実相を以て塔とすべきなり。

  • 塔には必ず安舎利、今は此の経巻(が)則ち舎利なり。然者不可安舎利と也。舎利はいかにも滅後の物と思い付きたり。今は舎利与如来全身と、前後差別あるべからず。如来全身も実相也、舎利も実相なり、経巻も実相なり、説読誦書等、皆実相なりべし。
  • 如文。今所挙の一々調度等、皆今は実相なるべしとなり。非実相一物あるべからず、如文。詮は経巻与如来舎利・如来全身と一体なる故に、不須復安舎利と云う也。御釈分明也。
  • 是は人有って誠心を発して、此の塔を礼拝供養すれば、依此信心功徳阿耨菩提に近づくと心得、実此一分もなかるべきにあらず。但是は凡見なるべし、委如御釈。此塔与人不可各別、礼拝供養の姿も可違旧見。「たとい人ありて塔を礼拝供養す」とも、人与塔各別とは云うべからず。実相を実相が礼拝供養せん道理なるべし。又此の「皆近」の近も、阿耨菩提に

人が近づくとは不可心得。此の阿耨多羅三藐三菩提の姿を、近とは可談なり。故に「去りて近なるにあらず、来たりて近なるにあらず。阿耨多羅三藐三菩提を皆近と云う也」とは被釈なり。遠近の近にあらざるべし。以此道理、今は「誠心に礼拝供養すべし」とも可云也。

 

而今われら受持読誦、解説書写をみる、得見此塔なり。よろこぶべし、皆近阿耨多羅三藐三菩提なり。

しかあれば、経巻は如来全身なり、経巻を礼拝するは如来を礼拝したてまつるなり。経巻にあふたてまつるは如来にまみえたてまつるなり。経巻は如来舎利なり。かくのごとくなるゆゑに、舎利は此経なるべし。

たとひ経巻はこれ舎利なりとしるといふとも、舎利はこれ経巻なりとしらずは、いまだ仏道にあらず。

而今の諸法実相は経巻なり。人間天上、海中虚空、此土佗界、みなこれ実相なり。経巻なり、舎利なり。

舎利を受持読誦、解説書写して開悟すべし、これ或従経巻なり。

仏舎利あり、今仏舎利あり。辟支仏舎利あり、轉輪王舎利あり、獅子舎利あり。あるいは木仏舎利あり、絵仏舎利あり、あるいは人舎利あり。現在大宋国諸代の仏祖、いきたるとき舎利を現出せしむるあり、闍維ののち舎利を生ぜる、おほくあり。これみな経巻なり。

詮慧

〇「得見此塔」と云う、此の時刻いかなるべきぞ。欲知仏性義当観時節因縁という欲知ほどの得見と可心得也。能見所見に関わる得見なるべからず。

〇「皆近」と云う、物を置きてその物にかの物が近づくと云うにはあらず。阿耨多羅三藐三菩提を近と仕う。遠品近品とて、遠をば五百塵点劫と立て、近をば三千塵点劫などと云うには異なり。今の近は遠に不対、親切の近也。近事男近事女などと云うは、比丘に近づき仕うを近事男とし、比丘尼に近づき仕うを近事女とす。これらは世間の遠近也、不能比校。

〇「阿耨多羅三藐三菩提」とは、いづくを指し、いかなるべきぞと訪ぬるに、今の在々処々と説く是也。

〇「実相を塔と云う」と(は)、経巻如来全身なり、極令の高広、その量必ず実相量なり。

〇「華香・瓔珞等これ実相也」と云う、能供養所供養、皆経巻。供養と云う心地(は)、たとえば烈焔亘天(は)仏法と説き、亘天烈焔には法仏を説くと云わんが如し。実相を以て実相を供養し、経巻を以て経巻を供養し、華香瓔珞を以て華香瓔珞を供養し、供養を以て供養するなり。何物か諸法にあらざる、実相なるが故に。

〇「人中上華。上香、名衣服なり、是等皆実相也、供養恭敬実相也」、この上華・上香と云い、上の字、名衣名服と云う、名の字これは最上の上なり、名も最上の心地也。名香と云う義也。

〇「古仏舎利仏舎利―人舎利」と云う、是皆実相也、経巻也。実相と談ぜずば輪王、獅子人等の舎利は嫌いぬべし。

経豪

  • 如前云う受持・読誦・解説・書写と塔と一体なる上は、今御釈尤有其謂歟。
  • 如文いくたびも、経巻・如来全身・舎利等の非各別一体なる道理を明かさるる也。
  • 「経巻これ舎利と知りなば、舎利はこれ経巻なり」とは、などか知らざらんと覚えたれども、からくして、経巻が舎利也とは任(ずる)経文、如形知りようなれども、舎利を経巻ぞと知る事は、其の理に暗くして不可叶事也、能々可思案事也。
  • 舎利を受持・読誦解説・書写」と云う詞、不普通不被心得詞なり。但此の受持・読誦・解説・書写を経巻と談じ、又此の経巻(は)則ち舎利也。受持・読誦等を各別に舎利と心得るは、滅後の事也などとの心得る時こそ、此の不審も疑心も出でくれ、此の道理の上には、舎利を受持・読誦・解説・書写と云う誦、尤もな理、今は可相叶也。以之開悟とも或従経巻とも可云也。
  • 「古仏舎利・今仏舎利」などと云えば、仮令過去七仏等の舎利を古仏と云い、今の釈尊御舎利等を、今仏舎利などと名づくるように被心得ぬべし非爾。所詮只古仏今仏、辟支仏、転輪王獅子木仏、絵仏舎利などとは、いかにとあるべきぞ。実にも人には闍維(だび)の後ならず、現身には舎利はあるなり。則ち宏智古仏は髪を剃らず、長髪なりけり。或る時、大慧髪を剃らるべき由、諷諌(遠回しに忠告)すれば、剃る物なしと被答。さらば剃りて給はらんと被申しけるに、大慧よりて被剃髪ければ、髪の根ごとに舎利ありて、総て固くて、不被剃りけり。かかる事もありけり、其後大慧殊信仰甚云々。

 

釈迦牟尼仏告大衆言、我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽、復倍上数。いま八斛四斗の舎利は、なほこれ仏寿なり。本行菩薩道の寿命は、三千大千世界のみにあらず、そこばくなるべし。これ如来全身なり、これ経巻なり。

経豪

  • 今此の経文は如来の寿命が、無際限長くて、今まで不尽。今より後も復倍上数にて、久しかるべきように心得たり、今は八斛四斗の舎利を仏寿とは可取也。此の仏寿(は)、只三千大千世界と限るべきにあらず、いく三千世界も仏寿に比せんに、不可有際限、故にそこばくとなるべしとはある也。此の道理が如来全身とも経巻とも、乃至舎利とも塔とも云わるべきなり。

 

智積菩薩いはく、我見釈迦如来、於無量劫、難行苦行、積功累徳、求菩薩道、未曾止息。観三千大千世界、乃至無有如芥子許、非是菩薩捨身命処。然後乃得為衆生故、成菩提道。はかりしりぬ、この三千大千世界は、赤心一片なり、虚空一隻なり。如来全身なり。捨未捨にかかはるべからず。

舎利は仏前仏後にあらず、仏とならべるにあらず。無量劫の難行苦行は、仏胎仏腹の活計消息なり、仏皮肉骨随なり。

すでに未曾止息といふ、仏にいたりてもいよいよ精進なり。大千界に化してもなほすすむるなり。全身の活計かくのごとし。

詮慧 智積菩薩段―成菩提道

〇三千大千世界は、仏の身命也、全身也。「未曾止息。観三千大千世界、乃至無有如芥子許、非是菩薩捨身命処。然後乃得為衆生故、成菩提道」と云う故に、此の経文は龍女成仏の事を疑って、智積菩薩(が)仏に尋ね申す詞なり。「難行苦行、積功累徳」ならで、八歳龍女忽ちに成仏、まことに疑わしかぬりべけれども、すでに「三千大千世界は、赤心一片なり、虚空一隻なり。如来全身なり」と体脱しぬる上は、日来の見にあらず。「求菩薩道、未曾止息。観三千世界」とあれば、龍女の成仏は、止観の道理と可心得。仏の成仏とこそ云うべけれ、草木国土悉皆成仏と云うも大地有情同時成道と云うも皆同心なり。舎利弗の疑いも一日は有謂、然而皆仏の成仏也。龍女と限るべからず。

〇「捨未捨にかかわるべからず」と云う、身命を命ぞと云えば、不捨の時刻あるべし。故に

捨未捨に拘わるべからず、とは云うなり。

〇「無量劫の難行苦行は、仏胎仏腹の活計消息なり」と云う故に。

〇「未曾止息」と云う、是は仏果菩提に到りても止まず、精進に行ずべしと云うとぞ。覚えたれども今は止息・不止息の時あるべからず。仏に三世なし、障礙なしと、これ程に心得るを如来全身とは云うべきなり。

経豪

  • 是は経文也。龍女成仏の時、智積菩薩、仏に(文殊歟)奉不審し事也。所詮三千大千世界に芥子(けし)許りも、釈尊の寿命にあらずと云う処なしと心得る也。本行菩薩道が、此の三千大千世界にてある事を表さん料に被引此経文也。「捨未捨」と云う沙汰に不可及、「三千大千世界は、如来全身なり」と可心得なり。
  • 「舎利争か仏後にあらざるべき」、然而今の所談の舎利、実(に)仏前仏後に関わるべからざる理、必然也。此の上は又、仏と並ぶとも難云歟。「無量劫」の姿を釈尊と取るべし。「難行苦行」の姿(を)又、仏皮肉骨髄と可談也。是を「仏胎仏腹」とは可云也。
  • 是は仏に成るまで、難行苦行をば、差し置くべきように、皆心得たり。今は難行苦行を仏体と如前云談ずる上は、「仏に到りても、いよいよ精進也」とは云う也。「大千界に化しても、なお進む」と云うも、此の大千界則仏体也、故に進むとも云う也。此の「未曾止息」は、総て休すと云う義(は)不可有なり。是を精進と可名也。

                                  如来全身(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。

正法眼蔵優曇華

正法眼蔵第六十四 優曇華

靈山百萬衆前、世尊拈優曇華瞬目。于時摩訶迦葉、破顔微笑。

世尊云、我有正法眼藏涅槃妙心、附屬摩訶迦葉

七佛諸佛はおなじく拈華來なり、これを向上の拈華と修證現成せるなり。直下の拈花と裂破開明せり。

本則の経文は『大梵天王問仏決疑経』(『続蔵経』巻八十七・インターネットで閲覧可能)もしくは『聯灯会要』一・世尊章「世尊在霊山会上。拈花示衆。衆皆黙然。唯迦葉破顔微笑。世尊云。吾有正法眼蔵。涅槃妙心。実相無相。微妙法門。不立文字。教外別伝。付属摩訶迦葉」だと思われます。

なお標題の優曇華については『聯灯会要』では「花」としますが、二巻本『問仏決疑経』では「金色婆羅華」とします。また一巻本では「蓮華」とします。

「七仏諸仏はおなじく拈華来なり、これを向上の拈華と修証現成せるなり。直下の拈花と裂破開明せり」

「七仏諸仏」は過去七仏を云うもので、「同じく拈華来」とは断絶なき地続きの一体性を云うもので、この「拈華」の真実を実践する事を「向上の拈華修証現成」と表現し、さらに向上に対し「直下の拈華」の「裂破開明」と尽界各々の姿を喝破するものです。

 

しかあればすなはち、拈華裏の向上向下、自佗表裡等、ともに渾華拈なり。華量佛量、心量身量なり。いく拈華も面々の嫡々なり、附屬有在なり。世尊拈華來、なほ放下著いまだし。拈華世尊來、ときに嗣世尊なり。拈花時すなはち盡時のゆゑに同三世尊なり、同拈華なり。

拈華裏の向上向下、自佗表裡等、ともに渾華拈なり。華量仏量、心量身量なり」

拈華という真実態を言語表現する為に「向上向下、自他表裡」と全体を言い尽くす言句になり、これらを「渾」という字句に言い換え、更に「拈華」を解語し「華拈」と一方向ならぬ為の尋法で、全体を表徴するものを「華・仏・心・身」と表します。

「いく拈華も面々の嫡々なり、附屬有在なり。世尊拈華来、なほ放下著いまだし。拈華世尊来、ときに嗣世尊なり」

今、問題にしているのは釈尊摩訶迦葉との拈華ですが、「いく拈華も面々の嫡々」とは、とりもなおさず我々日々の行持が釈尊と連続する様態を「拈華世尊来ときに嗣世尊」と言うものです。

 

拈花時すなはち盡時のゆゑに同三世尊なり、同拈華なり。いはゆる拈花といふは、花拈華なり。梅華春花、雪花蓮華等なり。いはくの梅花の五葉は三百六十餘會なり、五千四十八巻なり、三乘十二分教なり、三賢十聖なり。これによりて三賢十聖およばざるなり。大藏あり、奇特あり、これを華開世界起といふ。

「拈花時すなはち尽時のゆゑに同三世尊なり、同拈華なり」

先の文の復言で、次に拈花の説明で「梅華・春花・雪花・蓮華」等を拈(ひね)る事をいい、次に言う「梅花の五葉は三百六十余会・五千四十八巻・三乗十二分教・三賢十聖」と梅花の五葉という字句を真実態の全体と位置づけ、三百六十余会以下の全体と同性同体ならしむ構文で、さらに「大蔵・奇特・華開世界起」と全体性を象徴する語を使われます。

 

一華開五葉、結果自然成とは、渾身是己掛渾身なり。桃花をみて眼睛を打失し、翠竹をきくに耳處を不現ならしむる、拈花の而今なり。腰雪斷臂、禮拝得髓する、花自開なり。石碓米白、夜半傳衣する、華已拈なり。これら世尊手裡の命根なり。

「一華開五葉、結果自然成」

この句は達磨が慧可に説いた「吾本来茲土。伝法救迷情。一華開五葉。結果自然成」(『景徳伝灯録』三・第二十八祖菩提達磨章)を引用したもので、先程からの「拈花」を拈提する為に説く全体性を喩える言句で、「渾身是己掛渾身」は『摩訶般若波羅蜜』巻に引く如浄の語「渾身似口掛虚空」を改変させたもので、「渾身」という全体を表徴させ「桃花・翠竹」の話頭を例示させ、「拈花の而今」と昔日の説話でなく而今の現成が「釈尊の拈花」の実態を説くものです。

さらに先程の達磨の偈文を引用したことから、慧可による「腰雪断臂・礼拝得髄」さらに六祖慧能の「石碓米白・夜半伝衣」も悉く拈華の一様態である「華巳拈」と説き、これらは全て世尊の手のなかの命根であるとの「拈花」に対する提唱です。

 

おほよそ拈華は世尊成道より已前にあり、世尊成道と同時なり、世尊成道よりものちにあり。これによりて、華成道なり。拈華はるかにこれらの時節を超越せり。諸佛諸祖の發心發足、修證保任、ともに拈華の春風を蝶舞するなり。しかあれば、いま瞿曇世尊、はなのなかに身をいれ、空のなかに身をかくせるによりて、鼻孔をとるべし、虚空をとれり、拈華と稱ず。拈花は眼睛にて拈ず、心識にて拈ず、鼻孔にて拈ず、華拈にて拈ずるなり。

「拈華」は一つの事象を云うのではなく、仏法の真実具現態として取り扱っているわけですから、過去から未来に到る事実を「拈華」に表徴させる為に、「成道以前、成道同時、成道のちにあり」と文言化され、更に修飾語として拈華は「時節を超越、発心発足、修証保任」と続け、「春風蝶舞」という自然の場景と拈華という仏道の場面をリンクさせる漢詩的表現です。

また拈華を異次元から捉えた「瞿曇世尊はなの中に身を入れ、空の中に身を蔵せるによりて」と表現を変えます。このような表現は『正法眼蔵』各巻に見られるキーワード的見方で、前段で説いた「一華開五葉、結果自然成とは渾身是己掛渾身」にも通底するものだと思われます。この結果として「鼻孔をとるべし、虚空をとれり」と言われますが、先にいう「はなのなかに身を入れ」のはなとは拈華の華(花)に解されますが、「鼻孔」との拈提からすると華(花)と鼻を掛けた道元禅師のことばあそび的語調が感じられます。拈提はさらに「心識、鼻孔、華拈にて拈ず」と包囲含意するものです。

 

おほよそこの山かは天地、日月風雨、人畜草木のいろいろ、角々拈來せる、すなはちこれ拈優曇花なり。生死去來も、はなのいろいろなり、はなの光明なり。いまわれらが、かくのごとく參學する、拈華來なり。

さらに続けて天然自然の「山河大地、日月風雨」等を列挙し、それぞれ(角々)が山河は山河を拈来し風雨は風雨を拈来とする事象を総称して「拈優曇花なり」とのことで、「生死去来」という一大事も「はなのいろいろ」に包含され、すべての全機現・全現成を「拈華来」という提唱です。

 

佛言、譬如優曇花、一切皆愛樂。

いはくの一切は、現身藏身の佛祖なり、草木昆蟲の自有光明在なり。皆愛樂とは、面々の皮肉骨髓、いまし活々なり。しかあればすなはち、一切はみな優曇華なり。かるがゆに、すなはちこれをまれなりといふ。

ここで『法華経』方便品偈文「能聴是法者 斯人亦復難 譬如優曇華 一切皆愛楽 天人所希有 時時乃一出 聞法歓喜讃 乃至発一言 則為巳供養 一切三世仏」(能く是の法を聴く者 斯の人亦復難し 譬えば優曇華の 一切皆愛楽し 天人の希有とする所にして 時時に乃ち一たび出づるが如し 法を聞いて歓喜し讃めて 乃至一言を発せば 則ち為れ已に 一切三世の仏を供養するなり)からの経文を引用しますが、唐突に挿文された感がある箇所です。

「一切」についての拈提「現身蔵身の仏祖」とは全自己を表現するもので、更に「草木昆虫」と人間以外のものを「一切」に加えるものです。

さらに「皆愛楽」の拈提は「面々の皮肉骨髄」つまり先にいう「現身蔵身・草木昆虫」のそれぞれが「活鱍々」と愛楽してるとの拈提です。

「一切はみな優曇華なり」とは一切の尽界の真実底は優曇華という語で代弁できるとの意で、「これをまれなり」とは先に説いた本則に云う「天人所希有」から引いたものですが、義雲和尚(1253―1333)による頌では「希有希有」と此の「まれなり」を此の巻の要諦と位置づけます。

 

瞬目とは、樹下に打坐して明星に眼睛を換卻せしときなり。このとき摩訶迦葉、破顔微笑するなり。顔容はやく破して拈華顔に換卻せり。如來瞬目のときに、われらが眼睛はやく打失しきたれり。この如來瞬目、すなはち拈華なり。優曇華こゝろづからひらくるなり。

この段から再び本則「霊山百万衆前、世尊拈優曇華瞬目。于時摩訶迦葉、破顔微笑」の「瞬目」に対する拈提ですが、ブダガヤでの眼睛と霊鷲山での眼睛の同等性を「換却」という語で言い換え、さらに迦葉の「破顔微笑」と「拈華顔」も同様に換却(同時同体)せりと。結語として「如来瞬目」=「拈華」=「優曇華」それぞれ別次元として把捉されるが、同時同体同性として扱う拈提です。

 

拈花の正當恁麼時は、一切の瞿曇、一切の迦葉、一切の衆生、一切のわれら、ともに一隻の手をのべて、おなじく拈華すること、只今までもいまだやまざるなり。さらに手裡藏身三昧あるがゆゑに、四大五陰といふなり。

瞬目に続き「拈花」の拈提です。拈花も仏法上での取り扱い事項ですから真実を意味するもので、決して釈迦一人の歴史的事実に留まるものではありません。ですから「一切の瞿曇一切の我等只今までも止まざるなし」と言われるのです。

 

我有は附囑なり、附囑は我有なり。附囑はかならず我有に罣礙せらるゝなり。我有は頂寧なり。その參學は、頂寧量を巴鼻して參學するなり。我有を拈じて附囑に換卻するとき、保任正法眼藏なり。祖師西來、これ拈花來なり。拈華を弄精魂といふ。弄精魂とは、祗管打坐、脱落身心なり。佛となり祖となるを弄精魂といふ、著衣喫飯を弄精魂といふなり。おほよそ佛祖極則事、かならず弄精魂なり。

次に拈提する主題は「我有正法眼蔵涅槃妙心、付属摩訶迦葉」ですが、一般読みでは「我に正法眼蔵涅槃妙心有り、摩訶迦葉に付属する」となりますが、拈提では「我有は付属なり、付属は我有なり」と眼蔵独自な読みです。

「我有」の有は、今現に生きている存在を意味しますから、正法眼蔵涅槃妙心という真実を表徴する比喩語と同等同列ですから、「我有は付属なり、付属は我有なり」という言い回しになり、ベクトルを変転させ「付属は必ず我有に罣礙」と一体性を説かれます。

「我有は頂寧なり。その参学は頂寧量を巴鼻して参学するなり」

「我有」は全体を表す語ですから、「頂寧」という頭上を全体と言い換え、その参究学人は頂寧量(全体)巴鼻・捕まえて参学するなりと。

「我有を拈じて附属に換却するとき、保任正法眼藏なり。祖師西来、これ拈花来なり。拈華を弄精魂といふ」

「我有は付属なり」を再度拈提するもので、我有正法眼蔵涅槃妙心、付属摩訶迦葉の「我有」と「付属」を入れ替えるとの意です。「保任」とは保護任持お略語で大事にする事の意ですから、正法眼蔵と一体になるという事です。

そのことが「祖師西来意」つまり仏法の要点と言い「年華来」という真実であるとの拈提で、改めて「拈華」とは「弄精魂」(修行に精魂を費やす)だと現実の而今の重要性を説くものです。

「弄精魂とは、祗管打坐、脱落身心なり。仏となり祖となるを弄精魂といふ、著衣喫飯を弄精魂といふなり。おほよそ仏祖極則事、かならず弄精魂なり」

ここで初めて優曇華―拈華―弄精魂―祇管打坐―脱落身心という図式が提示され、更に「著衣喫飯」という日常底の弄精魂という修行の普遍性を説き、その事が「仏祖極則事」と導かれます。つまり修行の特殊性を打論する為このように詳論するものです。

佛殿に相見せられ、僧堂を相見する、はなにいろいろいよいよそなはり、いろにひかりますますかさなるなり。さらに僧堂いま板をとりて雲中に拍し、佛殿いま笙をふくんで水底にふく。到恁麼のとき、あやまりて梅華引を吹起せり。

初めに説く「仏殿に相見せられ、僧堂を相見する」は『光明』巻(仁治三(1242)年六月二日興聖寺示衆)での雲門匡真示衆語「人々尽有光明在、看時不見暗昏々、作麼生是諸人光明在。衆無対。自代云、僧堂・仏殿・厨庫・山門」を底本とした提唱で、言わんとする処は「仏殿は仏殿に相見し、僧堂は僧堂に相見する」道理をいうもので、その無尽の道理に花に色々備わり、色に光ますます重なると形容されたものです。

僧堂いま板をとりて雲中に拍し、仏殿いま笙をふくんで水底にふく」

この段は総じて前後の文脈からし優曇華・拈華とは脈絡が無いようですが、「弄精魂」をキーワードに据えての拈提です。

出典は『景徳伝灯録』二十九・雲頂山僧徳敷詩十首の語黙難測

「閑坐冥然聖莫知。縦言無物比方伊。石人把板雲中拍。木女含笙水底吹。若道不聞渠未暁。欲尋其響爾還疑。教君唱和仍須和。休問宮商竹与糸」

(閑坐冥然として聖も知ること莫し。縦え言うも物として伊(かれ)に比方すること無し。石人、板を把りて雲中に拍し、木女は笙を含んで水底に吹く。若し聞かずと道わば渠(かれ)を未だ暁らめず、其の響きを尋ねんと欲せば爾還って疑わん。君をして唱和せしむ、仍ち須らく和すべし。宮商に竹と糸とを問うことを休せよ)からの借用語です。

言わんとするは無所得無所悟を表徴するものと思われますが、酒井得元老師「眼蔵会提唱テープ」によると「大自然の中での修行のあり方(弄精魂)と言示され、また石井恭二氏現代語訳では「僧堂にあって板をとって雲の中に響かせ、仏殿で笙を口に含んで水底に調べを吹くごとき境地を得る」と情緒論的解釈です。

「到恁麼の時あやまりて梅華引を吹起せり」

「到恁麼」とは「僧堂いま板をとりて雲中に拍し、仏殿いま笙を含んで水底に吹く」を示し、「あやまりて」とは次段に引用する『如浄語録』に扱う「梅華引」を援用する為に、「笙」と絡ませ又「春風繚乱吹」の吹を付加した「吹起せり」の結語です。

 

いはゆる先師古佛いはく、

瞿曇打失眼睛時  雪裡梅花只一枝

而今到處成荊棘  卻笑春風繚亂吹

いま如來の眼睛あやまりて梅花となれり。梅花いま彌綸せる荊棘をなせり。如來は眼睛に藏身し、眼睛は梅花に藏身す、梅花は荊棘に藏身せり。いまかへりて春風をふく。しかもかくのごとくなりといへども、桃花樂を慶快す。

先師古仏「雪裡の梅花」は『梅花』巻(寛元元(1243)年十一月六日吉嶺寺)にて提唱された同文を本則とし拈提に入られますが、「瞿曇打失眼睛時、雪裡梅花只一枝」は先段に説く「瞬目とは樹下に打坐して明星に眼睛を換却せし時なり」を置き換えての同義語句と考慮する必要があります。

「いま如来の眼睛あやまりて梅花となれり。梅花いま弥綸せる荊棘をなせり」

ここで云う「梅花」は先に云う「明星」に置き換えられ、先段でも説くように如来の眼睛(真実態)―梅花―荊棘の一体性を示唆し、

如来は眼睛に藏身し、眼睛は梅花に藏身す、梅花は荊棘に藏身せり」

如来を同参せしめる繰り返しの言です。さらに本則にある「春風」を取り出し次段での「桃花落」を「桃花楽」と文体修正し、如来―眼睛―梅花―荊棘―春風―桃花と自然界を表徴させて「優曇華」との真実同等性の拈提です。

 

先師天童古佛云、靈雲見處桃花開、天童見處桃花落。

しるべし、桃花開は靈雲の見處なり、直至如今更不疑なり。桃花落は天童の見處なり。桃花のひらくるは春のかぜにもよほされ、桃花のおつるは春のかぜににくまる。たとひ春風ふかく桃花をにくむとも、桃花おちて身心脱落せん。

爾時寛元二年甲辰二月十二日在越宇吉峰精藍示衆

本則は『如浄語録』下「上堂。霊雲見処桃花開。天童見処桃花落。桃花開春風催。桃花落春風悪。霊雲且置。莫有与天童相見底麼。春風悪桃花。躍浪生頭角」が典拠となります。

霊雲については『渓声山色』巻(延応二(1240)年四月二十日興聖寺示衆)に次のように記される。

「霊雲志勤禅師は三十年の辨道なり。あるとき遊山するに、山脚に休息してはるかに人里を望見す。ときに春なり。桃花のさかりなるをみて忽然として悟道す。偈をつくりて大潙に呈するにいはく、三十年来尋剣客、幾回葉落又抽枝。自従一見桃花後、直至如今更不疑」

ここでの拈提は文意のままに解し、「桃花の開くるは春の風に催され、桃花の落つるは春の風に悪くまる」は『如浄語録』を訓読したもので、「たとひ春風ふかく桃花をにくむとも、桃花おちて身心脱落せん」は道元禅師の拈提で、如浄和尚が云う桃花落の「落」と身心脱落の「落」を掛けたものです。また先にも云うように「桃花楽」・「桃花落」・「身心脱落」は「ラク」を縁語とした提唱の結びとした事は、道元禅師の如浄和尚に対するノスタルジアを想わせる提唱です。

 

正法眼蔵第六十四「優曇華」を読み解く

正法眼蔵第六十四「優曇華」を読み解く

 

 靈山百萬衆前、世尊拈優曇華瞬目。于時摩訶迦葉、破顔微笑。

 世尊云、我有正法眼藏涅槃妙心、附屬摩訶迦葉

 七佛諸佛はおなじく拈華來なり、これを向上の拈華と修證現成せるなり。直下の拈花と裂破開明せり。

 しかあればすなはち、拈華裏の向上向下、自佗表裡等、ともに渾華拈なり。華量佛量、心量身量なり。いく拈華も面々の嫡々なり、附屬有在なり。世尊拈華來、なほ放下著いまだし。拈華世尊來、ときに嗣世尊なり。拈花時すなはち盡時のゆゑに同参世尊なり、同拈華なり。

 いはゆる拈花といふは、花拈華なり。梅華春花、雪花蓮華等なり。いはくの梅花の五葉は三百六十餘會なり、五千四十八巻なり、三乘十二分教なり、三賢十聖なり。これによりて三賢十聖およばざるなり。大藏あり、奇特あり、これを華開世界起といふ。一華開五葉、結果自然成とは、渾身是己掛渾身なり。桃花をみて眼睛を打失し、翠竹をきくに耳處を不現ならしむる、拈花の而今なり。腰雪斷臂、禮拝得髓する、花自開なり。石碓米白、夜半傳衣する、華已拈なり。これら世尊手裡の命根なり。

 おほよそ拈華は世尊成道より已前にあり、世尊成道と同時なり、世尊成道よりものちにあり。これによりて、華成道なり。拈華はるかにこれらの時節を超越せり。諸佛諸祖の發心發足、修證保任、ともに拈華の春風を蝶舞するなり。しかあれば、いま瞿曇世尊、はなのなかに身をいれ、空のなかに身をかくせるによりて、鼻孔をとるべし、虚空をとれり、拈華と稱ず。拈花は眼睛にて拈ず、心識にて拈ず、鼻孔にて拈ず、華拈にて拈ずるなり。

 おほよそこの山河天地、日月風雨、人畜草木のいろいろ、角々拈來せる、すなはちこれ拈優曇花なり。生死去來も、はなのいろいろなり、はなの光明なり。いまわれらが、かくのごとく參學する、拈華來なり。

 佛言、譬如優曇花、一切皆愛樂。

 いはくの一切は、現身藏身の佛祖なり、草木昆蟲の自有光明在なり。皆愛樂とは、面々の皮肉骨髓、いまし活鱍々なり。

 しかあればすなはち、一切はみな優曇華なり。かるがゆゑに、すなはちこれをまれなりといふ。

 瞬目とは、樹下に打坐して明星に眼睛を換卻せしときなり。このとき摩訶迦葉、破顔微笑するなり。顔容はやく破して拈華顔に換卻せり。如來瞬目のときに、われらが眼睛はやく打失しきたれり。この如來瞬目、すなはち拈華なり。優曇華こゝろづからひらくるなり。

 拈花の正當恁麼時は、一切の瞿曇、一切の迦葉、一切の衆生、一切のわれら、ともに一隻の手をのべて、おなじく拈華すること、只今までもいまだやまざるなり。さらに手裡藏身三昧あるがゆゑに、四大五陰といふなり。

 我有は附囑なり、附囑は我有なり。附囑はかならず我有に罣礙せらるゝなり。我有は頂寧なり。その參學は、頂寧量を巴鼻して參學するなり。我有を拈じて附囑に換卻するとき、保任正法眼藏なり。祖師西來、これ拈花來なり。拈華を弄精魂といふ。弄精魂とは、祗管打坐、脱落身心なり。佛となり祖となるを弄精魂といふ、著衣喫飯を弄精魂といふなり。おほよそ佛祖極則事、かならず弄精魂なり。佛殿に相見せられ、僧堂を相見する、はなにいろいろいよいよそなはり、いろにひかりますますかさなるなり。さらに僧堂いま板をとりて雲中に拍し、佛殿いま笙をふくんで水底にふく。到恁麼のとき、あやまりて梅華引を吹起せり。

 いはゆる先師古佛いはく、

  瞿曇打失眼睛時  雪裡梅花只一枝

  而今到處成荊棘  卻笑春風繚亂吹

 いま如來の眼睛あやまりて梅花となれり。梅花いま彌綸せる荊棘をなせり。如來は眼睛に藏身し、眼睛は梅花に藏身す、梅花は荊棘に藏身せり。いまかへりて春風をふく。しかもかくのごとくなりといへども、桃花樂を慶快す。

 先師天童古佛云、靈雲見處桃花開、天童見處桃花落。

 しるべし、桃花開は靈雲の見處なり、直至如今更不疑なり。桃花落は天童の見處なり。桃花のひらくるは春のかぜにもよほされ、桃花のおつるは春のかぜににくまる。たとひ春風ふかく桃花をにくむとも、桃花おちて身心脱落せん。

 

 正法眼藏優曇華第六十四

 

  爾時寛元二年甲辰二月十二日在越宇吉峰精藍示衆

 

正法眼蔵を読み解く優曇華」(二谷正信著)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/udonge

 

詮慧・経豪による註解書については

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2020/03/04/000000

 

道元白山信仰ならびに吉峰・波著・禅師峰の関係についてー中世古 祥道

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2022/08/01/145341

 

禅研究に関しては、月間アーカイブをご覧ください

https://karnacitta.hatenablog.jp/

 

道元永平寺―『福井県史』通史編2中世より抜書(一部改変)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2021/08/14/173407

 

 

 

 

 

 

 

 

正法眼蔵第六十四 優曇華(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第六十四 優曇華(聞書・抄)

霊山百万衆前、世尊拈優曇華瞬目。于時摩訶迦葉、破顔微笑。世尊云、我有正法眼蔵涅槃妙心、附嘱摩訶迦葉

詮慧 

〇「霊山百万衆前、世尊拈優曇華瞬目―我有正法眼蔵涅槃妙心」なり、必ず拈華枝とは思うべからず。

〇今の草子の本意、法譬因縁等にあらず。余門には拈優曇華の義(は)無之。「我有正法眼蔵」とある我有は、茶飯と云わんも、払子拄杖と云わんも可同也。

〇「于時摩訶迦葉、破顔微笑」と云う、所詮、「附嘱摩訶迦葉」なり。如此云う時は、ただ一句とも可心得、又二句とも心得ぬべし。破顔微笑などと云えば、面のありさま許りと覚えたり。しかのみならず『発菩提心』の時、談ぜし所の「心心如木石」とも又「雪山喩大涅槃」とも可心得。

経豪

  • 此文を打ち任せて、人の心得たるようは、「世尊拈優曇華して、百万衆の前にして、我有正法眼蔵涅槃妙心、附嘱摩訶迦葉」と被仰して、百万衆は皆不心得して、迦葉ひとりさとり給う故に、釈尊附嘱摩訶迦葉と、被仰せたりと多分心得たり。実にも文の面はかく見たり、又此の義もなかるべきにあらず。但是は約(おおよそ)時分は、四十余年の説、其内に今の義暫時ありける事と覚えたり。広狭にも拘わりぬべし、時分の遠近もありと聞こゆ。旁非祖門直指理、凡見なるべし。今の釈尊優曇華・百万衆等、努々(ゆめゆめ)各別に不可談、只一体也、一理也。然者釈尊の拈優曇華とや云うべき、優曇華釈尊を拈ずとや云うべき。又釈尊釈尊を拈じ、優曇華優曇華を拈ずともや談ずべき、又百万衆は不会にて、迦葉ひとり会すと不可心得。附嘱摩訶迦葉の時は、百万衆迦葉に蔵身すべし。故に迦葉ひとり会して、百万衆は不会也と云う理とあるべし、百万衆許り会して、迦葉不会と云う道理もあるべき也、能々閑可了見事也。又釈尊ひとり拈優曇華し給うとこそ思いつるを、「七仏諸仏は同じく年華来也」とあり。釈尊与七仏諸仏、全不可別体、差別なき道理あきらけし。

 

七仏諸仏はおなじく拈華来なり、これを向上の拈華と修証現成せるなり。直下の拈花と裂破開明せり。

しかあればすなはち、拈華裏の向上向下、自佗表裡等、ともに渾華拈なり。

詮慧

「七仏諸仏は同じく拈華来也」と云う、如三世諸仏諸法の儀式なれば、仏々相伝無違、法華経をば三世諸仏出世の本懐と云う。これのみならず、大小権実教、仏説都不可替なり。然者拈華来也、この故に拈華より外の法あるべからず。「裂破開明せり」とあるは、これ解脱也。

〇「向上の拈華と修証現成せるなり。向上下、向自他、向表裏、渾華拈」と云う、残る所あるべからず。

〇「直下の拈花と裂破開明せり。拈華裏の向上向下、自他表裡、花量仏量、心量身量也」、已上如此談ずる時に、拈優曇華ならぬ事、不可有。尽十方界真実人体とも、沙門一隻眼ぞ、自己光明ぞと説くも、只是程の事也。

経豪

  • 釈尊拈華の姿則是、「七仏諸仏拈華来」の理なるべし。此の道理を「向上の拈華と修証現成し、直下の拈華と裂破開明せり」とは云わるる也、拈華の向上拈華の直下なるべし。
  • 是は「向上下、向自他、向表裏等」、皆拈華の上の所談なるべし。故に「渾華拈也」と云う、全華拈の理也。「拈華」とあるを「華拈」と打ち返されたり、是は能所なき道理を表わさるるなり、常事也。優曇華優曇華を拈じたる道理か、「渾華拈」とは云わるる也。

 

華量仏量、心量身量なり。いく拈華も面々の嫡々なり、附嘱有在なり。

世尊拈華来、なほ放下著いまだし。拈華世尊来、ときに嗣世尊なり。

詮慧

〇「世尊拈華来、放下著いまだし」と云う、世尊と云えば、必ず拈華瞬目なるが故に、放下著すべからず。故に「いまだし」と仕う。「拈」という詞に付いて、放下著の詞もあり、これいく諸仏も拈来なるべし。仍って放下する事があるまじき所を「放下いまだし」と云う也。しかあれば又「嗣世尊」の条無疑。

〇「拈華世尊来、ときに嗣世尊なり」という、世尊嗣世尊と也。拈華瞬目と別体とは云うまじ、拈華がやがて瞬目なる也。華の華を拈ずるにてはなし、たとえば華拈と華也、世界又拈花なるべし。

経豪

  • 「華量仏量、心量身量」、其皆今は拈華の上の華、仏心身なり。所詮附属摩訶迦葉とあれば、只迦葉一人附属と聞こえたり。今の向上向下、自他表裏等、皆悉附属ならずと云う、理なき所を「面々の嫡也、附嘱有在也」とは云う也。
  • 世尊の拈華し給う御姿は、かかる事の一時ありけるかとこそ覚えたれ。而今は「世尊拈華来、放下著いまだし」とは、此の拈華来いまにたえず、さしおかずと云う心地也。此の理を「拈華世尊来、ときに嗣世尊也」とは云うなり。

 

拈花時すなはち尽時のゆゑに同参世尊なり、同拈華なり

いはゆる拈花といふは、花拈華なり。梅華春花、雪花蓮華等なり。

いはくの梅花の五葉は三百六十余会なり、五千四十八巻なり、三乗十二分教なり、三賢十聖なり。これによりて三賢十聖およばざるなり。

詮慧

〇「拈華時すなわち尽時の故に同三世尊也、同拈華也」と云う、拈華は尽時なり、尽時は拈華なり、是を「同参世尊」とも云う也。

〇「梅華春花、雪華蓮華」、一一に仏となり、過去の七仏を迦葉仏ぞ、尸棄仏ぞなどと数えるが如く、梅春雪蓮等を挙げ連ぬる也。

〇「三賢十聖也、是によりて三賢十聖不及也」という、梅華の方よりは皆被捨、三賢十聖の方よりは不可及也、故に不及という。

経豪

  • 「拈華時すなわち尽時の故に」、放下著いまだしと云いて、嗣世尊なりとも云うなり。「同参世尊なり、同拈華也」とは、世尊と拈華との姿は、各別にこそ思いつるを、今は以世尊称華、以華号世尊上は、同参世尊とも、同拈華とも云わるべき道理顕然也。所詮、世尊(は)世尊と同参し、拈華(が)拈華と同拈華なる理に可落居なり。故に「拈華と云うは、華拈華」と被決也。
  • 文に聞こえたり。「拈華」と云えば、いかにも釈尊と華とは各別に覚ゆる也。今は「華拈華」と談ず如前云。又優曇華は諸仏出世し、輪王出現の時生ずる華、希代珍しき物也。「梅華春華已下蓮華等」は常にあり、目に盛りたり。勝劣異也と思い付けたるを、今の梅華已下の姿をやがて優曇華とは可談也。
  • 如御釈。「三百六十余会なり、五千四十八巻、三乗十二分教、三賢十聖」等を梅華の五華(葉)とは可談なり。三賢十聖(を)打ち任せて心得たる様にては、今の梅華の五華とは難談所を如此被釈也。

 

大蔵あり、奇特あり、これを華開世界起といふ。

詮慧

〇「大蔵あり、奇特あり」と云う、大蔵とは諸教の事也。奇特は点茶来、手巾来程の事を謂う。

経豪

  • 「大蔵」とは経の名也。実(に)今の所談可謂「奇特也」と、又「華開世界起」とは、華は世界の内の一箇の姿、世界は総体と被心得ぬべし。今は此の世界を華開と談ず、故に華開世界起とは云う也。

 

一華開五葉、結果自然成とは、渾身是己掛渾身なり。

桃花をみて眼睛を打失し、翠竹をきくに耳処を不現ならしむる、拈花の而今なり。腰雪断臂、礼拝得髄する、花自開なり。

詮慧

〇「打失」と云うは悟也。霊雲拈桃華、香厳拈竹也。仏の拈優曇華の定なり。仏身優曇華なれば仏身は打失と云うべし、只優曇華ばかりなり。霊雲拈桃花なれば、霊雲は打失と云うべし、香厳拈翠竹なれば、香厳は打失すべき也。「翠竹をきくに耳処を不現ならしむる」と云う、これは眼処聞声方得知の心也。

経豪

  • 是も「華開後果結」と心得えば、常の凡見不珍道理なるべし、華与果全不可各別。是は初祖の偈頌也、此の理は「渾身是己掛渾身なり」。是は如浄禅師の風鈴頌を開山の和して仰せある句歟、御詞を被取出歟。風鈴が別物にて虚空に掛かりたれば、離るとは不可心得、虚空与風鈴、別体にあらず。只渾身が渾身に掛かりたる道理なるべし、仍って此の証に被引なり。
  • 抑も霊雲の桃華を見て悟道せし、只我等が華紅葉を見るようにはあらじ。今の桃華を見る、霊雲の眼睛は、梅華が霊雲を見つけるか、又桃華が桃華を見つけるか、霊雲の霊雲を見つけるか、香厳の翠竹を聞けるも以同前なるべし。以翠竹やがて耳ともやしつらん、翠竹が香厳を聞けるか覚束なし。故に「眼睛を打失し、耳処を不現ならしむる、拈華の而今也」とは云うなり。

 

石碓米白、夜半伝衣する、華已拈なり。これら世尊手裡の命根なり。

経豪

  • 所挙の腰雪断臂已下の姿を、皆拈華の道理也と被釈。又「世尊手裡の命根」とも可談なり。

 

おほよそ拈華は世尊成道より已前にあり、世尊成道と同時なり、世尊成道よりものちにあり。これによりて、華成道なり。拈華はるかにこれらの時節を超越せり。

諸仏諸祖の発心発足、修証保任、ともに拈華の春風を蝶舞するなり。しかあれば、いま瞿曇世尊、はなのなかに身をいれ、空のなかに身をかくせるによりて、鼻孔をとるべし、虚空をとれり、拈華と称ず。拈花は眼睛にて拈ず、心識にて拈ず、鼻孔にて拈ず、華拈にて拈ずるなり。

経豪

  • 世尊の拈優曇華の姿は、如来与華同時也と心得所を成道より已前、成道より後と談ずれば、同時の詞も旧見には不帰也。今の「前後同時」の詞は、仏性の沙汰の時、仏性は成道より後に具足するなりと云いし程の前後なるべし。又世尊の成道とこそ思い習わしたれども、華与世尊、一体の上は非別体上は、尤(も)「華成道」とは云わるべき也。実(に)拈華の上の時節長短等を超越すべき条勿論なり。
  • 是は所詮、今「諸仏諸祖云うも、発心発足と談じ、修証保任」などと重々に云わるれども、只拈華の上の理のあらわるる所を「春風を蝶舞する也」とは云う也。拈華の千変万化する姿を云うべき也。
  • 「瞿曇世尊、華の中に身を入れ」というは、此の華が世尊なる所を如此云也。「空の中に身をかくす」と云うも、此の空を世尊と談ずる故に、空の中に身をかくすとも云う也、此の鼻孔(は)又虚空なるべし。「鼻孔をとる姿(は)又虚空をとる」なるべし。

「拈華」と云う詞に付いては、世尊優曇華を拈じ給いぬると云えば、我等が如扇笏を手に持したらんずるように心得たり、不可然。故に「眼睛にても拈じ、心識若しくは鼻孔にても可拈」とは云う也。実にも強手裏許にて可拈と云う義あるべからず。世尊の拈優曇華の理、眼睛にても心識・鼻孔乃至、行住坐臥、生死去来にても可拈なり。是等の道理が、「華拈にて拈ずる也」とも云わるる也。

 

おほよそこの山河天地、日月風雨、人畜草木のいろいろ、角々拈来せる、すなはちこれ拈優曇花なり。生死去来も、はなのいろいろなり、はなの光明なり。いまわれらが、かくのごとく参学する、拈華来なり。

経豪

  • 御釈に分明也。右に所挙の二つ(の)姿(は)、皆「是優曇華也」とあり、非可貽不審。「今我等が参学するまでも、皆拈華来也」と云うなり。

 

仏言、譬如優曇花、一切皆愛楽。いはくの一切は、現身蔵身の仏祖なり、草木昆虫の自有光明在なり。

皆愛楽とは、面々の皮肉骨髄、いまし活々なり。しかあればすなはち、一切はみな優曇華なり。かるがゆゑに、すなはちこれをまれなりといふ。

詮慧

〇「仏言―一切皆愛楽」、一切皆愛楽など云うは一切を面目とする、これ愛楽なり。極楽世界の楽と云うは、此の三界の楽に対して、猶すぐれたりと説く故に極と云う字はあるべし。但こなたには不可用、極楽とは云えども、法身の極があらん上は只、一且かりの極なるべし。三界唯心こそ極とは云うべけれ、妙覚のさとり、諸法実相なるべし。「希也」と云う詞、優曇華につけたるが、又希と云う詞、世間に云うには可違。三界唯心諸法実相などと云わん、これ希の義なるべし。

〇「活鱍々」(は)愛楽なり。

〇「譬如」の詞は、喩雪山と云いし喩え也。たとえと云えばとて、両物あるにあらず。此の「譬如優曇花、一切皆愛楽」はただ一切衆生悉有仏性、如来常住無有変易と心得るべし。優曇華と云えばとて、華を愛する心にのみ不可染汚。

〇諸法実相と聞く、能観所観を立てて云わば、所観の我は残ると聞こえぬべし、この「一切は現身蔵身」と云い、「面々の皮肉骨髄」と云う。

経豪

  • 法花経文なり。是も常には喩えの詞と聞こゆ。其の故は優曇華(は)有り難き物也。今の法華経も如此遭い難く、難見難聞なる喩えに被引と覚えたり。而今の御釈に「一切皆愛楽、いわくの一切は、現身蔵身の仏祖也、草木昆虫の自有光明在也」とあり、然者愛楽の人、所愛の華と各別なるまじき条顕然也。うどん華の姿を、やがて愛楽とも可談也。
  • 「面々」とは、「現身蔵身仏祖、並びに草木昆虫」等を指す歟。此の上の「皮肉骨髄いまし活鱍々也」とは、此の上の皮肉骨髄まことに、彼是皆可尽界ゆえに、活鱍々と云う也。所詮「一切は皆優曇華也」とあり、分明に聞こえたり。又「希也」とは、たまさか(思いがけない)なる珍事を、我等は希也とは思い習わしたり。今の「希」の詞は、所詮優曇華ならず一法(は)不可有道理を以て希也とは可云也。

 

瞬目とは、樹下に打坐して明星に眼睛を換却せしときなり。

このとき摩訶迦葉、破顔微笑するなり。顔容はやく破して拈華顔に換却せり。

如来瞬目のときに、われらが眼睛はやく打失しきたれり。この如来瞬目、すなはち拈華なり。優曇華こゝろづからひらくるなり。

経豪

  • 是は釈尊明星を見て、成正覚給うと云う。打ち任せての定に心得ば、所見の明星、能見の釈迦乃至以眼睛明星を見と云わば、旁不可離能所。今は不爾、以此明星為釈尊眼睛、此上には更無能見所見。明星則釈尊釈尊則明星也。今の瞬目を世人心得たるは、釈尊目くわしし給うを、余人は不心得。迦葉一人心得て、破顔微笑すと心得所を、明星に眼睛を換却せし時とある上は、旧見の見不見に関わり、能見の釈尊、所見の明星などと思いつる、旧見は忽破するなり。
  • 「迦葉の破顔微笑する、顔容はこのとき破れて、今は迦葉破顔微笑の姿は、打失して拈華顔に換却するなり」、故に迦葉ひとり破顔すとは不心得也。一切皆優曇華ならんには、実(に)迦葉の顔容は尤可破也。
  • 是は「如来瞬目」をば、只釈尊一時の御姿にて、御すと心得常事也。而(しかるに)「如来瞬目」と云う事出でくる時は、瞬目の外又交わるべき物なき故に、「如来瞬目の時、我等が眼睛、はやく打失し来たれり」とは云う也。如来の瞬目の御姿を今は「優曇華の心づから開くる」とは云う也。

 

拈花の正当恁麼時は、一切の瞿曇、一切の迦葉、一切の衆生、一切のわれら、ともに一隻の手をのべて、おなじく拈華すること、只今までもいまだやまざるなり。さらに手裡蔵身三昧あるがゆゑに、四大五陰といふなり。

詮慧

〇「手裏蔵身」と云うは、拈花の時節を差(指)すなり。華を拈ずる故に、手裏と云う。華現前すれば、身は蔵身するとなり。

経豪

  • 優曇華の御姿は、釈尊一人の御事と思い習わしたりつるを、今は「拈花の正当恁麼時は、一切の瞿曇、一切の迦葉、一切の衆生、一切の我等共に、一隻の手をのべて、同じく拈華すること只今までも、いまだとどまらざる也」とあれば、旧見に大いに違う。但此の拈華の道理尤如此いわるべき也。此の拈華、始中終に拘わるべからず、尽時なるべき故に。「只今までも未止(いまだやまざるなり)」とは云う也。又如前云、必ずしも手裏許にて不可有、手裏の上には四大五陰も、乃至色声香味触法等もあるべき也。

 

我有は附嘱なり、附嘱は我有なり。附嘱はかならず我有に罣礙せらるるなり。

我有は頂□(寧+頁)なり。その参学は、頂□(寧+頁)量を巴鼻して参学するなり。

我有を拈じて附嘱に換却するとき、保任正法眼蔵なり。祖師西来、これ拈花来なり。拈華を弄精魂といふ。

弄精魂とは、祗管打坐、脱落身心なり。仏となり祖となるを弄精魂といふ、著衣喫飯を弄精魂といふなり。おほよそ仏祖極則事、かならず弄精魂なり。

詮慧

〇「拈華を弄精魂」という、これに世間・出世(の)心得(を)分かつべし。精魂を置いて弄せば「祗管打坐、脱落身心」とは難云を、今仏法に付きては、如此いわるる也。「仏となり祖となるを弄精魂」と云う故に。経豪

  • 此の我有正法眼蔵涅槃妙心、摩訶大迦葉付属の御訓をば、「我」と云うは釈尊也。御已証の法を迦葉一人に被付属と、多分心得たり、此の分も一往なかるべきにはあらず。但如此心得れば、有失先釈尊与迦葉、各別になるべし。又如来の御已証として、甚深法を持ち給うと云えば法与如来、又二途なるべし。非祖門仏法、今日「我有」をやがて「付属」と談(ずる)也。「我有」と云う時は、迦葉あるべからず、故に「我有は付属也、我有也」と云う也。此の道理が「我有に罣礙せらるる」とは云う也。
  • 今の「我有を頂□(寧+頁)」とは指す也。「頂□(寧+頁)量を巴鼻す」とは、無辺際量を以て参学すべしと云う也。我有を頂□(寧+頁)と云う、やがて頂□(寧+頁)量を巴鼻して、参学する姿なるべき。
  • 如前云。釈尊已証の法を以て、迦葉に付属し給うと心得るは、背直指理を如今云い、「我有を拈じて付属に換却する道理を正法眼蔵也」とは被釈なり。「祖師西来の姿を以て、拈花来」と可談。「拈華の姿を又弄精魂」とも可云なり。
  • 「弄精魂」とは、於意識上、思量分別する事を名づく、是凡見なり。今は如御釈、坐禅の姿を以(始め)て仏祖の行住坐臥、動揺進止を弄精魂と可名なり。「仏祖極則の事、必ず弄精魂なるべし」と云う此心なり。

 

仏殿に相見せられ、僧堂を相見する、はなにいろいろいよいよそなはり、いろにひかりますますかさなるなり。

さらに僧堂いま板をとりて雲中に拍し、仏殿いま笙をふくんで水底にふく。

到恁麼のとき、あやまりて梅華引を吹起せり。

詮慧

〇「仏殿に相見せられ、僧堂を相見する」と云う、此の仏殿僧堂は仏面祖面なり。

〇「板を雲中に拍す」と云う「雲中」とは僧を指す、雲衲などと云う故に。「拍す」とは板について云う也。「笙をふくんで水底にふく」と云う、是も僧を雲水と云えば水底と云う也。仏殿伎楽につきて笙と云う許也、別に子細あるべからず。

〇「梅華引を吹起せり」と云う、梅華開五葉の姿を、かく説くなり。

経豪

  • 「仏殿に被相見」と云う詞、争わざる事あるべきぞと覚えたり。是は只我等が、旧来思い習わしたりつる。土木の構(かまえ)を仏殿僧堂などと心得ん時の事なり。是は非仏法理、只仏殿は仏殿に相見し、僧堂は僧堂に被相見道理なるべし。雲門は僧堂仏殿厨庫山門と光明を談ぜし時は被示れき、以之可准知事也。
  • 此のぶ僧堂仏殿等の道理の無尽に表わるる所を、「花に色々そなわり、いろに光ますますかさなる也」とは云う也。
  • 此の詞(は)何事ぞと覚えたり、是も古き詞歟。所詮、「板を取りて雲中に拍するようも、仏殿笙を含んで水底に吹く姿も、不可類凡見。仏殿をや、笙とも談ずべからん。水中に吹く姿も以凡見案ずれば、争わざる事あるべきと覚ゆ、能々可了見事也。
  • 是は前には、優曇華を談ず。今は「あやまりて梅華引を吹起するなり」。「あやまりて」と云えば、悪しく成りたる詞とは不可心得。優曇花の今「梅華を吹起するなり」。其と云うは優曇華はめづらしく、重(たき)物と思い習わし、梅華は常の華、珍らしかるべきにあらずと取捨分別すべきにあらず。優曇華与梅華、無軽重、浅深義。優曇華の道理の響きて、梅華と現るる所をあやまりて、「梅華引を吹起せり」とは云う也。

 

いはゆる先師古仏いはく、瞿曇打失眼睛時、雪裡梅花只一枝。而今到処成荊棘、却笑春風繚乱吹。いま如来の眼睛あやまりて梅花となれり。梅花いま弥綸せる荊棘をなせり。

如来は眼睛に蔵身し、眼睛は梅花に蔵身す、梅花は荊棘に蔵身せり。いまかへりて春風をふく。しかもかくのごとくなりといへども、桃花楽を慶快す。

詮慧 

〇「先師古仏―却笑春風繚乱吹」、仏打失眼睛して、梅華となる、これ発心修行也。僧堂仏殿等(の)相見、これら皆梅華の繚乱なる事を説くなり。

〇「桃華楽を慶快す」と云うは、音楽に付いて出でくる詞也。

経豪

  • 此の天童の御詞、所々に被引之、如前云。「如来の眼睛あやまりて梅華となれり」とあり、梅華の尽界に弥綸する姿を、「荊棘をなせり」とは云う也。
  • 御釈に聞こえたり。「如来は眼睛に蔵身し、眼睛は梅華に蔵身す、梅華は荊棘に蔵身すべ

き也」、是則ち一方に顕わるる時、一方(は)隠るる道理なるべし。梅華は春風に被吹かと

こそ思い付きたれ、今は却りて春風を吹とあり。逆に聞こゆ、只所詮今の春風を梅華と可談

ゆえに、如此云わるる也。又「桃華楽を慶快す」とは、梅華の功徳の千変万化する時、今桃

華と顕わるる姿を如此云也。「慶快」とは円満満足の心地歟。

 

先師天童古仏云、霊雲見処桃花開、天童見処桃花落。しるべし、桃花開は霊雲の見処なり。

直至如今更不疑なり。桃花落は天童の見処なり。桃花のひらくるは春のかぜにもよほされ、

桃花のおつるは春のかぜににくまる。たとひ春風ふかく桃花をにくむとも、桃花おちて身心

脱落せん。

詮慧

〇「天童古仏―桃華落霊雲桃華開」これ拈華瞬目也、開明也。天童の「桃華落」是は脱落の

義なり。「風に被催と云うも、風に憎まると云う」も、皆桃華の上(の)詞なり。仏の上に

成仏と説き、脱落と云う程の事を桃華の開くるとも、落つるとも云う也。又「開与落」の両

字は、有仏性・無仏性の有無ほどの詞なり。

経豪

  • 霊雲は桃華の開くを見て悟道す。今の天童の見処は桃華落とあり、此の「開落」の詞、

雖似不同、桃花の上の開落也。今更得失勝劣の儀あるべからず。「桃華の開所をしばらく春

風に催さる」とは云い、「桃華の落所をしばらく春風に憎まる」とは云う也。然而非得失浅

深。桃華の落つるは、猶開と云うよりも悪しく聞こゆ。是凡見也。非可取所、今の落の字は

如御釈。解脱の姿、身心脱落の道理なるべし。

                                   優曇華(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かな

づかい等は、小拙による改変である事を記す。

正法眼蔵発菩提心

正法眼蔵第六十三 発菩提心

西國高祖曰、雪山喩大涅槃。

しるべし、たとふべきをたとふ。たとふべきといふは、親曾なるなり、端的なるなり。いはゆる雪山を拈來するは喩雪山なり。大涅槃を拈來する、大涅槃にたとふるなり。

「西國高祖曰、雪山喩大涅槃」ならびに次段の「震旦初祖日、心々如木石」の典拠は『古尊宿語録』二・百丈章最後部に「祇如今心如虚空相似。学始有所成。西国高祖云。雪山喩大涅槃。此土初祖云。心々如木石。三祖云。兀爾忘縁。曹谿云。善悪都莫思量」との記載があります。

「喩ふべきを喩ふ。喩ふべきといふは、親曾なるなり」

西国高祖とは釈尊を指しますから、インドからのヒマラヤ眺望は涅槃像の如くを、百丈懐海(749―814)はこう表現」されたと云う事を「喩ふべきを喩ひて、身辺で端的なり」との拈語です。

「雪山を拈来するは喩雪山なり、大涅槃を拈来する、大涅槃にたとふるなり」

ここは尋常の全機現的手法で、雪山は雪山ばかりで大涅槃というものが入り込む余地はなく、大涅槃は大涅槃ばかりを云うものです。

 

震旦初祖曰、心々如木石。

いはゆる心は心如なり。盡大地の心なり。このゆゑに自佗の心なり。盡大地人および盡十方界の佛祖および天龍等の心々は、これ木石なり。このほかさらに心あらざるなり。この木石、おのれづから有、無、空、色等の境界に籠籮せられず。この木石心をもて發心修證するなり、心木心石なるがゆゑなり。この心木心石のちからをもて、而今の思量箇不思量底は現成せり。心木心石の風聲を見聞するより、はじめて外道の流類を超越するなり。それよりさきは佛道にあらざるなり。

「震旦初祖曰、心々如木石」は百丈が語ったもので、達磨に関連した文献には見当たりません。「心々如木石」を一般読みでは「心々は木石の如し」との訓読みを破し、「心は心如なり」との拈語に注意を要します。

「尽大地の心なり。このゆゑに自佗の心なり。尽大地人および尽十方界の仏祖および天龍等の心々は、これ木石なり。このほかさらに心あらざるなり。」

先に「心は心如なり」と概念的定義でしたので、ここでは「心」の具体例を挙げるわけです。「尽大地」・「自己他己」はそれぞれ「心」であり、さらに「尽大地人」つまり我々自身、「尽十方界仏祖および天龍」これも我々自身が仏祖人であり、天人であり龍人との規定です。これらは皆共々「木石」と同等との拈提ですが、一見すると論理の飛躍超越を感ぜられるが、尽十方界中では存在自体が意味を体せず、全て「心如」に包摂される事実を仏法と呼ばしめるものです。

この木石、おのれづから有、無、空、色等の境界に籠籮せられず。この木石心をもて発心修証するなり、心木心石なるがゆゑなり」

「木石」は自然物ですから、「有無空色」などという概念の世界には収まらない。先程は尽大地の心から心木石を説きましたが、ここではベクトルを逆向きに換え「木石心をもて発心修証」させ、さらに「心々木石」を「心木・心石」と解体する尋常の手法です。

この心木心石のちからをもて、而今の思量箇不思量底は現成せり。心木心石の風声を見聞するより、はじめて外道の流類を超越するなり。それよりさきは仏道にあらざるなり。」

「心木心石」は日常底を喩うるもので、その形容を「思量箇不思量底」という「坐」を連関させる語句で以て表徴させ、さらに木石の「風声」つまり自然の息吹との一体性を感ずる時には、概念的に捉える「外道の流類」とは訣別され、「それよりさきは仏道にあらざるなり」とは「心木心石」の平常底を脱線するなとの言です。

 

大證國師曰、牆壁瓦礫、是古佛心。

いまの牆壁瓦礫、いづれのところにかあると參詳看あるべし。是什麼物恁麼現成と問取すべし。古佛心といふは、空王那畔にあらず。粥足飯足なり、草足水足なり。かくのごとくなるを拈來して、坐佛し作佛するを、發心と稱ず。

先には百丈による「雪山喩大涅槃・心々如木石」の拈提でしたが、此段よりしばらくは「牆壁瓦礫、是古仏心」を本則とした拈提です。『身心学道』巻(仁治三(1242)年九月九日興聖寺示衆)からの引用です。

いまの牆壁瓦礫、いづれのところにかあると参詳看あるべし」

今回も日常底・平常底の深淵さを「牆壁」(ついたて・かべ)「瓦礫」(かわら・石ころ)にある処を「参詳看」詳しく参じて看よとの事です。

「是什麼物恁麼現成と問取すべし。古仏心といふは、空王那畔にあらず。粥足飯足なり、草足水足なり」

先程から「心」の具体例を「木石」としたり「牆壁瓦礫」としましたが、今回は一つ一つうぃ云うのではなく総称として「是什麼物恁麼現成」という、六祖慧能が云う処の「什麼」に収斂された禅語を「問取すべし」との事です。この「問取」は質問の意ですが、眼蔵解釈に於いては「問い」との発語により「恁麼」が活かされる語意です。

続いて「古仏心」の説明ですが、先ず「空王那畔」という歴史的変移を破し、「粥足飯足」・「草足水足」という日々好日なる日常底を「古仏心」と定義し、かくの如く(日常底)を拈来(参究)し「坐仏作仏」祇管打坐する事そのものを「発心と称ず」と、行と(発)心との一体性をこの巻での要旨を述べられたものです。

 

おほよそ發菩提心の因縁、ほかより拈來せず、菩提心を拈來して發心するなり。菩提心を拈來するといふは、一莖草を拈じて造佛し、無根樹を拈じて造經するなり。いさごをもて供佛し、漿をもて供佛するなり。一摶の食を衆生にほどこし、五莖の花を如來にたてまつるなり。佗のすゝめによりて片善を修し、魔に嬈せられて禮佛する、また發菩提心なり。しかのみにあらず、知家非家、捨家出家、入山修道、信行法行するなり。造佛造塔するなり。讀經念佛するなり。爲衆説法するなり、尋師訪道するなり。跏趺坐するなり、一禮三寶するなり、一稱南無佛するなり。

 かくのごとく、八萬法蘊の因縁、かならず發心なり。あるいは夢中に發心するもの、得道せるあり、あるいは醉中に發心するもの、得道せるあり。あるいは飛花落葉のなかより發心得道するあり、あるいは桃花翠竹のなかより發心得道するあり。あるいは天上にして發心得道するあり、あるいは海中にして發心得道するあり。これみな發菩提心中にしてさらに發菩提心するなり。身心のなかにして發菩提心するなり。諸佛の身心中にして發菩提心するなり、佛祖の皮肉骨髓のなかにして發菩提心するなり。

 しかあれば、而今の造塔造佛等は、まさしくこれ發菩提心なり。直至成佛の發心なり、さらに中間に破癈すべからず。これを無爲の功徳とす、これを無作の功徳とす。これ眞如觀なり、これ法性觀なり。これ諸佛集三昧なり、これ得諸佛陀羅尼なり。これ阿耨多羅三藐三菩提心なり、これ阿羅漢果なり、これ佛現成なり。このほかさらに無爲無作等の法なきなり。

「おほよそ発菩提心の因縁、ほかより拈来せず、菩提心を拈来して発心するなり。菩提心を拈来するといふは、一茎草を拈じて造仏し、無根樹を拈じて造経するなり。いさごをもて供仏し、漿をもて供仏するなり。一摶の食を衆生にほどこし、五茎の花を如来にたてまつるなり」

ここでは「発菩提心」とは「菩提心を発する」としますが、『身心学道』巻では次のように定義されます。

「発菩提心はあるいは生死にしてこれを得る事あり、あるいは涅槃にしてこれを得る事あり、あるいは生死涅槃のほかにしてこれを得る事あり。処を待つにあらざれども、発心の処さへられざるあり。境発に非ず智発に非ず、菩提心発なり、発菩提心は有に非ず無に非ず、善に非ず悪に非ず無記に非ず。報地によりて縁起するに非ず天有情は定めて得べからざるに非ず。ただまさに時節とともに発菩提心するなり、依にかかはれざるがゆゑに。発菩提心の正当恁麼時には法界ことごとく発菩提心なり。依を転ずるに相似なりといへども、依に知らるるに非ず。共出一隻手なり、自出一隻手なり、異類中行なり。地獄・餓鬼・畜生・修羅等の中にしても発菩提心するなり」

と詳細に説かれます。言う処は時所を違わず現成が発菩提心とのことです。

そこで次に具体的な日常底に即した文言になり、「一茎草を拈じて造仏」と釈尊と帝釈との問答を提起し、「無根樹を拈じて造経」と七賢女と帝釈との問答を提起し(『永平広録』六十四則参照)、「いさご(砂)をもて供仏」と方便品を説き、「漿(とぎ汁)をもて供仏」と釈尊と老女との布施物を提起し、「一摶の食を衆生にほどこし」と施物の多寡を説き、「五茎の花を如来に奉る」と菩薩(釈尊)と瞿夷との因縁譚を説きます。

佗のすゝめによりて片善を修し、魔に嬈せられて礼仏する、また発菩提心なり。しかのみにあらず、知家非家、捨家出家、入山修道、信行法行するなり。造仏造塔するなり。読経念仏するなり。為衆説法するなり、尋師訪道するなり。跏趺坐するなり、一礼三宝するなり、一称南無仏するなり。」

「片善」とは少しばかりを意味し、「魔に嬈せらる」とは悪魔に弄(もてあそ)ばれて仏を礼する事も立派な「発菩提心」であると。そればかりではなく、「知家非家・捨家出家」家は非家を知って、家を捨て出家す(『身心学道』巻参照)や「入山修道」山に入って修道し、「信行法行」法を信じ行じ、「造仏造塔」・「読経念仏」・「為衆説法」利他行・「尋師訪道」行脚修行・「跏趺坐」打坐・「一礼三宝」し「南無仏と称ずる」これらが「菩提心」であると。

「かくのごとく、八万法蘊の因縁、かならず発心なり。あるいは夢中に発心するもの、得道せるあり、あるいは醉中に発心するもの、得道せるあり。あるいは飛花落葉のなかより発心得道するあり、あるいは桃花翠竹のなかより発心得道するあり。あるいは天上にして発心得道するあり、あるいは海中にして発心得道するあり。これみな発菩提心中にしてさらに発菩提心するなり。身心のなかにして発菩提心するなり。諸佛の身心中にして発菩提心するなり、仏祖の皮肉骨髓のなかにして発菩提心するなり。」

「八万法蘊」は八万四千という無数の事柄の因縁すべてが「発心」との拈提で、その中からそれぞれの例を「夢中・酔中・飛花落葉―以下略」と示し、これらは「発菩提心中から更に発菩提心する」という「菩提心」を強調する言い用です。以下同様です。

しかあれば、而今の造塔造仏等は、まさしくこれ発菩提心なり。直至成仏の発心なり、さらに中間に破癈すべからず。これを無為の功徳とす、これを無作の功徳とす。これ真如観なり、これ法性観なり。これ諸仏集三昧なり、これ得諸仏陀羅尼なり。これ阿耨多羅三藐三菩提心なり、これ阿羅漢果なり、これ仏現成なり。このほかさらに無為無作等の法なきなり。」

先程も「造仏造塔・読経念仏」等引用されましたが、改めて「而今の造塔造仏等は発菩提心」と繰り返し「中間に破廃」途中でやめるなとの忠言です。これら造塔仏の行為は「無為の功徳」(無目的の功徳)であり「無作の功徳」つまり無所得無所悟を云い、別名「真如観」と言ったり「法性観」さらに「諸仏集三昧」・「阿耨多羅三藐三菩提心」・「阿羅漢果」・「仏現成」と教学的語彙を用い表現され、これ以外には無為無作(無所得無所悟)の法は無いとの提唱です。

 

しかあるに、小乘愚人いはく、造像起塔は有爲の功業なり。さしおきていとなむべからず。息慮凝心これ無爲なり、無生無作これ眞實なり、法性實相の觀行これ無爲なり。かくのごとくいふを、西天東地の古今の習俗とせり。これによりて、重罪逆罪をつくるといへども造像起塔せず、塵勞稠林に染汚すといへども念佛讀經せず。これたゞ人天の種子を損壞するのみにあらず、如來の佛性を撥無するともがらなり。まことにかなしむべし、佛法僧の時節にあひながら、佛法僧の怨敵となりぬ。三寶の山にのぼりながら空手にしてかへり、三寶の海に入りながら空手にしてかへらんことは、たとひ千佛萬祖の出世にあふとも、得度の期なく、發心の方を失するなり。これ經巻にしたがはず、知識にしたがはざるによりてかくのごとし。おほく外道邪師にしたがふによりてかくのごとし。造塔等は發菩提心にあらずといふ見解、はやくなげすつべし。こゝろをあらひ、身をあらひ、みゝをあらひ、めをあらうて見聞すべからざるなり。まさに佛經にしたがひ、知識にしたがひて、正法に歸し、佛法を修學すべし。

佛法の大道は、一塵のなかに大千の經巻あり、一塵のなかに無量の諸佛まします。一草一木ともに身心なり。萬法不生なれば一心も不生なり、諸法實相なれば一塵實相なり。しかあれば、一心は諸法なり、諸法は一心なり、全身なり。造塔等もし有爲ならんときは、佛果菩提、眞如佛性もまた有爲なるべし。眞如佛性これ有爲にあらざるゆゑに、造像起塔すなはち有爲にあらず、無爲の發菩提心なり、無爲無漏の功徳なり。たゞまさに、造像起塔等は發菩提心なりと決定信解すべきなり。億劫の行願、これより生長すべし、億々萬劫くつべからざる發心なり。これを見佛聞法といふなり。

しるべし、木石をあつめ泥土をかさね、金銀七寶をあつめて造佛起塔する、すなはち一心をあつめて造塔造像するなり。空々をあつめて作佛するなり、心々を拈じて造佛するなり。塔々をかさねて造塔するなり、佛々を現成せしめて造佛するなり。

かるがゆゑに、經にいはく、作是思惟時、十方佛皆現。

しるべし、一思惟の作佛なるときは、十方思惟佛皆現なり。一法の作佛なるときは、諸法作佛なり。

「小乗愚人いはく、造像起塔は有為の功業なりー中略―法性実相の観行これ無為なり、西天東地の古今の習俗とせりー中略―如来の仏性を撥無するともがらなり誠に悲しむべし」

この段は「小乗愚人」と云われる俗人の考えを列挙されます。

「造像起塔は有為の功業」箱物建造は見かけ上の事だと。「息慮凝心これ無為」無念無想の境地を云う輩は「無生無作」を真実と思い込み、「法性実相の観行」瞑想的坐法を無為の法と解す。以上のような輩徒を小乗の愚人と規定し、これらは「西天東地の古今の習俗」と戒める言です。

「重罪逆罪」というは、先の小乗愚人の輩徒の行為が仏法に背く為、破壊に導く為に重罪逆罪という手厳しい言語を使われます。

これらの人達は「造像起塔」「念仏読経」せず、「人天の種子を損壊するのみ、仏性を撥無(ないものとする)する、誠に悲しむべし」とは文意のままです。

「仏法僧の時節にあひながら仏法僧の怨敵となりぬ。三宝の山に登りながらー中略―多く外道邪師に従うによりてかくの如し。造塔等は発菩提心にあらずという見解、早く投げ捨つべし」

これら小乗愚人輩は仏法を恭敬と思いながら実はその背信に気が付かず、三宝の山海に出入しても感度はなく、これは経巻知識に従わず外道邪師と云う輩徒に追従するからであると。ですから初めに言う「造塔等は発菩提心に非ずという」見解を捨てろと言われます。

「身を洗い、耳を洗い、目を洗いて見聞すべからざるなり。まさに仏経に従がい、知識に従がいて、正法に帰し、仏法を修学すべし。」

『聞書』では「洗うと云うは心を三界唯心と思い洗い、身は尽十方界真実人体と洗い、耳目等は尽十方界沙門一隻眼の心地で洗うべし」と釈されます。

「仏法の大道は一塵の中に大千の経巻あり、一塵の中に無量の諸仏ましますー中略―ただ当に造像起塔等は発菩提心なりと決定信解すべきなりー中略―これを見仏聞法といふなり」

「一塵中に大千経巻」「一塵中に無量諸仏」等は『華厳経』にも「於一毛端処。及以一塵中」「微塵不大。十方世界所有微塵。一一塵中総皆如是。如経所説」などと説かれ、「諸法実相なれば一塵実相」とは天台教義にも通じる文言で、道元禅師が大乗教学にも精通していた証である。

「造塔等もし有為ならんときはー中略―造像起塔すなはち有為にあらず」

これは小乗愚人が云う処を論破する為の逆説法にての論述になります。

改めて「無為、無漏」を強調し、「造像起塔等は発菩提心と信解」する事が「見仏聞法」との見解です。

「知るべし、木石を集め泥土を重ね、金銀七宝を集めて造仏起塔する、すなはち一心を集めて作仏するなりー中略―経にいはく、作是思惟時、十方仏皆現。知るべし、一思惟の作仏なる時は十方思惟仏皆現なり、一法の作仏なる時は諸仏作仏なり」

重ねて「造仏起塔」を説きますが、「木石」「泥土」も「金銀七宝」も「一心をあつめて造塔造像するなり」の如く「一心」に収斂されたもので、同等価値を説くものです。さらに「空々」「心々」で作仏造仏、塔々を重ねて造塔と語彙変換した説法口調で「仏々を現成せしめて造仏するなり」と結語し、『法華経』方便品で説く「作是思惟時、十方仏皆現」と思惟は十方仏であり亦思惟は皆現との解釈です。

 

釋迦牟尼佛言、明星出現時、我與大地有情、同時成道。

しかあれば、發心修行、菩提涅槃は、同時の發心修行菩提涅槃なるべし。佛道の身心は草木瓦礫なり、風雨水火なり。これをめぐらして佛道ならしむる、すなはち發心なり。虚空を撮得して造塔造佛すべし。谿水を掬啗して造佛造塔すべし。これ發阿耨多羅三藐三菩提なり。一發菩提心を百千萬發するなり。修證もまたかくのごとし。 しかあるに、發心は一發にしてさらに發心せず、修行は無量なり、證果は一證なりとのみきくは、佛法をきくにあらず、佛法をしれるにあらず、佛法にあふにあらず。千億發の發心は、さだめて一發心の發なり。千億人の發心は、一發心の發なり。一發心は千億の發心なり、修證轉法もまたかくのごとし。草木等にあらずはいかでか身心あらん、身心にあらずはいかでか草木あらん、草木にあらずは草木あらざるがゆゑにかくのごとし。

坐禪辦道これ發菩提心なり。發心は一異にあらず、坐禪は一異にあらず、再三にあらず、處分にあらず。頭々みなかくのごとく參究すべし。

この段は造塔造像の拈提は据え置き、「菩提心」の提唱ですから発心についての拈提になります。

釈迦牟尼仏言、明星出現時、我与大地有情、同時成道。

しかあれば、発心修行、菩提涅槃は、同時の発心修行菩提涅槃なるべし。仏道の身心は草木瓦礫なり、風雨水火なり。これをめぐらして仏道ならしむる、すなはち発心なり」

釈尊成道偈拈提の「発心修行菩提涅槃は同時の発心修行菩提涅槃」のことばに仏法の理念が集約されて居ります。つまりは一般的解釈法では発展段階的に発心→修行→菩提→涅槃と通史的に人生の一コマの如くに考えられますが、道元禅師が説くものは発心のなかに発心修行菩提涅槃が包含され、修行の時には同じく修行のなかに発心修行菩提涅槃が包摂され便宜的に修行と呼ばしめるもので、具現例として「草木瓦礫・風雨水火」を拈出されるものです。

「虚空を撮得して造塔造仏すべし。渓水を掬啗して造仏造塔すべし。これ発阿耨多羅三藐三菩提なり。一発菩提心を百千万発するなり。修証もまたかくのごとし。」 

ここに云う「虚空」は真実態を表徴し、「撮得」の撮は「つまむ」の意で容量の単位(0、1勺)でもあります。

次に「渓水を掬啗して造仏造塔」と先に上方の空を拈語しましたから対語として「渓水」を用い、「掬啗」の掬はすくうの意で啗はくらうの意ですから、谷川の水をすくって飲んで造仏造塔すべしと言うわけです。

ここでの「造仏造塔」は日常底に比せられるものです。これが「発阿耨多羅三藐三菩提」つまり発心の別称を用い、「一発菩提心を百千万発」の表現も先に云う「同時の発心修行菩提涅槃」と同様に解し、一と百千万を同等体との拈語で、「修証」修行とさとりも同様に別物ではないとの言です。

「しかあるに、発心は一発にしてさらに発心せず、修行は無量なり、証果は一証なりとのみ聞くは、仏法を聞くに非ずー中略―草木等に非ずはいかでか身心あらん、草木非ざるが故にかくの如し」

ここで云う「一発にして更に発心せず」は先に説いた「同時の発心修行菩提涅槃」とは異なる小乗愚人輩を指すもので、それらは「修行は無量・証果は一証」を称えるが、仏法に無縁である為、聞くこと知ること値うことかなわずと言う。さらに続けて千億発心と一発心の同時同等を述べ、草木と身心との同次元性を説く処です。

坐禅辨道これ発菩提心なり。発心は一異にあらず、坐禅は一異にあらず、再三にあらず、処分にあらず。頭々みなかくのごとく参究すべし」

坐禅と発心との言及です。

「発心は一異にあらず」発心は決まり切ったものではなく、先に云う千億発(無限)あるわけですから、限定されたものに固執固着させてはならないとの意で、「坐禅は一異にあらず再三にあらず」も同様語義です。「頭々みな参究」は一人一人が参学究明しなさいとの提唱です。

 

草木七寶をあつめて造塔造佛する始終、それ有爲にして成道すべからずは、三十七品菩提分法も有爲なるべし。三界人天の身心を拈じて修行せん、ともに有爲なるべし、究竟地あるべからず。草木瓦礫と四大五蘊と、おなじくこれ唯心なり、おなじくこれ實相なり。盡十方界、眞如佛性、おなじく法住法位なり。眞如佛性のなかに、いかでか草木等あらん。草木等、いかでか眞如佛性ならざらん。諸法は有爲にあらず、無爲にあらず、實相なり。實相は如是實相なり、如是は而今の身心なり。この身心をもて發心すべし。水をふみ石をふむをきらふことなかれ。たゞ一莖草を拈じて丈六金身を造作し、一微塵を拈じて古佛塔廟を建立する、これ發菩提心なるべし。見佛なり、聞佛なり。見法なり、聞法なり。作佛なり、行佛なり。

再度造塔仏をトピックにした段落ですが、先々段では「金銀七宝をあつめて造仏造塔」する小乗愚人衆による有為の功業に対する誤謬を説かれましたが、再び「草木七宝あつめて造塔造仏する始終、それ有為にして成道すべからずは、三十七品菩提分法も有為なるべし」をキータームにして「諸法は有為にあらず無為にあらず実相なり。実相は如是実相なりー中略―一微塵を拈じて古仏塔廟を建立する、これ発菩提心なり」と導かれます。

「明星出現時、我与大地有情、同時成道」に対する拈提です。

 

釋迦牟尼佛言、優婆塞優婆夷、善男子善女人、以妻子肉供養三寶、以自身肉供養三寶。諸比丘既受信施、云何不修。

しかあればしりぬ、飲食衣服、臥具醫藥、僧房田林等を三寶に供養するは、自身および妻子等の身肉皮骨髓を供養したてまつるなり。すでに三寶の功徳海にいりぬ、すなはち一味なり。すでに一味なるがゆゑに三寶なり。三寶の功徳すでに自身および妻子の皮肉骨髓に現成する、精勤の辦道功夫なり。いま世尊の性相を擧して、佛道の皮肉骨髓を參取すべきなり。いまこの信施は發心なり。受者比丘、いかでか不修ならん。頭正尾正なるべきなり。これによりて、一塵たちまちに發すれば一心したがひて發するなり、一心はじめて發すれば一空わづかに發するなり。おほよそ有覺無覺の發心するとき、はじめて一佛性を種得するなり。四大五蘊をめぐらして誠心に修行すれば得道す、草木牆壁をめぐらして誠心に修行せん、得道すべし。四大五蘊と草木牆壁と同參なるがゆゑなり、同性なるがゆゑなり。同心同命なるがゆゑなり、同身同機なるがゆゑなり。

これによりて、佛祖の會下、おほく拈草木心の辦道あり。これ發菩提心の様子なり。五祖は一時の栽松道者なり、臨濟は黄蘗山の栽杉松の功夫あり。洞山には劉氏翁あり、栽松す。かれこれ松栢の操節を拈じて、佛祖の眼睛を抉出するなり。これ弄活眼睛のちから、開明眼睛なることを見成するなり。造塔造佛等は弄眼睛なり、喫發心なり、使發心なり。

造塔等の眼睛をえざるがごときは、佛祖の成道あらざるなり。造佛の眼睛をえてのちに、作佛作祖するなり。造塔等はつひに塵土に化す、眞實の功徳にあらず、無生の修練は堅牢なり、塵埃に染汚せられずといふは佛語にあらず。塔婆もし塵土に化すといはば、無生もまた塵土に化するなり。無生もし塵土に化せずは、塔婆また塵土に化すべからず。遮裡是甚麼處在、説有爲説無爲なり。

釈迦牟尼仏言、優婆塞優婆夷、善男子善女人、以妻子肉供養三宝、以自身肉供養三宝。諸比丘既受信施、云何不修」本則とする拈提に入りますが、この本則の出典は不明とされますが、先に「経のいはく、作是思惟時、十方仏皆現」は『法華経』方便品 さらに「飲食衣服、臥具医薬、僧房田林等を三宝に供養」は『同経』観世音菩薩普門品からの引用と推察すると、「序品」に説かれる「諸仏所歎、或有菩薩、駟馬宝車、欄楯華蓋、軒飾布施、復見菩薩、身肉手足、及妻子施、求無上道、又見菩薩、頭目身体、欣楽施与」の経文を改変した道元禅師の自経文と思われます。 

「飲食衣服、臥具医薬、僧房田林等を三宝に供養するはー中略―三宝の功徳すでに自身及び妻子の皮肉骨髄に現成する、精勤の辨道功夫なり」

字義の如くの文であるが、菩提心とは身肉供養の如くに無所得無所悟の精勤を説くものです。

「いま世尊の性相を挙して仏道の皮肉骨髄を参取すべきなり。いまこの信施は発心なりー中略―草木牆壁をめぐらして誠心に修行せん得道すべし。四大五蘊と草木牆壁と同参なるがゆゑなり、同性なるがゆゑなり。同心同命なるがゆゑなり、同身同機なるがゆゑなり」

本則は在家衆の生人体供養を説くものでしたが、此の処では「受者比丘いかでか不修ならん」と出家衆に対する拈提で、発心→一塵=一心=四大五蘊=草木牆壁ともどもの「同参・同性・同心・同命・同身・同機」と存在の同等性を説くものです。

「これによりて仏祖の会下おほく拈草木心の辨道あり。これ発菩提心の様子なりー中略―造塔造仏等は弄眼睛なり、喫発心なり、使発心なり」

出家衆による菩提心の標的として「栽松」という仏行があり、「五祖は一時の栽松道者」(『仏性』巻(仁治二(1241)年十月十四日興聖寺示衆)、「臨済黄檗山の栽杉松」(『行持上』巻(仁治三(1242)年四月五日興聖寺書)、「洞山には劉氏翁あり栽松」(『景徳伝灯録』十七・後洞山師丱虔章参照)と、この行仏が「仏祖の眼睛を快出」眼玉をえぐり出す精髄であると。

ここに再度「造塔造仏は弄眼睛」とし、ここでの眼睛は真実を示唆し、さらに「喫発心・使発心」と発心の無量無辺を云わんとする為「喫・使」を使用される歟。

「造塔等の眼睛を得ざるが如きは仏祖の成道あらざるなり。造仏の眼睛を得てー中略―無生もし塵土に化せずは塔婆また塵土に化すべからず。遮裡是甚麼処在、説有為説無為なり」

この巻の主旨は「造塔造仏は弄眼睛」にあるので「造塔等の眼睛を得ざるが如きは仏祖の成道あらざるなり」との結語に到るは当的で、「造塔等は真実の功徳にあらず」云々以下は六段目に説く「小乗愚人いはく造像起塔は有為の功業なり、息慮凝心これ無為なり、法性実相の観行これ無為なり」を喩えを換えての拈提で、結論的に「遮裡是甚麼処在、説有為説無為」と有為無為の定義付けの愚考を説く提唱になります。

 

經云、菩薩於生死、最初發心時、一向求菩提、堅固不可動。彼一念功徳、深廣無涯際、如來分別説、窮劫不能盡。

あきらかにしるべし、生死を拈來して發心する、これ一向求菩提なり。彼一念は一草一木とおなじかるべし、一生一死なるがゆゑに。しかあれども、その功徳の深も無涯際なり、廣も無涯際なり。窮劫を言語として如來これを分別すとも、盡期あるべからず。海かれてなほ底のこり、人は死すとも心のこるべきがゆゑに不能盡なり。彼一念の深廣無涯際なるがごとく、一草一木、一石一瓦の深廣も無涯際なり。一草一石もし七尺八尺なれば、彼一念も七尺八尺なり、發心もまた七尺八尺なり。

 しかあればすなはち、入於深山、思惟佛道は容易なるべし、造塔造佛は甚難なり。ともに精進無怠より成熟すといへども、心を拈來すると、心に拈來せらるゝと、はるかにことなるべし。かくのごとくの發菩提心、つもりて佛祖現成するなり。

正法眼藏發菩提心第六十三

爾時寛元二年甲辰二月十四日在越州吉田縣吉峰精舎示衆

「菩薩於生死、最初發発心時、一向求菩提、堅固不可動。彼一念功徳、深広無涯際、如来分別説、窮劫不能尽」の本則は『大方広仏華厳経』賢首菩薩品第八の偈文を少々語彙を変えての引用です。

「あきらかにしるべし、生死を拈来して発心する、これ一向求菩提なり。彼一念は一草一木とおなじかるべし、一生一死なるがゆゑに。しかあれども、その功徳の深も無涯際なり、広も無涯際なり。窮劫を言語として如来これを分別すとも、尽期あるべからず」

此の処は経文の訓読みですが、「彼一念は一草一木と同じ」「一生一死」の拈語を加えるものです。なお原文では無涯際を無辺際に、不能尽を猶不尽との置き換えです。

「海枯れてなほ底のこり、人は死すとも心のこるべきがゆゑに不能尽なり。彼一念の深広無涯際なるがごとく、一草一木、一石一瓦の深広も無涯際なり。一草一石もし七尺八尺なれば、彼一念も七尺八尺なり、発心もまた七尺八尺なり」

「海枯れて猶底残り、人は死すとも心の残るべきが故に不能尽」は『遍参』巻に「すでに遍参究尽なるには脱落遍参なり。海枯不見底なり、人死不留心なり」との前例があり、これに対する当時の道元禅師の拈提は「海枯と云うは全海全枯なり。人死のとき心不留なり。死を拈来せるが故に心不留なり。一方の表裏を参究するなり」とを比較すると、矛盾めいた文意にも見えるが、ここでの「底」「心」は共に尽十方界中の真実体と受けての解釈です。

「一念一草一木一石一瓦」は無涯際つまり無量無辺を云うもので、「七尺八尺」は便宜的な数量に喩えるものです。

「しかあればすなはち、入於深山、思惟仏道は容易なるべし、造塔造仏は甚難なり。ともに精進無怠より成熟すといへども、心を拈来すると、心に拈来せらるゝと、はるかに異なるべし。かくのごとくの発菩提心、つもりて仏祖現成するなり」

「心を拈来・心に拈来」と一見すると能所の関係の言い分ですが、此の『発菩提心』巻提唱での主眼的実例は小乗愚人による「有為・無為」を説くものであったとすれば、「遮裡是甚麼処在、説有為説無為」に説かれるように「入於深山、思惟仏道」は易で、「造塔造仏」は難との二者択一を論破するための提唱・拈提で、それぞれの行仏仏行を「つもりて」と表徴され「仏祖現成」と結語されたものと推察されるものである。

なお此の巻は「造仏造塔」の重要性を説くものでもあったが、『建撕記』によると寛元二年(1244)二月二十九日には大仏寺法堂の地を平らげ、四月二十一日の上棟式には陰陽師の安倍晴宗が儀式を行った。との記事が見え、此の巻の示衆年月日は寛元二年二月十四日つまり志比庄での大仏寺工事の二週間前の提唱を考慮すると、この提唱の意義ならびに仏法哲理と寺院造営との関係も考察できる重要な巻である。

           

 

正法眼蔵第六十三「發菩提心」を読み解く

正法眼蔵第六十三「發菩提心」を読み解く

 

 西國高祖曰、雪山喩大涅槃。

 しるべし、たとふべきをたとふ。たとふべきといふは、親曾なるなり、端的なるなり。いはゆる雪山を拈來するは喩雪山なり。大涅槃を拈來する、大涅槃にたとふるなり。

 震旦初祖曰、心々如木石。

 いはゆる心は心如なり。盡大地の心なり。このゆゑに自佗の心なり。盡大地人および盡十方界の佛祖および天龍等の心々は、これ木石なり。このほかさらに心あらざるなり。この木石、おのれづから有、無、空、色等の境界に籠籮せられず。この木石心をもて發心修證するなり、心木心石なるがゆゑなり。この心木心石のちからをもて、而今の思量箇不思量底は現成せり。心木心石の風聲を見聞するより、はじめて外道の流類を超越するなり。それよりさきは佛道にあらざるなり。

 大證國師曰、牆壁瓦礫、是古佛心。

 いまの牆壁瓦礫、いづれのところにかあると參詳看あるべし。是什麼物恁麼現成と問取すべし。古佛心といふは、空王那畔にあらず。粥足飯足なり、草足水足なり。かくのごとくなるを拈來して、坐佛し作佛するを、發心と稱ず。

 おほよそ發菩提心の因縁、ほかより拈來せず、菩提心を拈來して發心するなり。菩提心を拈來するといふは、一莖草を拈じて造佛し、無根樹を拈じて造經するなり。いさごをもて供佛し、漿をもて供佛するなり。一摶の食を衆生にほどこし、五莖の花を如來にたてまつるなり。佗のすゝめによりて片善を修し、魔に嬈せられて禮佛する、また發菩提心なり。しかのみにあらず、知家非家、捨家出家、入山修道、信行法行するなり。造佛造塔するなり。讀經念佛するなり。爲衆説法するなり、尋師訪道するなり。跏趺坐するなり、一禮三寶するなり、一稱南無佛するなり。

 かくのごとく、八萬法蘊の因縁、かならず發心なり。あるいは夢中に發心するもの、得道せるあり、あるいは醉中に發心するもの、得道せるあり。あるいは飛花落葉のなかより發心得道するあり、あるいは桃花翠竹のなかより發心得道するあり。あるいは天上にして發心得道するあり、あるいは海中にして發心得道するあり。これみな發菩提心中にしてさらに發菩提心するなり。身心のなかにして發菩提心するなり。諸佛の身心中にして發菩提心するなり、佛祖の皮肉骨髓のなかにして發菩提心するなり。

 しかあれば、而今の造塔造佛等は、まさしくこれ發菩提心なり。直至成佛の發心なり、さらに中間に破癈すべからず。これを無爲の功徳とす、これを無作の功徳とす。これ眞如觀なり、これ法性觀なり。これ諸佛集三昧なり、これ得諸佛陀羅尼なり。これ阿耨多羅三藐三菩提心なり、これ阿羅漢果なり、これ佛現成なり。このほかさらに無爲無作等の法なきなり。

 しかあるに、小乘愚人いはく、造像起塔は有爲の功業なり。さしおきていとなむべからず。息慮凝心これ無爲なり、無生無作これ眞實なり、法性實相の觀行これ無爲なり。かくのごとくいふを、西天東地の古今の習俗とせり。これによりて、重罪逆罪をつくるといへども造像起塔せず、塵勞稠林に染汚すといへども念佛讀經せず。これたゞ人天の種子を損壞するのみにあらず、如來の佛性を撥無するともがらなり。まことにかなしむべし、佛法僧の時節にあひながら、佛法僧の怨敵となりぬ。三寶の山にのぼりながら空手にしてかへり、三寶の海に入りながら空手にしてかへらんことは、たとひ千佛萬祖の出世にあふとも、得度の期なく、發心の方を失するなり。これ經巻にしたがはず、知識にしたがはざるによりてかくのごとし。おほく外道邪師にしたがふによりてかくのごとし。造塔等は發菩提心にあらずといふ見解、はやくなげすつべし。こゝろをあらひ、身をあらひ、みゝをあらひ、めをあらうて見聞すべからざるなり。まさに佛經にしたがひ、知識にしたがひて、正法に歸し、佛法を修學すべし。

 佛法の大道は、一塵のなかに大千の經巻あり、一塵のなかに無量の諸佛まします。一草一木ともに身心なり。萬法不生なれば一心も不生なり、諸法實相なれば一塵實相なり。しかあれば、一心は諸法なり、諸法は一心なり、全身なり。造塔等もし有爲ならんときは、佛果菩提、眞如佛性もまた有爲なるべし。眞如佛性これ有爲にあらざるゆゑに、造像起塔すなはち有爲にあらず、無爲の發菩提心なり、無爲無漏の功徳なり。たゞまさに、造像起塔等は發菩提心なりと決定信解すべきなり。億劫の行願、これより生長すべし、億々萬劫くつべからざる發心なり。これを見佛聞法といふなり。

 しるべし、木石をあつめ泥土をかさね、金銀七寶をあつめて造佛起塔する、すなはち一心をあつめて造塔造像するなり。空々をあつめて作佛するなり、心々を拈じて造佛するなり。塔々をかさねて造塔するなり、佛々を現成せしめて造佛するなり。

 かるがゆゑに、經にいはく、作是思惟時、十方佛皆現。

 しるべし、一思惟の作佛なるときは、十方思惟佛皆現なり。一法の作佛なるときは、諸法作佛なり。

 釋迦牟尼佛言、明星出現時、我與大地有情、同時成道。

 しかあれば、發心修行、菩提涅槃は、同時の發心修行菩提涅槃なるべし。佛道の身心は草木瓦礫なり、風雨水火なり。これをめぐらして佛道ならしむる、すなはち發心なり。虚空を撮得して造塔造佛すべし。谿水を掬啗して造佛造塔すべし。これ發阿耨多羅三藐三菩提なり。一發菩提心を百千萬發するなり。修證もまたかくのごとし。

 しかあるに、發心は一發にしてさらに發心せず、修行は無量なり、證果は一證なりとのみきくは、佛法をきくにあらず、佛法をしれるにあらず、佛法にあふにあらず。千億發の發心は、さだめて一發心の發なり。千億人の發心は、一發心の發なり。一發心は千億の發心なり、修證轉法もまたかくのごとし。草木等にあらずはいかでか身心あらん、身心にあらずはいかでか草木あらん、草木にあらずは草木あらざるがゆゑにかくのごとし。

 坐禪辦道これ發菩提心なり。發心は一異にあらず、坐禪は一異にあらず、再三にあらず、處分にあらず。頭々みなかくのごとく參究すべし。草木七寶をあつめて造塔造佛する始終、それ有爲にして成道すべからずは、三十七品菩提分法も有爲なるべし。三界人天の身心を拈じて修行せん、ともに有爲なるべし、究竟地あるべからず。草木瓦礫と四大五蘊と、おなじくこれ唯心なり、おなじくこれ實相なり。盡十方界、眞如佛性、おなじく法住法位なり。眞如佛性のなかに、いかでか草木等あらん。草木等、いかでか眞如佛性ならざらん。諸法は有爲にあらず、無爲にあらず、實相なり。實相は如是實相なり、如是は而今の身心なり。この身心をもて發心すべし。水をふみ石をふむをきらふことなかれ。たゞ一莖草を拈じて丈六金身を造作し、一微塵を拈じて古佛塔廟を建立する、これ發菩提心なるべし。見佛なり、聞佛なり。見法なり、聞法なり。作佛なり、行佛なり。

 釋迦牟尼佛言、優婆塞優婆夷、善男子善女人、以妻子肉供養三寶、以自身肉供養三寶。諸比丘既受信施、云何不修。

 しかあればしりぬ、飲食衣服、臥具醫藥、僧房田林等を三寶に供養するは、自身および妻子等の身肉皮骨髓を供養したてまつるなり。すでに三寶の功徳海にいりぬ、すなはち一味なり。すでに一味なるがゆゑに三寶なり。三寶の功徳すでに自身および妻子の皮肉骨髓に現成する、精勤の辦道功夫なり。いま世尊の性相を擧して、佛道の皮肉骨髓を參取すべきなり。いまこの信施は發心なり。受者比丘、いかでか不修ならん。頭正尾正なるべきなり。これによりて、一塵たちまちに發すれば一心したがひて發するなり、一心はじめて發すれば一空わづかに發するなり。おほよそ有覺無覺の發心するとき、はじめて一佛性を種得するなり。四大五蘊をめぐらして誠心に修行すれば得道す、草木牆壁をめぐらして誠心に修行せん、得道すべし。四大五蘊と草木牆壁と同參なるがゆゑなり、同性なるがゆゑなり。同心同命なるがゆゑなり、同身同機なるがゆゑなり。

 これによりて、佛祖の會下、おほく拈草木心の辦道あり。これ發菩提心の様子なり。五祖は一時の栽松道者なり、臨濟は黄蘗山の栽杉松の功夫あり。洞山には劉氏翁あり、栽松す。かれこれ松栢の操節を拈じて、佛祖の眼睛を抉出するなり。これ弄活眼睛のちから、開明眼睛なることを見成するなり。造塔造佛等は弄眼睛なり、喫發心なり、使發心なり。

 造塔等の眼睛をえざるがごときは、佛祖の成道あらざるなり。造佛の眼睛をえてのちに、作佛作祖するなり。造塔等はつひに塵土に化す、眞實の功徳にあらず、無生の修練は堅牢なり、塵埃に染汚せられずといふは佛語にあらず。塔婆もし塵土に化すといはば、無生もまた塵土に化するなり。無生もし塵土に化せずは、塔婆また塵土に化すべからず。遮裡是甚麼處在、説有爲説無爲なり。

 經云、菩薩於生死、最初發心時、一向求菩提、堅固不可動。彼一念功徳、深廣無涯際、如來分別説、窮劫不能盡。

 あきらかにしるべし、生死を拈來して發心する、これ一向求菩提なり。彼一念は一草一木とおなじかるべし、一生一死なるがゆゑに。しかあれども、その功徳の深も無涯際なり、廣も無涯際なり。窮劫を言語として如來これを分別すとも、盡期あるべからず。海かれてなほ底のこり、人は死すとも心のこるべきがゆゑに不能盡なり。彼一念の深廣無涯際なるがごとく、一草一木、一石一瓦の深廣も無涯際なり。一草一石もし七尺八尺なれば、彼一念も七尺八尺なり、發心もまた七尺八尺なり。

 しかあればすなはち、入於深山、思惟佛道は容易なるべし、造塔造佛は甚難なり。ともに精進無怠より成熟すといへども、心を拈來すると、心に拈來せらるゝと、はるかにことなるべし。かくのごとくの發菩提心、つもりて佛祖現成するなり。

 

 正法眼藏發菩提心第六十三

 

  爾時寛元二年甲辰二月十四日在越州吉田縣吉峰精舎示衆

  弘安二年己卯三月十日在永平寺書冩之 懷弉

 

正法眼蔵を読み解く発菩提心」(二谷正信著)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/hotsubodaishin

 

詮慧・経豪による註解書については

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2020/03/03/000000

 

禅研究に関しては、月間アーカイブをご覧ください

https://karnacitta.hatenablog.jp/

道元白山信仰ならびに吉峰・波著・禅師峰の関係についてー中世古 祥道

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2022/08/01/145341

 

道元永平寺―『福井県史』通史編2中世より抜書(一部改変)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2021/08/14/173407