正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第四十二「説心説性」を読み解く

正法眼蔵第四十二「説心説性」を読み解く

 

 神山僧密禪師、與洞山悟本大師行次、悟本大師、指傍院曰、裏面有人説心説性。僧密師伯曰、是誰。悟本大師曰、被師伯一問、直得去死十分。僧密師伯曰、説心説性底誰。悟本大師曰、死中得活。

 説心説性は佛道の大本なり、これより佛々祖々を現成せしむるなり。説心説性にあらざれば、轉妙法輪することなし、發心修行することなし。大地有情同時成道することなし、一切衆生無佛性することなし。拈花瞬目は説心説性なり、破顔微笑は説心説性なり、禮拝依位而立は説心説性なり、祖師入梁は説心説性なり、夜半傳衣は説心説性なり。拈柱杖これ説心説性なり、横拂子これ説心説性なり。

 おほよそ佛々祖々のあらゆる功徳は、ことごとくこれ説心説性なり。平常の説心説性あり、牆壁瓦礫の説心説性あり。いはゆる心生種々法生の道理現成し、心滅種々法滅の道理現成する、しかしながら心の説なる時節なり、性の説なる時節なり。しかあるに、心を通ぜず、性に達せざる庸流、くらくして説心説性をしらず、談玄談妙をしらず、佛祖の道にあるべからざるといふ、あるべからざるとをしふ。説心説性を説心説性としらざるによりて、説心説性を説心説性とおもふなり。これことに大道の通塞を批判せざるによりてなり。

 後來、徑山大慧禪師宗杲といふありていはく、いまのともがら、説心説性をこのみ、談玄談妙をこのむによりて、得道おそし。但まさに心性ふたつながらなげすてきたり、玄妙ともに忘じきたりて、二相不生のとき、證契するなり。

 この道取、いまだ佛祖の縑緗をしらず、佛祖の列辟をきかざるなり。これによりて、心はひとへに慮知念覺なりとしりて、慮知念覺も心なることを學せざるによりて、かくのごとくいふ。性は澄湛寂靜なるとのみ妄計して、佛性法性の有無をしらず、如是性をゆめにもいまだみざるによりて、しかのごとく佛法を辟見せるなり。佛祖の道取する心は皮肉骨髓なり、佛祖の保任せる性は竹篦柱杖なり。佛祖の證契する玄は露柱燈籠なり、佛祖の擧拈する妙は知見解會なり。

 佛祖の眞實に佛祖なるは、はじめよりこの心性を聽取し、説取し、行取し、證取するなり。この玄妙を保任取し、參學取するなり。かくのごとくなるを學佛祖の兒孫といふ。しかのごとくにあらざれば學道にあらず。このゆゑに得道の得道せず、不得道のとき不得道ならざるなり。得不の時節、ともに蹉過するなり。たとひなんぢがいふがごとく、心性ふたつながら亡ずといふは、心の説あらしむる分なり、百千萬億分の少分なり。玄妙ともになげすてきたるといふ、談玄の談ならしむる分なり。この關棙子を學せず、おろかに亡ずといはば、手をはなれんずるとおもひ、身にのがれぬるとしれり。いまだ小乘の局量を解脱せざるなり、いかでか大乘の奥玄におよばん、いかにいはんや向上の關棙子をしらんや。佛祖の茶飯を喫しきたれるといひがたし。

 參師勤恪するは、たゞ説心説性を身心の正當恁麼時に體究するなり、身先身後に參究するなり。さらに二三のことなることなし。

 爾時初祖、謂二祖曰、汝但外息諸縁、内心無喘、心如牆壁、可以入道。二祖種々説心説性、倶不證契。一日忽然省得。果白初祖曰、弟子此回始息諸縁也。初祖知其已悟、更不窮詰、只曰、莫成斷滅否。二祖曰、無。初祖曰、子作麼生。二祖曰、了々常知、故言之不可及。初祖曰、此乃從上諸佛諸祖、所傳心體、汝今既得、善自護持。

 この因縁、疑著するものあり、擧拈するあり。二祖の初祖に參侍せし因縁のなかの一因縁、かくのごとし。二祖しきりに説心説性するに、はじめは相契せず。やうやく積功累徳して、つひに初祖の道を得道しき。庸愚おもふらくは、二祖はじめに説心説性せしときは證契せず、そのとが、説心説性するにあり。のちには説心説性をすてて證契せりとおもへり。心如牆壁、可以入道の道を參徹せざるによりて、かくのごとくいふなり。これことに學道の區別にくらし。

 ゆゑいかんとなれば、菩提心をおこし、佛道修行におもむくのちよりは、難行をねんごろにおこなふとき、おこなふといへども、百行に一當なし。しかあれども、或從知識、或從經巻して、やうやくあたることをうるなり。いまの一當はむかしの百不當のちからなり、百不當の一老なり。聞教修道得證、みなかくのごとし。きのふの説心説性は百不當なりといへども、きのふの説心説性の百不當、たちまちに今日の一當なり。行佛道の初心のとき、未練にして通達せざればとて、佛道をすてて餘道をへて佛道をうることなし。佛道修行の始終に達せざるともがら、この通塞の道理なることをあきらめがたし。

 佛道は、初發心のときも佛道なり、成正覺のときも佛道なり、初中後ともに佛道なり。たとへば、萬里をゆくものの、一歩も千里のうちなり、千歩も千里のうちなり。初一歩と千歩とことなれども、千里のおなじきがごとし。しかあるを、至愚のともがらはおもふらく、學佛道の時は佛道にいたらず、果上のときのみ佛道なりと。擧道説道をしらず、擧道行道をしらず、擧道證道をしらざるによりてかくのごとし。迷人のみ佛道修行して大悟すと學して、不迷の人も佛道修行して大悟すとしらずきかざるともがら、かくのごとくいふなり。證契よりさきの説心説性は、佛道なりといへども、説心説性して證契するなり。證契は迷者のはじめて大悟するをのみ證契といふと參學すべからず。迷者も大悟し、悟者も大悟し、不悟者も大悟し、不迷者も大悟し、證契者も證契するなり。

 しかあれば、説心説性は佛道の正直なり。杲公この道理に達せず、説心説性すべからずといふ、佛法の道理にあらず。いまの大宋國には、杲公におよべるもなし。

 高祖悟本大師、ひとり諸祖のなかの尊として、説心説性の説心説性なる道理に通達せり。いまだ通達せざる諸方の祖師、いまの因縁のごとくなる道取なし。

 いはゆる僧密師伯と大師と行次に、傍院をさしていはく、裏面有人、説心説性。

 この道取は、高祖出世よりこのかた、法孫かならず祖風を正傳せり、餘門の夢にも見聞せるところにあらず。いはんや夢にも領覧の方をしらんや。たゞ嫡嗣たるもの正傳せり。この道理もし正傳せざらんは、いかでか佛道に達本ならん。いはゆるいまの道理は、

 或裏或面、有人人有、説心説性なり。面裏心説、面裏性説なり。

 これを參究功夫すべし。性にあらざる説いまになし、説にあらざる心いまだあらず。

 佛性といふは一切の説なり。無佛性といふは一切の説なり。佛性の性なることを參學すといふとも、有佛性を參學せざらんは學道にあらず、無佛性を參學せざらんは參學にあらず。説の性なることを參學する、これ佛祖の嫡孫なり。性は説なることを信受する、これ嫡孫の佛祖なり。

 心は疎動し、性は恬靜なりと道取するは外道の見なり。性は澄湛にして、相は遷移すると道取するは外道の見なり。佛道の學心學性しかあらず。佛道の行心行性は外道にひとしからず。佛道の明心明性は外道その分あるべからず。

 佛道には有人の説心説性あり、無人の説心説性あり。有人の不説心不説性あり、無人の不説心不説性あり。説心未説心、説性未説性あり。無人のときの説心を學せざれば、説心未到田地なり。有人のときの説心を學せざれば、説心未到田地なり。説心無人を學し、無人説心を學し、説心是人を學し、是人説心を學するなり。

 臨濟の道取する盡力はわづかに無位眞人なりといへども、有位眞人をいまだ道取せず。のこれる參學、のこれる道取、いまだ現成せず、未到參徹地といふべし。説心説性は説佛説祖なるがゆゑに、耳處に相見し、眼處に相見すべし。

 ちなみに僧密師伯いはく、是誰。

 この道取を現成せしむるに、僧密師伯さきにもこの道取に乘ずべし、のちにもこの道取に乘ずべし。是誰は那裏の説心説性なり。しかあれば、是誰と道取せられんとき、是誰と思量取せられんときは、すなはち説心説性なり。この説心説性は、餘方のともがら、かつてしらざるところなり。子をわすれて賊とするゆゑに、賊を認じて子とするなり。

 大師いはく、被師伯一問、直得去死十分。

 この道をきく參學の庸流おほくおもふ、説心説性する有人の、是誰といはれて、直得去死十分なるべし。そのゆゑは、是誰のことば、對面不相識なり、全無所見なるがゆゑに死句なるべし。かならずしもしかにはあらず。この説心説性は、徹者まれなりぬべし。十分の去死は一二分の去死にあらず、このゆゑに去死の十分なり。被問の正當恁麼時、たれかこれを遮天蓋地にあらずとせん。照古也際斷なるべし、照今也際斷なるべし。照來也際斷なるべし、照正當恁麼時也際斷なるべし。

 僧密師伯いはく、説心説性底誰。

 さきの是誰といまの是誰と、その名は張三なりとも、その人は李四なり。

 大師いはく、死中得活。

 この死中は、直得去死を直指すとおもひ、説心説性底を直指して是誰とは、みだりに道取するにあらず。是誰は説心説性の有人を差排す、かならず十分の去死を萬期せずといふと參學することありぬべし。大師道の死中得活は、有人説心説性の聲色現前なり。またさらに十分の去死のなかの一兩分なるべし。活はたとひ全活なりとも、死の變じて活と現ずるにあらず。得活の頭正尾正に脱落なるのみなり。

 おほよそ佛道祖道には、かくのごとくの説心説性ありて參究せらるゝなり。又且のときは十分の死を死して、得活の活計を現成するなり。

 しるべし、唐代より今日にいたるまで、説心説性の佛道なることをあきらめず、教行證の説心説性にくらくして、胡説亂道する可憐憫者おほし。身先身後にすくふべし。爲道すらくは、説心説性はこれ七佛祖師の要機なり。

 

 正法眼藏第四十二

 

  爾時寛元元年癸卯在于日本國越州吉田縣吉峰寺示衆

 

正法眼蔵を読み解く説心説性」(二谷正信著)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/sesshinsesshou

 

詮慧・経豪による註解書については

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2020/02/09/000000

 

『説心説性』『自証三昧』考 ―石井 修道

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2022/10/29/111531

 

道元禅師における「説心説性」の定義についてー石井 清純

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2022/10/29/111402

 

禅研究に関しては、月間アーカイブをご覧ください

https://karnacitta.hatenablog.jp/

 

道元白山信仰ならびに吉峰・波著・禅師峰の関係についてー中世古 祥道

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2022/08/01/145341

 

道元永平寺―『福井県史』通史編2中世より抜書(一部改変)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2021/08/14/173407