正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

雨垂れの音       入矢義高

雨垂れの音

入矢 義高

 

 『碧巌録』第四十六則(「大正蔵」四八・一八二b一九)に「鏡清雨滴声」というのがある。その話はこうである。

  あるとき鏡清和尚が僧に問うた、「門の外のは何の音かな」。

  僧、「雨垂れの音です」。

  鏡清、「衆生は顛倒して、己れを迷(みうしな)って物を逐うか!」。

  僧、「和尚さまはいかがです」。

  鏡清、「すんでに己れを迷(みうしな)わずに済んだ」。

  僧、「とはどういう意味でございますか」。

  鏡清、「出身は猶(な)お易かるべきも、脱体に道(い)うことは還(かえ)って難し」。

 この公案の眼目は、最後の鏡清の言葉にある。先ずこれから説明しよう。この二句は、すでに中村元(1912―1999)氏の『東洋人の思惟方法』第一部に引用されて、「身心脱落の体験を得ることは‘むしろ易しいが、その境地を表現することは容易でない」とパラフレーズ(言い換え)されている。大意はそれで誤りない。「脱体」はまさに「ありのまま」の意であり、「さながらに」「そのものずばりと」の意である。原文の「還って難し」は、『碧巌録』では「応(まさ)に難かるべし」となっているが、上の句の「猶」との対応から、「応」は明らかに誤りなので、もとの資料である『祖堂集』に従って「還」に訂正する。

 この鏡清の言葉は、要約すれば「悟りを開くことは、まだしも易しい。その悟りをさながらに語ることの方が、かえってむつかしいのだ」という意味である。では、どうしてこういう答えで、この問答は締め括られたのか。そこで始めに戻ろう。

 「門の外のは何の音かな」。「雨垂れの音です」。ここまでは何のコメントも不要である。問題は、この僧の答えを承けた鏡清の言葉である。それは『楞厳経』の巻二(「大正蔵」十九・一一一c二五)と巻七にある言葉そのままであるが、ここでは鏡清の沈痛な感慨が裏打ちされている。そのことは次の「すんでに己れを・・」という説明がそれを証する。「すんでに云々」の原文は「洎不迷己」。「洎」とは「あやうく・・するところだった」という意の副詞で、古くは「危」とも云い、元・明のころは「険」とも云って、その下に「不」を伴っても伴わなくても意味に変わりはない。だから、ここは「すんでに己れを見失うところだったのだ」と解してもよい。つまり「あぶないところだった、もうちょっとで己れを見失いかけたのだ」と云うのであり、ゾッとして身震いしている語気である。そこがこの言葉の大事な点なのであり、従って前の感慨の言葉「衆生は顛倒して云々」は、当然、鏡清自身が慄然として身震いしながら発した嘆息なのである。

衆生」とは、みずからそこに据えて言ったのであり、旧解がこれを相手の僧を指して叱ったものとするのは、全くの見当違いである。しかも旧解は「迷己」を「己れに迷う」と誤読している。「ああ、何とこの俺は、あの楞厳経に戒められている過ちをすんでに犯して、己れを見失うところだったのだ」という、慄然とした怖れの言葉だったのである。

つまり、僧の答え「雨滴声」は、彼にとっては思い設けぬ、謂わば天来の声だったのであり、ムササビの鳴き声や、投げた瓦が竹に当たって発した音が、先輩の祖師たちを激発させたという消息と同じものである。その雨滴声は、彼にとっては、この『楞厳経』の巻六に「衆生は本聞を迷(みうしな)って、声に循(したが)うが故に流転す」(「大正蔵」十九・一三一a一〇)というところの「本聞」と聞こえたのであった。そう答えたその僧には、しかしそのことの自覚はない。

しかし鏡清は親切に、自分のその感慨の内実を説いてやったー「実はすんでに己れを見失いかけたのだ」と。「とは、一体どういう意味なのです」という再度の問いに対しての答えが、あの最後の二句であった。その趣意を、その言葉に即して言い換えるなら、「悟りを得ることはむしろ易しい。むつかしいのは、その悟りのなかに埋没することで己れを見失うことなく、その悟りを客体化してピタリと言いとめることなのだ」ということに他ならない。この鏡清の語のズシリとした重みを、しかも『碧巌録』での雪竇(せっちょう)の頌(「大正蔵」四八・一八二c二五)は全然受けとめていないし、同じく圜悟の評唱と著語も、この鏡清の語をまるで有って無きがごとく軽視している。日本での従来の理解も、みな同様である。

 鏡清は、あの僧の端的な、天衣無縫な答えに愕然とし、慄然となった。その一言の衝撃は彼の内奥を貫いて、反射的にあの『楞厳経』での仏の戒めを、反響(こだま)として呼び起こした。彼はゾッとなったのである。

 しかし、その深刻な驚きと怖れをくぐり抜けた後の最後の二句は、これまた何と不思議な言葉であろう。その原文「出身猶可易、脱体道還難」は、近体の五言詩としての平仄に叶った完全な詩句になっているー言われている事柄の内容は全然ポエジーではないにもかかわらず、また、禅はポエジーだとする西脇順三郎氏の世界が一方にあるにもかかわらず(筑摩書房『講座禅』1月報)。

 なぜこのように沈痛で厳粛な内容の事柄が、詩の形で表明されねばならなかったのか。散文の言葉では内容に対応し切れないと感じたからなのか。音調の諧和を帯びた詩の形式美こそが、最も相応(ふさわ)しいものと感ぜられたからなのか。それとも、鏡清の深い内省が、おのずからにして、詩の韻律を帯びた鼓動を打ちつつ、このような表現を取ることになったものであろうか。

(一九八〇年)

 

   これは入矢義高氏の論考が一般化していない為、Pdfからワードとして文字化したものである。一部修訂を行なった事を記す。(2022年・タイ国にて)