正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

十二巻本 第三「袈裟功徳」を読み解く                      二谷正信

十二巻本 第三「袈裟功徳」を読み解く

                     二谷正信

 

 当巻の『袈裟功徳』は「新草十二巻」の中では特異な巻だろう。それと云うのも当巻奥書には「ときに仁治元年庚子開冬日在観音導利興聖宝林寺示衆」と明示されるからであるが、「旧草七十五巻」での『伝衣』の奥書にも「仁治元年庚子開冬日于観音導利興聖宝林寺入宋伝法沙門道元」とを照合すれば、仁治元年つまり1240年の十月一日に書かれ、一方『袈裟功徳』は示衆されたと。そこで「新草十二巻」の文章構造上に於いて共通するアビダルマ論蔵を含む経典である『中阿含経』などを元に新たに加筆されたものが、当巻の『袈裟功徳』であろうと考えられる。

 そこで今回の注釈スタイルは姉妹巻である『伝衣』と対比させ、「旧草」と「新草」との違いを確認させていきたい。

 

   一

 佛々祖々正傳の衣法、まさしく震旦國に正傳することは、嵩嶽の高祖のみなり。高祖は、

釋迦牟尼佛より第二十八代の祖なり。西天二十八傳、嫡々あひつたはれり。二十八祖、したしく震旦にいりて初祖たり。震旦國人五傳して、曹谿にいたりて三十三代の祖なり、これを六祖と稱ず。第三十三代の祖大鑑禪師、この衣法を黄梅山にして夜半に正傳し、一生護持、いまなほ曹谿山寶林寺に安置せり。

 諸代の帝王、あひつぎて内裡に奉請し、供養禮拝す、神物護持せるものなり。唐朝中宗肅宗代宗、しきりに歸内供養しき。奉請のとき、奉送のとき、ことさら勅使をつかはし、詔をたまふ。代宗皇帝、あるとき佛衣を曹谿山におくりたてまつる詔にいはく、

 今遣鎭國大將軍劉崇景頂戴而送。朕爲之國寶。卿可於本寺安置、令僧衆親承宗旨者、嚴加守護、勿令遺墜。

「仏々祖々正伝の衣法、まさしく震旦国に正伝することは、嵩嶽の高祖のみなり。高祖は、

釈迦牟尼仏より第二十八代の祖なり。西天二十八伝、嫡々あひ伝はれり。二十八祖、親しく震旦にいりて初祖たり。震旦国人五伝して、曹谿に至りて三十三代の祖なり、これを六祖と称ず。第三十三代の祖大鑑禅師、この衣法を黄梅山にして夜半に正伝し、一生護持、今なほ曹谿山宝林寺に安置せり」

 冒頭部の説明は文意のままに読解すればよく、釈尊―高祖(達磨・二十八代)―大鑑(慧能・三十三代)と連綿と嗣続される「袈裟」が今でも「曹谿山宝林寺(広東省韶陽県)に安置せり」と示されるものである。ここで一つ確認しておくべき事は、「釈迦牟尼仏より第二十八代の祖」を嵩嶽の高祖とするわけだが、釈迦牟尼仏はカウントせず、摩訶迦葉を第一祖とすること。現在の言い様からすると、釈尊を第一祖に置きたい所ではある。この表現法は道元禅師(以下、禅師の尊称は略す)出自に関する『三祖行業記』にても「村上天皇九代苗裔、後中書八世之遺胤」をみても理解するところである。つまり村上天皇―①具平親王―➁源師房―➂顕房―➃雅実―⑤顕通―➅雅通―⑦通親―⑧通具―⑨道元。このようにカウントするなら、道元の父親の案件についての疑念も払拭されるであろう。

 「震旦」とは梵語(Cina+sthana)の音写語であり、○○スタンとはインド・ヨーロッパ語共通の土地を意味する。例えばアフガニスタン、ウズベキスタンなどである。「二十八代の祖」とは菩提達磨(―538?)を指すが、現在では敦煌出土の史資料からは、中原の民族大移動の影響で中華大陸に流入した渡来僧群の中に位置づけされ、一部の学者は中央アジア(胡)からの渡来僧を達摩と記し、伝承的に語り継がれる渡来僧は達磨と書き分けることもあるようである。

 この部位は『伝衣』においても多少の異同はあるものの同文であります。

「諸代の帝王、あひつぎて内裡に奉請し、供養礼拝す、神物護持せるものなり。唐朝中宗肅宗代宗、しきりに帰内供養しき。奉請のとき、奉送のとき、ことさら勅使をつかはし、詔をたまふ。代宗皇帝、あるとき仏衣を曹谿山に送り奉る詔にいはく、今遣鎮国大将軍劉崇景頂戴而送。朕之国宝。卿可於本寺(如法)安置、()令僧衆親承宗旨者、厳加守護、勿令遺墜」(―部「為」は原「謂」、―部「如法」は原あり、―部「専」は原あり、『景徳伝灯録』五「大正蔵」五一・二三六c二九)

 「諸代の帝王」の「中宗(ちゅうそう・656―710)は高宗の七男で、唐の第四代皇帝。「粛宗しゅくそう・711―762」は玄宗の三男で、第七代皇帝。「代宗(だいそう・726―779)は、第八代皇帝である。漢文は『景徳伝灯録』からの引用であるが和訳すると<今、鎮国(わが国)の大将軍の劉崇景を遣して、頂戴(頭に載せて)して送らせる。朕(代宗)は之(仏衣)を国宝と為す。卿(劉崇景)は本寺(宝林寺)に安置し、僧衆で親しく宗旨を承った者には、厳しく守護を加えて、遺墜すること勿ら令め>と引用されるが、その日時については引用典籍では「上元元年(760)に肅宗は使いを遣わして就いて師の衣鉢を請い、帰内せしめ供養す。永泰元年(765)に至りて、五月五日に至りて、代宗は六祖大師に衣鉢を請うを夢みる。七日には刺史の楊瑊に勅して云く。朕(代宗)は夢に能禅師に伝法の袈裟を請いて、却って曹溪に帰るを感ず(原漢文)」と記され、この続き文として先の文がある。

 いま「黄梅」と聞いて、大智偈頌の手元にあるを想い出し、その中には「袈裟」と題するものあり。ここに記す。「秋風吹き秋雲起れば碧し、人間に散ずれば大福田と作す、七百の高僧は争か得ず、黄梅に独り老盧許りを伝う」

 この処も『伝衣』とは多少の異同はあるものの同類文である。此処での注釈文は筆者(二谷)数年前に著した『正法眼蔵第三十二伝衣を読み解く』とも重複するものである。アドレス添付いたしますので御参照ください。

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/dene

 まことに無量恒河沙の三千大千世界を統領せんよりも、佛衣現在の小國に王としてこれを見聞供養したてまつらんは、生死のなかの善生、最勝の生なるべし。佛化のおよぶところ、三千界いづれのところか袈裟なからん。しかありといへども、嫡々面授して佛袈裟を正傳せるは、たゞひとり嵩嶽の曩祖のみなり、旁出は佛袈裟をさづけられず。二十七祖の旁出、跋陀婆羅菩薩の傳、まさに肇法師におよぶといへども、佛袈裟の正傳なし。震旦の四祖大師、また牛頭山の法融禪師をわたすといへども、佛袈裟を正傳せず。

 しかあればすなはち、正嫡の相承なしといへども、如來の正法その功徳むなしからず、千古萬古みな利益廣大なり。正嫡相承せらんは、相承なきとひとしかるべからず。

 しかあればすなはち、人天もし袈裟を受持せんは、佛祖相傳の正傳を傳受すべし。印度震旦、正法像法のときは、在家なほ袈裟を受持す。いま遠方邊土の澆季には、剃除鬚髪して佛弟子と稱ずる、袈裟を受持せず、いまだ受持すべきと信ぜず、しらず、あきらめず、かなしむべし。いはんや體色量をしらんや、いはんや著用の法をしらんや。

 

「まことに無量恒河沙の三千大千世界を統領せんよりも、仏衣現在の小国に王としてこれを見聞供養したてまつらんは、生死のなかの善生、最勝の生なるべし。仏化の及ぶ処、三千界いづれの処か袈裟なからん」

 これより先程の「伝灯録」に対する拈提となるが『伝衣』と対比させながら読み解いてみよう。

 「無量恒河沙の三千大千世界」とはガンジス川の砂の無量なるを「三千大千世界」と表象したもので、この世界を一小世界と規定し、一小世界×1000=小千世界。小千世界×1000=1000000=中小世界。中小世界×1000=1000000000=大千世界つまり「10億世界=無量恒河沙」とするわけだが、インド人は途方もない数字を想定するものだが、そこにはサンスクリット語解釈にも連なるインド的思考がある。たとえばsunyaは空なるもの(empty)と訳すが、sunyataは空性(emotiness)と訳される。このtaを付加することで抽象名詞化され、空性の場合では空たらしめている背後にある存在を指すので、そこには無限の概念や数量化が図られるわけである。世界の言語のなかでもサンスクリット語ほど抽象名詞化された語彙を含むコトバは存在しない。

 『出家功徳』にても説くように『阿毘達磨大毘婆沙論』では「六十四億九万九千九百八十」なる数字を弾き出すように「無量」のメタファーとしての表現である。因みに「一秒」の定義を示すに「セシウム133原子の基底状態の二つの超微細構造準位の遷移に対応する放射の周期である九十一億九二六三万一七七〇倍の継続時間」であるそうだが、余りにも数値が類似するので記した。

 「仏衣現在の小国」での「小国」は唐朝を指すわけであるが、これは「三千大千世界」と比べると「小国」に値するわけで、また此処では達磨の祖国である「印度」に比して「小国」とも推察し得る。その証左としては『行持』下に於ける「師(達磨)は南天竺の刹利種なり、大国の皇子なり、大国の王宮、小国の風俗は、大国の帝者に」(「大正蔵」八二・一三五b二六)と、明らかにインドは大、中国は小との位置づけで論を展開されるのである。

 「生死のなかの善生、最勝の生なるべし」とは『修証義』第二節にて示されるが、その前後には「すでに受け難き人身を受けたるのみにあらず、遭い難き仏法に値い奉れり」(出家功徳)、生死のなかの善生、最勝の生なるべし、最勝の善身をいたづらにして露命を無常の風に任すること勿れ(出家功徳)」と云う文章の接合とし、第二節の引用はすべて「新草十二巻」にて構成される。

 『伝衣』ではこの処は「しかあればすなはち、数代の帝者、ともに国の重宝なり。まことに無量恒河沙の三千大千世界を統領せんよりも、この仏衣国に保てるは、ことにすぐれたる大宝なり。卞璧(べんぺき)に准ずべからざるものなり」と記述されるが、本則話は同じであるにも拘らず、語彙の豊富さには驚くばかりである。

「しかありと云へども、嫡々面授して仏袈裟を正伝せるは、たゞひとり嵩嶽の曩祖のみなり、旁出は仏袈裟を授けられず。二十七祖の旁出、跋陀婆羅菩薩の伝、まさに肇法師に及ぶと云へども、仏袈裟の正伝なし。震旦の四祖大師、また牛頭山の法融禅師をわたすと云へども、仏袈裟を正伝せず」

 「旁出」の語は当巻での二か所のみの使用であるが、四十三万余字ある「正法眼蔵」ならびに「永平広録」にも、この「旁出」なる語は見い出し得ない。「二十七祖の旁出」とは、恐らくは『景徳伝灯録』四(「大正蔵」五一・二二三b一一)での「第三十一祖(二十七祖)道信大師旁出法嗣」から援用されたものと推測する。

 「二十七祖の旁出、跋陀婆羅菩薩の伝、まさに肇法師に及ぶ」とあるが、この出典籍は『碧巌録』六十二則(「大正蔵」四八・一九四a三)に於ける圜悟克勤(1063―1135)による評唱での「肇乃礼羅什為師。又互棺寺跋陀婆羅菩薩、従西天二十七祖処、伝心印来。肇深造其堂奥」<肇は乃ち羅什を礼して師と為す。又た参互棺寺の跋陀婆羅菩薩の、西天二十七祖の処より、心印を伝来し参ず。肇は深く其の堂奥に造(いた)る>であろうが、この言を承けての上堂説法が建長四年(1252)の正月中旬以降の『永平広録』(482)に記録が残っている。ここで論じている箇所と符合し、道元の最晩年の言明も含め紹介しよう。

「上堂、仏法二度入震旦。一者跋陀婆羅菩薩伝来在瓦官寺伝秦朝之肇法師。一者嵩山高祖菩提達磨尊者、在少林寺、伝斉国之慧可。肇法師之伝、今既断絶。可大師之稟授、弘於九州。我儻酬宿殖般若之種子、得値殊勝最上之単伝而修習。当救頭燃而精進。仏言、有二人罪人。謂、一人殺三千大千世界之衆生。一人得大智慧、罵謗坐禅之人。二人之罪、何者是重。仏言、毀謗坐禅之人、猶勝於殺三千大千世界衆生者。測知、坐禅其功徳最勝甚深。乃云、在単多劫参禅客、還見一条拄杖烏。正当恁麼時、更有脱落底道理也無。良久云、将謂胡鬚赤、更有赤鬚胡」

<上堂、仏法は二度震旦に入る。一は跋い陀婆羅菩薩は、伝来して瓦官寺に在って、秦朝の肇(じょう)法師に伝う。一は嵩山の高祖菩提達磨尊者は、少林寺に在って、斉国の慧可に伝う。肇法師の伝、今は既に断絶す。可大師の稟授は、九州に弘まる。我が儻(ともがら)は宿殖般若の種子に酬(むく)いて、殊勝最上の単伝に値って修習することを得たり。当に頭燃を救(はら)って精進すべし。仏言く、二人の罪人が有り。謂わく、一人は三千大千世界の衆生を殺す。一人は大智慧を得て、坐禅を罵謗する人なり。二人の罪は、何者(いづれ)か是(これ)重きと。仏言く、毀謗坐禅の人は、猶三千大千世界の衆生を殺す者於(よ)りも勝れたり。測り知りぬ、坐禅の其の功徳は最勝甚深なりと。乃ち云く、在単多劫参禅の客、還(はた)と見る一条拄杖の烏(くろ)きを。正当恁麼の時、更に脱落底の道理有りや也(また)無しや。良久して云く、将に謂えり胡(人)の鬚は赤く、更に赤い鬚の胡(人)有り>

 ―部が当巻と符合し、二重線部では「新草本」では積極的に坐禅の用語は用いないものの、最晩年に至るこの時期に於いても、「坐禅の功徳は最勝甚深」なりとの口述は、「旧草本」と「新草本」との文体構造には差異あるものの、道元在世に於ては一貫した「坐」に対するロジックの証左であろう。さらに続く「上堂」(483)では「豈是庸流之所能也」の「庸流」は「旁出」に通じ、同じく「上堂」(484)では「肇公云、菩提之道不可図度。高而無上、広不可極、淵而無下、深不可測」(『宗鏡録』八十九「大正蔵」四八・九〇五a二五)<肇公云く、菩提の道は図度(はか)るべからず。高くして上無し、広きして極むべからず、淵にして下無し、深くして測るべからず>と、肇論の論書を引用しての上堂説法は、明らかに当巻である『袈裟功徳』に聯関するものである。少なからずも凡長なる説明であった。

 登場する人物について簡略に記す。「嵩嶽の曩祖」とは菩提達磨。「二十七祖」とは般若多羅。「跋陀婆羅菩薩(359―429)」は釈迦族の甘露飯王の子孫で、南方海路で中国に渡来し、長安から廬山に行き、慧遠に敬重され、坐禅の指導をしたとする伝承がある一方で、『楞厳経』では十六開士(菩薩)の一人として登場し、十六人の菩薩が風呂の供養を受けた際、跋陀婆羅はじめ他の十五人も忽然として、自己と水との一如を悟ったことから、今日でも浴室にて木像が祀られる。

 「二十七祖(般若多羅)の旁出、跋陀婆羅菩薩」の例示は、先に示した『碧巌録』六十二則評唱のみであり、『景徳伝灯録』はじめ他の灯録類にも記載はない。また同じく『碧巌録』七十八則の「評唱」では「楞厳会上、跋陀婆羅菩薩、与十六開士」(「大正蔵」四八・二〇五a七)と示し、二十七祖との関係には言及しない。

 「肇法師(374―414)は鳩摩羅什門下の四哲として道生・慧観・僧叡と共に中国後秦長安にて活躍した仏僧であり、論書として『肇論』(「大正蔵」四五・一五〇c一三)や注釈書では『註維摩詰経』(「大正蔵」三八・三二七c一四)が現存する。

 「震旦の四祖大師」とは、第三十一祖の大医道信(580―651)を指し、嫡流としては「大満弘忍(601―674)となる。「牛頭山の法融禅師(594―657)とは『景徳伝灯録』四には「第三十一祖道信大師下旁出法嗣、金陵牛頭六世祖宗、第一世法融禅師」(「大正蔵」五一・二二六c二四)と記録される。筆者としては、「牛頭」と云えば、「南泉因みに僧問う、牛頭未だ四祖に見(まみえ)ざる時、甚麽(なん)と為(し)てか、百鳥銜花献」(原漢文・『真字三百則』五十二)の画像が眼前に映ずる。

 此処で論じた文章は『伝衣』には見えず、晩年の上堂説法の内容からしても、仁治元年(1240)にての示衆では示されず、建長四年(1252)初頭に加筆されたものであろう。

「しかあればすなはち、正嫡の相承なしと云へども、如来の正法その功徳むなしからず、千古万古みな利益広大なり。正嫡相承せらんは、相承なきと等しかるべからず。しかあればすなはち、人天もし袈裟を受持せんは、仏祖相伝の正伝を伝受すべし。印度震旦、正法像法の時は、在家なほ袈裟を受持す。いま遠方辺土の澆季には、剃除鬚髪して仏弟子と称ずる、袈裟を受持せず、いまだ受持すべきと信ぜず、知らず、明らめず、悲しむべし。いはんや体色量を知らんや、いはんや著用の法を知らんや」

 当初の「そかれば」の要旨としては、「正嫡」↔「旁出」との二項分立ではなく、それぞれ(千古万古)の役割(利益)は広大である。と云うわけですが、龍蛇を混同してはいけない。これを象徴的に示す巻が『葛藤』である。そこには「しるべし、祖道の皮肉骨髄は、浅深にあらざるなり」(「大正蔵」八二・一七六b二四)さらには「回互不回互なるがゆゑに、仏祖現成し、公案現成するなり」(「同」一七七b六)と明確に、正嫡に対する庸流的な能断所断的見方は、仏法にはあらず、とする所です。

 「利益広大」の実例を挙げるならば、青原の正嫡は石頭―薬山―雲巌―洞山と嗣続されるが、その間には旁出である雪峰からは玄沙・鏡清・長慶・保福・雲門が生れ、雲門からはさらに洞山守初・双泉仁郁・香林澄遠・薦福承古の門脈が出世する。一方で南嶽の正嫡は馬祖―百丈―黄檗臨済と伝承される間には、旁出として仏光如満・西堂智蔵・麻浴宝徹・塩官斉安・大梅法常・帰宗智常・鄧隠峰・南泉普願の門脈が活鱍々し、南泉門下からは趙州従諗が輩出され、彼の公案本則話に於ては、二十一世紀の今日まで我々に対し「利益広大」を提供される状況を見れば、この道元の拈提解説も合点に向うわけである。

 続いての「しかあれば」の要旨は、「印度震旦」↔日本(遠方辺土)との文化の違いとでも言うべきを、「袈裟」を喩えに説明し、その具体例としては遠方辺土である「澆季(末法)」の世上では「袈裟の体色量」つまり衣財と色彩(壊色)と寸法(体全体を覆う程度)などは知らず、ましてや著法も知らず。と説き明かすが、これは彼(道元)が在宋以前の建仁寺では栄西の薫風が未だ在ったろうが、二度の渡宋を果たした栄西の関心は密教と禅の修得に傾けられて居た為に、道元在宋以後の建仁寺では「剃除鬚髪して仏弟子と称ずるも、袈裟を受持せず、受持すべきと信ぜず」の状態を記したものであろう歟。

 

   二

 袈裟はふるくより解脱服と稱ず、業障煩惱障報障等、みな解脱すべきなり。龍もし一縷をうれば三熱をまぬかる、牛もし一角にふるればその罪おのづから消滅す。諸佛成道のとき、かならず袈裟を着す。しるべし、最尊最上の功徳なりといふこと。

 まことにわれら邊地にむまれて末法にあふ、うらむべしといへども、佛々嫡々相承の衣法にあふたてまつる、いくそばくのよろこびとかせん。いづれの家門か、わが正傳のごとく釋尊の衣法ともに正傳せる。これにあふたてまつりて、たれか恭敬供養せざらん。たとひ一日に無量恒河沙の身命をすてても、供養したてまつるべし、なほ生々世々の値遇頂戴、供養恭敬を發願すべし。われら佛生國をへだつること十萬餘里の山海はるかにして通じがたしといへども、宿善のあひもよほすところ、山海に擁塞せられず、邊鄙の愚蒙きらはるゝことなし。この正法にあふたてまつり、あくまで日夜に修習す、この袈裟を受持したてまつり、常恒に頂戴護持す。たゞ一佛二佛のみもとにして功徳を修せるのみならんや、すでに恒河沙等の諸佛のみもとにして、もろもろの功徳を修習せるなるべし。たとひ自己なりといふとも、たふとぶべし、隨喜すべし。祖師傳法の深恩、ねんごろに報謝すべし。畜類なほ恩を報ず、人類いかでか恩をしらざらん。もし恩をしらずは、畜類よりも愚なるべし。

「袈裟は古くより解脱服と称ず、業障煩悩障報障等、みな解脱すべきなり。龍もし一縷を得れば三熱をまぬかる、牛もし一角に触るればその罪おのづから消滅す。諸仏成道の時、必ず袈裟を着す。知るべし、最尊最上の功徳なりといふこと」

 「袈裟は古くより解脱服と称ず」とは、『禅苑清規』九にて示す「本師持袈裟誦偈云、大哉解脱服、無相福田衣、被奉如来戒(教)、広度諸衆生」(「続蔵」六三・五四七a一七)でありますが、この偈文は禅宗門を一度たりとも通過した学人ならば、暁天坐罷には必ず唱えることから、謂わば体色量に沁み込んだ文句であろう。

 「業障・煩悩障・報障」とは、教学等では繁雑な教義がありましょうが、「人生上の問題」(「酒井得元提唱録」より)と理解し、只管に打する時そのものが解脱と会すれば、そこには「業障・煩悩障・報障」等は存在しないのであります。

 「龍もし一縷を得れば三熱をまぬかる」とは、龍(邪)が袈裟の糸筋一本に触れたならば、袈裟の功徳にて三熱を免かれる、とは、各種の経典に説かれるが、今回は『大乗本生心地観経』五での「若有龍身一縷、得脱金翅鳥王食」(「大正蔵」三・三一四a二六)を紹介した。なお「三熱」とは熱風・熱砂に焼かれ、金翅鳥に喰われる三難を云う。この部位を『伝衣』では「袈裟をば古くより云く、除熱悩服と名づく、解脱服と名づく。おおよそ功徳測るべからざるなり。龍鱗の三熱、よく袈裟の功徳より解脱するなり。諸仏成道の時、必ずこの衣を用いるなり」と説き示される。

 「牛もし一角に触るればその罪おのづから消滅す」についても参考経典は『義楚六帖』二十二に有るようであるが確認できず。龍や牛などの動物が回心(反省)して解脱し成仏する説話の根源は、ジャータカ(本生譚)などから派生したもので、これらの根柢には人間至上主観から視座した、ある種の慈観悲観を伴ったものであろうが、この「牛」の説話は『伝衣』には不載。

「まことに我ら辺地にむまれて末法にあふ、恨むべしと云へども、仏々嫡々相承の衣法にあふたてまつる、いくそばくの喜びとかせん。いづれの家門か、わが正伝の如く釈尊の衣法ともに正伝せる。これにあふたてまつりて、たれか恭敬供養せざらん。たとひ一日に無量恒河沙の身命を棄てても、供養したてまつるべし、なほ生々世々の値遇頂戴、供養恭敬を発願すべし」

 此処で問題にしたいのは「末法」のことである。「当巻」では他に二か所(末法悪時世・末法澆季)使用され、『伝衣』では二十か所(末法末法悪時世)、『嗣書』に一か所(末法悪時)確認できるが、気になる用法を『辦道話』(寛喜三年(1231))では「正像末法分くことなし」(「大正蔵」八二・二〇c一三)とある。永承七年(1052)から末法の世になると云った所謂末法思想を否定し、仏法は坐禅そのままとばかりに一万一千余字(400字原稿三十枚ほど)の文体の中に三十三回もの「坐禅」を連呼する態度は、まさに「入宋伝法沙門道元」の面目躍如たる宣言であったが、『辦道話』から、十年あまり過ぎた仁治元年(1240)に於ては「辺地に生れ末法に遇う」とする文体の移相は、叢林内とは云いつつも世上の動向とは切り離せぬ、道元のジレンマさへ観察される語法である。

 「いづれの家門か、わが正伝の如く釈尊の衣法ともに正伝せる」とは、我田引水的言い用とも聞こえるが、同時代に生きた僧侶のなかでも道元ほど「袈裟」や「衣法」と云う詞を多く使用した例は、恐らくなかろう(『聖一国師語録』を例に)。

 「生々世々の値遇頂戴」とは、永遠に衣法(袈裟)を戴くことが、「供養恭敬」であるとは、袈裟を著して後の結果ではなく、「袈裟」=「供養」=「恭敬」であるとは、立ち止まっての修証ではなく、袈裟(衣法)と共に動ずること自体が、そのまま「供養恭敬」の実修、それ自体を「発願」と位置するわけである。

 此処も同類文が『伝衣』にも見られることから、古型に当たるものであろう。

「われら仏生国を隔つること十万余里の山海はるかにして通じ難しと云へども、宿善のあひもよほすところ、山海に擁塞せられず、辺鄙の愚蒙きらはるゝことなし。この正法にあふたてまつり、あくまで日夜に修習す、この袈裟を受持したてまつり、常恒に頂戴護持す」

 此処ではインド渡海を計画(建仁三年1203)された明恵上人(以下、明恵と略称・1173―1232)の事蹟を見てみよう。明恵のインド行きには二回の計画を立てながらも結局は機縁熟さずとなったが、彼の計画旅程では、唐の長安(現在の西安)からインドの王舎城(ラジギール)までを五万里〔中国里数〕(8333里〔日本里数〕)と算定し、一日八里の行程では三年弱にて王舎城に到着できると、玄奘の『大唐西域記』を参照し算出されたのである。

 一方道元は「仏生国(インド)を隔つること十万余里」と記されるが、これは日本(九州)―寧波(上海)―長安王舎城までの総数であろうが、この「十万余里」の言は一般に聞き慣れた数字であろう。他には『仏道』にては「十万八千里」、『見仏』では「十万余里」と記される。

 『伝衣』では「われら仏生国を隔つる事十万余里の山海のほかに生まれて、辺邦の愚蒙なりと云えども、この正法を聞き、この袈裟を一日一夜なりといえども受持し、一句一偈なりといえども参究する」と同趣旨ではあるものの、詞を選んで文章を編んでいる様子が見える。

 明恵道元も共々にインド恋慕心があったろうが、実際にガンジス川中流域を旅したならば、インド史を見る限りはインド仏教は、1193年にはムスリムの侵攻によりナーランダ僧院の破壊、そして1203年にはヴィクラマシーラ寺院等での破壊でインド仏教は滅亡。と記載あることなどを想うと、道元明恵も釈迦恋慕のままで、生を全うされて正解だったような気がする。

「ただ一仏二仏のみもとにして功徳を修せるのみならんや、すでに恒河沙等の諸仏のみもとにして、もろもろの功徳を修習せるなるべし。たとひ自己なりとい云ふとも、たふとぶべし、随喜すべし。祖師伝法の深恩、ねんごろに報謝すべし。畜類なほ恩を報ず、人類いかでか恩を知らざらん。もし恩を知らずは、畜類よりも愚なるべし」

 これは縁起の顕現としての「袈裟」を頂戴することが、即時に「祖師伝法の深恩」と定義され、『修証義』で採用された「畜類なほ恩を報ず、人類いかでか恩を知らざらん」と続くわけだが、このフレーズは語彙の異同を伴い『伝衣』にもあり。その前には『行持』で説く処の「病雀なほ恩を忘れず、三府の環よく報謝あり」を承けてのものである。『修証義』本文に関しては拙著である「修証義を考察するー正法眼蔵から読み解くー」を参照されたし。

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2021/06/24/091041

   三

 この佛衣佛法の功徳、その傳佛正法の祖師にあらざれば、餘輩いまだあきらめず、しらず。諸佛のあとを欣求すべくは、まさにこれを欣樂すべし。たとひ百千萬代ののちも、この正傳を正傳とすべし。これ佛法なるべし、證験まさにあらたならん。水を乳にいるゝに相似すべからず、皇太子の帝位に即位するがごとし。かの合水の乳なりとも、乳をもちゐん時は、この乳のほかにさらに乳なからんには、これをもちゐるべし。たとひ水を合せずとも、あぶらをもちゐるべからず、うるしをもちゐるべからず、さけをもちゐるべからず。この正傳もまたかくのごとくならん。たとひ凡師の庸流なりとも、正傳あらんは用乳のよろしきときなるべし。いはんや佛々祖々の正傳は、皇太子の即位のごとくなるなり。俗なほいはく、先王の法服にあらざれば服せず。佛子いづくんぞ佛衣にあらざらんを著せん。後漢孝明皇帝、永平十年よりのち、西天東地に往還する出家在家、くびすをつぎてたえずといへども、西天にして佛々祖々正傳の祖師にあふといはず、如來より面授相承の系譜なし。たゞ經論師にしたがうて、梵本の經教を傳來せるなり。佛法正嫡の祖師にあふといはず、佛袈裟相傳の祖師ありとかたらず。あきらかにしりぬ、佛法の閫奥にいらざりけりといふことを。かくのごときのひと、佛祖正傳のむね、あきらめざるなり。

 釋迦牟尼如來、正法眼藏無上菩提を、摩訶迦葉に附授しましますに、迦葉佛正傳の袈裟、ともに傳授しまします。嫡々相承して曹谿山大鑑禪師にいたる、三十三代なり。その體色量、親傳せり。それよりのち、青原南嶽の法孫、したしく傳法しきたり、祖宗の法を搭し、祖宗の法を製す。浣洗の法および受持の法、その嫡々面授の堂奥に參學せざれば、しらざるところなり。

「この仏衣仏法の功徳、その伝仏正法の祖師にあらざれば、余輩いまだ明らめず、知らず。諸仏のあとを欣求すべくは、まさにこれを欣楽すべし。たとひ百千万代の後も、この正伝を正伝とすべし。これ仏法なるべし、証験まさにあらたならん」

 先ほどの「報謝」つまり感謝する処には、「仏衣仏法の功徳」がおのづと薫習として「百千万代の後」も「証験」する。との言となり、この部分も『伝衣』では取り上げられる。

「水を乳に入るるに相似すべからず、皇太子の帝位に即位するが如し。かの合水の乳なりとも、乳を用ゐん時は、この乳のほかにさらに乳なからんには、これを用ゐるべし。たとひ水を合せずとも、油を用ゐるべからず、漆を用ゐるべからず、酒を用ゐるべからず。この正伝もまたかくの如くならん。たとひ凡師の庸流なりとも、正伝あらんは用乳のよろしき時なるべし。いはんや仏々祖々の正伝は、皇太子の即位の如くなるなり」

 この文章表現(合水の乳)は『出家功徳』最後部にて示された「たとひ澆風の叢林なりとも、なほこれ薝蔔の林なるべし。凡木凡草のおよぶところにあらず。また合水の乳のごとし。乳を用ゐんとき、この和水の乳を用ゐるべし、余物を用ゐるべからず」を基に、仁治元年(1240)の興聖寺にて示された文章を永平寺に於て加筆修訂されたものと推測する。もちろん『伝衣』では「合水乳」の例言は見当たらない。『出家功徳』注解部での筆者の拙論では、道元が鎌倉より永平寺に帰山(宝治二年〔1248〕三月十四日)した当時の山内状況を記録したもの。と導いたが、「当巻」での文章の配置構成から考察すると『出家功徳』とは異なり、「水を乳に入るるに相似すべからず」の文飾からは、仏衣仏法の正伝の如くに、袈裟に於いても代用品はなく、正嫡の「仏衣」がある。ことを「皇太子の帝位に即位するが如し」と表現されたのだが、『永平広録』二四七(宝治元年六月十日〔1247〕)での示衆では、自身を「永平臣僧」と語り、後深草院(1246~1260在位)の四歳の節句の祝聖句を唱えられるが、勿論これらの言は政治的論評ではない。

「俗なほ云はく、先王の法服にあらざれば服せず。仏子いづくんぞ仏衣にあらざらんを著せん。後漢孝明皇帝、永平十年より後、西天東地に往還する出家在家、くびすを継ぎて絶えずと云へども、西天にして仏々祖々正伝の祖師に逢ふと云はず、如来より面授相承の系譜なし。ただ経論師にしたがうて、梵本の経教を伝来せるなり。仏法正嫡の祖師に逢ふと云はず、仏袈裟相伝の祖師ありと語らず。明らかに知りぬ、仏法の閫奥に入らざりけりと云ふことを。かくの如きの人、仏祖正伝の旨、明らめざるなり」

 「俗なほ云はく、先王の法服にあらざれば服せず」の出典籍は『論語』「孝経・卿大夫(けいたいふ)」章第四である「非先王之法服、不敢服<先王の法服に非ざれば、敢えて服せず>、非先王之法言、不敢道<先王の法言に非ざれば、敢えて道わず>。非先王之徳行、不敢行<先王の徳行に非ざれば、敢えて行わず>、是故非法不言、非道不行<是の故に法に非ざれば言わず、道に非ざれば行わず>。・・」の初句を喩言にするわけだが、『伝衣』にては「先王の服にあらざれば服せず、先王の法にあらざればおこなはず」と、第二句も付言したものとなる。

 「後漢孝明皇帝、永平十年」に関しては、「旧草本」『光明』冒頭にて「震旦国、後漢の孝明皇帝、帝諱は荘なり、廟号は顕宗皇帝とまうす。光武皇帝の第四の御子なり。孝明皇帝の御宇、永平十年の戊辰の年、摩騰迦・竺法蘭、はじめて仏教を漢国に伝来す」(「大正蔵」八二・一五六b六)との記憶を元に、このような文言になったのでしょう。

 「永平十年」は西暦六十七年丁卯(ひのとう)ではあるが、戊辰(つちのえたつ)となるは永平十一年となるが、「永平十年」説に関しては『景徳伝灯録』一に於て「自世尊滅後一千一十七年教至中夏、即後漢永平十年戊辰歳也」(「大正蔵」五一・二〇五c二〇)からの援用である為、道元に過なない。なお『伝衣』では「後漢の孝明皇帝、永平年中よりこのかた」と記すのみである。

 「ただ経論師にしたがうて、梵本の経教を伝来せるなり」とは、インドから中国大陸に仏教(学問)は伝わったものの、実際的なる仏法の伝来は達磨(―536)の到来までの五〇〇年もの間の事情を「梵本の経教を伝来せるなり」と、嘆かれるわけです。この箇所は『伝衣』では「ただいたづらに論師および三蔵の学者に習学せる名相のみなり」と表現するが、先の『光明』にては「永平十年の戊辰の年、摩騰迦・竺法蘭、はじめて仏教を漢国に伝来す」と実名を挙げて詳述される。

 「仏々祖々正伝の祖師に逢ふと云はずー略―仏祖正伝の旨、明らめざるなり」の処も『伝衣』では文意は同じながらも、表現法には差異性を伴う。此処も『伝衣』と同時期に筆録されたものであろう。

釈迦牟尼如来正法眼蔵無上菩提を、摩訶迦葉に附授しましますに、迦葉仏正伝の袈裟、ともに伝授しまします。嫡々相承して曹谿山大鑑禅師にいたる、三十三代なり。その体色量、親伝せり。それより後、青原南嶽の法孫、親しく伝法し来たり、祖宗の法を搭し、祖宗の法を製す。浣洗の法および受持の法、その嫡々面授の堂奥に参学せざれば、知らざる処なり」

 ここでは釈尊摩訶迦葉菩提達磨―大鑑慧能までは「仏正伝の袈裟ともに伝授」とし、慧能の元には釈迦牟尼の暖皮なる「仏衣ならびに体色量」の製法が伝持されたとするが、次いで「青原・南嶽の法孫、親しく伝法」とするが、この書きぶりでは、南嶽・青原いづれが正嫡かは判断しかねるが、『伝衣』を参照するならば、「五十余代、あるいは四十余代、おのおの師資乱ることなく」と、自身の法孫五十一代を宣明することで、慧能の正嫡は「青原行思」と表明するものである。もちろん、これらの論述によるならば、釈尊の袈裟は現在の永平寺の方丈の一室に安置されていなければならない訳だが、これはあくまで伝承に於ける実話であることは留意しなければならない。

 

   四

 袈裟言有三衣、五條衣七條衣、九條衣等大衣也。上行之流、唯受此三衣、不畜餘衣、唯用三衣、供身事足。若經営作務、大小行來、著五條衣。爲諸善事入衆、著七條衣。教化人天、令其敬信、須著九條等大衣。又在屏處、著五條衣、入衆之時、著七條衣。若入王宮聚落、須著大衣。又復調和熅煗之時、著五條衣、寒冷之時、加著七條衣、寒苦嚴切、加以著大衣。故往一時、正冬入夜、天寒裂竹。如來於彼初夜分時、著五條衣。夜久轉寒、加七條衣、於夜後分、天寒轉盛、加以大衣。佛便作念、未來世中、不忍寒苦、諸善男子、以此三衣、足得充身。

搭袈裟法

 偏袒右肩、これ常途の法なり。通兩肩搭の法あり、如來および耆年老宿の儀なり。兩肩を通ずといふとも、胸臆をあらはすときあり、胸臆をおほふときあり。通兩肩搭は六十條衣以上の大袈裟のときなり。搭袈裟のとき、兩端ともに左臂肩にかさねかくるなり。前頭は左端のうへにかけて臂外にたれたり。大袈裟のとき、前頭を左肩より通じて背後にいだしたれたり。このほか種々の著袈裟の法あり、久參咨問すべし。

「袈裟言有三衣、五条衣七条衣、九条衣等大衣也。上行之流、唯受此三衣、不畜余衣、唯用三衣、供身事足」

<袈裟言く三衣有り、五条衣・七条衣、九条衣等の大衣也。上行の流(ともがら)は、唯だ此の三衣のみを受けて、余衣を畜えず、唯だ三衣を用いて、身に供じて事足れり>

引用典籍である『大乗義章』十五を記す。

言三衣者、謂、五条衣七条大衣上行之流唯受此三不畜余衣、何故而然、白衣求楽畜種種衣。外道共行裸形無恥、仏住中道捨離二辺故畜三衣。又求多衣費功廢道、少不済事故畜三衣、然此三衣供身事足」(「大正蔵」四四・七六四c三)

「若経営作務、大小行来、著五条衣。為諸善事入衆、著七条衣。教化人天、令其敬信、須著九条等大衣」

<若し経営作務、大小の行来には、五条衣を著す。諸の善事を為し入衆するには、七条衣を著す。人天を教化し、其れをして敬信せしむるには、須く九条等の大衣を著すべし>

「又在屏処、著五条衣、入衆之時、著七条衣。若入王宮聚落、須著大衣」

<又屏処に在らんには、五条衣を著し、入衆の時には、七条衣を著す。若し王宮聚落に入るには、須く大衣を著すべし>

又在屏処著五条衣入衆之時著七条衣若入王宮聚落須著大衣」(「同」c一〇)

「又復調和熅煗之時、著五条衣、寒冷之時、加著七条衣、寒苦厳切、加以著大衣」

<又復、調和熅煗(おんなん)の時は、五条衣を著し、寒冷の時は、七条衣を加著し、寒苦厳切なるには、加えて以て大衣を著す>

又復調和温暖之時著五条衣寒冷之時加七条衣寒苦厳切加以大衣」(「同」c一一)

「故往一時、正冬入夜、天寒裂竹。如来於彼初夜分時、著五条衣。夜久転寒、加七条衣、於夜後分、天寒転盛、加以大衣」

<故往(以前)の一時、正冬の夜に入りて、天は寒く竹を裂く。如来は彼の初夜(夜の前半)分の時に於ては、五条衣を著す。夜久しく転(うた)た寒きには、七条衣を加し、夜の後分(夜の後半)に於ては、天寒転た盛んなるには、加うるに大衣を以てす>

故往一時正冬入夜天寒裂竹如来於彼初夜分時著五条衣夜久転寒加七条衣於後夜分天寒転盛加以大衣」(「同」c一三)

「仏便作念、未来世中、不忍寒苦、諸善男子、以此三衣、足得充身」

<仏は便ち念を作す、未来世の中に、寒苦を忍びざらん、諸の善男子は、此の三衣を以て、足して充身するを得ん>

仏便作念未来世中不忍寒苦諸善男子以此三衣足得充身」(「同」c一六)

 「袈裟」の元々の形態は田圃を表象したものですから、「福田衣」とも称すわけで、「五条」の「条」は田圃の畔(あぜ)つまり区画を示す。「上流」とは修行のよく出来た者。「若経営作務、大小行来」とは日常生活。「屏処」とは人前に出ない処、内輪で過す処。「王宮」とは君主の居城・拠点。「聚落」とは部落・在郷など人々が集う場所。

「搭袈裟法、偏袒右肩、これ常途の法なり。通両肩搭の法あり、如来および耆年老宿の儀なり。両肩を通ずと云ふとも、胸臆をあらはす時あり、胸臆を蓋ふ時あり。通両肩搭は六十条衣以上の大袈裟の時なり。搭袈裟の時、両端ともに左臂肩に重ね掛くるなり。前頭は左端の上にかけて臂外に垂れたり。大袈裟の時、前頭を左肩より通じて背後に出だし垂れたり。このほか種々の著袈裟の法あり、久参咨問すべし」

 「搭袈裟法」とは、袈裟を著(か)ける方法の意で、「偏袒右肩」右の肩を袒(かた)ぐの意で、右肩は袈裟で覆わない。これは古代インドの儀礼的側面がある。つまり右側を無防備にする事で、敵意の無きを表す。この右肩を露わにする掛け方が「常途(一般的)」な方法であり、これが古来(耆年老宿)のやり方(儀)である。また両肩を覆うやり方は、「通両肩搭」といい、「六十条衣」以上の袈裟を著するとするが、これは恐らくはデフォルメした表現で、実際には「十五条の袈裟」(『瑜伽論記』六上(「大正蔵」四二・四三七a三)を使用するとも思われる。実際の搭袈裟の方途は、袈裟の両端を左の臂肩に交差(重ねる)する。前方の袈裟端を左端の上に掛けて臂の外に垂れる。また大袈裟(十五条)の時には、前方を左肩より背後に出し垂らす。この外にも種々の著袈裟法があり、久しく参じて質問(咨問)しなさい、と説かれる。

 『伝衣』にても同類文があり「搭袈裟法、偏袒右肩は常途の法なり、通両肩搭の法もあり。両端ともに左の臂肩にかさねかくるに、前頭を表面にかさね、前頭を裏面にかさね、後頭を表面にかさね、後頭を裏面にかさぬる事」と簡略化された文体となる。これらの事情から察すると、最初に『伝衣』を書き上げ、続いて同時期に『袈裟功徳』が書き上げられたと推察したい。

 

   五

 梁陳隋唐宋あひつたはれて數百歳のあひだ、大小兩乘の學者、おほく講經の業をなげすてて、究竟にあらずとしりて、すゝみて佛祖正傳の法を習學せんとするとき、かならず從來の弊衣を脱落して、佛祖正傳の袈裟を受持するなり。まさしくこれ捨邪歸正なり。

 如來の正法は、西天すなはち法本なり。古今の人師、おほく凡夫の情量局量の小見をたつ。佛界衆生界、それ有邊無邊にあらざるがゆゑに、大小乘の教行人理、いまの凡夫の局量にいるべからず。しかあるに、いたづらに西天を本とせず、震旦國にして、あらたに局量の小見を今案して佛法とせる、道理しかあるべからず。

 しかあればすなはち、いま發心のともがら、袈裟を受持すべくは、正傳の袈裟を受持すべし。今案の新作袈裟を受持すべからず。正傳の袈裟といふは、少林曹谿正傳しきたれる、如來の嫡々相承なり。一代も虧闕なし。その法子法孫の著しきたれる、これ正傳袈裟なり。唐土の新作は正傳にあらず。いま古今に、西天よりきたれる僧徒の所著の袈裟、みな佛祖正傳の袈裟のごとく著せり。一人としても、いま震旦新作の律學のともがらの所製の袈裟のごとくなるなし。くらきともがら、律學の袈裟を信ず、あきらかなるものは卻するなり。

 おほよそ佛々祖々相傳の袈裟の功徳、あきらかにして信受しやすし。正傳まさしく相承せり。本様まのあたりつたはれり、いまに現在せり。受持あひ嗣法していまにいたる。受持せる祖師、ともにこれ證契傳法の師資なり。

 しかあればすなはち、佛祖正傳の作袈裟の法によりて作法すべし。ひとりこれ正傳なるがゆゑに。凡聖人天龍神、みなひさしく證知しきたれるところなり。この法の流布にむまれあひて、ひとたび袈裟を身體におほひ、刹那須臾も受持せん、すなはちこれ決定成無上菩提の護身符子ならん。一句一偈を信心にそめん、長劫光明の種子として、つひに無上菩提にいたる。一法一善を身心にそめん、亦復如是なるべし。心念も刹那生滅し無所住なり、身體も刹那生滅し無所住なりといへども、所修の功徳、かならず熟脱のときあり。袈裟また作にあらず無作にあらず、有所住にあらず無所住にあらず、唯佛與佛の究盡するところなりといへども、受持する行者、その所得の功徳、かならず成就するなり、かならず究竟するなり。もし宿善なきものは、一生二生乃至無量生を經歴すといふとも、袈裟をみるべからず、袈裟を著すべからず、袈裟を信受すべからず、袈裟をあきらめしるべからず。いま震旦國日本國をみるに、袈裟をひとたび身體に著することうるものあり、えざるものあり。貴賤によらず、愚智によらず。はかりしりぬ、宿善によれりといふこと。

「梁陳隋唐宋あひ伝はれて数百歳のあひだ、大小両乗の学者、多く講経の業を投げ捨てて、究竟にあらずと知りて、進みて仏祖正伝の法を習学せんとする時、必ず従来の弊衣を脱落して、仏祖正伝の袈裟を受持するなり。まさしくこれ捨邪帰正なり」

 「梁陳隋唐宋」とは達磨伝来の「梁(502―618)から「陳(557―587)」「隋(581―619)」「唐(618―907)」「〔北宋〕(960―1127)と「数百歳(600年)」の間には大乗・小乗の多くの学者が在したが、多くはその数百年間には弊衣(邪)を捨て、袈裟(正)に帰依した。とする論ですが、『伝衣』では「祖師西来よりこのかた、大唐より大宋に至る数百歳の間、講経の達者、おのれが業を見徹せる者、多く教家律教等の輩、仏法に入る時、従来旧巣の弊衣なる袈裟を抛却して、仏道正伝の袈裟を正受するなり」と、類文になるが、ここでは「大唐より大宋」に対し『袈裟功徳』では「梁陳隋唐宋」と詳述する辺りは、『伝衣』が先に書き上げられたものか。

如来の正法は、西天すなはち法本なり。古今の人師、多く凡夫の情量局量の小見をたつ。仏界衆生界、それ有辺無辺にあらざるがゆゑに、大小乗の教行人理、いまの凡夫の局量に入るべからず。しかあるに、いたづらに西天を本とせず、震旦国にして、あらたに局量の小見を今案して仏法とせる、道理しかあるべからず」

 此処では「西天」つまりインドを「法本」の本家とし、「震旦」である中国大陸との対比と思わせる語感とも聞き取れるが、そのように解するを「凡夫」と位置づける。凡夫とは決して劣った人間の意ではなく、一方向でしか思考できず、A=Bと思い込んだらAとBとの関係性しか把握できない偏屈なる人物を云う。たとえば「有辺・無辺」を定立的にしか把握できず、「仏界・衆生界」の無辺際を掌握しないような者であろう。ですから「大小乗の教行人理」という、仏法の教えや修行は、凡夫の入り込む余地は無い、と断言される。

 そこで、自身の考えのみ(いたずら)で、「西天を本」などとは言うべきではないが、逆に新たに「震旦国を仏法」とするは道理に適わず、である。と云うのは、中国大陸では仏教の教理の伝来以来、梵本等からの訳経に努めるが、勝手に教理解釈(たとえば『般若経』の「空」解釈など)したり、袈裟に於いても本来義から離れ、装飾的色合が増し亦権威の象徴と成った事情を、「局量の小見を今案して仏法とせる(は)、道理しかあるべからず」と、解き明かすものであります。

 『伝衣』では「教律局量の小見を解脱して、仏祖正伝の大道を尊(とうと)みし、みな仏祖となれり。むかしの祖師を学ぶべし」とする。

「しかあれば即ち、いま発心のともがら、袈裟を受持すべくは、正伝の袈裟を受持すべし。今案の新作袈裟を受持すべからず。正伝の袈裟と云ふは、少林曹谿正伝し来たれる、如来の嫡々相承なり。一代も虧闕なし。その法子法孫の著し来たれる、これ正伝袈裟なり。唐土の新作は正伝にあらず。いま古今に、西天より来たれる僧徒の所著の袈裟、みな仏祖正伝の袈裟の如く著せり。一人としても、いま震旦新作の律学のともがらの所製の袈裟の如くなるなし。暗きともがら、律学の袈裟を信ず、明らかなるものは却するなり」

 此処は文意の通りでありますが、「今案の新作袈裟」とは如何なるものかは具体事例を記して欲しい所ではあるが残念である。この「新作」と聞いて筆者の思い出す事あり。小拙ある寺院にて納所坊主として従事する時、ある僧が著する袈裟の背面には「昇龍」の刺繍が施されたのを見て、それは「何だ」と訝し気に尋ねるに、その僧が云うには、これを著するに檀信徒に対し、「泊が付く」との答え。まことに驚き、滑稽な想いをした記憶がある。道元が記した鎌倉時代の「新作袈裟」は、これほどマンガ的ではないにしろ、装飾的趣向もあったのだろうか。また一つ、袈裟を尊ぶ僧団の中には糞掃衣に対する狂信的信奉者(凡僧)も存し、本来的なる糞掃とは裏腹に、贅を尽した(衣財、労力)
ものを、多数の信徒の前にて披露するを悦とする習癖、これをも「凡」と位置づけ、抛却の対象にすべきと考える。

 『伝衣』にては「袈裟を受持すべくは正伝の袈裟を正伝すべし、信受すべし。偽作の袈裟を受持すべからず。その正伝の袈裟と云うは、いま少林曹渓より正伝せるは、これ如来より嫡々相承する事、一代も虧闕せざる処なり。この故に、道業まさしく稟受し、仏衣親しく手に入れるによりてなり」と、簡文にて提示される。

「おほよそ仏々祖々相伝の袈裟の功徳、明らかにして信受しやすし。正伝まさしく相承せり。本様まのあたり伝はれり、今に現在せり。受持あひ嗣法して今に至る。受持せる祖師、ともにこれ証契伝法の師資なり」

 此処では「袈裟の功徳」=「証契伝法の師資なり」と規定する一語に尽くる。

 『伝衣』では「おおよそ祖門の袈裟の功徳は、正伝まさしく相承せり、本様まのあたり伝われり。受持あい嗣法して、今に絶えず。正受せる人、みなこれ証契伝法の祖師なり。十聖三賢にもすぐる、奉覲恭敬し、礼拝頂戴すべし」と同類文が示さる。

「しかあれば即ち、仏祖正伝の作袈裟の法によりて作法すべし。ひとりこれ正伝なるがゆゑに。凡聖人天龍神、みな久しく証知しき来れる処なり。この法の流布にむまれあひて、ひとたび袈裟を身体におほひ、刹那須臾も受持せん、則ちこれ決定成無上菩提の護身符子ならん。一句一偈を信心に染めん、長劫光明の種子として、つひに無上菩提に至る。一法一善を身心に染めん、亦復如是なるべし」

 「作袈裟の法」とは律蔵等に従って製作することを云い、そこには日数までが厳格に規定される。「護身符子」は御守りであろうが、道元が現世利益的に使用するものかと思うに、圜悟克勤も南陽慧忠にも使用例が確認できる。また「護身符子」は当巻および『伝衣』にのみ使用されるが、『永平広録』にては「雲州大蔵経書到」上堂にては「須く大丈夫・天人・賢聖類の知幸に護身符を得る」(原漢文・361)と此の日のみの使用となる。「如是」に関しては、真実の表態としよう。如に関連する語としては、「如如」「如何」「如来」等の聯関語を例にすれが、○○の如しの如は全ての事象事物・眼前現成する「如」でありますから、真実態と謂わざる得ないわけです。

 『伝衣』では後部「この袈裟をひとたび身体に覆わん、決定成菩提の護身符子なりと深肯すべし。一句一偈を信心に染めつれば、長劫の光明にして虧闕せずと云う。一法を身心に染めん、亦復如是なるべし」と示さる。

「心念も刹那生滅し無所住なり、身体も刹那生滅し無所住なりと云へども、所修の功徳、必ず熟脱の時あり。袈裟また作にあらず無作にあらず、有所住にあらず無所住にあらず、唯仏与仏の究尽する処なりと云へども、受持する行者、その所得の功徳、必ず成就するなり、必ず究竟するなり」

 「心念」とは呼吸と云ってもよく生命現象の実態を「刹那生滅」と捉えることから、おのづと一瞬たりとも留まることは無い為に「無所住」となる。これは「身体」そのものも常に動的平衡して新陳代謝する連続態でありますから、「刹那生滅し無所住」ですが、これを無常(anicca)と名づくが、この無常の概念は『スッタニパータ』や『ダンマパダ』等の経典を披瀝しても散見されるが、我々日本人としては鴨長明による『方丈記』冒頭の「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」の一言を以てすれば、「刹那生滅・無所住」の観念は、誰に教わる所なくとも理会することであろう。ここで筆者の唯一聴聞した酒井得元氏の録音テープを聴くと、「常に新陳代謝してますから、昨日のふるもの持って、皆さんの前に出て来ませんよ」と云ったフレーズを感慨深く想い出す次第である。「熟脱」とは、ありのままの生命現象を現ずる意でありますから、翻って考えるなら、無所住を体感する打坐つまり坐禅している時を云う。

 「袈裟」に於いても先程の「刹那生滅・無所住」の論理が通用されて、「作為でもなく無作為でもなく、所住の有無」には関わらず。そこには「唯仏与仏(乃能)究尽する処」とは、この世の中は仏以外のものは存在せず、全ての事象事物が仏(真実)であり、「(袈裟を)受持する行者」とは、誰彼なしに「唯仏与仏」ですから、分け隔てなく皆共々が袈裟を著し得る修行者、との意であります。そこでは「必ず究竟するなり」と云う信念が必須となる。

 『伝衣』にても「かの心念も無所住なり、我有に関われずと云えども、その功徳すでにしかあり。身体も無所住なりと云えどもしかあり。袈裟、無所従来なり、亦無所去なり。我有にあらず、他有にあらずと云えども、所持の処に現住し、受持の人に加す。所得功徳もまたかくの如くなるべし。作袈裟の作は、凡聖等の作にあらず。その宗旨、十聖三賢の究尽する処にあらず」と記す。

「もし宿善なき者は、一生二生乃至無量生を経歴すと云ふとも、袈裟を見るべからず、袈裟を著すべからず、袈裟を信受すべからず、袈裟を明らめ知るべからず。いま震旦国日本国を見るに、袈裟をひとたび身体に著すること得る者あり、得ざる者あり。貴賤によらず、愚智によらず。はかり知りぬ、宿善によれりと云ふこと」

 此処では唯仏与仏の究尽究竟からは一転して、「宿善なき者」の名の下でバッサリと其の究竟の努力が事もなげに抛却されますが、これまでの文章の流れからすれば、宿善なき者ではあっても、「一生二生乃至無量生を経歴すれば、袈裟を見、袈裟を著し」と肯定的に見るべきを「宿善によれり」とは生れ筋が幸運である。との意であろうが、本来の「ブッダ・ダルマ」では宿善に依拠せず、修行(業)を重視するもので、中国大陸にて発生した禅集団も、煩雑化した学問仏教をリセットし釈尊に立ち戻る、一つのパラダイムシフトであったはずであり、道元に於いてもこの流れは十二分に覚知しての文章と見るならば、不審の一言に就き賛同しかねるものである。

 『伝衣』でも同類文である「宿殖の道種なき者は、一生二生乃至無量生を経歴すと云えども、袈裟を見ず、袈裟を聞かず、袈裟を知らず。如何に云わんや受持する事あらんや。ひと度身体に触るる功徳も、得る者あり、得ざる者あるなり。すでに得るは喜ぶべし、未だ得ざらんは願うべし、得べからざらんは悲しむべし」と云う。

 

   六

 しかあればすなはち、袈裟を受持せんは宿善よろこぶべし、積功累徳うたがふべからず。いまだえざらんはねがふべし、今生いそぎ、そのはじめて下種せんことをいとなむべし。さはりありて受持することえざらんものは、諸佛如來、佛法僧の三寶に、慚愧懺悔すべし。佗國の衆生いくばくかねがふらん、わがくにも震旦國のごとく、如來の衣法まさしく正傳親臨せましと。おのれがくにに正傳せざること、慚愧ふかかるらん、かなしむうらみあるらん。われらなにのさいはひありてか、如來世尊の衣法正傳せる法にあひたてまつれる。宿殖般若の大功徳力なり。

 いま末法惡時世は、おのれが正傳なきをはぢず、佗の正傳あるをそねむ、おもはくは魔儻ならん。おのれがいまの所有所住は、前業にひかれて眞實にあらず。たゞ正傳佛法を歸敬せん、すなはちおのれが學佛の實歸なるべし。

 おほよそしるべし、袈裟はこれ諸佛の恭敬歸依しましますところなり。佛身なり、佛心なり。解脱服と稱じ、福田衣と稱じ、無相衣と稱じ、無上衣と稱じ、忍辱衣と稱じ、如來衣と稱じ、大慈大悲衣と稱じ、勝幡衣と稱じ、阿耨多羅三藐三菩提衣と稱ず。まさにかくのごとく受持頂戴すべし。かくのごとくなるがゆゑに、こゝろにしたがうてあらたむべきにあらず。

 その衣財、また絹布よろしきにしたがうてもちゐる。かならずしも布は清淨なり、絹は不淨なるにあらず。布をきらうて絹をとる所見なし、わらふべし。諸佛の常法、かならず糞掃衣を上品とす。

 糞掃に十種あり、四種あり。

 いはゆる火燒牛嚼鼠噛死人衣等。五印度人、如此等衣、棄之巷野。事同糞掃、名糞掃衣。行者取之、浣洗縫治、用以供身。

 そのなかに、絹類あり、布類あり。絹布の見をなげすてて、糞掃を參學すべきなり。

 糞掃衣は、むかし阿耨達池にして浣洗せしに、龍王讚歎、雨花禮拝しき。

 小乘教師また化糸の説あり、よところなかるべし、大乘人わらふべし。いづれか化糸にあらざらん。なんぢ化をきくみゝを信ずとも、化をみる目をうたがふ。

「しかあれば即ち、袈裟を受持せんは宿善よろこぶべし、積功累徳疑ふべからず。未だ得ざらんは願ふべし、今生急ぎ、その始めて下種せんことを営むべし。さはりありて受持すること得ざらん者は、諸仏如来、仏法僧の三宝に、慚愧懺悔すべし」

 先程とは逆に「袈裟を受持せんは宿善よろこぶべし」と縷々その効能が述べられるが、「積功累徳」が有りつつも日々の努力向上が大切なるは一言も発せられず、「受持えざらん者は、仏法僧の三宝に、慚愧懺悔すべし」とのみ説かるる。

 『伝衣』では此部に該当箇所なし。

「他国の衆生いくばくか願ふらん、わが国も震旦国の如く、如来の衣法まさしく正伝親臨せましと。おのれが国に正伝せざること、慚愧深かるらん、悲しむ恨みあるらん。我ら何の幸ありてか、如来世尊の衣法正伝せる法にあひたてまつれる。宿殖般若の大功徳力なり」

 此処では震旦国に正伝あるも「おのれが国に正伝せざること」とは、今説法する仁治元年(1240)には、宋より帰国して十年以上の歳月が経っているのであるから、やや抽象的(第三国を想定してか?)文意とも観察される。もちろん、これは「衣法正伝」を問題としているわけであるから、建仁寺栄西が伝法する「衣法」は正伝とは認め難いのである。

 『伝衣』では「他界の衆生は、いくばくか願ふらん、震旦国に正伝せるが如く仏衣まさしく正伝せんことを。おのれが国に正伝せざること、はづるおもひあるらん、悲しむこゝろ深かるらん。まことに如来世尊の衣法正伝せる法に値遇する、宿殖般若の大功徳種子によるなり」と同類文であることは「当巻」部位も仁治元年筆である。

「いま末法悪時世は、おのれが正伝なきをはぢず、他の正伝あるをそねむ、おもはくは魔儻ならん。おのれが今の所有所住は、前業に引かれて真実にあらず。たゞ正伝仏法を帰敬せん、即ちおのれが学仏の実帰なるべし」

 「末法」に関しては先来にも「われら辺地にむまれて末法にあふ」と述せられるが、此処でも「末法悪時世」と断言せらるは、『辦道話』にて説く「大乗実教には正像末法を分くことなし」からは後退した考えにも見られようが、見方によっては他の識見をも取り入れざる得ないような、状況下に在ったのであろう。

 『伝衣』にては「いま末法悪時世は、おのれが正伝なきことをはぢず正伝をそねむ魔儻おほし。おのれが所有所住は、真実のおのれにあらざるなり。たゞ正伝を正伝せん、これ学仏の直道なり」と同類文が記される。

「おほよそ知るべし、袈裟はこれ諸仏の恭敬帰依しまします処なり。仏身なり、仏心なり。解脱服と称じ、福田衣と称じ、無相衣と称じ、無上衣と称じ、忍辱衣と称じ、如来衣と称じ、大慈大悲衣と称じ、勝幡衣と称じ、阿耨多羅三藐三菩提衣と称ず。まさにかくの如く受持頂戴すべし。かくの如くなるがゆゑに、こゝろに随うてあらたむべきにあらず」

 「袈裟は諸仏の恭敬帰依」とは、「袈裟」=「仏」との認得であります。「福田衣」とは、袈裟によって仏が生れる、の意があり、袈裟の条は田圃の区画を表象するもの。「無相衣」とは、相(かたち)に囚われないこと。「忍辱衣」とは、凡情に耐え忍ぶこと。「如来衣」とは、袈裟の所に仏の行があること。「大慈大悲衣」は、自我がなく、全てのものを包容し、排斥するものは何もない。「勝幡衣」は、正法の目印。「阿耨多羅三藐三菩提衣」は、袈裟を著け坐禅することで、無上正等正覚が実践される。

 『伝衣』では「およそ知るべし、袈裟はこれ仏身なり、仏心なり。また解脱服と称じ、福田衣と称ず。忍辱衣と称じ、無相衣と称ず。慈悲衣と称じ、如来衣と称じ、阿耨多羅三藐三菩提衣と称ずるなり。まさにかくのごとく受持すべし」

「その衣財、また絹布よろしきに従うて用ゐる。必ずしも布は清浄なり、絹は不浄なるにあらず。布を嫌うて絹をとる所見なし、笑ふべし。諸仏の常法、必ず糞掃衣を上品とす」

 さて袈裟本体の素材に対する認識です。「絹布よろしきに従う」とは、絹であっても布(木綿)であっても、その時々の状態で決めればよい。「絹」は繭を殺生したもので「不浄」、「布(木綿)は自然からのもので「浄」とは律宗四分律では言いますが、同じく「布を嫌い絹を好む」所見もない。と、云う族も笑うべし。と永平門下は云う。「諸仏の常法」とは袈裟の材料で、「糞掃衣」は最上(上品)とする。

 『伝衣』にては「絹布の用は、一仏二仏の道にあらず。諸仏の大法として、糞掃を上品清浄の衣財とせるなり」と記す。

「糞掃に十種あり、四種あり。いはゆる火燒牛嚼鼠噛死人衣等。五印度人、如此等衣、棄之巷野。事同糞掃、名糞掃衣。行者取之、浣洗縫治、用以供身。その中に、絹類あり、布類あり。絹布の見をなげすてて、糞掃を参学すべきなり。糞掃衣は、むかし阿耨達池にして浣洗せしに、龍王讃歎、雨花礼拝しき。小乗教師また化糸の説あり、よところなかるべし、大乗人笑ふべし。いづれか化糸にあらざらん。なんぢ化をきく耳を信ずとも、化をみる目を疑ふ」

 「糞掃に十種、四種」の内訳は、四種の場合は此処で云う「火燒・牛嚼・鼠噛・死人衣」を云うが、「十種」の説明はなく最後部に記すが、引用経典との兼ね合いもあるのか、此処に配置した方が理に適うと思われる。「十種」の説明箇所にて詳述するが、引用経典は『四分律』三十九を用いる。

 「火燒牛嚼鼠噛死人衣等。五印度人、如此等衣、棄之巷野。事同糞掃、名糞掃衣。行者取之、浣洗縫治、用以供身」(『大乗義章』十五「大正蔵」四四・七六四b八)―部「五印度人」は原「外国之人」<火燒・牛嚼・鼠噛・死人衣等なり。五印度の人は、此(かく)の如き等の衣は、之を巷野に棄つ。事は糞掃に同じ、糞掃衣と名づく。行者は之を取り、浣洗縫治して、用い以て身に供ず>

 「絹布の見をなげすてて、糞掃を参学すべき」とは、「絹」は情、「布」は非情と云うような見解を捨てて、絹であろうが布であろうが、人々(凡俗)から見捨てられた物であるから、殊更に世上の価値観を持ち込むな。と云うことだろう歟。

 「糞掃衣は、むかし阿耨達池にして浣洗」での「糞掃衣」とは、「不要になったぼろ列衣を洗い清め、重ね合わせて縫い綴った袈裟で、不定形な様々な色の平絹を何枚か重ね合わせ、細かく刺し縫いし七条および九条の袈裟に仕立てられる」(「東京国立博物館」糞掃衣残闕カタログより抜粋)。「阿耨達池にして浣洗」の出典籍は『四分律行事鈔資持記』下三にて「三中彼経云、仏告迦葉、周那沙弥拾糞掃中物至阿耨達池完洗、諸天皆遥為作礼」(「大正蔵」四〇・三九一b二一)、ほかには『大宝積経』百十四では「迦葉、汝見周那沙弥、拾不浄臭穢糞掃中物、乞食已至阿耨大池浣濯之」(「大正蔵」一一・六四七a一一)などが引用典籍と見込まれるが、「雨花礼拝しき」に関しては、道元による造語であろう。

 「小乗教師また化糸の説」とは、絹糸は蚕を殺しての産物である為、自分に免罪符的説明として、仮にそういう形を提示する糸を云う。「よところ」とは、よりどころの意。「いづれか化糸にあらざらん」の問いかけは、小乗教師(律学師)に対し、世の中は全てが化そのものの千変万化である。との意。「なんぢ化をきく耳を信ずとも、化をみる目を疑ふ」とは、律学を参学する学人の「耳目は何処に有るのか」との、叱声であり、六根の感覚器官や意識だけに頼るのではなく、全体を挙して判断せよ。との言。

 『伝衣』では「糞掃を上品清浄の衣財とせるなり。そのなかに、しばらく十種の糞掃をつらぬるにー略―又、化糸の説をきたして乱道することあり。又わらふべし。いづれか化にあらざる。なんぢ化をきくみゝを信ずといへども、化を見る目をうたがふ。目に耳なし、耳に目なきがごとし。いまの耳目、いづれのところにかある」と、途中に律学に対する語釈等あるも同類文である。

 

   七

 しるべし、糞掃をひろふなかに、絹に相似なる布あらん、布に相似なる絹あらん。土俗萬差にして造化はかりがたし、肉眼のよくしるところにあらず。かくのごとくの物をえたらん、絹布と論ずべからず、糞掃と稱ずべし。たとひ人天の糞掃と生長せるありとも、有情ならじ、糞掃なるべし。たとひ松菊の糞掃と生長せるありとも、非情ならじ、糞掃なるべし。糞掃の絹布にあらず、金銀珠玉にあらざる道理を信受するとき、糞掃現成するなり。絹布の見解いまだ脱落せざれば、糞掃也未夢見在なり。

 ある僧かつて古佛にとふ、黄梅夜半の傳衣、これ布なりとやせん、絹なりとやせん。畢竟じてなにものなりとかせん。

 古佛いはく、これ布にあらず、これ絹にあらず。

 しるべし、袈裟は絹布にあらざる、これ佛道の玄訓なり。

 商那和修尊者は第三の附法藏なり、むまるゝときより衣と倶生せり。この衣、すなはち在家のときは俗服なり、出家すれば袈裟となる。また鮮白比丘尼、發願施氎ののち、生々のところ、および中有、かならず衣と倶生せり。今日釋迦牟尼佛にあふたてまつりて出家するとき、生得の俗衣、すみやかに轉じて袈裟となる。和修尊者におなじ。あきらかにしりぬ、袈裟は絹布等にあらざること。いはんや佛法の功徳、よく身心諸法を轉ずること、それかくのごとし。われら出家受戒のとき、身心依正すみやかに轉ずる道理あきらかなれど、愚蒙にしてしらざるのみなり。諸佛の常法、ひとり和修鮮白に加して、われらに加せざることなきなり。隨分の利益、うたがふべからざるなり。

「知るべし、糞掃を拾ふなかに、絹に相似なる布あらん、布に相似なる絹あらん。土俗万差にして造化はかりがたし、肉眼のよく知る処にあらず。かくの如くの物を得たらん、絹布と論ずべからず、糞掃と称ずべし」

 此処では糞掃と称ボロ切れを拾う時にも、絹に似た木綿もあるし、木綿に似通った絹もある。「土俗万差」とは、土地や場所により風俗が違い、絹を木綿のように扱う人達も居るわけです。文化の違いと言えば簡単だが、自分たちの価値観で以て相手を加圧的に論破する状況を「造化はかりがたし」と云う。このような認識論的齟齬が生じるから、「絹布は論ぜず、糞掃と称ずべし」との提示文となる。

 『伝衣』では「しばらく知るべし、糞掃をひろふなかに、絹に似たるあり、布の如くなるあらん。これを用ゐんには、絹と名づくべからず、布と称ずべからず。まさに糞掃と称ずべし」とする。

「たとひ人天の糞掃と生長せるありとも、有情ならじ、糞掃なるべし。たとひ松菊の糞掃と生長せるありとも、非情ならじ、糞掃なるべし。糞掃の絹布にあらず、金銀珠玉にあらざる道理を信受するとき、糞掃現成するなり。絹布の見解いまだ脱落せざれば、糞掃也未夢見在なり」

 人間界・天上界にて「糞掃」として生長しても糞掃は糞掃であり、生物としての「有情」ではない。此処での「糞掃」の範囲はボロ布を透脱し、現成する事物・事象を示唆する。同様に「松と菊」を例題にするのは、無生物としての「松・菊」を譬えるもので、「松・菊」は非情のカテゴリーではなく「糞掃」に帰属するとの提言で、全ての存在を「糞掃」とする仏法一元論へと導く。「糞掃」の世界では「絹・布・金・銀・珠玉」といった人間的価値判断の及ばぬ、無分節な状態であることである。この注解は拙著『伝衣を読み解く』より抜粋した。

 『伝衣』では「たとひ人天の糞掃と生長せるありとも有情といふべからず、糞掃なるべしー略―絹布の見いまだ零落せざるは、いまだ糞掃を夢也未見なり」と記す。

「ある僧かつて古仏に問ふ、黄梅夜半の伝衣、これ布なりとやせん、絹なりとやせん。畢竟じて何ものなりとかせん。古仏いはく、これ布にあらず、これ絹にあらず。知るべし、袈裟は絹布にあらざる、これ仏道の玄訓なり」

 「古仏」は六祖慧能を指すが、ある僧が曾て慧能に五祖大満弘忍の下での伝衣は絹・布のいづれと問うに、慧能(古仏)の答えとしては絹・布にあらず、とは妥当な答話であるが、この「玄訓」の表現を『伝衣』では「仏訓」と表記するは、塾考を重ねた結果であり、コトバのマンネリ化を防ぐ意もあり、道得に対する思いは常に清新さを求めて居たのであろう。

 『伝衣』には「むかし黄梅の夜半に、仏の衣法すでに六祖の頂上に正伝すー大略―かれらが所得の袈裟、さらに絹布の論にあらざるは仏道の仏訓なり」と、ここでは省略したが、実際には長文である。

「商那和修尊者は第三の附法蔵なり、むまるゝ時より衣と倶生せり。この衣、すなはち在家の時は俗服なり、出家すれば袈裟となる。また鮮白比丘尼、発願施氎ののち、生々のところ、および中有、必ず衣と倶生せり」

 「商那和修」は釈迦牟尼―➀摩訶迦葉―➁阿難陀―➂商那和修と系譜するので「第三の附法蔵」とする。「衣と倶生せり」とは、普通に考えれば胎盤が共に出産したものが、新生児に纏わり出て来たので衣物のように見えたのであろう。そのような子供の名前には数十年前の親族は「袈裟男・今朝子」と云う名前を命名したものだ。扱う経典は数多あるが、『景徳伝灯録』一「第三祖商那和修尊者、正宗記云、梵語商諾迦、此云自然服以生時身自有衣也」(大正蔵)五一・二〇六c二五)

 「鮮白比丘尼」に関しては、『撰集百縁経』八にて「白浄比丘尼衣裏身生縁」(「大正蔵」四・二三九b一六)と記され、「発願施氎」に関しても「欲知彼時布施氎者、今此白浄比丘尼是」(「同」二三九c九)と記される。また『俱舎論』九にては「菩薩中有亦与衣俱鮮白苾芻尼由本願力故、彼於世世有自然衣、恒不離身随時改変」(「大正蔵」二九・四六a九)の如くである。

 『伝衣』では「また商那和修が衣は、在家の時は俗服なり出家すれば袈裟となる。この道理、しづかに思量功夫すべしー後略―」と続くが、「鮮白比丘尼」に関する記述は見られない。

 

   八

 かくのごとくの道理、あきらかに功夫參學すべし。善來得戒の披體の袈裟、かならずしも布にあらず、絹にあらず。佛化難思なり、衣裡の寶珠は算沙の所能にあらず。

 諸佛の袈裟の體色量の有量無量、有相無相、あきらめ參學すべし。西天東地、古往今來の祖師、みな參學正傳せるところなり。祖々正傳のあきらかにしてうたがふところなきを見聞しながら、いたづらにこの祖師に正傳せざらんは、その意樂ゆるしがたからん。愚癡のいたり、不信のゆゑなるべし。實をすてて虚をもとめ、本をすてて末をねがふものなり。これ如來を輕忽したてまつるならん。菩提心をおこさんともがら、かならず祖師の相傳を傳受すべし。われらあひがたき佛法にあひたてまつるのみにあらず、佛袈裟正傳の法孫としてこれを見聞し、學習し、受持することをえたり。すなはちこれ如來をみたてまつるなり。佛説法をきくなり、佛光明にてらさるゝなり、佛受用を受用するなり。佛心を單傳するなり、佛髓えたるなり。まのあたり釋迦牟尼佛の袈裟におほはれたてまつるなり。釋迦牟尼佛まのあたりわれに袈裟をさづけましますなり。ほとけにしたがふたてまつりて、この袈裟はうけたてまつれり。

「かくの如くの道理、明らかに功夫参学すべし。善来得戒の披体の袈裟、必ずしも布にあらず、絹にあらず。仏化難思なり、衣裡の宝珠は算沙の所能にあらず」

 「善来得戒」」の「善来」とは善く来たな、と釈尊が言った途端に、戒が身に具わると同時に袈裟が著体する様を『景徳伝灯録』一では「仏言、善来比丘、鬚髪自除袈裟著体」(「大正蔵」五一・二〇六a二)と記され、その袈裟は布や絹といったカテゴリー化されない処に「仏化難思」と云う人間の計らいを越えた事象を、「衣裡の宝珠は算沙の所能にあらず」とは、衣の裏にある宝珠(袈裟)の存在は、沙(すな)を算数(さんじゅ)するような文字学者の及ばない所である。と解される。

 『伝衣』では「いかにして仏袈裟を知らん。いはんや善来得戒の機縁あり、かれらが所得の袈裟、さらに絹布の論にあらざる仏道の仏訓なり」、「算砂のともがら、衣裏の宝珠をみるべからず」と別々に記す。

「諸仏の袈裟の体色量の有量無量、有相無相、明らめ参学すべし。西天東地、古往今来の祖師、みな参学正伝せる処なり。祖々正伝の明らかにして疑ふ処なきを見聞しながら、いたづらにこの祖師に正伝せざらんは、その意楽許しがたからん。愚癡のいたり、不信のゆゑなるべし」

 「袈裟の体色量」の「体」は材料、「色」は色合い、「量」は大きさ。また材料は糞掃、色は壊色、量は体に合致したもの。「有量無量、有相無相」とは、袈裟にはこれこれと云った決定事項はなく、製作者により差違が生じますから、「有量無量、有相無相、明らめ参学すべし」と述べるわけです。「西天東地」は印度・中国、「古往今来」は昔から今日に至るまで、「正伝」とは歴代祖師の名を列挙する事ではなく、正しく身体を通して修行するを「正伝の明らかに見聞する」と云う。逆に「正伝せざらん」とは、本来の自己を信ずる事が出来ないから「愚痴」に至るわけで、それは「不信のゆゑ」であります。「信」とは能所・主客的な相手を対照化するものではなく、「信」に対する条件は付けない。つまり祖師正伝の「袈裟」と謂われた時には袈裟そのまま・そのものが仏祖正伝であり、「信、現成のところは、仏祖現成」(『三十七品菩提分法』「大正蔵」八二・二四六c八)であります。

 『伝衣』では「いま仏祖正伝せる袈裟の体色量を、諸仏の袈裟の正本とすべし。その例すでに西天東地、古往今来ひさしきなり。正邪を分別せし人、すでに超証しき。祖道のほかに袈裟を称ずるありとも、いまだ枝葉とゆるす本祖あらず。いかでか善根の種子をきざさん、いはんや果実あらんや」に比せられる。

「実を捨てて虚を求め、本を捨てて末を願ふ者なり。これ如来を軽忽したてまつるならん。菩提心を発さんともがら、必ず祖師の相伝を伝受すべし。我ら逢ひがたき仏法に逢ひたてまつるのみにあらず、仏袈裟正伝の法孫としてこれを見聞し、学習し、受持することを得たり」

 これは先の「算沙の所能にあらず」を承けて、沙を算数するような文字学者などを指して、「実を捨てて虚を求め、本を捨てて末を願ふ者」と位置づけ、これらの輩は如来を軽視(軽忽)するものである。菩提心を発さん者は、「仏袈裟正伝の法孫」を自覚すべきである。

 『伝衣』にては「いま曠劫以来いまだあはざる仏法を見聞するのみにあらず、仏衣を見聞し仏衣を学習し、仏衣を受持すること得たり」とする。

「すなはちこれ如来を見たてまつるなり。仏説法を聞くなり、仏光明に照らさるゝなり、仏受用を受用するなり。仏心を単伝するなり、仏髄得たるなり。まのあたり釈迦牟尼仏の袈裟に蓋はれたてまつるなり。釈迦牟尼仏まのあたり我れに袈裟を授けましますなり。ほとけに随ふたてまつりて、この袈裟は承けたてまつれり」

 袈裟はこの段階では「如来」と同格となり、「仏心を単伝し、仏の髄を得たるなり」と、まさに仏体と同態にまで導く説き方が、道元の名を今日まで存続されたものかも知れぬ。

 『伝衣』では「すなはちこれまさしく仏を見たてまつるなり。仏音声をきく、仏光明をはなつ、仏受用を受用す仏心を単伝するなり得仏髄なり」に比定される。

 

   九

 浣袈裟法。袈裟をたゝまず、淨桶にいれて、香湯を百沸して、袈裟をひたして、一時ばかりおく。またの法、きよき灰水を百沸して、袈裟をひたして、湯のひやゝかになるをまつ。いまはよのつねに灰湯をもちゐる。灰湯、こゝにはあくのゆといふ。灰湯さめぬれば、きよくすみたる湯をもて、たびたびこれを浣洗するあひだ、兩手にいれてもみあらはず、ふまず。あかのぞこほり、あぶらのぞこほるを期とす。そののち、沈香栴檀香等を冷水に和してこれをあらふ。そののち淨竿にかけてほす。よくほしてのち、摺襞してたかく安じて、燒香散花して、右遶數匝して禮拝したてまつる。あるいは三拝、あるいは六拝、あるいは九拝して、胡跪合掌して、袈裟を兩手にさゝげて、くちに偈を誦してのち、たちて如法に著したてまつる。

「浣袈裟法。袈裟をたゝまず、浄桶に入れて、香湯を百沸して、袈裟を浸して、一時ばかり置く。又の法、清き灰水を百沸して、袈裟を浸して、湯の冷やかになるを待つ。今は世の常に灰湯を用ゐる。灰湯、こゝには灰汁の湯と云ふ。灰湯冷めぬれば、清く澄みたる湯をもて、たびたびこれを浣洗する間、両手に入れて揉み洗はず、踏まず。垢除こほり、油除こほるを期とす」

 これは文意のままに読解すればよい。「浣袈裟法」とは袈裟の洗い方。「浄桶」は袈裟専用に使用する桶。「香湯」とは香木を入れて煮立てた湯であるが、この場合の香木とは焼香用ではなく、丁子やシナモンなどの香辛料を云うもの歟。「百沸」とは十分に沸騰した湯。「一時」は二時間を目安。「灰水」は灰を入れた水で、洗浄力あり。

 『伝衣』では「浣洗法」の項目は見当らないが、最終頁にて「袈裟浣濯之時、須用衆末香花和水。灑乾之後、疊収安置高処、以香花而供養之。参拝然後、踞跪頂戴」が書き添えられる。

「その後、沈香栴檀香等を冷水に和してこれを洗ふ。その後浄竿に掛けて干す。よく干して後、摺襞して高く安じて、焼香散花して、右遶数匝して礼拝したてまつる。あるいは三拝、あるいは六拝、あるいは九拝して、胡跪合掌して、袈裟を両手に捧げて、口に偈を誦して後、立ちて如法に著したてまつる」

 先と同様に文意に解釈。「沈香栴檀香等」とあるが、法堂などで使用する沈香等は高価である為、破砕されたようなものを冷水に和す。「浄竿」とは袈裟専用の干し竿。「摺襞(しゅうへき)」とは二メートル四方の袈裟本体を、正しく折り畳む。「焼香散花」とは焼香し生花を散ずる供儀。「右遶数匝」とは時計廻りで中央の本座に対し、右肩を向くように廻る。このことから、袈裟常法は偏袒右肩で右肩を出す。「胡跪合掌」とは右膝を地に著け、左膝は立てた形で正しく前方を見て合掌する姿勢で、インド壁画等で見かける法式である。「口に偈を誦して」とは、「大哉解脱服・・」であり、此処に付け加えれば体裁が整うはずであるが、偈文は後方に付加される。

 『伝衣』では、先の文末に「大哉解脱服、無相福田衣、披奉如来教、広度諸衆生」の文言が記載されるが、「当巻」に於いては何らかのミスが重ねり、重筆の弊が起きたもの歟。

 

   十

 世尊告大衆言、我往昔在寶藏佛所時、爲大悲菩薩。爾時大悲菩薩摩訶薩、在寶藏佛前、而發願言、

 世尊、我成佛已、若有衆生入我法中出家著袈裟者、或犯重戒、或行邪見、若於三寶輕毀不信、集諸重罪、比丘比丘尼優婆塞優婆夷、若於一念中、生恭敬心、尊重僧伽梨衣、生恭敬心、尊重世尊或於法僧、世尊如是衆生、乃至一人、不於三乘得受記莂、而退轉者、則爲欺誑十方世界、無量無邊阿僧祇等、現在諸佛。必定不成阿耨多羅三藐三菩提。

 世尊、我成佛已來、諸天龍鬼神、人及非人、若能於此著袈裟者、恭敬供養、尊重讚歎。其人若得見此袈裟少分、即得不退於三乘中。

 若有衆生、爲飢渇所逼、若貧窮鬼神、下賤諸人、乃至餓鬼衆生、若得袈裟少分乃至四寸、即得飲食充足、隨其所願、疾得成就。

 若有衆生、共相違反、起怨賊想、展轉闘諍、若諸天龍鬼神、乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅摩睺羅伽狗辨荼毘舎遮、人及非人、共闘諍時、念此袈裟、依袈裟力、尋生悲心、柔輭之心、無怨賊心、寂滅之心、調伏善心、還得清淨。

 有人若在兵甲闘訟斷事之中、持此袈裟少分至此輩中、爲自護故、供養恭敬尊重、是諸人等、無能侵毀觸嬈輕弄。常得勝也、過此諸難。

 世尊、若我袈裟、不能成就如是五事聖功徳者、則爲欺誑十方世界、無量無邊阿僧祇等、現在諸佛。未來不應成就阿耨多羅三藐三菩提作佛事也。没失善法、必定不能破壞外道。

 善男子、爾時寶藏如來、申金色右臂、摩大悲菩薩頂、讚言、善哉善哉、大丈夫、汝所言者、是大珍寶、是大賢善。汝成阿耨多羅三藐三菩提已、是袈裟服、能成就此五聖功徳、作大利益。

 善男子、爾時大悲菩薩摩訶薩、聞佛讚歎已、心生歡喜、踊躍無量。因佛申此金色之臂、長作合縵。其手柔輭、猶如天衣、摩其頭已、其身即變、状如僮子二十歳人。

 善男子、彼會大衆、諸天龍神乾闥婆、人及非人、叉手恭敬、向大悲菩薩、供養種々華、乃至伎樂而供養之、復種々讚歎已、黙然而住。

 如來在世より今日にいたるまで、菩薩聲聞の經律のなかより、袈裟の功徳をえらびあぐるとき、かならずこの五聖功徳をむねとするなり。

 まことにそれ、袈裟は三世諸佛の佛衣なり。その功徳無量なりといへども、釋迦牟尼佛の法のなかにして袈裟をえたらんは、餘佛の法のなかにして袈裟をえんにもすぐれたるべし。ゆゑいかんとなれば、

釋迦牟尼佛むかし因地のとき、大悲菩薩摩訶薩として、寶藏佛のみまへにて五百大願をたてましますとき、ことさらにこの袈裟功徳におきて、かくのごとく誓願をおこしまします。その功徳、さらに無量不可思議なるべし。しかあればすなはち、世尊の皮肉骨髓いまに正傳するといふは袈裟なり。正法眼藏を正傳する祖師、かならず袈裟を正傳せり。この衣を傳持し頂戴する衆生、かならず二三生のあひだに得道せり。たとひ戲笑のため利益のために身に著せる、かならず得道因縁なり。

「世尊告大衆言、我往昔在宝蔵仏所時、為大悲菩薩。爾時大悲菩薩摩訶薩、在宝蔵仏前、而発願言」<世尊大衆に告げて言く、我れ往昔(むかし)宝蔵仏の所に在し時、大悲菩薩為りし。爾の時に大悲菩薩摩訶薩は、宝蔵仏の前に在りて、発願し言く>

 此処からの出典籍は『悲華経』になるが、冒頭の此部については道元の作為語と思われるが、『同経』八には「彼大会中有一大悲菩薩摩訶薩、作如是」(「大正蔵」三・二一六a一七)を改変しての序言と考えられる。

「世尊、我成仏已、若有衆生入我法中出家著袈裟者、或犯重戒、或行邪見、若於三宝軽毀不信、集諸重罪、比丘比丘尼優婆塞優婆夷、若於一念中、生恭敬心、尊重僧伽梨衣、生恭敬心、尊重世尊或於法僧、世尊如是衆生、乃至一人、不於三乗得、而退転者、則為欺誑十方世界、無量無辺阿僧祇等、現在諸仏。必定不成阿耨多羅三藐三菩提」(「同」a一〇、―部「尊重・・」は原なし、―部「受」は原「授」、―部「莂」は原なし)<世尊、我れ成仏し已り、若し衆生有り、我が法中に入りて、出家して袈裟を著する者の、或いは重戒を犯し、或いは邪見を行い、若しは三宝に於て軽毀して信ぜず、諸の重罪を集む、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、若し一念の中に於て、恭敬心を生じ、僧伽梨衣を尊重し、恭敬心を生じて、世尊或いは法僧に於て尊重す、世尊は是の如くの衆生、乃至一人も、三乗に於て記莂を受くを得ず、而も退転する者は、則ち為れ十方世界の、無量無辺阿僧祇等の、現在の諸仏を欺誑す。必定して阿耨多羅三藐三菩提を成ぜず>

「世尊、我成仏已、諸天龍鬼神、人及非人、若能於此著袈裟者、恭敬供養、尊重讃歎。其人若得見此袈裟少分、即得不退於三乗中」(「同」a一七、―部「来」は原なし)<世尊、我れ成仏已して来、諸の天龍鬼神、人及び非人、若し能く此の著袈裟の者に於て、恭敬供養し、尊重讃歎す。其の人は若し此の袈裟の少分を見るを得ば、即ち三乗の中に不退なるを得ん>

「若有衆生、為渇所逼、若貧窮鬼神、下賤諸人、乃至餓鬼衆生、若得袈裟少分乃至四寸、(其人)即得飲食充足、随其所願、疾得成就」(「同」a二〇、―部「飢」は原「饑」、―部「其人」は原あり)<若し衆生有りて、飢渇の為に所に逼(せ)まられ、若しは貧窮の鬼神、下賤の諸人、乃至餓鬼の衆生、若し袈裟の少分、乃至四寸を得ば、即ち飲食充足するを得ん、其の所願に随いて、疾(と)く成就するを得ん>

「若有衆生、共相違反、起怨賊想、展転闘諍、若諸天龍鬼神、乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅摩睺羅伽狗辨荼毘舎遮、人及非人、共闘諍時、念此袈裟、依袈裟力、尋生悲心、柔輭之心、無怨賊心、寂滅之心、調伏善心、還得清浄(「同」a二四。―部「依袈裟力」は原なし、―部「還得清浄」は原なし)<若し衆生有りて、共に相違反し、怨賊の想いを起し、展転に闘諍し、若しは諸の天龍・鬼神・乾闥婆・阿修羅・迦樓羅・緊那羅・摩睺羅伽・狗辨荼・毘舎遮・人及び非人、共に闘諍せん時、此の袈裟を念じて、袈裟力に依りて、尋いで悲心を生じ、柔輭之心には、怨賊心は無く、寂滅之心は、善心を調伏し、還た清浄を得る>

 ➀「天(deva)」➁「龍(naga)」➂「鬼神(yaksa)」➃「乾闥婆(伎楽神gandharva)」⑤「阿修羅(戦闘神asura)」➅「迦樓羅(金翅鳥garuda)⑦「緊那羅(歌神kinnara)⑧「摩睺羅伽(大胸腹行mahoraga)以上が天龍八部衆である。狗辨荼(くはんだ・冬瓜陰鬼)、毘舎遮(びしゃじゃ・血肉鬼)

「有人若在兵甲闘訟断事之中、持此袈裟少分至此輩中、為自護故、供養恭敬尊重、是諸人等、無能侵毀触嬈軽弄。常得勝也、過此諸難」(「同」a二八)<人有りて、若し兵甲・闘訟・断事之中に在らんに、此の袈裟の少分を持して、此の輩の中に至るに、自護の為の故に、供養し恭敬し尊重せん、是の諸人等は、能く侵毀・触嬈・・軽弄すること無くして、常に勝つことを得る也、此の諸難を過ぎん>

 「兵甲(へいこう)」は武器を持ち戦うこと。「闘訟(とうしょう)」は言い争うこと。「断事(だんじ)」は裁判沙汰。「自護」は自分の身を護るため。「侵毀(しんき)」は侵害し、そこなう。「軽弄(けいろう)」は軽んじ、もてあそぶ。

「世尊、若我袈裟、不能成就如是五事聖功徳者、則為欺誑十方世界、無量無辺阿僧祇等、現在諸仏。未来不応成阿耨多羅三藐三菩提作仏事也。没失善法、必定不能破壊外道」(「同」b二、―部「就」は原なし)<世尊、若し我が袈裟の、是の如くの五事の聖功徳を成就すること能わざる者は、則ち為れ十方世界、無量無辺阿僧祇等の、現在の諸仏を欺誑し、未来にも応に阿耨多羅三藐三菩提を成就して仏事を作すべからず也。善法を没失し、必定して外道を破壊するは能わじ>

「善男子、爾時宝蔵如来金色右臂、摩大悲菩薩頂、讃言、善哉善哉、大丈夫、汝所言者、是大珍宝、是大賢善。汝成阿耨多羅三藐三菩提已、是袈裟()服、能成就此五聖功徳、作大利益」(「同」b六、―部「申」は原「伸」、―部「衣」は原あり)<善男子、爾の時に宝蔵如来、金色の右臂を申べて、大悲菩薩の頂を摩でて、讃めて言く、善哉善哉、大丈夫、汝が言う所は、是れ大珍宝なり、是れ大賢善なり。汝は阿耨多羅三藐三菩提を成し已りぬ、是の袈裟服は、能く此の五聖功徳を成就して、大利益を作す>

「善男子、爾時大悲菩薩摩訶薩、聞仏()讃已、心生歓喜、踊躍無量。因仏此金色之臂、長合縵。其手柔、猶如天衣、摩其頭已、其身即変、状如子二十歳人」(「同」b一一、―部「称」は原あり、―部「歎」は原なし、―部「申」は原「伸」、―部「作」は原「指」、―部「輭」は原「軟」、―部「僮」は原「童」)<善男子、爾の時に大悲菩薩摩訶薩、仏の讃歎を聞き已りて、心に歓喜を生じ、踊躍無量なり。因みに仏は此金色之臂を申ぶるに、長く合縵を作す。其の手を柔輭なるは、猶お天衣の如し、其の頭を摩で已るに、其の身は即ち変じ、状(かたち)は僮子二十歳の人の如し>

 「長作合縵」とは、指の間に縵網(きぬのあみ)を云い、仏の三十二相の一つ。「僮子」は十五歳未満の少年。

「善男子、彼会大衆、諸天龍神乾闥婆、人及非人、叉手恭敬、向大悲菩薩、供養()種々華、乃至楽而供養之、復種々讃歎已、黙然而住」(「同」b一四、―部「諸天」は原なし、―部「散」は原あり、―部「伎」は原「技」)<善男子、彼の会の大衆、諸天・龍神乾闥婆、人及び非人、叉手恭敬して、大悲菩薩に向かいて、種々華を供養し、乃至伎楽して之を供養す、復た種々に讃歎し已りて、黙然として住す>

 『伝衣』では明らかに『悲華経』八(「大正蔵」三・二二〇a一〇)からによる引用となる。「仏言、若有衆生、入我法中、或犯重罪、或堕邪見、於一念中、敬心尊重僧伽梨衣、諸仏及我、必於三乗授記。此人当得作仏。若天若龍、若人若鬼、若能恭敬此人袈裟少分功徳、即得三乗不退不転。若有鬼神及諸衆生、能得袈裟、乃至四寸、飲食充足。若有衆生、共相違反、欲堕邪見、念袈裟力、依袈裟力、尋生悲心、還得清浄。若有人在兵陣、持此袈裟少分、恭敬尊重、当得解脱」<仏言く、若し衆生有って、我が法の中に入って、或いは重罪を犯し、或いは邪見に堕せんに、一念の中に於て、敬心して僧伽梨衣を尊重すれば、諸仏及び我は、必ず三乗に於て授記せん。此の人は当に作仏を得べし。若しは天、若しは龍、若しは人、若しは鬼、若し能く此の人の袈裟少分の功徳を恭敬せば、即ち三乗の不退不転を得ん。若し鬼神及び諸の衆生有って、能く袈裟を得ること、乃至四寸もせば、飲食の充足せん。若し衆生有って、共に相違反し、邪見に堕ちんと欲んに、袈裟の力を念じ、袈裟の力に依らば、尋いで悲心を生じ、還た清浄を得ん。若し人有って兵陣に在らんに、此の袈裟の少分を持ちて、恭敬し尊重せん、当に解脱を得べし>に相当するが、これに適合する経典はないが、『法苑珠林』三十五での「又悲華経云。釈迦牟尼仏。昔於過去宝蔵仏所発菩提心。願我成仏時。令我袈裟有五功徳。一者我成仏 已。若有衆生入我法中出家著袈裟者。或犯重禁。或犯邪見。若於三宝輕毀不信。集諸重罪比丘比丘尼優婆塞優婆夷。若於念中生恭敬心尊重仏法僧。如是衆生乃至一人必与授記。於三乗中得不退転。二者我成仏已。天龍鬼神人及非人。若能於此著袈裟者。恭敬供養尊重讃歎。其人若得見此袈裟少分。即得不退於三乗中。三者若有衆生為飢渇所逼。若貧窮鬼神下賤諸人。乃至餓鬼畜生。 若得袈裟少分乃至四寸。其人即得飮食充足。隨其所願疾得成就。四者若有衆生共相違反。起賊想展転鬪諍。若諸天龍八部人及非人共鬪諍時。念此袈裟。尋生悲心。柔軟之心。無怨賊心。寂滅之心。調伏善心。五者有人若在兵甲鬪訟斷事之中。持此袈裟少分至此輩中。為自護故。供養恭敬尊重袈裟。是諸人等無能侵毀触嬈軽弄。常得勝他過此諸難。若我袈裟不能成就如是五事聖功徳者。則為欺誑十方世界現在諸仏。於未来世 不成菩提作仏」(「大正蔵」五三・五五六b二八~c二一)からの要約文である。仁治元年(1240)当時の手許には『悲華経』は不在であったが、『袈裟功徳』執筆当時(建長二年(1250)以降)には雲州大守(波多野義重)から寄進された【悲華経】を含む『大蔵経』を利用しての本文である『悲華経』援用と成ったのであろう。

「如來在世より今日に至るまで、菩薩声聞の経律の中より、袈裟の功徳を選び挙ぐる時、必ずこの五聖功徳を旨とするなり」

 これより「本話」に対する拈提となるが、「菩薩声聞の経律」とは大乗・小乗に於ける経律文を指し、「袈裟功徳」=「五聖功徳」の一体不可分として、➀悲心➁柔輭之心➂無怨賊心➃寂滅之心⑤調伏善心、などの「心」が生ずを「五聖功徳」とする。

「まことにそれ、袈裟は三世諸仏の仏衣なり。その功徳無量なりと云へども、釈迦牟尼仏の法の中にして袈裟を得たらんは、余仏の法の中にして袈裟を得んにも勝れたるべし」

 此処では今生のて「袈裟の功徳」に服する喜びを記すものであるが、ここで道元が言う「余仏」の概念の確認である。一般には「現在世」=「釈迦仏」であり、「過去世」=「毘婆尸仏尸棄仏、等々」であり、「未来世」=「弥勒仏」と規定されようが、現今に於いては過去世の記憶も未来世の記憶も存在しない以上は、現世の釈迦仏に勝るものは無いのであるから、いたづらに「余仏の法の中にして袈裟を得んにも」と、世俗的余香の漂う表現法よりは、現今の釈仏の縁を強調する方が語勢に適うと思われる。

「ゆゑ如何となれば、釈迦牟尼仏むかし因地の時、大悲菩薩摩訶薩として、宝蔵仏のみまへにて五百大願を立てまします時、殊更にこの袈裟功徳におきて、かくの如く誓願をおこしまします。その功徳、さらに無量不可思議なるべし。しかあれば即ち、世尊の皮肉骨髄いまに正伝すると云ふは袈裟なり。正法眼蔵を正伝する祖師、必ず袈裟を正伝せり。この衣を伝持し頂戴する衆生、必ず二三生のあひだに得道せり。たとひ戲笑のため利益のために身に著せる、必ず得道因縁なり」

 文意のままに解すればよいが、ここで唐突に「五百大願」の句が出現するが、これは『出家功徳』にて説かれた処の「釈迦牟尼仏五百大願のなかの」云々より援用されたものであり、道元の心中にては『伝衣』―『出家功徳』―『袈裟功徳』は一味態である。

 

   十一

 龍樹祖師曰、復次佛法中出家人、雖破戒墮罪、罪畢得解脱、如優鉢羅比丘尼本生經中説。佛在世時、此比丘尼、得六神通阿羅漢。入貴人舎、常讚出家法、語諸貴人婦女言、姉妹、可出家。諸貴婦女言、我等少壯容色盛美、持戒爲難、或當破戒。比丘尼言、破戒便破、但出家。問言、破戒當墮地獄、云何可破。答曰、墮地獄便墮。諸貴婦女笑之言、地獄受罪、云何可墮。比丘尼言、我自憶念本宿命時、作戲女、著種々衣服而説舊語。或時著比丘尼衣、以爲戲笑。以是因縁故、迦葉佛時、作比丘尼。時自恃貴姓端正生憍慢、而破禁戒。破禁戒罪故、墮地獄受種々罪。受畢竟値釋迦牟尼佛出家、得六神通阿羅漢道。以是故知。出家受戒、雖復破戒、以戒因縁故、得阿羅漢道。若但作惡無戒因縁、不得道也。我乃昔時世々墮地獄、從地獄出爲惡人。惡人死還入地獄、都無所得。今以證知、出家受戒、雖復破戒、以是因縁可得道果。

 この蓮華色阿羅漢得道の初因、さらに佗の功にあらず。たゞこれ袈裟を戲笑のためにその身に著せし功徳によりて、いま得道せり。二生に迦葉佛の法にあふたてまつりて比丘尼となり、三生に釋迦牟尼佛にあふたてまつりて大阿羅漢となり、三明六通を具足せり。三明とは、天眼宿命漏盡なり。六通とは、神境通佗心通天眼通天耳通宿命通漏盡通なり。まことにそれたゞ作惡人とありしときは、むなしく死して地獄にいる。地獄よりいでてまた作惡人となる。戒の因縁あるときは、禁戒を破して地獄におちたりといへども、つひに得道の因縁なり。いま戲笑のため袈裟を著せる、なほこれ三生に得道す。いはんや無上菩提のために清淨の信心をおこして袈裟を著せん、その功徳、成就せざらめやは。いかにいはんや一生のあひだ受持したてまつり、頂戴したてまつらん功徳、まさに廣大無量なるべし。

 もし菩提心をおこさん人、いそぎ袈裟を受持頂戴すべし。この好世にあふて佛種をうゑざらん、かなしむべし。南洲の人身をうけて、釋迦牟尼佛の法にあふたてまつり、佛法嫡々の祖師にむまれあひ、單傳直指の袈裟をうけたてまつりぬべきを、むなしくすごさん、かなしむべし。

 いま袈裟正傳は、ひとり祖師正傳これ正嫡なり、餘師のかたをひとしくすべきにあらず。相承なき師にしたがふて袈裟を受持する、なほ功徳甚深なり。いはんや嫡々面授しきたれる正師に受持せん、まさしき如來の法子法孫ならん。まさに如來の皮肉骨髓を正傳せるなるべし。おほよそ袈裟は、三世十方の諸佛正傳しきたれること、いまだ斷絶せず。十方三世の諸佛菩薩、聲聞縁覺、おなじく護持しきたれるところなり。

 袈裟をつくるには麁布を本とす、麁布なきがごときは細布をもちゐる。麁細の布、ともになきには絹素をもちゐる、絹布ともになきがごときは綾羅等をもちゐる、如來の聽許なり。絹布綾羅等の類、すべてなきくにには、如來また皮袈裟を聽許しまします。

 おほよそ袈裟、そめて青黄赤黒紫色ならしむべし。いづれも色のなかの壞色ならしむ。如來はつねに肉色の袈裟を御しましませり。これ袈裟色なり。初祖相傳の佛袈裟は青黒色なり、西天の屈眴布なり、いま曹谿山にあり。西天二十八傳し、震旦五傳せり。いま曹谿古佛の遺弟、みな佛衣の故實を傳持せり、餘僧のおよばざるところなり。

 おほよそ衣に三種あり。

 一者糞掃衣、二者毳衣、三者衲衣なり。糞掃はさきにしめすがごとし。毳衣者、鳥獣細毛、これをなづけて毳とす。

 行者若無糞掃可得、取此爲衣。衲衣者、朽故破弊、縫衲供身。不著世間好衣。

「龍樹祖師曰、復次仏法中出家人、雖破戒堕罪、罪畢得解脱、如優鉢羅比丘尼本生経中説」

<龍樹祖師曰く、復た次に仏法の中の出家人は、破戒して堕罪すと雖も、罪畢(おわ)れば解脱を得ること、優鉢羅比丘尼本生経の中に説くが如し>

 この本則話出典は『大智度論』第二十一巻第十三(「大正蔵」二五・一六一a二七)である。「優鉢羅比丘尼」に関しては『善見律毘婆沙』八(「大正蔵」二四・七二五a三)参照。

「仏在世時、此比丘尼、得六神通阿羅漢。入貴人舎、常讃出家法、語諸貴人婦女言、姉妹、可出家」(「同」a二九)<仏在世の時、此の比丘尼は、六神通阿羅漢を得たり。貴人の舎に入りて、常に出家の法を讃めて、諸の貴人婦女に語りて言く、姉妹、出家すべし>

「諸貴婦女言、我等少壮容色盛美、持戒為難、或当破戒。比丘尼言、破戒便破、但出家(破戒便破)。問言、破戒当堕地獄、云何可破。答、堕地獄便堕。諸貴婦女笑之言、地獄受罪、云何可堕」(「同」b二、―部「破戒便破」は原なし、―部「破戒便破」は原あり、―部「日」は原「言」)<諸の貴婦女言く、我等少壮(わか)くして容色(かたち)盛美なり、持戒を難しと為す、或は当に破戒すべし。比丘尼言く、戒を破らば便ち破すべし、但だ出家すべし。問うて言く、戒を破らば当に地獄に堕すべし、云何(いかん)が破すべし。答えて曰く、地獄に堕さば便ち堕すべし。諸の貴婦女は之を笑って言く、地獄にては罪を受く、云何が堕すべき>

 ここでは「比丘尼」誕生については、釈尊五十八歳時にヴェーサーリのマハーヴァナ(大林重閣講堂)にて、マハーパジャパティー・ゴータミー(七十歳・釈尊の義母)が八重法を守ることを条件に比丘尼となることが許され、この時点で最初の比丘尼が誕生する。漢訳仏典では『仏説阿羅漢具徳経』に於いて「爾時世尊復告諸苾芻曰。我今称讃諸大声聞苾芻尼、亦於自果而修己徳、於我苾芻尼中、有大声聞苾芻尼。棄於王族久為出家、清浄威儀常修梵行、摩訶波闍波提苾芻尼是」(「大正蔵」二・八三三c八)と示される〔森章司、『Mahapajapati Gotamiの生涯と比丘尼サンガの形成』三十四頁参照〕

比丘尼言、我自憶念本宿命時、作戲女、著種々衣服而説旧語。或時著比丘尼衣、以為戲笑。以是因縁故、迦葉仏時、作比丘尼自恃貴姓端)生憍慢、而破禁戒。破戒罪故、堕地獄受種々罪。受()畢竟値釈迦牟尼仏出家、得六神通阿羅漢道」(「同」b六、―部「時」は原なし、―部「正」は原「政」、―部「心」は原あり、―部「禁」は原なし、―部「罪」は原あり)<比丘尼言く、我れ自ら本宿命の時を憶念するに、戲女と作り、種々の衣服を著けて而て旧語を説く。或る時に比丘尼衣を著けて、以て戲笑と為す。是の因縁を以ての故に、迦葉仏の時に、比丘尼と作る。時に自ら貴姓端正なるを恃(たの)んで憍慢を生じ、而も禁戒を破る。禁戒を破る罪の故に、地獄に堕して種々の罪を受く。受け畢竟(おわ)りて釈迦牟尼仏に値いて出家し、六神通阿羅漢道を得たり>

「以是故知。出家受戒、雖復破戒、以戒因縁故、得阿羅漢道。若但作悪無戒因縁、不得道也。我乃昔時世々堕地獄、地獄出為悪人。悪人死還入地獄、都無所得。今以()証知、出家受戒、雖復破戒、以是因縁可得道果」(「同」b一二、―部「従」は原なし、―部「此」は原あり)<是れを以ての故に知りぬ。出家受戒せば、復た破戒すと雖も、戒の因縁を以ての故に、阿羅漢道を得る。若し但だ悪を作し戒の因縁無からんは、道を得ざる也。我れ乃ち昔時、世々に地獄に堕し、地獄より出でては悪人為(た)り。悪人死しては還た地獄に入りて、都て所得無き。今以て証知す、出家受戒せば、復た破戒すと雖も、是の因縁を以て道果を得べし>

 この出典籍は『大智度論』釈初品中尸羅波羅蜜第二十一巻第十三(「大正蔵」二五・一六一a二七)となりますが、この部分は『出家功徳』冒頭下部にても援用される経典である。

「この蓮華色阿羅漢得道の初因、さらに他の功にあらず。たゞこれ袈裟を戲笑の為にその身に著せし功徳によりて、いま得道せり。二生に迦葉仏の法にあふたてまつりて比丘尼となり、三生に釋迦牟尼仏に会ふたてまつりて大阿羅漢となり、三明六通を具足せり。三明とは、天眼・宿命・漏尽なり。六通とは、神境通・他心通・天眼通・天耳通・宿命通・漏尽通なり」

 本話では「優鉢羅比丘尼」とあるを、拈提では「蓮華色」と記すが同一人物である。「蓮華色比丘尼」について一言すると「王舎城(ラージギル)の人で、この町で結婚し一女を生んだが、夫が彼女(蓮華色)の母との密通を知り、婚家を去り波羅奈(バラナシ)城に行き、そこで一長者に嫁いだが、後にこの長者は一人の若い女を妾としたが、この女は彼女が最初の結婚で産んだ自身の娘であった事実から、摩訶波闍波提比丘尼釈尊の義母)について出家得度し、比丘尼となり神通を得たが、最後は提婆達多に撲殺された(『禅学大辞典』一〇三八頁参照)。この撲殺された事情は『三時業』にて「拳をもて蓮華色比丘尼うちころす」(「大正蔵」八二・二七五b二二)と記す。

 この処を『出家功徳』にては「戲女の昔は信心にあらず、戲笑の為に比丘尼の衣を著せり。おそらくは軽法の罪あるべしといへども、この衣をその身に著せしちから、二世に仏法にあふ。比丘尼衣とは袈裟なり。戲笑著袈裟のちからによりて、第二生迦葉仏の時にあふたてまつる。出家受戒し、比丘尼となれり。破戒によりて堕獄受罪すといへども、功徳くちずしてつひに釈迦牟尼仏にあひたてまつり、見仏聞法、発心修習して、ながく三界を離れて大阿羅漢となれり、六通三明を具足せり、必ず無上道なるべし」と詳述する。

「まことにそれたゞ作悪人とありし時は、虚しく死して地獄に入る。地獄より出でてまた作悪人となる。戒の因縁ある時は、禁戒を破して地獄に堕ちたりといへども、つひに得道の因縁なり。いま戲笑のため袈裟を著せる、なほこれ三生に得道す。いはんや無上菩提の為に清浄の信心をおこして袈裟を著せん、その功徳、成就せざらめやは。いかにいはんや一生のあひだ受持したてまつり、頂戴したてまつらん功徳、まさに広大無量なるべし」

 この部位も『出家功徳』では「はじめより一向無上菩提の為に、清浄の信心をこらして袈裟を信受せん、その功徳の増長、かの戲女の功徳よりもすみやかならん。いはんやまた、無上菩提のために菩提心をおこし出家受戒せん、その功徳無量なるべし」に比定できよう。

「もし菩提心をおこさん人、急ぎ袈裟を受持頂戴すべし。この好世にあふて仏種をうゑざらん、悲しむべし。南洲の人身をうけて、釈迦牟尼仏の法にあふたてまつり、仏法嫡々の祖師にむまれあひ、単伝直指の袈裟をうけたてまつりぬべきを、虚しく過さん、悲しむべし」

 因縁の巡り合わせの論理で云うと、常に好世の時節ではありましょうが、自身のアンテナを何処のチャネルに適合させているかの問題でありましょう。文字列にて書けば単純明解ですが、眼前の袈裟を見ても、袈裟と認得できる眼力を養うことも、因縁を手中に収める要因であります。時折に上座系僧侶と談じる時に、止観の修法での「観」つまりvipassanaを行ずる姿勢で<巡り来る因縁>を的中させる行法の大切さを拝聞した事あり。

「いま袈裟正伝は、ひとり祖師正伝これ正嫡なり、余師の肩を等しくすべきにあらず。相承なき師にしたがふて袈裟を受持する、なほ功徳甚深なり。いはんや嫡々面授し来たれる正師に受持せん、まさしき如来の法子法孫ならん。まさに如来の皮肉骨髄を正伝せるなるべし。おほよそ袈裟は、三世十方の諸仏正伝し来たれること、いまだ断絶せず。十方三世の諸仏菩薩、声聞縁覚、同じく護持し来たれるところなり」

 ここで「相承なき師にしたがふて袈裟を受持する、なほ功徳甚深」の文言には、多少なりとも違和感あり。これまでは「仏法嫡々・単伝直指」を強調する反面、〔袈裟なら何でも構わん〕的な発言にはギャップがある。そうは言いながら、道元在世時にも、南都八宗や浄土宗・法華宗・禅門系と多岐に分派された仏教すべてに仏法嫡々を求めたなら、そこには否応なく行き違いが生ずる。そこで南方・北方と分派した世界仏教に共通するものは、「袈裟」という観念であることから、その流通の正邪は問わず「功徳甚深」と表明し、その「袈裟」は「三世十方の諸仏・菩薩・声聞・縁覚」等の随縁を語っているのである。

「袈裟を作るには麁布を本とす、麁布なきが如きは細布を用ゐる。麁細の布、ともになきには絹素を用ゐる、絹布ともになきが如きは綾羅等を用ゐる、如来の聴許なり。絹布綾羅等の類、すべてなき国には、如来また皮袈裟を聴許しまします」

 「麁布」とは布目の粗い粗末な布で、「布」とは植物繊維の織物。「本(ほん)」とは根本・原則を云う。「細布」とは布目の細かい上等な布。「絹素」とは白絹で生絹とも云う。「綾羅」の「綾」とは、あや織物で「羅」とはうすもの。

 『伝衣』にて該当する部位としては、「数般の袈裟のなかに、布袈裟あり、絹袈裟あり、皮袈裟あり。ともに諸仏のもちゐるところ、仏衣仏功徳なり」が比定される。

「おほよそ袈裟、染めて青黄赤黒紫色ならしむべし。いづれも色のなかの壊色ならしむ。如来は常に肉色の袈裟を御しましませり。これ袈裟色なり。初祖相伝の仏袈裟は青黒色なり、西天の屈眴布なり、いま曹谿山にあり。西天二十八伝し、震旦五伝せり。いま曹谿古仏の遺弟、みな仏衣の故実を伝持せり、余僧の及ばざるところなり」

 この処を『梵網経』では「応教身所著袈裟、皆使壊色与道相応。皆染使青黄赤黒紫色一切染衣」<応に教えて身に著くる所の袈裟は、皆な使壊色にして道と相応ならしむべし。皆な染めて使青黄赤黒紫の色に一切染衣すべし>(「大正蔵」二四・一〇〇八b二五)と説かれ「壊色」を強調するが、「壊色」とは青みかかった穢い色・紫かかった穢い色を云う。「肉色の袈裟」とは木欄を云うが、これも地域によって差異があり、タイ国では木肌色のモクラン色‘で、これは日本でも同系色の袈裟を如法色とも云うが、隣国のミャンマー国では少しく赤みがかかった、謂わゆる肉色である。

 達磨が伝持した袈裟は青黒色と云われ、インド木綿の花の芯を紡いだ布を「屈眴布」と云い、これは今の広東省の曹谿山に安置されている。インドでは二十八伝し、震旦(支那)では五伝するが、六祖の遺弟である南嶽や青原たちに連なる人たちには、皆が初祖相伝の仏衣の故実(典拠)を伝持するが、他系の僧たちの及ぶ処ではない。

 『伝衣』では壊色等に関する論述は見当らず。

「おほよそ衣に三種あり。一者糞掃衣、二者毳衣、三者衲衣なり。糞掃は先に示すが如し。毳衣者、鳥獣細毛、これを名づけて毳とす。行者若無糞掃可得、取此爲衣。衲衣者、朽故破弊、縫衲供身。不著世間好衣」

「糞掃衣」に関しては、「糞掃に十種あり、四種あり。いはゆる火燒・・」で示した通りで、「毳衣(せいえ)」に関しては『大乗義章』十五では「言毳衣者、如涅槃説。鳥狩細毛名之為」(「大正蔵」四四・七六四b二七)<毳衣と言うは、涅槃に説くが如し。鳥の細毛を狩る、之を名づけて毳と為す>

 「行者若無糞)可得、此爲衣。(衣者、朽故破弊、縫衲供身。不著世間好衣」(「同」b二八、―部「掃」は原なし、―部「衣」は原あり、―部「取」は原「求」、―部「言」は原あり、―部「衲」は原「納」、―部「世間」は原なし、)

 『伝衣』では不載。

 

   十二

具壽鄔波離、請世尊曰、大徳世尊、僧伽胝衣、條數有幾。

 佛言、有九。何謂爲九、謂、九條、十一條、十三條、十五條、十七條、十九條、二十一條、二十三條、二十五條。

 其僧伽胝衣、初之三品、其中壇隔、兩長一短、如是應持。次三品、三長一短、後三品、四長一短。過是條外、便成破衲。

 鄔波離、復白世尊曰、大徳世尊、有幾種僧伽胝衣。佛言、有三種、謂上中下。上者豎三肘、横五肘。下者豎二肘半、横四肘半。二内名中。鄔波離白世尊曰、大徳世尊、嗢羅僧伽衣、條數有幾。佛言、但有七條、壇隔兩長一短。鄔波離白世尊曰、大徳世尊、七條復有幾種。佛言、有其三品、謂上中下。上者三五肘、下各減半肘、二内名中。鄔波離白世尊曰、大徳世尊、安婆娑衣、條數有幾。佛言、有三、謂上中下。上者三五肘、中下同前。佛言、安婆娑衣、復有二種。何爲二。一者豎二肘、横五肘。二者豎二、横四。

 僧伽胝者、訳爲重複衣。嗢羅僧伽者、訳爲上衣。安婆娑者、訳爲内衣。又云下衣。

 又云、僧伽梨衣、謂大衣也。云、入王宮衣、説法衣。欝多羅僧、謂七條衣。中衣、又云、入衆衣。安陀會、謂五條衣。云、小衣。又云、行道衣、作務衣。

 この三衣、かならず護持すべし。又僧伽胝衣に六十條の袈裟あり。かならず受持すべし。

 おほよそ、八萬歳より百歳にいたるまで、壽命の増減にしたがうて、身量の長短あり。八萬歳と一百歳と、ことなることありといふ、また平等なるべしといふ。そのなかに、平等なるべしといふを正傳とせり。佛と人と、身量はるかにことなり。人身ははかりつべし、佛身はつひにはかるべからず。このゆゑに、迦葉佛の袈裟、いま釋迦牟尼佛着しましますに、長にあらず、ひろきにあらず。今釋迦牟尼佛の袈裟、彌勒如來著しましますに、みじかきにあらず、せばきにあらず。佛身の長短にあらざる道理、あきらかに觀見し、決斷し、照了し、警察すべきなり。

 梵王のたかく色界にある、その佛頂をみたてまつらず。目連はるかに光明幡世界にいたる、その佛聲をきはめず。遠近の見聞ひとし、まことに不可思議なるものなり。如來の一切の功徳、みなかくのごとし。この功徳を念じたてまつるべし。

「具寿鄔波離、請世尊曰、大徳世尊、僧伽胝衣、条数有幾」(『根本説一切有部百一羯磨』十「大正蔵」二四・四九七a一三、―部「世尊」は原なし)<具寿鄔波離、世尊に請いて曰く、大徳世尊、僧伽胝衣は、条数幾(いくばく)か有る>

「仏言、有九。何謂為九、謂、九条、十一条、十三条、十五条、十七条、十九条、二十一条、二十三条、二十五条」(「同」a一四)<仏言く、九有り。何を謂うてか九と為す、謂ゆる、九条、十一条、十三条、十五条、十七条、十九条、二十一条、二十三条、二十五条>

「其僧伽胝衣、初之三品、其中壇隔、両長一短、如是応持。次()三品、三長一短、後()三品、四長一短。過是条外、便成破(「同」a一六、―部「之」は原あり、―部「衲」は原「納」)<其の僧伽胝衣、初めの三品は、其の中の壇隔は、両長一短なり、是の如く持すべし。次の三品は、三長一短、後の三品は、四長一短なり。是の条を過ぐる外は、便ち破衲と成る>

鄔波離、復白世尊曰、大徳世尊、有幾種僧伽胝衣」(「同」a一九、―部「鄔波」は原なし、―部「世尊」は原なし)<鄔波離、復た世尊に白して曰く、大徳世尊、幾種の僧伽胝衣か有る>

「仏言、有三種、謂上中下。上者豎三肘、横五肘。下者豎二肘半、横四肘半。二内名中」(「同」a一九)<仏言く、三種有り、謂ゆる上中下なり。上は豎三肘、横五肘。下は豎二肘半、横四肘半。二の内を中と名づく>

鄔波離白世尊曰、大徳世尊、嗢羅僧伽衣、条数有幾」(「同」a二五、―部「鄔波」は原なし、―部「世尊」は原なし)<鄔波離世尊に白して曰く、大徳世尊、嗢呾羅僧伽衣の、条数幾か有る>

「仏言、但有七条、壇隔両長一短」(「同」a二二)<仏言く、但だ七条有り、壇隔両長一短なり>

鄔波離白世尊曰、大徳世尊、七条復有幾種」(「同」a二三、―部「鄔波」は原なし、―部「世尊」は原なし)<鄔波離世尊に白して曰く、大徳世尊、七条復た幾種有りや>

「仏言、有其三品、謂上中下。上者三肘、下各減半肘、二内名中」(「同」a二三、―部「五」は原なし)<仏言く、其れに三品有り、謂ゆる上中下なり。上は三五肘、下は各半肘を減ず、二の内を中と名づく>

鄔波離白世尊曰、大徳世尊、安婆娑衣、条数有幾(「同」a二四、―部「鄔波」は原なし、―部「世尊」は原なし)<鄔波離世尊に白して曰く、大徳世尊、安呾婆娑衣の、条数幾か有る>

「仏言、有三、謂上中下。上者三五肘、中下同前」(「同」a二六)<仏言く、三有り、謂ゆる上中下なり。上は三五肘、中下は前に同じ>

「仏言、安婆娑衣、復有二種。何()為二。一者豎二肘、横五肘。二者豎二、横四(「同」b一、―部「謂」は原あり)<仏言く、安呾婆娑衣に、復た二種有り。何をか二と為す。一は豎二肘、横五肘。二は豎二、横四なり>

「僧伽胝者、訳為重複衣。嗢羅僧伽者、訳為上衣。安婆娑者、訳為内衣。又云下衣(「同」a二七、―部「又云」は原なし)<僧伽胝は、訳して重複衣と為す。嗢呾羅僧伽は、訳して上衣と為す。安呾婆娑は、訳して内衣と為す。又は下衣と云う>

又云、僧伽梨衣、謂大衣也。云、入王宮衣、説法衣。欝多羅僧、謂七条衣。中衣、又云、入衆衣。安陀会、謂五条衣。云、小衣。又云、行道衣、作務衣(―部全分は原なし、他の経典類にも見当たらず、恐らくは従来提示した『大乗義章』十五での「入衆之時、著七条衣。若入王宮聚落、須著大衣」(「大正蔵」四四・七六四c一〇)を参考に、自身の創文であろうと考えられる)<又云く、僧伽梨衣は、謂ゆる大衣也。云く、王宮に入る衣は、説法衣なり。欝多羅僧は、謂く七条衣なり。中衣、又云く、入衆衣。安陀会は、謂く五条衣なり。云く、小衣。又云く、行道衣、作務衣>

「この三衣、必ず護持すべし。又僧伽胝衣に六十条の袈裟あり。必ず受持すべし。おほよそ、八万歳より百歳に至るまで、寿命の増減に従うて、身量の長短あり。八万歳と一百歳と、異なること有りと云ふ、また平等なるべしと云ふ。その中に、平等なるべしと云ふを正伝とせり。仏と人と、身量はるかに異なり。人身は測りつべし、仏身はつひに測るべからず」

 「八万歳より百歳」の「八万歳」(『仏説七仏経』「大正蔵」一・一五〇b二八)は毘婆尸仏を指し、釈迦仏を「百歳」(『同経』c一二)とする。「身量の長短」に関しては『観仏三昧海経』十では「毘婆尸仏身高顕長六十由旬」(「大正蔵」一五・六九三a一八)、「釈迦牟尼仏身長丈六」(「同」c一三)と示さる。

「このゆゑに、迦葉仏の袈裟、いま釈迦牟尼仏着しましますに、長にあらず、広きにあらず。今釈迦牟尼仏の袈裟、弥勒如来著しましますに、短かきにあらず、狭きにあらず。仏身の長短にあらざる道理、あきらかに觀見し、決斷し、照了し、警察すべきなり。梵王の高く色界にある、その仏頂を見たてまつらず。目連はるかに光明幡世界に至る、その仏声を窮めず。遠近の見聞等し、まことに不可思議なるものなり。如来の一切の功徳、みなかくの如し。この功徳を念じたてまつるべし」

 「迦葉仏」↔「釈迦牟尼仏」↔「弥勒如来」に伝持される袈裟は、平等なるべし、と謂われる由縁に従えば、迦葉→弥勒→釈迦とも、又は弥勒→迦葉→釈迦とも往来できる可逆的関係を「仏身の長短にあらざる道理」と定言するわけである。

 「目連・光明幡世界」に関しては、『止観輔行伝弘決』一―四「目連不窮其声者、仏在霊鷲、目連自念、欲知仏声所至近遠・・」(「大正蔵」四六・一六七c六)<目連其の声を窮めずとは、仏の霊鷲に在しに、目連自ら念ず、仏の声の至る所の近遠を知らんと欲わば・・>が該当しようか。

 

   十三

 袈裟を裁縫するに、割截衣あり、揲葉衣あり、攝葉衣あり、縵衣あり。ともにこれ作法なり。その所得にしたがうて受持すべし。

 佛言、三世佛袈裟、必定卻刺

 その衣財をえんこと、また清淨を善なりとす。いはゆる糞掃衣を最上清淨とす。三世の諸佛、ともにこれ清淨としまします。そのほか、信心檀那の所施の衣、また清淨なり。あるいは淨財をもていちにしてかふ、また清淨なり。作衣の日限ありといへども、いま末法澆季なり、遠方邊邦なり。信心のもよほすところ、裁縫をえて受持せんにはしかじ。

 在家の人天なれども、袈裟を受持することは、大乘最極の秘訣なり。いまは梵王釋王、ともに袈裟を受持せり。欲色の勝躅なり、人間には勝計すべからず。在家の菩薩、みなともに受持せり。震旦國には梁武帝、隋煬帝、ともに袈裟を受持せり。代宗肅宗ともに袈裟を著し、僧家に參學し、菩薩戒を受持せり。その餘の居士婦女等の受袈裟、受佛戒のともがら、古今の勝躅なり。

 日本國には聖徳太子、袈裟を受持し、法華勝鬘等の諸經講説のとき、天雨寶花の奇瑞を感得す。それよりこのかた、佛法わがくにに流通せり。天下の攝籙なりといへども、すなはち人天の導師なり。ほとけのつかひとして衆生の父母なり。いまわがくに、袈裟の體色量ともに訛謬せりといへども、袈裟の名字を見聞する、たゞこれ聖徳太子の御ちからなり。そのとき、邪をくだき正をたてずは、今日かなしむべし。のちに聖武皇帝、また袈裟を受持し、菩薩戒をうけまします。

 しかあればすなはち、たとひ帝位なりとも、たとひ臣下なりとも、いそぎ袈裟を受持し、菩薩戒をうくべし。人身の慶幸、これよりもすぐれたるあるべからず。

「袈裟を裁縫するに、割截衣あり、揲葉衣あり、攝葉衣あり、縵衣あり。共にこれ作法なり。その所得に従うて受持すべし」

 「割截衣(かっせつえ)」とは、袈裟製法上の四種衣の一種で、布を裁断し、却(かえ)し縫いをして作った袈裟。割截衣は、繒帛を裁断して、片々長短かへし刺して、衣を成すを云う(『法服格正』「割截裁縫分第四」)。「揲葉衣(ちょうようえ)」は、割截せずして長短葉を揲して、衣を成すを云う(「同」)。「攝葉衣(せつようえ)」は、葉を摂し、割断せずして以て衣を成す(「同」)。「縵衣(まんえ)」は、統布で、衣に界なく、拾かも漫田の如くなる衣(「同」)。

「仏言、三世仏袈裟、必定却刺」

 この文言の出典は不明ながらも、前言に依拠するならば『摩訶僧祇律』二十八「有比丘刺長、有比丘刺縁」(「大正蔵」二二・四五五a三)に該当する歟。

「その衣財を得んこと、また清浄を善なりとす。いはゆる糞掃衣を最上清浄とす。三世の諸仏、共にこれ清浄としまします。そのほか、信心檀那の所施の衣、また清浄なり。あるいは浄財をもて市にして買ふ、また清浄なり。作衣の日限ありと云へども、いま末法澆季なり、遠方辺邦なり。信心のもよほす処、裁縫を得て受持せんにはしかじ」

 文意の如く読み解くものの、「作衣の日限」に関しては『摩訶僧祇律』八では「若比丘、前十日得衣。応即前十日作。中十日得衣、応即中十日作」(「大正蔵」二二・二九九a一六)<若し比丘、前の十日に衣を得んには。応に即ち前の十日に作るべし。中の十日に衣を得んには、応に即ち中の十日に作すべし>と、袈裟製法に関し厳格な日数が、律にて規定されるが、道元の言うには、今は末法の世であり日本はインドよりは遠方に位置し、辺鄙であるから、この十日規定の定めは勘弁願いたい。と聞き取れる文言ではあるが、道元の興聖の折、および「旧草七十五巻」時にては、遠方辺邦だからこそ、奮起する筆勢のように感じられたが、「当巻」執筆時には、「信心のもよほす処、裁縫を得て受持せんにはしかじ」とやや衰筆の観あり。

「在家の人天なれども、袈裟を受持することは、大乗最極の秘訣なり。いまは梵王釈王、ともに袈裟を受持せり。欲色の勝躅なり、人間には勝計すべからず。在家の菩薩、みなともに受持せり。震旦国には梁武帝、隋煬帝、ともに袈裟を受持せり。代宗肅宗ともに袈裟を著し、僧家に参学し、菩薩戒を受持せり。その余の居士婦女等の受袈裟、受仏戒のともがら、古今の勝躅なり」

 「在家の人天」の代表格として「梁武帝(在位502―549)、隋煬帝(在位604―618)」を挙げられるが、「武帝」は皇帝菩薩と称され、「煬帝」に至っては天台智顗(538―597)から総持の居士号(法名)を得る程の仏教信者であって、「武帝」に関しては、『光明』や『行持』に於いても動向が記される程であった。「代宗・肅宗」に関しても、『出家功徳』に取り挙げられ、「当巻」冒頭部にても「唐朝中宗肅宗代宗、しきりに帰内供養しき」と記す次第である。

「日本国には聖徳太子、袈裟を受持し、法華勝鬘等の諸経講説の時、天雨宝花の奇瑞を感得す。それよりこのかた、仏法わが国に流通せり。天下の摂籙なりと云へども、すなはち人天の導師なり。ほとけの使ひとして衆生の父母なり。いまわが国、袈裟の体色量ともに訛謬せりと云へども、袈裟の名字を見聞する、たゞこれ聖徳太子の御ちからなり。その時、邪を砕き正を立てずは、今日悲しむべし」

 道元の拈提・解説では、中国大陸での禅匠や居士に関する情報は多く記述するものの、日本人に関する記載は極めて少数を窮めるなかでの「聖徳太子(574―622)」の紹介である。「法華・勝鬘等の諸経講説」を著作にしたものが「法華義疏」であり、これは現在御物に指定され、いま一つの「勝鬘経義疏」の真偽は評価の分れる所である。

 「天雨宝花の奇瑞」とは、太子が講説時に天上から散花の如く降り注いだ。との逸話であろうが、筆者数十年前にみたテレビ番組(当時はビデオ・ユーチューブは無い)では、永平寺晋山式(丹羽廉芳貫主・昭和六十年一月)での上堂説法にて、「天雨宝花の奇瑞」を問う雲衲に対しては、「眼前に参集する大衆そのものが天雨宝花の奇瑞である」との当意即妙なる光景が記憶にある。

 因みに「聖徳太子」と言えば十七条憲法であり、その二には「篤く三宝を敬へ、三宝とは仏・法・僧なり」と記す処からも、「聖徳太子の御ちからなり」と導かれる文言であろう。

「後に聖武皇帝、また袈裟を受持し、菩薩戒を受けまします。しかあれば則ち、たとひ帝位なりとも、たとひ臣下なりとも、急ぎ袈裟を受持し、菩薩戒を受くべし。人身の慶幸、これよりも勝れたるあるべからず」

 「聖武皇帝」と云えば仏教信者として知られ自らを三宝の奴とも称せられ、天平十三年(741)には国分寺建立の詔、天平十五年(743)には東大寺盧舎那仏造立の詔を出すが、これらは天然痘や災害を終息させる願いを込めてのもので、続く天平勝宝四年(752)四月九日には東大寺大仏の開眼供養が、聖武太上天皇(皇帝)、光明皇太后孝謙天皇以下一万数千人が参列する。開眼導師はインド僧の菩提僊那、以下大安寺・薬師寺元興寺興福寺の日本仏教の代表として随喜する。開眼法要にて使用された伎楽面や筆・開眼縷などは今も正倉院御物として現在し、菩提僊那から菩薩戒を受けた聖武太上皇帝の袈裟は法隆寺に現存するらしい。

 

   十四

 有言、在家受持袈裟、一名單縫、二名俗服。乃未用卻刺針而縫也。又言、在家趣道場時、具三法衣楊枝澡水食器坐具、應如比丘修行淨行。

 古徳の相傳かくのごとし。たゞしいま佛祖單傳しきたれるところ、國王大臣、居士士民にさづくる袈裟、みな卻刺なり。廬行者すでに佛袈裟を正傳せり、勝躅なり。

 おほよそ袈裟は、佛弟子標幟なり。もし袈裟を受持しをはりなば、毎日に頂戴したてまつるべし。頂上に安じて、合掌してこの偈を誦す。

  大哉解脱服 無相福田衣 披奉如來教 廣度諸衆生

 しかうしてのち著すべし。袈裟におきては、師想塔想をなすべし。浣衣頂戴のときも、この偈を誦するなり。

 佛言、剃頭著袈裟、諸佛所加護。一人出家者、天人所供養。

 あきらかにしりぬ、剃頭著袈裟よりこのかた、一切諸佛に加護せられたてまつるなり。この諸佛の加護によりて、無上菩提の功徳圓滿すべし。この人をば、天衆人衆ともに供養するなり。

「有言、在家受持袈裟、一名単縫二名俗服。乃未用却刺針而縫也。又言、在家趣道場時具三法衣楊枝澡水食器坐具応如比丘修行浄行(『止観輔行伝弘決』二之二に比定されるが、原文とは異同が多く次に記す)<有るが言く、在家の受持する袈裟は、一に単縫と名づく、二に俗服と名づく。乃ち未だ却刺針して縫うを用いず也。又言く、在家道場に趣く時は、三法衣・楊枝・澡水・食器・坐具を具し、応に比丘の如く浄行を修行すべし>

「経云、趣道場時、應如比丘法修行浄行、具三法衣、楊枝・澡水・食器・坐具―中略―仏言、三衣者、一名単縫、二名俗服。出家衣者、作三世仏法儀式。俗服者出道場時著―中略―言単縫者、不許却刺。若却刺者、即是大僧受持之衣」(「大正蔵」四六・一九〇b五)と、経文を並べ替えてのものになる。

「古徳の相伝かくの如し。但しいま仏祖単伝し来たれる処、国王大臣、居士士民に授くる袈裟、みな却刺なり。廬行者すでに仏袈裟を正伝せり、勝躅なり」

 ここ数条は「却刺」に対する思い入れがある数条であるが、「却刺」はかへしばりと呼び、手間の掛かる作業ではあるが、糸がほづれても安易には放逸にはならない利点がある。また此の袈裟を著する意義は、特にインドでは釈尊在世には様々な修行形態のサドゥ(行者)が居たようで、その中には裸形僧の存在が、インド仏教に於ける袈裟の着衣、さらには裸形を晒さない事情も踏まえ、「却刺」という技法が現今に息づいているのであろうか。

「おほよそ袈裟は、仏弟子標幟なり。もし袈裟を受持し終りなば、毎日に頂戴したてまつるべし。頂上に安じて、合掌してこの偈を誦す。大哉解脱服、無相福田衣、披奉如来教、広度諸衆生。しかうしてのち著すべし。袈裟におきては、師想塔想をなすべし。浣衣頂戴の時も、この偈を誦するなり」

 「大哉解脱服(大いなる哉解脱服)、無相福田衣(無相なる福田の衣)、披奉如来教如来の教えを披奉し)、広度諸衆生(広く諸の衆生を度さん)」。この偈文は暁天坐禅罷には毎朝唱えるものであり、また通常は絡子(五条衣)の裏書に書かれたりもする。なお『禅苑清規』九(「続蔵」六三・五四七a一七)および『勅修百丈清規』五(「大正蔵」四八・一一三七b二二)では共に「大哉解脱服、無相福田衣、披奉如来、広度諸衆生」と「教」→「戒」となる。

「仏言、剃頭著袈裟、諸仏所加護。一人出家者、天人所供養」<剃頭して袈裟を著せば、諸仏の加護する所なり。一人出家すれば、天人が供養する所なり>

 この出典は『大方等大集経』五十六「大正蔵」一三・三七六b一五)である。

「明らかに知りぬ、剃頭著袈裟よりこのかた、一切諸仏に加護せられたてまつるなり。この諸仏の加護によりて、無上菩提の功徳円満すべし。この人をば、天衆人衆ともに供養するなり」

 まずここでは「一人が出家すれば、天人の供養を授く」の文言は、よく得度式等の祝辞で述べられる文句であるが、一人出家すれば七世父母菩提を受く、などの文言も聞き及ぶ。

 ここで扱う『大方等大集経』であるが、これは「旧草七十五巻」には見られず、「新草十二巻」での『帰依仏法僧宝』に援用されるが、ただ間隔は八十頁ほどの開きがあり、よくもこれ程の短文な文言を見逃すことなく、「袈裟」に対する関連語を抽出する眼力(能力)には驚くほかない。

 

   十五

 世尊告智光比丘言、法衣得十勝利。

 一者、能覆其身、遠離羞恥、具足慚愧、修行善法。

 二者、遠離寒熱及以蚊蟲惡獣毒蟲、安穏修道。

 三者、示現沙門出家相貌、見者歡喜、遠離邪心。

 四者、袈裟即是人天寶幢之相、尊重敬禮、得生梵天

 五者、著袈裟時、生寶幢想、能滅衆罪、生諸福徳。

 六者、本制袈裟、染令壞色、離五欲想、不生貪愛。

 七者、袈裟是佛淨衣、永斷煩惱、作良田故。

 八者、身著袈裟、罪業消除、十善業道、念々増長。

 九者、袈裟猶如良田、能善増長菩薩道故。

 十者、袈裟猶如甲胄、煩惱毒箭、不能害故。

 智光當知、以是因縁、三世諸佛、縁覺聲聞、清淨出家、身著袈裟、三聖同坐解脱寶牀。執智慧剣、破煩惱魔、共入一味諸涅槃界。

 爾時世尊、而説偈言、

  智光比丘應善聽  大福田衣十勝利

  世間衣服増欲染  如來法服不如是

  法服能遮世羞恥  慚愧圓滿生福田

  遠離寒暑及毒蟲  道心堅固得究竟

  示現出家離貪欲  斷除五見正修行

  瞻禮袈裟寶幢相  恭敬生於梵王福

  佛子披衣生塔想  生福滅罪感人天

  肅容致敬眞沙門  所爲不染諸塵俗

  諸佛稱讚爲良田  利樂群生此爲最

  袈裟神力不思議  能令修植菩提行

  道芽増長如春苗  菩提妙果類秋實

  堅固金剛眞甲胄  煩惱毒箭不能

  我今略讚十勝利  歴劫廣説無有邊

  若有龍身披一縷  得脱金翅鳥王食

  若人渡海持此衣  不怖龍魚諸鬼難

  雷電霹靂天之怒  披袈裟者無恐畏

  白衣若能親捧持  一切惡鬼無能近

  若能發心求出家  厭離世間修佛道

  十方魔宮皆振動  是人速證法王身

 この十勝利、ひろく佛道のもろもろの功徳を具足せり。長行偈頌にあらゆる功徳、あきらかに參學すべし。披閲してすみやかにさしおくことなかれ。句々にむかひて久參すべし。この勝利は、たゞ袈裟の功徳なり、行者の猛利恒修のちからにあらず。

 佛言、袈裟神力不思議。

 いたづらに凡夫賢聖のはかりしるところにあらず。

 おほよそ速證法王身のとき、かならず袈裟を著せり。袈裟を著せざるものの法王身を證せること、むかしよりいまだあらざるところなり。その最第一清淨の衣財は、これ糞掃衣なり。その功徳、あまねく大乘小乘の經律論のなかにあきらかなり。廣學咨問すべし。その餘の衣財、またかねあきらむべし。佛々祖々、かならずあきらめ、正傳しましますところなり、餘類のおよぶべきにあらず。

世尊告智光比丘言、法衣得十勝利。一者、能覆其身、遠離羞恥、具足慚愧、修行善法。二者、遠離寒熱及以蚊悪獣毒虫、安穏修道」(『大乗本生心地観経』五(「大正蔵」三・三一三c二七、―部「世尊」は原なし、―部「虫」は原「虻」)<世尊は智光比丘に告げて言く、法衣は十勝利を得る。一は、能く其の身を覆いて、羞恥を遠離し、慚愧を具足して、善法を修行す。二は、寒熱及び以て蚊虫・悪獣・毒虫を遠離して、安穏に修道す>

三者、示現沙門出家相貌、見者歓喜、遠離邪心。四者、袈裟即是人天宝幢之相、尊重敬礼、得生梵天(「同」c二九)<三は、沙門出家の相貌を示現し、見る者は歓喜して、邪心を遠離す。四は、袈裟は即ち是れ人天の宝幢の相なり、尊重し敬礼すれば、梵天に生ずるを得る>

「五者、著袈裟時、生宝幢想、能滅衆罪、生諸福徳。六者、本制袈裟、染令壊色、離五欲想、不生貪愛」(「同」三一四a二)<五は、著袈裟の時、宝幢の想いを生ぜば、能く衆罪を滅し、諸の福徳を生ず。六は、本制の袈裟は、染けて壊色す、五欲の想いを離れて、貪愛を生ぜず>

「七者、袈裟是仏浄衣、永断煩悩、作良田故。八者、身著袈裟、罪業消除、十善業道、念々増長」(「同」a五)<七は、袈裟は是れ仏の浄衣なり、永く煩悩を断じて、良田と作すが故に。八は、身に袈裟を著せば、罪業消除し、十善業道、念々に増長す>

「九者、袈裟猶如良田、能善増長菩薩道故。十者、袈裟猶如甲胄、煩悩毒箭、不能害故」(「同」a七)<九は、袈裟は猶お良田の如し、能善く菩薩の道を増長するが故に。十は、袈裟は猶お甲胄の如し、煩悩の毒箭、害すること能わざる故に>

「智光当知、以是因縁、三世諸仏、縁覚声聞、清浄出家、身著袈裟、三聖同坐解脱宝牀。執智慧剣、破煩悩魔、共入一味諸涅槃界」(「同」a九)<智光当に知るべし、是の因縁を以て、三世の諸仏、縁覚声聞、清浄の出家は、身に袈裟を著して、三聖は同じく解脱の宝牀に坐す。智慧の剣を執り、煩悩の魔を破し、共に一味の諸の涅槃界に入る>

「爾時世尊、而説偈言、智光比丘応善聴、大福田衣十勝利。世間衣服増欲染、如来法服不如是。法服能遮世羞恥、慚愧円満生福田」(「同」a一二)<爾の時に世尊は、而も偈を説いて言く、智光比丘応に善く聴くべし、大福田衣に十勝利あり。世間の衣服は欲染を増すが、如来の法服は是の如くならず。法服は能く世の羞恥を遮(さへぎ)り、慚愧円満して福田を生ず>

「遠離寒暑及毒虫、道心堅固得究竟。示現出家離貪欲、断除五見正修。瞻礼袈裟宝幢、恭敬生於梵王福」(「同」a一六、―部「行」は原「持」、―部「相」は原「想」)<寒暑及び毒虫を遠離して、道心堅固にして究竟を得る。出家を示現して貪欲を離れ、五見を断除して正修行す。袈裟宝幢の相を瞻礼(せんらい)し、恭敬すれば梵王の福を生ず>

「仏子披衣生塔想、生福滅罪感人天。肅容致敬真沙門、所為不染諸塵俗。諸仏称讃為良田、利楽群生此為最」(「同」a一九)<仏子は披衣しては塔想を生ずべし、福を生じ罪を滅じ人天を感ず。肅容致敬すれば真の沙門なり、所為諸の塵俗に不染なり。諸仏は称讃して良田と為し、群生を利楽するには此れを最なりと為す>

「袈裟神力不思議、能令修植菩提行。道芽増長如春苗、菩提妙果類秋実。堅固金剛真甲胄、煩悩毒箭不能害」(「同」a二二)<袈裟の神力は不思議なり、能く菩提の行を修植ならしむ。道の芽の増長するは春の苗の如く、菩提の妙果は秋の実の類し。堅固金剛の真甲胄なり、煩悩の毒箭も害する能わず>

「我今略讃十勝利、歴劫広説無有辺。若有龍身披一縷、得脱金翅鳥王食。若人渡海持此衣、不怖龍魚諸鬼難」(「同」a二五)<我れ今略して十勝利を讃む、歴劫に広説するも辺(ほとり)有ること無き。若し龍有りて身に一縷を披せば、金翅鳥王の食を脱するを得ん。若し人が海を渡らんに此の衣を持てば、龍魚諸鬼の難を怖れず>

雷電霹靂天之怒、披袈裟者無恐畏。白衣若能親捧持、一切悪鬼無能近。若能発心求出家、厭離世間修仏道。十方魔宮皆振動、是人速証法王身」(「同」a二八)<雷電霹靂して天の怒りあるも、袈裟を披る者は恐畏無し。白衣の若し能く親しく捧持すれば、一切の悪鬼は能く近づく無し。若し能く発心して出家を求め、世間を厭離して仏道を修せば。十方の魔宮は皆ま振動し、是の人は速やかに法王の身を証す>

 長々と本則文を附し原文に対照したが、少々の語句異同あるも原文通りであった。この経典引用は「当巻」のみであり、「旧草七十五巻」にも引用はされず、当然ながら『伝衣』にも不載である。

「この十勝利、広く仏道の諸々の功徳を具足せり。長行偈頌にあらゆる功徳、明らかに参学すべし。披閲して速やかにさしおくことなかれ。句々に向ひて久参すべし。この勝利は、たゞ袈裟の功徳なり、行者の猛利恒修の力にあらず。仏言、袈裟神力不思議。いたづらに凡夫賢聖の測り知る処にあらず」

 「長行」とは経文での散文を云う。「偈頌」は経文での韻文を云う。「この勝利は、たゞ袈裟の功徳なり、行者の猛利恒修の力にあらず」とは、当に縁起の理を説くものであり、普段に我々は何かの恩恵を蒙ると、この結果は自身の行為の結果として理解するわけだが、原始仏教釈尊はその結果を遠く隔たった十二の段階に分析して、縁起の法つまり関係性を導き出されたわけである。これらの事情を「袈裟神力不思議」と述べられる。

 右に述べた縁起の法と云うと、宗教色が強く感じられ昨今の社会問題(新興宗教献金問題など)が報じられると、縁の詞に引きずり込まれ、宗教と称した魔物と思われる人も多かろうが、生態系そのものが共生ネットワークと云う縁起のシステムであることを、真菌の例を以て見てみよう。複雑多岐なシステムが赤松の根元に松茸を生じさせる現象が、数十万種の菌のネットワークを可視化する研究が進行中である、このような事柄を以てしても、単なる「袈裟」の問題ではないことが理解されよう(京都大学春秋講義<平成三十年度秋季講義>共生ネットワークで読み解く地球生態系の未来―東樹宏和准教授・ユーチューブ配信)。

「おほよそ速証法王身の時、必ず袈裟を著せり。袈裟を著せざる者の法王身を証せること、昔より未だあらざる処なり。その最第一清浄の衣財は、これ糞掃衣なり」

 此処では「袈裟」=「糞掃衣」は同義語であり、その衣財である七種の糞掃衣である人々の役に立たないものを、再利用する所に科学では測り知れぬ宗教観がある。

「その功徳、あまねく大乗小乗の経律論の中に明らかなり。広学咨問すべし。その余の衣財、また兼ね明らむべし。仏々祖々、必ず明らめ、正伝しまします処なり、余類の及ぶべきにあらず」

 「大小乗の経律論の中に明らか」と言われるように「旧草七十五巻」では小乗本と謂われるアビダルマ経論を披瀝できなかった事情から、「新草本」では縦横に大乗本と共に小乗本を利用する事で、このような嬉々とした文章に成ったのだろう。

 「広学咨問」とは、広く学び、師について尋ねよ、との意であるが、ここでも永平禅裏での参禅学道人に対し、仏法の根幹を行と共に、大小乗の経本で以て究竟せよ、との意でありましょう。ただ此処で小拙者思うに、「余類の及ぶべきにあらず」ではなく、「余類をも我等の境涯に及ぶ処なり」と、明言して欲しかった所存であります。

 

   十六

 中阿含經曰、復次諸賢、或有一人、身淨行、口意不淨行、若慧者見、設生恚惱、應當除之。諸賢或有一人、身不淨行、口淨行、若慧者見、設生恚惱、當云何除。諸賢猶如阿練若比丘、持糞掃衣、見糞掃中所棄弊衣、或大便汚、或小便洟唾、及餘不淨之所染汚、見已、左手執之、右手舒張、若非大便小便洟唾、及餘不淨之所汚處、又不穿者、便裂取之。如是諸賢、或有一人、身不淨行、口淨行、莫念彼身不淨行。但當念彼口之淨行。若慧者見、設生恚惱、應如是除。

 これ阿練若比丘の、拾糞掃衣の法なり。四種の糞掃あり、十種の糞掃あり。その糞掃をひろふとき、まづ不穿のところをえらびとる。つぎには大便小便、ひさしくそみて、ふかくして浣洗すべからざらん、またとるべからず。浣洗しつべからん、これをとるべきなり。

 十種糞掃衣

 一、牛嚼衣。二、鼠噛衣。三、火燒衣。四、月水衣。

 五、産婦衣。六、神廟衣。七、塚間衣。八、求願衣。

 九、王職衣。十、往還衣。

 この十種、ひとのすつるところなり、人間のもちゐるところにあらず。これをひろうて袈裟の淨財とせり。三世諸佛の讚歎しましますところ、もちゐきたりましますところなり。

 しかあればすなはち、この糞掃衣は、人天龍等のおもくし擁護するところなり。これをひろうて袈裟をつくるべし。これ最第一の淨財なり、最第一の清淨なり。いま日本國、かくのごとくの糞掃衣なし、たとひもとめんとすともあふべからず、邊地小國かなしむべし。たゞ檀那所施の淨財、これをもちゐるべし。人天の布施するところの淨財、これをもちゐるべし。あるいは淨命よりうるところのものをもて、いちにして貿易せらん、またこれ袈裟につくりつべし。かくのごときの糞掃、および淨命よりえたるところは、絹にあらず、布にあらず。金銀珠玉、綾羅綿繍等にあらず、たゞこれ糞掃衣なり。この糞掃は、弊衣のためにあらず、美服のためにあらず、たゞこれ佛法のためなり。これを用著する、すなはち三世の諸佛の皮肉骨髓を正傳せるなり、正法眼藏を正傳せるなり。この功徳、さらに人天に問著すべからず、佛祖に參學すべし。

「中阿含経曰、復次諸賢、或有一人、身浄行、口意不浄行、若慧者見、設生恚悩、応当除之。諸賢或有一人、身不浄行、口浄行、若慧者見、設生恚悩、当云何除」(『中阿含経』五「大正蔵」一・四五四a一五)<中阿含経に曰く、復た次に諸賢、或いは一人有りて、身は浄行、口意は不浄行、若し慧者が見て、設(も)し恚悩(いのう)を生ぜば、応当(まさ)に之を除くべし。諸賢或いは一人有りて、身は不浄行、口は浄行ならんに、若し慧者が見て、設し恚悩を生ぜば、当に云何(いかん)が除くべき>

「諸賢猶如阿練若比丘、持糞掃衣、見糞掃中所棄弊衣、或大便汚、或小便洟唾、及余不浄之所染汚、見已、左手執之、右手舒張、若非大便小便洟唾、及余不浄之所汚処、又不穿者、便裂取之。如是諸賢、或有一人、身不浄行、口浄行、莫念彼身不浄行。但当念彼口之浄行。若慧者見、設生恚悩、応如是除」(「同」a一九)<諸賢猶お阿練若比丘の如き、糞掃衣を持ち、糞掃の中の棄てる所の弊衣の、或いは大便に汚れ、或いは小便・洟唾、及び余の不浄に染汚せる所を見んに、見已りて、左手の之を執り、右手に舒べて張りて、若し大便・小便・洟唾、及び余の不浄に汚れる所処に非ず、又穿げざる者をば、便ち裂きて之を取る。是の如く諸賢、或いは一人有りて、身は不浄行、口は浄行ならんに、彼の身の不浄行を念う莫れ。但だ当に彼の口の浄行を念うべし。若し慧者見て、設し恚悩を生ぜば、応に是の如く除くべし>

 「阿練若(あれんにゃ)」とは、梵語aranyaからの音写語であり、人里を離れた森林の意。阿蘭若とも書かれ、閑寂、遠離所とも意訳される。町や村から適度に離れた場所や、そこに作られた庵や小房などを含め阿練若と呼ばれ、そこに居する比丘を云う(web版、浄土宗大辞典を参照)。

 筆者、三十数年前にタイ西部(ミャンマー国境)の阿練若に数週間在したことあり。そこは国道から徒歩一時間程の山の中腹に位置し、当時は毎朝の托鉢にも四・五名の比丘と随伴の信者が歩いて町まで乞食を行持し、帰りは信者さんのピックアップ車にて数分で帰山すると云う朝のルーティンがあったが、その山中でのサンガ生活に於いても猶も阿練若を求むる者は、僧伽からは近からず遠からずの洞窟にて一人坐する行履があった。それは謂わば場と云う阿練若であろうが、三十数年前の比丘の一人は大都会バンコクに、一人はイギリスの叢林に、また一人はタイ東部(カンボジア国境)の僧院にて現在も行持して居る。つまり「阿練若」とは単に世俗の雑踏を逃れるのではなく、個々人そのものが阿練若そのもののようにも思われてならない。

 これは陶淵明(365―427)による「結廬在人境、而無車馬喧」<廬(いおり)を結んで人境に在り、而(しか)も車馬の喧(かまびすし)き無し>にも通じ、また「小隠は陵藪に隠れ、大隠は朝市に隠る」(王康琚・反招隠詩)と唱えられた山人思想にも通ずるものではあるが、道元は「いま仏祖の大道を行持せんには、大隠小隠を論ずることなく」さらには「すすむらくは大隠小隠、一箇半箇なりとも、万事万縁をなげすてて、行持を仏祖に行持すべし」と共に『行持』にて説諭される次第である。

「これ阿練若比丘の、拾糞掃衣の法なり。四種の糞掃あり、十種の糞掃あり。その糞掃を拾ふ時、まづ不穿の所を選び取る。次には大便小便、久しくそみて、ふかくして浣洗すべからざらん、またとるべからず。浣洗しつべからん、これを取るべきなり。十種糞掃衣、一、牛嚼衣。二、鼠噛衣。三、火燒衣。四、月水衣。五、産婦衣。六、神廟衣。七、塚間衣。八、求願衣。九、王職衣。十、往還衣」

 これは『中阿含経』に対する拈提と云うよりは解説の部類でありましょうが、先ずは「四種の糞掃、十種の糞掃」については、第六段での「糞掃に十種あり、四種あり。いはゆる火燒牛嚼鼠噛死人衣」と四種の糞掃を列挙するに対し、ここに来て「十種糞掃衣、牛嚼衣。鼠噛衣。燒衣。月水衣。産婦衣。神廟衣。塚間衣。願衣。王衣。往還衣」(『四分律』六十「大正蔵」二二・一〇一一b二六、―部「火」は原なし、―部「産婦」は「初産」、―部「求」は原なし、―部「職」は原なし)にと導かれるが、このような習慣は現今の南方仏教地域にも、ましてや日本などでは見られない。

しかしながら釈尊や一部の現今のインド社会では、宗教に対する寛容性があり独特なる風土を生み出すものである。社会機構の一部としての寺院としての日本では、「拾糞掃衣の法」を声高に唱えても、直ちに町の条例や国の法律に照らされて、僧衣を着用していても拘束・逮捕される。

しかしながら南方仏教国であるタイ国を例に挙げるならば、インドと日本の中間的位置づけである。それは比丘(僧侶)が法律を犯せば、社会の通念により逮捕されるが、法衣(袈裟)を著したままでは、警察組織に於いても拘束は出来ても逮捕は出来ないと云う。その時には一旦還俗させ袈裟(法衣)を脱がせ、俗服に戻して社会の規範(法律)に従属させる、と云う方法を取らざる得ない観念は、仏法と世俗の境界の取り方に顕著な違いが現れるものである。

「この十種、人の捨つる処なり、人間の用ゐる処にあらず。これを拾うて袈裟の浄財とせり。三世諸仏の讃歎しまします処、用ゐきたりまします処なり」

 「十種」の内訳は①牛が嚼んだ衣➁鼠が噛んだ衣➂焼け残った衣➃生理(血)で汚れた衣⑤出産時使用の衣➅神仏に供奉した衣⑦死者を覆った衣⑧願掛けの衣⑨王権交代の衣⑩死者をくるんだ衣。

 『伝衣』にても同じ十種を挙げ、その時の説明としては「この十種を、ことに清浄の衣財とせるなり。世俗には抛捨す、仏道にはもちゐる。世間と仏道と、その家業はかりしるべし」と記す。

「しかあれば即ち、この糞掃衣は、人天龍等の重くし擁護する処なり。これを拾うて袈裟を作るべし。これ最第一の浄財なり、最第一の清浄なり。いま日本国、かくの如くの糞掃衣なし、たとひ求めんとすとも逢ふべからず、辺地小国悲しむべし」

 此処で又、小拙者による批判(criticism)的考察を述べよう。ここでは釈尊在世時には、

糞掃を拾い集めて浄財として生れ変らせ清浄とする観念が、今の日本国(1250年代)では、それらの糞掃衣を求めようにもお目にはかかれず、それにはインドから遠く離れた辺鄙な土地柄であり悲嘆するばかり。と、糞掃衣との関係性を読み解かれるが、まずは実際に文面の資料(大蔵経)はあるわけであるから、京都であろうが越前であろうが、自身の脚力で以て、十種の糞掃の収集、ならびに浣洗をし、却刺の手法で以て糞掃衣の製作をするべきであろう。

 いま一つ「乞食」に関する事項が『随聞記』二―十七にて「仏経の勧めに順いて乞食等を行ずベき歟」との問いに対し道元は、「是れは土風に順いて斟酌有るべし。是れ等の作法、道路不浄にして、仏衣を着けて行歩せば穢つべし。人目を思はず自の益を忘れ、仏道利生の方によきやうに計らふべし」と、嘉禎三年(1237)の頃には、托鉢(乞食)の重要性は承知しつつも行持されず。その理由としは、仏衣(袈裟)を著けて往来(行歩)すれば衣物が穢れる、との事であるが、その時にこそ「人目を気にせず、仏道利生」を最第一にすべきではなかろうか。

「ただ檀那所施の浄財、これを用ゐるべし。人天の布施する処の浄財、これを用ゐるべし。あるいは浄命より得る処のものをもて、市にして貿易せらん、またこれ袈裟に作りつべし」

 「檀那所施の浄財」とは、大蔵経の寄進を受けた波多野義重幕閣を念頭に書き入れたもの歟。「浄命より得る処のもの」とは浄命食を指し、そこでは➀耕作や湯薬の調合➁星宿日月等の観察➂巧言による周施➃呪術卜筮。これらを四種の邪命法と位置づけ、これらに関与した食事は原則受けない。「貿易(むやく)」とは市場にての物々交換。

「かくの如きの糞掃、および浄命より得たる処は、絹にあらず、布にあらず。金銀珠玉、綾羅綿繍等にあらず、ただこれ糞掃衣なり。この糞掃は、弊衣の為にあらず、美服の為にあらず、ただこれ仏法の為なり。これを用著する、すなはち三世の諸仏の皮肉骨髄を正伝せるなり、正法眼蔵を正伝せるなり。この功徳、さらに人天に問著すべからず、仏祖に参学すべし」

 文意の如くに読み解けば良い。『伝衣』にては字句の出入はあるものの「この糞掃衣をもちゐることは、いたづらに弊衣にやつれたらんがためと學するは至愚なるべし。莊嚴奇麗ならんがために、佛道に用著しきたれるところなり。佛道にやつれたる衣服とならはんことは、錦繍綾羅金銀珍珠等の衣服の、不淨よりきたれるを、やつれたるとはいふなり」に比定されようか。

 これで以て「当巻」は書き終えられるが、巻末には『伝衣』とほぼ同文が記される。つまり次に記す文章は仁治元年(1240)十月一日に記録されたものであり、恐らくは文章構成の上からは『伝衣』には必要とはするものの、当巻『袈裟功徳』の立場からは不要と思われるが、「当巻本」の原本は仁治元年に記されるが「七十五巻」編集作業にて除外され、原稿は興聖寺から永平寺に移行され、「仁治元年本」に加筆する形で『中阿含経』『大乗本生心地観経』『根本説一切有部百一羯磨』『悲華経』などを新たに加え、「新草十二巻」第三としての体裁を整えたものであろう。

 これを以て筆者による注解作業は擱筆にするが、巻末のみを記す次第である。

 

 予、在宋のそのかみ、長連牀に功夫せしとき、齊肩の隣單をみるに、開靜のときごとに、袈裟をさゝげて頂上に安じ、合掌恭敬し、一偈を黙誦す。その偈にいはく、

  大哉解脱服、無相福田衣 披奉如來教、廣度諸衆生

 ときに予、未曾見のおもひを生じ、歡喜身にあまり、感涙ひそかにおちて衣襟をひたす。その旨趣は、そのかみ阿含經を披閲せしとき、頂戴袈裟の文をみるといへども、その儀則いまだあきらめず。いままのあたりみる、歡喜隨喜し、ひそかにおもはく、あはれむべし、郷土にありしとき、をしふる師匠なし、すゝむる善友あらず。いくばくかいたづらにすぐる光陰ををしまざる、かなしまざらめやは。いまの見聞するところ、宿善よろこぶべし。もしいたづらに郷間にあらば、いかでかまさしく佛衣を相承著用せる僧寶に隣肩することをえん。悲喜ひとかたならず、感涙千萬行。

 ときにひそかに發願す、いかにしてかわれ不肖なりといふとも、佛法の嫡嗣となり、正法を正傳して、郷土の衆生をあはれむに、佛祖正傳の衣法を見聞せしめん。かのときの發願いまむなしからず、袈裟を受持せる在家出家の菩薩おほし、歡喜するところなり。受持袈裟のともがら、かならず日夜に頂戴すべし、殊勝最勝の功徳なるべし。一句一偈の見聞は、若樹若石の見聞、あまねく九道にかぎらざるべし。袈裟正傳の功徳、わづかに一日一夜なりとも、最勝最上なるべし。

 大宋嘉定十七年癸未十月中に、高麗僧二人ありて、慶元府にきたれり。一人は智玄となづけ、一人は景雲といふ。この二人、しきりに佛經の義を談ずといへども、さらに文學士なり。しかあれども、袈裟なし、鉢盂なし、俗人のごとし。あはれむべし、比丘形なりといへども比丘法なし、小國邊地のしかあらしむるならん。日本國の比丘形のともがら、佗國にゆかんとき、またかの智玄等にひとしからん。

 釋迦牟尼佛、十二年中頂戴してさしおきましまさざりき。すでに遠孫なり、これを學すべし。いたづらに名利のために天を拝し神を拝し、王を拝し臣を拝する頂門をめぐらして、佛衣頂戴に廻向せん、よろこぶべきなり。

 

ときに仁治元年庚子開冬日在觀音導利興聖寶林寺示衆

 

2023年4月13日タイ・ソンクラーン初日の午後6時

バンコク北郊にて 二谷 記