正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

禅問答というもの      入矢義高

禅問答というもの

入矢 義高

 

 かつて京都大徳寺の管長であった後藤瑞巌(1879―1965)老師はその任から退かれた後も、求道者に応接せられたが、英語に堪能であった為もあって、外人と会われる事も多かった。ある時、初めて訪れて来た一人の外人と対談の際、おそらく「禅とは何か」という問いに対する答えとしてであったかと推察されるが、老師は机上の灰皿を指さそて、「これは何か」と問いかえされた。外人は、怪訝な顔をしながら、「灰皿です」と答えた。すると老師は首を横に振るだけであった。ややあって、老師は黙って相手の顔を見つめながら、吸いかけの煙草を挟んだ手を伸ばして、灰皿の上にポンと灰を落とされた。それを見て、外人は何となく意味が分かったyぷであったようであったと云う。

 この話は、その席に同席していた、別の外人から後日聞かされた実話であるが、この当意即妙の、もの静かな所作と、その前後の自然な動き、しかもその内容に秘められたというか、この活作略の全体を裏打ちしている独自な老師の悟境は、その外人にも、ある程度は直覚的に感じ取られた事であろう。

 この現代のエピソードが示唆するように、禅の問答での答え方は、「何は何である」というような原理的な論式での説明は、ほとんどやらない。そこに呈示されるのは、答話者その人の全人格的な「禅機」であり、「法」と「人」とが一体となった一つの完結の世界であると言えよう。

 それだけに、発問者自体に於いても、「なぜこれを問うのか」、「なぜ今これを問わねばならぬか」という衝迫した自問が、先ずおのれ自身に絶えず投げ返されていなくてはならない。単に分からないから、と云うだけで問う事は許されない。そうであってこそ、禅の問答は、人と人、法と法との、極度の緊張を孕んだ対決となる。内的な発酵と衝迫を経ることなしの安易な発問は、たとえば唐末の趙州禅師のように、「だれがそれを問うているのか」(袮問阿誰・『古尊宿語録』十三「続蔵」六八・七九b二一)と云う一語で、あっさり門前払いを食わされるのが落ちである。語録を読むことの醍醐味は、先ず何よりもこのような一分の隙もない鋭い緊張―しばしば殺気さえ感ぜられる程の緊迫した世界―に没入出来ることにあると私は思っている。問いはギラリとした問いでなくてはならない。質問者の目もギラリと光っていなくてはならない。漱石の『門』の主人公は、鎌倉の寺に参じて、「もっとギロリとしたところを持ってこなければだめだ」とやられたのであった。

 しかし、上に紹介した瑞巌老師の対応ぶりは、実にもの静かで、おとなしやかなものだったという。それはそれで、また一つのすぐれた禅機の顕示であった。「大切なことほど、さりげなく言うべきものです」とは、京都のある高名な哲学者の言葉として聞かされた事がある。このような、おとなしやかな自己呈示の仕方は、実にゆかしく、尊いものに思われてならない。

 

 禅の語録を読んでつくづく感じることは、問うという事が、如何にむつかしい事かと言うことである。問答は一回性のものであり、問い直しも、答え直しも利かない。そして対決する両者は、どちらも己れの全分を出し切らなくてはならない。とすれば、法を問う者が回心の転機を掴み得るような答えを、相手から引き出せる為には、先ず問う者自体に、そのような契機が孕まれていなくてはならない。瑞巌老師があの外人に対して、逆に灰皿への問いを投げ返したのは、そのような契機を相手に植え付けてやる為の、方便だったと解する事も出来よう。

 しかし、趙州禅師の次のような場合は、その方便の呈示さえ更にストレートであるーあるとき禅師は、火箸で炉のなかの火を叩いて僧に問うた、「わしはこれを火と呼ぶが、お前は何と呼ぶか」と。ここでは、それを火と呼ぶことは初めから禁じられている。では、それを何と言うか。火と仮りの名でなしに、それの実体(法性)をお前はどう捉えるか、それを端的に示してみよと云うわけである。一切の退路を断って、絶体絶命の場へ追い詰めた問いである。これに答え切れるためには、このおのれの全分を燃焼し尽すほかはない。キルケゴール(1813―1855)は「主体性こそが真理である」と言った。まさにその意味において、いわば火と一つになり切った所から答えを出すほかはないのである。安易な〔火〕の捨象はもちろん論外である。右の「火の問い」を、いま私流にパラフレーズ(言い換え)すれば、次のようになるー「一般にこの物は火と呼ばれている。しかし君は今これに君自身による命名をしてみよ。君でなくては与える事の出来ぬ名を付けてやるのだ。それが出来れば、君は一切の存在の主宰者として自己を定立出来た事になる。物に名を付けてやれる程に君の絶対主体が確立出来たなら、もうそれで万事了畢(りょうひつ)なのだ」。この趙州禅師と同時代の臨済禅師が、「一切の名句を安んず」(あらゆる名前を付ける)ことの出来る者は、このおのれのほかにはないのだと説いた趣旨も、まさにこれであった(趙州〔与我安名字著〕『古尊宿語録』十四「続蔵」六八・八十三c一四、臨済〔安著名字〕『臨済語録』「大正蔵」四七・四九八a八)。

 このように割り切って解脱してしまうと、事柄は極めて端的明確であるかのように見えるが、実はそこの更に難しい問題が伏在している。禅の本質は、一切の権威を認めず、いかなる絶対価値をも否定し去る事にあると云える以上、おのれという〔絶対主体〕を立てる事も、当然否定されるべき事となる。臨済が「内には根本に住せず」(前掲同a一四)と教えた意味もそうであって、根本の所に腰を据えてしまっては、それは一つの完結世界の中に自らを閉鎖してしまう事になる。そうなっては、たとえ「仏魔」(仏という魔物)を殺す事の出来た者でも、新たな魔をおのれの内に作ってしまう事になる。この陥穽をどう乗り超えるか、そこが勝れた禅者がみな一様に苦闘した最大のポイントであった。唐の石頭禅師が発した「諸聖をも慕わず、己れの霊をも重んぜず」(『景徳伝灯録』「大正蔵」五一・二四〇b二一)という一問は、馬祖(709―788唐代南宋禅の中興者)の師であった南嶽懐譲(677―744)をさえも答えに窮せしめたのであった。勝れた禅問答の孕む緊張の最大のものは、そこに種々の多様性はあるにしても、常にこの点を核として展開していると言ってもよい。

 しかしながら、唐の末になって九世紀に入ると、禅問答にも定型化の傾向が著しくなって来る。問いの言葉は大抵は似たり寄ったりの文句が目立ち始める。たとえば「いかなるか是れ仏法の大意」、「いかなるか是れ祖師西来の意」、「いかなるか是れ本来の自己」などなど。そこからは、問者自身における内的な衝迫を読み取ることの難しい場合が多いが、しかしまた、そのような問いを受けて立った答えが、凄まじい気迫を孕んでいるという場合、我々はその答え方から逆に問いそのものへ立ち返って、そこに孕んでいる衝迫を推し量ることが可能である。しかし、こういう事が可能な問答さえ、九世紀を下るにつれて次第に見られなくなるように思われる。

 次の宋代の禅については、私には語る資格はない。まして、日本の禅について語り得る資格は全くない。ただ、日本の禅について、私がかねてから不審に思っている事が一つある。それは直接に問答と関わりのある事ではないが、いま一般に〔禅芸術〕と呼ばれているものについてである。端的に言えば、中国の禅は美の世界とは全く無縁であった。まして造形美術とは何の因縁も持ち合わさなかった。墨蹟・絵画・庭園・茶などが禅と因縁づけられることによって、特殊な美の世界を作ったなどと云う事は、中国禅の歴史には曾てなかったのである。それが日本禅において、俄かに展開するようになったと云うのは、一体どういう事なのであろうか。それを、禅の日本における新たな成長と発展と云う風に、甘く受け取って良いものかどうか。厳しく言えば、むしろ禅の頽廃と断じる見方も有り得るのではないか。この点については、もっと細かく為すところであるが、今はただ私のかねてからの不審を素朴に提出するに留めて、読者の方々が、それぞれに省察を加えられる事を期待することにしたい。

(一九七四年)

 

これは入矢義高氏の論考が一般化していない為、Pdfからワードとして文字化したものである。一部修訂を行なった事を記す。(2022年・タイ国にて)