正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第五十「洗面」を読み解く

正法眼蔵第五十「洗面」を読み解く

 

 法華經云、以油塗身、澡浴塵穢、著新淨衣、内外倶淨。

 いはゆるこの法は、如來まさに法華會上にして、四安樂行の行人のためにときましますところなり。餘會の説にひとしからず、餘經におなじかるべからず。しかあれば、身心を澡浴して香油をぬり、塵穢をのぞくは第一の佛法なり。新淨の衣を著する、ひとつの淨法なり。塵穢を澡浴し、香油を身に塗するに、内外倶淨なるべし。内外倶淨なるとき、依報正報、清淨なり。

 しかあるに、佛法をきかず、佛道を參ぜざる愚人いはく、澡浴はわづかにみのはだへをすゝぐといへども、身内に五臓六腑あり。かれらを一々に澡浴せざらんは、清淨なるべからず。しかあれば、あながちに身表を澡浴すべからず。かくのごとくいふともがらは、佛法いまだしらず、きかず、いまだ正師にあはず、佛祖の兒孫にあはざるなり。

 しばらくかくのごとくの邪見のともがらのことばをなげすてて、佛祖の正法を參學すべし。いはゆる諸法の邊際いまだ決斷せず、諸大の内外また不可得なり。かるがゆゑに、身心の内外また不可得なり。しかあれども、最後身の菩薩、すでにいまし道場に坐し、成道せんとするとき、まづ袈裟を洗浣し、つぎに身心澡浴す。これ三世十方の諸佛の威儀なり。最後身の菩薩と餘類と、諸事みなおなじからず。その功徳智恵、身心莊嚴、みな最尊最上なり。澡浴洗浣の法もまたかくのごとくなるべし。いはんや諸人の身心、その邊際、ときにしたがうてことなることあり。いはゆる一坐のとき、三千界みな坐斷せらるゝ。このとき、かくのごとくなりといへども、自佗の測量にあらず、佛法の功徳なり。その身心量また五尺六尺にあらず。五尺六尺はさだまれる五尺六尺にあらざるゆゑなり。處在も、此界佗界、盡界無量盡界等の有邊無邊にあらず。遮裏是什麼處在、説細説麁のゆゑに。心量また思量分別のよくしるべきにあらず、不思量不分別のよくきはむべきにあらず。身心量かくのごとくなるがゆゑに、澡浴量もかくのごとし。この量を拈得して修證する、これ佛々祖々の護念するところなり。計我をさきとすべからず、計我を實とすべからず。しかあればすなはち、かくのごとく澡浴し、浣洗するに、身量心量を究盡して清淨ならしむるなり。たとひ四大なりとも、たとひ五蘊なりとも、たとひ不壞性なりとも、澡浴するにみな清淨なることをうるなり。これすなはちたゞ水をきたしすゝぎてのち、そのあとは清淨なるとのみしるべきにあらず。水なにとして本淨ならん、本不淨ならん。本淨本不淨なりとも、來著のところをして淨不淨ならしむといはず。たゞ佛祖の修證を保任するとき、用水洗浣、以水澡浴等の佛法つたはれり。これによりて修證するに、淨を超越し、不淨を透脱し、非淨非不淨を脱落するなり。

 しかあればすなはち、いまだ染汚せざれども澡浴し、すでに大清淨なるにも澡浴する法は、ひとり佛祖道のみに保任せり、外道のしるところにあらず。もし愚人のいふがごとくならば、五臓六腑を細塵に抹して即空ならしめて、大海水をつくしてあらふとも、塵中なほあらはずは、いかでか清淨ならん。空中をあらはずは、いかでか内外の清淨を成就せん。愚夫また空を澡浴する法、いまだしらざるべし。空を拈來して空を澡浴し、空を拈來して身心を澡浴す。澡浴を如法に信受するもの、佛祖の修證を保任すべし。

 いはゆる佛々祖々、嫡々正傳する正法には、澡浴をもちゐるに、身心内外、五臓六腑、依正二報、法界虚空の内外中間、たちまちに清淨なり。香花をもちゐてきよむるとき、過去現在未來、因縁行業、たちまちに清淨なり。

 佛言、三沐三薫、身心清淨。

 しかあれば、身をきよめ心をきよむる法は、かならず一沐しては一薫し、かくのごとくあひつらなれて、三沐三薫して、禮佛し轉經し、坐禪し經行するなり。經行をはりてさらに端坐坐禪せんとするには、かならず洗足するといふ。足けがれ觸せるにあらざれども、佛祖の法、それかくのごとし。

 それ三沐三薫すといふは、一沐とは一沐浴なり、通身みな沐浴す。しかうしてのち、つねのごとくして衣裳を著してのち、小爐に名香をたきて、ふところのうちおよび袈裟坐處等に薫ずるなり。しかうしてのちまた沐浴してまた薫ず。かくのごとく三番するなり。これ如法の儀なり。このとき、六根六塵あらたにきたらざれども、清淨の功徳ありて現前す。うたがふべきにあらず。三毒四倒いまだのぞこほらざれども、清淨の功徳たちまちに現前するは佛法なり。たれか凡慮をもて測度せん、なにびとか凡眼をもて覰見せん。

 たとへば、沈香をあらひきよむるとき、片々にをりてあらふべからず。塵々に抹してあらふべからず。たゞ擧體をあらひて清淨をうるなり。佛法にかならず浣洗の法さだまれり。あるいは身をあらひ心をあらひ、足をあらひ面をあらひ、目をあらひくちをあらひ、大小二行をあらひ、手をあらひ、鉢孟をあらひ、袈裟をあらひ、頭をあらふ。これらみな三世の諸佛諸祖の正法なり。

 佛法僧を供養したてまつらんとするには、もろもろの香をとりきたりては、まづみづからが兩手をあらひ、嗽口洗面して、きよきころもを著し、きよき盤に淨水をうけて、この香をあらひきよめて、しかうしてのちに佛法僧の境界には供養したてまつるなり。ねがはくは摩黎山の栴檀香を、阿那婆達池の八功徳水してあらひて、三寶に供養したてまつらんことを。

 洗面は西天竺國よりつたはれて、東震旦國に流布せり。諸部の律にあきらかなりといふとも、なほ佛祖の傳持、これ正嫡なるべし。數百歳の佛々祖々おこなひきたれるのみにあらず、億千萬劫の前後に流通せり。たゞ垢膩をのぞくのみにあらず、佛祖の命脈なり。

 いはく、もしおもてをあらはざれば、禮をうけ佗を禮する、ともに罪あり。自禮禮佗、能禮所禮、性空寂なり、性脱落なり。かるがゆゑに、かならず洗面すべし。

 洗面の時節、あるいは五更、あるいは昧旦、その時節なり。先師の天童に住せしときは、三更の三點をその時節とせり。裙褊衫を著し、あるいは直裰を著して、手巾をたづさへて、洗面架におもむく。

 手巾は一幅の布、ながさ一丈二尺なり。そのいろ、しろかるべからず、しろきは制す。

 三千威儀經云、當用手巾有五事。一者當拭上下頭。二者當用一頭拭手、以一頭拭面。三者不得持拭鼻。四者以用拭膩汚當即浣之。五者不得拭身體、若澡浴各當自有巾。

 まさに手巾を持せんに、かくのごとく護持すべし。手巾をふたつにをりて、左のひぢにあたりて、そのうへにかく。手巾は半分はおもてをのごひ、半分にては手をのごふ。はなをのごふべからずとは、はなのうち、および鼻涕をのごはず。わきせなかはらへそもゝはぎを、手巾してのごふべからず。垢膩にけがれたらんに、洗浣すべし。ぬれしめれらんは、火に烘じ、日にほしてかわかすべし。手巾をもて沐浴のときもちゐるべからず。

 雲堂の洗面處は後架なり。後架は照堂の西なり、その屋圖つたはれり。庵内および單寮は、便宜のところにかまふ。住持人は方丈にて洗面す。耆年老宿居處に、便宜に洗面架をおけり。住持人もし雲堂に宿するときは、後架にして洗面すべし。

 洗面架にいたりて、手巾の中分をうなじにかく。ふたつのはしを左右のかたよりまへにひきこして、左右の手にて、左右のわきより手巾の左右のはしをうしろへいだして、うしろにておのおのひきちがへて、左のはしは右へきたし、右のはしは左にきたして、むねのまへにあたりてむすぶなり。かくのごとくすれば、褊衫のくびは手巾におほはれ、兩袖は手巾にゆひあげられて、ひぢよりかみにあがりぬるなり。ひぢよりしも、うでたなごゝろ、あらはなり。たとへば、たすきかけたらんがごとし。そののち、もし後架ならば、面桶をとりて、かまのほとりにいたりて、一桶の湯をとりて、かへりて洗面架のうへにおく。もし餘處にては、打湯桶の湯を面桶にいる。

 つぎに楊枝をつかふべし。今大宋國諸山には、嚼楊枝の法、ひさしくすたれてつたはれざれば、嚼楊枝のところなしといへども、今吉祥山永平寺、嚼楊枝のところあり。すなはち今案なり。これによれば、まづ嚼楊枝すべし。楊枝を右手にとりて、呪願すべし。

 華嚴經淨行品云、手執楊枝、當願衆生、心得正法、自然清淨。

 この文を誦しをはりて、さらに楊枝をかまんとするに、すなはち誦すべし。

 晨嚼楊枝、當願衆生、得調伏牙、噬諸煩惱。

 この文を誦しをはりて、また嚼楊枝すべし。楊枝のながさ、あるいは四指、あるいは八指、あるいは十二指、あるいは十六指なり。

 摩訶僧祇律第三十四云、齒木應量用。極長十六指、極短四指。

 しるべし、四指よりもみぢかくすべからず。十六指よりもながきは量に應ぜず。ふとさは手小指大なり。しかありといへども、それよりもほそき、さまたげなし。そのかたち、手小指形なり。一端はふとく、一端ほそし。そのふときはしを、微細にかむなり。

 三千威儀經云、嚼頭不得過三分。

 よくかみて、はのうへ、はのうら、みがくがごとくとぎあらふべし。たびたびとぎみがき、あらひすゝぐべし。はのもとのしゝのうへ、よくみがきあらふべし。はのあひだ、よくかきそろへ、きよくあらふべし。嗽口たびたびすれば、すゝぎきよめらる。しかうしてのち、したをこそぐべし。

 三千威儀經云、刮舌有五事。一者不得過三返。二者舌上血出當止。三者不得大振手、汚僧伽梨衣若足。四者棄楊枝莫當人道。五者常當屏處。

 いはゆる刮舌三返といふは、水を口にふくみて舌をこそげこそげすること、三返するなり。三刮にはあらず。血いでばまさにやむべしといふにこゝろうべし。

 よくよく刮舌すべしといふことは、

 三千威儀經云、淨口者、嚼楊枝漱口刮舌。

 しかあれば、楊枝は佛祖ならびに佛祖兒孫の護持しきたれるところなり。

 佛在王舎城竹園之中、與千二百五十比丘倶。臘月一日、波斯匿王是日設食。清晨躬手授佛楊枝。佛受嚼竟、擲殘著地便生、蓊鬱而起。根莖涌出、高五百由旬。枝葉雲布。周匝亦爾。漸復生花、大如車輪。遂復有菓、大如五斗瓶。根莖枝葉、純是七寶。若干種色、映殊麗妙。隨色發光、奄蔽日月。食其菓、菓者美喩甘露。甘露香気四塞。聞者情悦。香風來吹、更相撑角、枝葉皆出和雅之音、暢演法要、聞者無厭。一切人民、覩茲樹變、敬信之心、倍益純厚。佛乃説法、應適其意、心皆開解。志求佛者、得果生天、數甚衆多。

 佛および衆僧を供養する法は、かならず晨旦に楊枝をたてまつるなり。そののち種々の供養をまうく。ほとけに楊枝をたてまつれることおほく、ほとけ楊枝をもちゐさせたまふことおほけれども、しばらくこの波斯匿王みづからてづから供養しまします因縁ならびにこの高樹の因縁、しるべきゆゑに擧するなり。

 またこの日すなはち外道六師、ともにほとけに降伏せられたてまつりて、おどろきおそりてにげはしる。つひに六師ともに投河而死。

 六師徒類九億人、皆來師佛求爲弟子。佛言善來比丘、鬚髪自落、法衣在身、皆成沙門。佛爲説法、示其法要、漏盡結解、悉得羅漢。

 しかあればすなはち、如來すでに楊枝をもちゐましますゆゑに、人天これを供養したてまつるなり。あきらかにしりぬ、嚼楊枝これ諸佛菩薩、ならびに佛弟子のかならず所持なりといふことを。もしもちゐざらんは、その法失墜せり、かなしまざらんや。

 梵網菩薩戒經云、若佛子、常應二時頭陀、冬夏坐禪、結夏安居。常用楊枝澡豆、三衣甁鉢、坐具錫杖、香爐漉水嚢、手巾刀子、火燧鑷子、繩床經律、佛像菩薩形像。而菩薩行頭陀時、及遊方時、行來百里千里、此十八種物、常隨其身。頭陀者、從正月十五日至三月十五日、從八月十五日、至十月十五日。是二時中、此十八種物、常隨其身、如鳥二翼。

 この十八種物、ひとつも虧闕すべからず。もし虧闕すれば、鳥の一翼おちたらんがごとし。一翼のこれりとも、飛行することあたはじ、鳥道の機縁にあらざらん。菩薩もまたかくのごとし。この十八種の羽翼そなはらざれば、行菩薩道あたはず。十八種のうち、楊枝すでに第一に居せり、最初に具足すべきなり。この楊枝の用不をあきらめんともがら、すなはち佛法をあきらむる菩提薩埵なるべし。いまだかつてあきらめざらんは、佛法也未夢見在ならん。

 しかあればすなはち、見楊枝は見佛祖なり。

 或有人問意旨如何、幸値永平老漢嚼楊枝。

 この梵網菩薩戒は、過去現在未來の諸佛菩薩、かならず過現當に受持しきたれり。しかあれば、楊枝また過現當に受持しきたれり。

 禪苑清規云、大乘梵網經、十重四十八輕、竝須讀誦通利、善知持犯開遮。但依金口聖言、莫擅隨於庸輩。

 まさにしるべし、佛々祖々正傳の宗旨、それかくのごとし。これに違せんは佛道にあらず、佛法にあらず、祖道にあらず。

 しかあるに、大宋國いま楊枝たえてみえず。嘉定十六年癸未四月のなかに、はじめて大宋に諸山諸寺をみるに、僧侶の楊枝をしれるなく、朝野の貴賤おなじくしらず。僧家すべてしらざるゆゑに、もし楊枝の法を問著すれば失色して度を失す。あはれむべし、白法の失墜せることを。わづかにくちをすゝぐともがらは、馬の尾を寸餘にきりたるを、牛の角のおほきさ三分ばかりにて方につくりたるが、ながさ六七寸なる、そのはし二寸ばかりに、むまのたちがみのごとくにうゑて、これをもちて牙齒をあらふのみなり。僧家の器にもちゐがたし。不淨の器ならん、佛法の器にあらず。俗人の祠天するにも、なほきらひぬべし。かの器、また俗人僧家、ともにくつのちりをはらふ器にもちゐる、また梳鬢のときもちゐる。いさゝかの大小あれども、すなはちこれひとつなり。かの器をもちゐるも、萬人が一人なり。

 しかあれば、天下の出家在家、ともにその口気はなはだくさし。二三尺をへだててものいふとき、口臭きたる。かぐものたへがたし。有道の尊宿と稱じ、人天の導師と号するともがらも、漱口刮舌嚼楊枝の法、ありとだにもしらず。これをもて推するに、佛祖の大道いま陵夷をみるらんこと、いくそばくといふことしらず。いまわれら露命を萬里の蒼波にをしまず、異域の山川をわたりしのぎて道をとぶらふとすれども、澆運かなしむべし、いくばくの白法か、さきだちて滅没しぬらん。をしむべしをしむべし。

 しかあるに、日本一國朝野の道俗、ともに楊枝を見聞す、佛光明を見聞するならん。しかあれども、嚼楊枝それ如法ならず、刮舌の法つたはれず、倉卒なるべし。しかあれども、宋人の楊枝をしらざるにたくらぶれば、楊枝をもちゐるべしとしれるは、おのづから上人の法をしれり。仙人の法にも楊枝をもちゐる。しるべし、みな出塵の器なり、清淨の調度なりといふことを。

 三千威儀經云、用楊枝有五事。一者斷當如度。二者破當如法。三者嚼頭不得過三分。四者踈齒當中三齧。五者當汁澡目用。

 いま嚼楊枝漱口の水を、右手にうけてもて目をあらふこと、みなもと三千威儀經の説なり。いま日本國の往代の庭訓なり。

 刮舌の法は、僧正栄西つたふ。楊枝つかひてのち、すてんとするとき、兩手をもて楊枝のかみたるかたより二片に擘破す。その破口のとき、かほをよこさまに舌上にあててこそぐ。すなはち右手に水をうけて、くちにいれて漱口し、刮舌す。漱口、刮舌、たびたびし、擘楊枝の角にてこそげこそげして、血出を度とせんとするがごとし。

 漱口のとき、この文を密誦すべし。

 華嚴經云、澡漱口齒、當願衆生、向淨法門、究竟解脱。

 たびたび漱口して、くちびるのうちと、したのした、あぎにいたるまで、右手の第一指第二指第三指等をもて、指のはらにてよくよくなめりたるがごとくなること、あらひのぞくべし。油あるもの食せらんことちかからんには、皂莢をもちゐるべし。

 楊枝つかひをはりて、すなはち屏處にすつべし。楊枝すててのち、三彈指すべし。後架にしては、棄楊枝をうくる斗あるべし、餘處にては屏處にすつべし。漱口の水は、面桶のほかにはきすつべし。

 つぎにまさしく洗面す。兩手に面桶の湯を掬して、額より兩眉毛兩目鼻孔耳中顱頬、あまねくあらふ。まづよくよく湯をすくひかけて、しかうしてのち摩沐すべし。涕唾鼻涕を面桶の湯におとしいるゝことなかれ。かくのごとくあらふとき、湯を無度につひやして、面桶のほかにもらしおとしちらして、はやくうしなふことなかれ。あかおち、あぶらのぞこほりぬるまであらふなり。耳裏あらふべし、著水不得なるがゆゑに。眼裏あらふべし、著沙不得なるがゆゑに。あるいは頭髪頂寧までもあらふ、すなはち威儀なり。洗面をはりて、面桶の湯をすててのちも、三彈指すべし。

 つぎに手巾のおもてをのごふはしにて、のごひかわかすべし。しかうしてのち、手巾もとのごとく脱しとりて、ふたへにして左臂にかく。雲堂の後架には、公界の拭面あり。いはゆる一疋布をまうけたり。烘櫃あり、衆家ともに拭面するに、たらざるわづらひなし。かれにても頭面のごふべし。また自己の手巾をもちゐるも、ともにこれ法なり。

 洗面のあひだ、桶杓ならしておとをなすこと、かまびすしくすることなかれ。湯水を狼藉にして、近邊をぬらすことなかれ。ひそかに觀想すべし、後五百歳にむまれて、邊地遠島に處すれども、宿善くちずして古佛の威儀を正傳し、染汚せず修證する、隨喜懽喜すべし。雲堂にかへらんに、輕歩聲低なるべし。

 耆年宿徳の草庵、かならず洗面架あるべし。洗面せざるは非法なり。洗面のとき、面藥をもちゐる法あり。

 おほよそ嚼楊枝洗面、これ古佛の正法なり。道心辦道のともがら、修證すべきなり。あるいは湯をえざるには水をもちゐる、舊例なり、古法なり。湯水すべてえざらんときは、早辰よくよく拭面して、香草末香等をぬりてのち、禮佛誦經、燒香坐禪すべし。いまだ洗面せずは、もろもろのつとめ、ともに無禮なり。

 正法眼藏第五十

延應元年己亥十月二十三日在雍州觀音導利興聖寶林寺示衆

 天竺國震旦國者、國王王子、大臣百官、在家出家、朝野男女、百姓萬民、みな洗面す。家宅の調度にも面桶あり、あるいは銀、あるいは鑞なり。天祠神廟にも、毎朝に洗面を供ず。佛祖の塔頭にも洗面をたてまつる。在家出家、洗面ののち、衣裳をたゞしくして、天をも拝し、神をも拝し、祖宗をも拝し、父母をも拝す。師匠を拝し、三寶を拝し、三界萬靈、十方眞宰を拝す。いまは農夫田夫、漁父樵翁までも洗面わするゝことなし、しかあれども嚼楊枝なし。日本國は、國王大臣、老少朝野、在家出家の貴賤、ともに嚼楊枝漱口の法をわすれず、しかあれども洗面せず。一得一失なり。いま洗面嚼楊枝、ともに護持せん、補虧闕の興隆なり、佛祖の照臨なり。

 

寛元元年癸卯十月二十日在越州吉田郡吉峰寺重示衆

建長二年庚戌正月十一日在越州吉田郡吉祥山永平寺示衆

 

正法眼蔵を読み解く洗面」(二谷正信著)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/senmen

 

詮慧・経豪による註解書については

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2020/02/18/000000

 

禅研究に関しては、月間アーカイブをご覧ください

https://karnacitta.hatenablog.jp/

 

道元白山信仰ならびに吉峰・波著・禅師峰の関係についてー中世古 祥道

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2022/08/01/145341

 

道元永平寺―『福井県史』通史編2中世より抜書(一部改変)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2021/08/14/173407