正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第六十七「轉法輪」を読み解く

正法眼蔵第六十七「轉法輪」を読み解く

 

 先師天童古佛上堂擧、世尊道、一人發眞歸源、十方虚空、悉皆消殞。

 師拈云、既是世尊所説、未免盡作奇特商量。天童則不然、一人發眞歸源、乞兒打破飯椀。

 五祖山法演和尚道、一人發眞歸源、十方虚空、築著磕著。

 佛性法泰和尚道、一人發眞歸源、十方虚空、只是十方虚空。

 夾山圜悟禪師克勤和尚云、一人發眞歸源、十方虚空、錦上添花。

 大佛道、一人發眞歸源、十方虚空、發眞歸源。

 いま擧するところの一人發眞歸源、十方虚空、悉皆消殞は、首楞嚴經のなかの道なり。この句、かつて數位の佛祖おなじく擧しきたれり。いまよりこの句、まことに佛祖骨髓なり、佛祖眼睛なり。しかいふこゝろは、首楞嚴經一部拾軸、あるいはこれを僞經といふ、あるいは僞經にあらずといふ。兩説すでに往々よりいまにいたれり。舊訳あり、新訳ありといへども、疑著するところ、神龍年中の訳をうたがふなり。しかあれども、いますでに五祖の演和尚、佛性泰和尚、先師天童古佛、ともにこの句を擧しきたれり。ゆゑにこの句すでに佛祖の法輪に轉ぜられたり、佛祖法輪轉なり。このゆゑにこの句すでに佛祖を轉じ、この句すでに佛祖をとく。佛祖に轉ぜられ、佛祖を轉ずるがゆゑに、たとひ僞經なりとも、佛祖もし轉擧しきたらば眞箇の佛經祖經なり、親曾の佛祖法輪なり。たとひ瓦礫なりとも、たとひ黄葉なりとも、たとひ優曇花なりとも、たとひ金襴衣なりとも、佛祖すでに拈來すれば佛法輪なり、佛正法眼藏なり。

 しるべし、衆生もし超出成正覺すれば佛祖なり。佛祖の師資なり、佛祖の皮肉骨髓なり。さらに從來の兄弟衆生を兄弟とせず。佛祖これ兄弟なるがごとく、拾軸の文句たとひ僞なりとも、而今の句は超出の句なり。佛句祖句なり、餘文餘句に群すべからず。たとひこの句は超越の句なりとも、一部の文句性相を佛言祖語に擬すべからず、參學眼睛とすべからず。而今の句を諸句に比論すべからざる道理おほかる、そのなかに一端を擧拈すべし。

 いはゆる轉法輪は、佛祖儀なり。佛祖いまだ不轉法輪あらず。その轉法輪の様子、あるいは聲色を擧拈して聲色を打失す。あるいは聲色を跳脱して轉法輪す。あるいは眼睛を抉出して轉法輪す。あるいは拳頭を擧起して轉法輪す。あるいは鼻孔をとり、あるいは虚空をとるところに、法輪自轉なり。而今の句をとる、いましこれ明星をとり、鼻孔をとり、桃花をとり、虚空をとるすなはちなり。佛祖をとり、法輪をとるすなはちなり。この宗旨、あきらかに轉法輪なり。

 轉法輪といふは、功夫參學して一生不離叢林なり、長連床上に請益辦道するをいふ。

 

 正法眼藏第六十七

 

  爾時寛元二年甲辰二月二十七日在越宇吉峰精舎示衆

  同三月一日在同精舎侍者寮書冩之 後以御再治本校勘書冩之畢

 

正法眼蔵を読み解く転法輪」(二谷正信著)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/tenpourin

 

詮慧・経豪による註解書については

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2020/03/07/000000

 

道元白山信仰ならびに吉峰・波著・禅師峰の関係についてー中世古 祥道

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2022/08/01/145341

 

禅研究に関しては、月間アーカイブをご覧ください

https://karnacitta.hatenablog.jp/

 

道元永平寺―『福井県史』通史編2中世より抜書(一部改変)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2021/08/14/173407

 

 

 

正法眼蔵第六七 転法輪 註解(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第六七 転法輪 註解(聞書・抄)

先師天童古仏上堂挙、世尊道、一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞。師拈云、既是世尊所説、未免尽作奇特商量。天童則不然、一人発真帰源、乞児打破飯椀。

詮慧 先師天童古仏上堂挙。

〇首楞厳経を偽経と疑い、この宗門に引用さる事は、旨と真妄の二法を立つる故なり。然而「世尊すでに一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞の道」あり。これを祖師多(く)拈挙す。先師上堂に被挙方可用、但用いる時の了見は又可違、彼経大意然而似たる所あり。まず「一人」と云う人は誰人ぞ、自与他与不審也。「一人」のの字は不対二、傍観もなき心なるべし。しかあれば「発真」の詞も「帰源」の詞も不中用。又「十方虚空」も人体の上には説き難し。「悉皆消殞」と云う詞も、何と消えおつべきぞなれば、世間に思うが如きあるべからず。―部は筆者(以下同)

〇天童拈挙の詞に、「世尊所説、未免尽作奇特商量」とある。このまぬかれずの御詞は「奇特商量」なりと決定する御詞なり。「天童は不然」とある御詞も奇特の商量也、又決定せらるる也。「悉皆消殞」とある詞を不然と被引替たるにてこそあれ、「乞児打破飯椀」とある許也。「一人」とあるを今は「乞児」と云い「帰源」とある也。更不相違(乞児をば只一人と心得べし、非別人)。

経豪

  • 今の「世尊道の一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞」は如文。『首楞厳経』の道也。此れを天童上堂の時、被挙歟。天童の御詞に「天童は不然」とあれば、仏言には違してあらぬ義の、出でむずるかと覚えたり、非爾。仏言の理の響く所を如此被挙也。「世尊道の一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞」の御詞は、「一仏成仏観見法界草木国土悉皆成仏」(『渓嵐拾葉集』「大正蔵」七六・五四九下・「中陰経云、一仏成仏観見スルニ法界ヲ草木国土悉ク皆成仏ト」と云う詞に、聊かも不可違なり。「消殞す」とある詞も、消え落つるなどと云えば、悪しく成りたる様に聞こゆ。以悉皆成仏姿(を)消殞すとも云う也。又「乞児打破飯椀」(の)、乞児とは乞食不可説物歟、かたい(?)とも云う歟、返々いやしかるべき姿也。其が飯椀とは、飯(を)入るる器物歟、其を打破したらん、実彌無憑方様に聞こえたり。然而非嫌詞歟。所詮「打破飯椀」は、解脱の理なるべし。

 

五祖山法演和尚道、一人発真帰源、十方虚空、築著磕著。

詮慧

〇「法演和尚の十方虚空、築著磕著」とあるも、悉皆消殞(と)同じ詞なり。

経豪

  • 「築著磕著」の詞、是又非無謂。「一人発真帰源」の道理、十方虚空に築著磕著せん、尤謂あるべし。

 

仏性法泰和尚道、一人発真帰源、十方虚空、只是十方虚空。

詮慧

〇「法泰和尚の十方虚空、只是十方虚空」とある。さわやかに聞こえたり、悉皆消殞の詞これ也。

経豪

  • 「仏性法泰和尚道、十方虚空、只是十方虚空」の詞、是又道理必然なるべし。十方虚空は只是十方虚空の理なるべし。

 

夾山圜悟禅師克勤和尚云、一人発真帰源、十方虚空、錦上添花。

詮慧

〇「圜悟禅師の錦上添花」とあるも、上の十方虚空、只是十方虚空とある同じ詞なるべし。

経豪

  • 「圜悟(の)詞に、「十方虚空、錦上添花」と(の)文、悟上得悟迷中又迷(『現成公案』)とも云いし詞に不可違。「錦上添花」たらん、実(に)殊勝なるべし、讃嘆の詞とも心得んに不可向背也。

 

仏道一人発真帰源、十方虚空、発真帰源。

詮慧

先師の「発真帰源すれば十方虚空、発真帰源す」とあるも、更(に)変わらぬ悉皆消殞なるべし。

経豪

  • 「大仏道、十方虚空、発真帰源」。十方虚空は只是十方虚空也と云う程の御詞歟。発真帰源の道理は、発真帰源なるべし。

 

いま挙するところの一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞は、首楞厳経のなかの道なり。この句、かつて数位の仏祖おなじく挙しきたれり。いまよりこの句、まことに仏祖骨髄なり、仏祖眼睛なり。しかいふこゝろは、首楞厳経一部拾軸、あるいはこれを偽といふ、あるいは偽経にあらずといふ。両説すでに往々よりいまにいたれり。旧訳あり、新訳ありといへども、疑著するところ、神龍年中の訳をうたがふなり。しかあれども、いますでに五祖の演和尚、仏性泰和尚、先師天童古仏、ともにこの句を挙しきたれり。ゆゑにこの句すでに仏祖の法輪に転ぜられたり、仏祖法輪転なり。このゆゑにこの句すでに仏祖を転じ、この句すでに仏祖をとく。仏祖に転ぜられ、仏祖を転ずるがゆゑに、たとひ偽経なりとも、仏祖もし転挙しきたらば真箇の仏経祖経なり、親曾の仏祖法輪なり。たとひ瓦礫なりとも、たとひ黄葉なりとも、たとひ優曇花なりとも、たとひ金襴衣なりとも、仏祖すでに拈来すれば仏法輪なり、仏正法眼蔵なり。しるべし、衆生もし超出成正覚すれば仏祖なり。仏祖の師資なり、仏祖の皮肉骨髄なり。さらに従来の兄弟衆生を兄弟とせず。仏祖これ兄弟なるがごとく、拾軸の文句たとひ偽なりも、而今の句は超出の句なり。仏句祖句なり、余文余句に群すべからず。たとひこの句は超越の句なりとも、一部の文句性相を仏言祖語に擬すべからず、参学眼睛とすべからず。

詮慧

〇「一仏成道観見法界、草木国土悉皆成仏」(『漢光類聚』(「大正蔵」七四・三八〇上)『漢光類聚』は『摩訶止観』に対する注釈書)と云う詞と、今の「悉皆消殞」の詞(は)又不遠、不消殞は脱落の詞也、虚空を捨てんとにはあらず。「一人」と云う各々の衆生の中の一人と指すにはあらず、尽十方界真実人体なり、一人と云うが世間の心地ならば迷妄の詞也。「発真帰源」の詞(は)不相応。「発」という字も「帰す」と云う字も共に非世間詞也。「真」は不対妄、帰の字も源に帰すと云わば、流転の心地也。更不対縁源也と心得べし。

〇教に諸法実相と説くも三界一心と説くも、諸法の悪しき物を実相の甘露と心得なし。我等が心を取りて三界と云うなどと談ずるまでは、善悪に拘わるに似たり。麻三斤を庭前柏樹子ぞなどと説くこそ、今の相伝の義なれとて、何れとも不被心得を祖門と云う(は)可笑、是は所詮この子細に暗き故也。今挙ぐる所の祖師の詞ともに習うべし。或いは全て法文の義を談ずる事不可有、ただ公按を額に懸けて、こそあれ(これぞあれぞ)と教うること当時天下に普ねし、額に懸くべくば、先ず世尊道の「発真帰源、十方虚空、悉皆消殞」とある此の詞を懸くべし。但此の詞は不審なるべからず。流転還滅するを或従知識し、或従経巻して発真帰源すと心得て止みぬべし。額に懸くる詮あるべからず。いま「乞児打破飯椀」とも、「只是十方虚空」とも「錦上添花」とも「発真帰源すれば発真帰源」とも云う。ことこそ(こともあろうに)教に違したる詞なれば、額にも心得ん事をこそ額に懸けて、年序を送るべけれ。すべて詞を以て教うべからず、以文字書き了うべからずと嫌う事は、今の祖師の重々の御詞には違うべきをや。「悉皆消殞」と云う御詞を何時かは何れとも心得まじ事とて、打ち捨つる此等を以て可勘実否。世尊道を開悟する各々面々、如此心得まじき事なり。言句に拘わらん非仏法とは返々不可云也。この挙ぐる所の祖師、皆十方仏と云われ、角立(他に抜きん出る事。又その人・「一顆明珠」)と誉めらる。今の世間に長老と云わるる輩と、已前に挙ぐる祖師と天地懸隔也、不可及詞日論也。この面々の詞(を)以て相違すれども、一言も不可替。仏説法に説仏程の義也。

〇「この句すでに仏祖の法輪に転ぜられたり」、「真箇の仏経祖経也」と云う。是如文。「地にたふる者は、地によりて起く」(「若因地倒、還因地起」(「大正蔵」五一・二〇七中・「恁麽」)などと云う経文の詞にても、仏法は明らむ。牆壁瓦礫にても仏心は顕わす、一茎草にても丈六金身を明らむ。まして偽経也とも仏祖の挙拈の上は正法なるべし。「依経解義三世仏怨、離経一字、如同魔説」(『景徳伝灯録』六・百丈章「大正蔵」五一・二五〇上)を説くなどと云う。真経偽経とは分かず、了見に人によるか、正人邪法を行ずるは邪法かえりて帰正と云う事あり。今の義に驚くべからず、発真帰源の詞すでに仏経なり、祖経也。親曾の法輪也。

〇「たとい瓦礫なりとも、たとい黄葉なりとも、仏正法眼蔵なるべし」と云う。瓦礫黄葉の具足には優曇花も難用。仏拈じて仏法を附属し給します故に、金襴衣又袈裟也。仏衣なり、旁不審也。但右に云うが如く、瓦礫も仏心也、黄葉も丈六体也。優曇華も只輪王の法にて有らんばかりは無詮けれども、仏拈じおわしませば仏法也。金蘭衣なりとも俗眼もしくは世間の財宝ならんまでは、仏法に難取、袈裟に作りぬれば仏衣也。この理を云う也。所詮、仏祖の詞をせめて喩うる故に、瓦礫也とも云う詞も出で来たるなり。取る時は瓦礫・黄葉も取り、捨つる時は優曇華・金蘭衣も捨つべし。善悪の法を相対するとは思うべからず。

〇「従来の兄弟衆生を兄弟とせず、今の句は超出の句也」と云う。是は衆生正覚を成ずれば仏祖也。但又去ればとて一部の文句をば、仏言祖語に擬すべからずとなり。一代の諸教皆是対機随情の説なれば不可取、拈優曇華こそ法文なれなどと云う。篇に入は教にも暗く、拈華の子細にも暗き故也。

〇「発真」と云うは仏道也、発真にあらざらんは妄法妄語也。真と云い難し。

〇「帰源」と云うは、さとりに帰ると云う程の事なり。本覚に帰すなどと云うが如く、一人発真帰源の下には是什麽物恁麽来ともつけ、説似一物即不中ともつけ、修証はなきにあらず染汚すること得じとも云え、すべて祖師の言句いづれを付けて見るとも、其の義ふたつとなるべからず。三界唯一心、心外無別法の詞、悉皆消殞・乞児打破飯椀、築著磕著、只是十方虚空・錦上添華等(の)詞(は)、皆発真帰源なるなり。よくよく参学すべし。有無善悪の詞とのみ嫌いて、只いたづらに両辺の唇を合わせたる声の響きと思う事は、衆生顛倒の惑いにてこそあれ、是を実と解する事なかれ。

 

而今の句を諸句に比論すべからざる道理おほかる、そのなかに一端を挙拈すべし。いはゆる転法輪は、仏祖儀なり。仏祖いまだ不転法輪あらず。その転法輪の様子、あるいは声色を挙拈して声色を打失す。あるいは声色を跳脱して転法輪す。あるいは眼睛を抉出して転法輪す。あるいは拳頭を擧起して転法輪す。あるいは鼻孔をとり、あるいは虚空をとるところに、法輪自転なり。而今の句をとる、いましこれ明星をとり、鼻孔をとり、桃花をとり、虚空をとるすなはちなり。仏祖をとり、法輪をとるすなはちなり。この宗旨、あきらかに転法輪なり。転法輪といふは、功夫参学して一生不離叢林なり、長連床上に請益辦道するをいふ。

経豪

  • 是又分明也。所詮「転法輪」と云う事は、如前云、如来出世して為衆生済度、四弁八音(四弁は四種の自由な智解と弁才、八音は仏の八種の音で仏語を云う。仏の説法は聴者の心を和らげて自づと善道に導く喩え)を以て法を開演し給うを「転法輪」と名づく。今は如御釈「転法輪は、仏祖儀也」とあり、以仏祖当体転法輪とすべし。「仏祖いまだ不転法輪あらず、転法輪の様子」とて一々被挙也、以彼等皆転法輪とすべす。「声色を挙拈して、声色を打失す」とは、声色ならぬ一法なき所が如此云わるる也。又「声色を跳脱して転法輪す」と云えば、声色より猶勝りたる転法輪ありと聞こゆ。非爾、声色の声色なる道理が如此云わるる也。仏向上などと談ぜし程の理なり。所詮、声色・眼睛・拳頭・鼻孔・虚空等を以て、転法輪とは談(ずる)なり。是則法輪自転の道理なるべし。凡そ法輪と云う事は、輪王出世の時、金・銀・銅・鉄の四輪ありて、諸々の悪物を摧破する故に、白地にも如此悪心を帯物なし。今は仏出世し給う時、諸々の天魔・波旬・外道等法輪に被摧破、故に「転法輪」とは云う也。
  • 如文、如前段云。「此の明星の姿、鼻孔・桃花・虚空の当体、皆転法輪なるべし、仏祖をとり法輪をとる則也」とあり。仏祖の姿、法輪なる所を如是被釈也。

転法輪(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。

 

正法眼蔵三昧王三昧

正法眼蔵 第六十六 三昧王三昧 

    一

驀然として盡界を超越して、佛祖の屋裏に太尊貴生なるは、結跏趺坐なり。外道魔儻の頂を踏飜して、佛祖の堂奥に箇中人なることは結跏趺坐なり。佛祖の極之極を超越するはたゞこの一法なり。このゆゑに、佛祖これをいとなみて、さらに餘務あらず。

道元禅師による正法眼蔵提唱は各巻の冒頭に巻の要旨が述べられる事は承知の通りで、標題である「三昧王三昧」は後段に引用される『大智度論』からの引用語であろう。

「驀然」とはまっしぐらに進むの意で、「太尊貴生」ははなはだ尊しの意で、生は接尾詞で意味はありません。

言わんとする処は、坐禅の三昧王三昧たる姿は結跏趺坐に尽き、さらに尽界の超越を「仏祖の極之極を超越」と言い換え、結跏趺坐以外に務めはないとの言説で、此の巻の要略として道元禅師の坐に比する態度が窺われます。

まさにしるべし、坐の盡界と餘の盡界と、はるかにことなり。この道理をあきらめて、佛祖の發心修行菩提涅槃を辦肯するなり。正當坐時は、盡界それ豎なるか横なるかと參究すべし。正當坐時、その坐それいかん。飜巾斗なるか、活々地なるか。思量か不思量か。作か無作か。坐裏に坐すや、身心裏に坐すや。坐裡身心裏等を脱落して坐すや。恁麼の千端萬端の參究あるべきなり。身の結跏趺坐すべし、心の結跏趺坐すべし。身心脱落の結跏趺坐すべし。

「坐の尽界と余の尽界と、はるかに異なり。この道理をあきらめて、仏祖の発心修行菩提涅槃を辦肯するなり」

坐と余の尽界の取捨選別を思わせる書き方ですが、「坐の尽界」とは結跏趺坐の尽十方界の略語ですが、『聞解』のなかで天桂和尚は「尽界で尽界を越えた尽界」、また「余の尽界」を「凡夫の尽界はやはり尽界のなかに居座る」と次元の別なるを「はるかに異なり」と解されます。

この坐の尽界と余の尽界の道理を明らかにすれば、仏祖が云う「発心修行菩提涅槃」の道理も辦肯(納得)できると。つまり発心のなかに修行菩提涅槃も包摂包含されている道理であり、発展段階的思考による発心すれば最終的に涅槃に到ると云われる道理ではないのです。

「正当坐時は、尽界それ竪なるか横なるかと参究すべし。正当坐時、その坐それいかん。飜巾斗なるか、活々地なるか。思量か不思量か。作か無作か。坐裏に坐すや、身心裏に坐すや。坐裡身心裏等を脱落して坐すや。恁麼の千端万端の参究あるべきなり。身の結跏趺坐すべし、心の結跏趺坐すべし。身心脱落の結跏趺坐すべし。」

竪(たて)横(よこ)の語句は、正当坐時つまり坐禅の時の用心を示す語(竪‐時間的存在・横‐空間的存在)とされる(水野弥穂子氏等釈)が、詮慧和尚註解では「竪横のことばは吾我に対して云い、定まれる竪横はなく、竪も角度を変えて見れば横になり、逆に横も視点を変えれば竪になるなり」(『聞書』)と説かれますが、道元禅師の言わんとするは竪横は坐禅の基本を弁(わきま)えなさいと解します。(『見仏』巻「近来大宋国に禅師と称ずるともがら多し。仏法の縦横を知らず」参照)

次に再度正当坐時にういて「その坐それいかん」と問発され、「飜巾斗」か「活鱍々地」か「思量」か「作」か「無作」かと問いを投げ掛けているように見えますが、これら全てが「正当坐時」の当体を歟(か)という語で表す禅語特有の語法です。

同じように「坐裏に坐す」や「身心裏に坐す」や「坐裡身心裏等を脱落して坐す」やと同文法です。

恁麼の千端万端(飜巾斗・不思量・坐裏等々)を参学究理しなさいとの言辞です。

段の最後のまとめで「身の結跏趺坐・心の結跏趺坐」とボディとマインドに分割した物言いですが、身心一如の論理では無差別であり、「身心脱落の結跏趺坐すべし」と実践的行持の提言になります。因みに詮慧和尚は「脱落とは尽界坐禅の儀を云うなり」(『聞書』)と解釈されます。

 

    二

先師古佛云、參禪者身心脱落也、祗管打坐始得。不要燒香禮拝念佛修懺看經。

あきらかに佛祖の眼睛を抉出しきたり、佛祖の眼睛裏に打坐すること、四五百年よりこのかたは、たゞ先師ひとりなり、震旦國に齊肩すくなし。打坐の佛法なること、佛法は打坐なることをあきらめたるまれなり。たとひ打坐を佛法と體解すといふとも、打坐を打坐としれる、いまだあらず。いはんや佛法を佛法と保任するあらんや。

しかあればすなはち、心の打坐あり、身の打坐とおなじからず。身の打坐あり、心の打坐とおなじからず。身心脱落の打坐あり、身心脱落の打坐とおなじからず。既得恁麼ならん、佛祖の行解相應なり。この念想觀を保任すべし、この心意識を參究すべし。

本則は天童如浄和尚のことばですが、此処に云う「参禅者身心脱落」の語は『如浄語録』にはありませんが、『同録』下・観音偈に「心塵脱落開岩洞。自性円通𠑊紺容。天之敵龍之恭不以為喜。安然中咦更薦海涛翻黒風」(心塵脱落して岩洞を開き、自性円通して紺容を𠑊(おごそか)にす。天の敵龍の恭。以て喜びとせず、安然の中。咦。更に海涛に薦して黒風に翻(ひるがえ)る)と記録されます。

「身心」と「心塵」の違いを指摘した研究論文は多くありますが、『行持』下巻(仁治三(1242)年四月五日興聖寺書)に於いても先師天童和尚段にて「参禅者身心脱落也、不用焼香・礼拝・念仏・修懴・看経・祗管坐始得」を提唱され、更に『辨道話』(寛喜三(1231)年)に於いても「宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懴・看経をもちゐず、ただし打坐して身心脱落することをえよ」と述べられる事を勘案すると、この段での本則に言う「参禅者身心脱落也」の言句は直接如浄和尚から聴いたものであろうと推断されます。

「あきらかに仏祖の眼睛を抉出しきたり、仏祖の眼睛裏に打坐すること、四五百年よりこのかたは、たゞ先師ひとりなり、震旦国に斉肩すくなし」

これは如浄を讃嘆する言辞ですが、先に言う『行持』下巻には「先師常に云わく、三百年よりこのかた、わが如くなる知識いまだ出ず」を意識下に置いた「四五百年」云々の拈提語だと想像されます。

「打坐の仏法なること、仏法は打坐なることをあきらめたるまれなり。たとひ打坐を仏法と体解すといふとも、打坐を打坐としれる、いまだあらず。いはんや仏法を仏法と保任するあらんや」

打坐と仏法との同体・同物を云うものですが、次句に言う「打坐を打坐と知れる未だあらず」・「仏法を仏法と保任するあらんや」は甚だ理解に苦しむ処ですが、前段にいう「その坐いかん(如何)」に対したる翻巾斗等あらゆる答処が仏法の理法である為に、「打坐を打坐」と固定概略を嫌う為に、このような言い用にされたものと考えられます。なお「保任」とは保護任持の略語で、自分のものとして大事にする事の意です。

「しかあればすなはち、心の打坐あり、身の打坐とおなじからず。身の打坐あり、心の打坐とおなじからず。身心脱落の打坐あり、身心脱落の打坐とおなじからず」

前句と同様な構文で、ここでは普段の「身心一如」「身心不二」を解体し、「身心脱落」に再築し直した文意です。

「既得恁麼ならん、仏祖の行解相応なり。この念想観を保任すべし、この心意識を参究すべし」

「既得恁麼」とは「打坐の仏法なること、仏法は打坐なること」で、それが「仏祖の行解(行持と解会)に相応」という事です。『普勧坐禅儀』ならびに『坐禅儀』巻には、「心意識の運転をやめ、念想観の測量をやめて、作仏を図ることなかれ」とあり、此処では「念想観を保任」・「心意識を参究」との事ですが、ここでの言は世間を離れて仏法上の念想観を大事にしなさいとの提言で、初めに言う「正当坐時は尽界それ竪なるか横なるかと参究すべし」に比せらる文言です。

 

    三

釋迦牟尼佛告大衆言、

若結跏趺坐 身心證三昧 威徳衆恭敬 如日照世界

除睡懶覆心 身輕不疲懈 覺悟亦輕便 安坐如龍蟠

見畫跏趺坐 魔王亦驚怖 何況證道人 安坐不傾動

しかあれば、跏趺坐を畫圖せるを見聞するを、魔王なほおどろきうれへおそるゝなり。いはんや眞箇に跏趺坐せん、その功徳はかりつくすべからず。しかあればすなはち、よのつねに打坐する、福徳無量なり。

本則は『大智度論』七・初品中放光釈論十四からの引用になりますが、原文とは多少の改変があります。

「若結加趺坐㈠ 身安入三昧㈡ 威徳人敬仰㈢ 如日照天下㈣ 除睡嬾覆心㈤ 身軽不疲懈㈥ 覚悟亦軽便㈦ 安坐如竜蟠㈧ 見画加趺坐㈨ 魔王亦愁怖㈩ 何況入道人⑾ 安坐不傾動⑿」ですが提唱文は

「若結跏趺坐」㈠ 身心証三昧㈡ 威徳衆恭敬㈢ 如日照世界㈣ 除睡懶覆心㈤ 身軽不疲懈㈥ 覚悟亦軽便㈦ 安坐如龍蟠㈧ 見画跏趺坐㈨ 魔王亦驚怖㈩ 何況証道人⑾ 安坐不傾動⑿」

原文と提唱文を比較すると、二句目が道元禅師のこだわりで如何にしても「身心」語で説かないと、前後の文脈の整合性を調整しての苦労が見える本則文です。

なお『大智度論』百巻の膨大な文字面には結跏(加)趺坐の語は八ケ所のみ散見されるのみで、当時どのように検索・検出されたのか窺い知りたいものです。

拈提部は文意のままに読み取れるが、十句目提唱部では「愁」を「驚」に入れ替えたにも関わらず「うれへおそるる」と原文を参照にするなど、少々参考資料の混乱が見られます。また「福徳無量」は「仏道を以て福徳、成仏作祖の姿を福徳」と『御抄』(「註解全書」八・一七一)での解釈です。

 

    四

釋迦牟尼佛告大衆言、以是故、結跏趺坐。

復次如來世尊、教諸弟子、應如是坐。或外道輩、或常翹足求道、或常立求道、或荷足求道、如是狂狷心、没邪海、形不安穏。以是故、佛教弟子、結跏趺坐直身坐。何以故。直身心易正故。其身直坐、則心不懶。端心正意、繋念在前。若心馳散、若身傾動、攝之令還。欲證三昧、欲入三昧、種々馳念、種々散亂、皆悉攝之。如此修習、證入三昧王三昧。

あきらかにしりぬ、結跏趺坐、これ三昧王三昧なり、これ證入なり。一切の三昧は、この王三昧の眷屬なり。結跏趺坐は直身なり、直心なり直身心なり。直佛祖なり、直修證なり。

なり、直命脈なり。

いま人間の皮肉骨髓を結跏して、三昧中王三昧を結跏するなり。世尊つねに結跏趺坐を保任しまします、諸弟子にも結跏趺坐を正傳しまします、人天にも結跏趺坐ををしへましますなり。七佛正傳の心印、すなはちこれなり。

釋迦牟尼佛、菩提樹下に跏趺坐しましまして、五十小劫を經歴し、六十劫を經歴し、無量劫を經歴しまします。あるいは三七日結跏趺坐、あるいは時間の跏坐、これ轉妙法輪なり。これ一代の佛化なり、さらに虧欠せず。これすなはち黄巻朱軸なり。ほとけのほとけをみる、この時節なり。これ衆生成佛の正當恁麼時なり。

便宜的に段分けをしていますが、提唱の本則経文は前段同様『大智度論』を典拠とするもので、字句の変動は前段同様多少は有りますが語意に変化はありません。

「あきらかにしりぬ、結跏趺坐、これ三昧王三昧なり、これ証入なり。一切の三昧は、この王三昧の眷屬なり。結跏趺坐は直身なり、直心なり直身心なり。直仏祖なり、直修証なり。直頂なり」

拈提の要「結跏趺坐これ三昧王三昧」は提唱本則文の最初と最後の文言で、これが「証入」であると説かれますが、『大智度論』原文には「如此繋念入三昧王三昧」とありますから、前段本則二句目の「身安入三昧」から「身心証三昧」と改変した事情と同義解釈できると考えられます。

次に説く「結跏趺坐は」以下の「直身、直心、直身心、直仏祖、直修証、直頂、直命脈」の「直」の意は「直結・正直」と連関するもので、つまりは結跏趺坐は全機現の表出を言い尽くすものです。

「いま人間の皮肉骨髓を結跏して、三昧中王三昧を結跏するなり。世尊つねに結跏趺坐を保任しまします、諸弟子にも結跏趺坐を正伝しまします、人天にも結跏趺坐ををしへましますなり。七仏正伝の心印、すなはちこれなり」

前頁では結跏趺坐の証入を概念的註釈をされましたが、この項では結跏趺坐を現場に招来し、生の肉感で以て結跏趺坐を勧める項で、その時には七仏の歴実を直結させ、毘波尸仏からの仏法が現存するとの拈語です。

釈迦牟尼仏菩提樹下に跏趺坐しましまして、五十小劫を経歴し、六十劫を経歴し、無量劫を経歴しまします。あるいは三七日結跏趺坐、あるいは時間の跏坐、これ転妙法輪なり。これ一代の仏化なり、さらに虧欠せず。これすなはち黄巻朱軸なり。ほとけのほとけをみる、この時節なり。これ衆生成仏の正当恁麼時なり。

この頁は歴史的事項のブダガヤでの「三七日」二十一日間を五十小劫・六十劫に比定し、仏法の永続性を「転妙法輪」という車輪に喩えての言説です。

猶この転妙法輪の語句は、本則『大智度論』引用下部に「王中転輪聖王第一」からの援用語で、次巻『転法輪』に連関するものと考察されます。

因みに「小劫」は百年毎に一歳を増して八万四千歳に至る時間を一小劫とする。(『禅学大辞典』大修館書店)

 

    五

初祖菩提達磨尊者、西來のはじめより、嵩嶽少室峰少林寺にして面壁跏趺坐禪のあひだ、九白を經歴せり。それより頂眼睛、いまに震旦國に遍界せり。初祖の命脈、たゞ結跏趺坐のみなり。初祖西來よりさきは、東土の衆生、いまだかつて結跏趺坐をしらざりき。祖師西來よりのち、これをしれり。しかあればすなはち、一生萬生、把尾収頭、不離叢林、昼夜祗管跏趺坐して餘務あらざる、三昧王三昧なり。

三昧王三昧の終結部提唱は菩提達磨を例題にしたもので、文意はそのまま読み得る平易な文章です。

この巻は標題が示す如く打坐=結跏趺坐という身体を強調する拈提ですが、その背景には『如来全身』巻でも述べましたが、提唱日寛元二年二月十五日という二週間あとに予定された大仏寺法堂造営という大事業を前にした『如来全身』巻と同日時に於ける提唱で、起塔(寺院)を建立する意義ならびに坐に於ける結跏趺坐の重要性を説く、時節に応じた道元禅師の老婆親切心を感得する提唱でした。

 

 

正法眼蔵第六十六「三昧王三昧」を読み解く

正法眼蔵第六十六「三昧王三昧」を読み解く

 

 驀然として盡界を超越して、佛祖の屋裏に太尊貴生なるは、結跏趺坐なり。外道魔儻の頂□(寧+頁)を踏飜して、佛祖の堂奥に箇中人なることは結跏趺坐なり。佛祖の極之極を超越するはたゞこの一法なり。このゆゑに、佛祖これをいとなみて、さらに餘務あらず。

 まさにしるべし、坐の盡界と餘の盡界と、はるかにことなり。この道理をあきらめて、佛祖の發心修行菩提涅槃を辦肯するなり。正當坐時は、盡界それ竪なるか横なるかと參究すべし。正當坐時、その坐それいかん。飜巾斗なるか、活鱍々地なるか。思量か不思量か。作か無作か。坐裏に坐すや、身心裏に坐すや。坐裡身心裏等を脱落して坐すや。恁麼の千端萬端の參究あるべきなり。身の結跏趺坐すべし、心の結跏趺坐すべし。身心脱落の結跏趺坐すべし。

 先師古佛云、參禪者身心脱落也、祗管打坐始得。不要燒香禮拝念佛修懺看經。

 あきらかに佛祖の眼睛を抉出しきたり、佛祖の眼睛裏に打坐すること、四五百年よりこのかたは、たゞ先師ひとりなり、震旦國に齊肩すくなし。打坐の佛法なること、佛法は打坐なることをあきらめたるまれなり。たとひ打坐を佛法と體解すといふとも、打坐を打坐としれる、いまだあらず。いはんや佛法を佛法と保任するあらんや。

 しかあればすなはち、心の打坐あり、身の打坐とおなじからず。身の打坐あり、心の打坐とおなじからず。身心脱落の打坐あり、身心脱落の打坐とおなじからず。既得恁麼ならん、佛祖の行解相應なり。この念想觀を保任すべし、この心意識を參究すべし。

 釋迦牟尼佛告大衆言、

  若結跏趺坐 身心證三昧 威徳衆恭敬 如日照世界

  除睡懶覆心 身輕不疲懈 覺悟亦輕便 安坐如龍蟠

  見畫跏趺坐 魔王亦驚怖 何況證道人 安坐不傾動

 しかあれば、跏趺坐を畫圖せるを見聞するを、魔王なほおどろきうれへおそるゝなり。いはんや眞箇に跏趺坐せん、その功徳はかりつくすべからず。しかあればすなはち、よのつねに打坐する、福徳無量なり。

 釋迦牟尼佛告大衆言、以是故、結跏趺坐。

 復次如來世尊、教諸弟子、應如是坐。或外道輩、或常翹足求道、或常立求道、或荷足求道、如是狂狷心、没邪海、形不安穏。以是故、佛教弟子、結跏趺坐直身坐。何以故。直身心易正故。其身直坐、則心不懶。端心正意、繋念在前。若心馳散、若身傾動、攝之令還。欲證三昧、欲入三昧、種々馳念、種々散亂、皆悉攝之。如此修習、證入三昧王三昧。

 あきらかにしりぬ、結跏趺坐、これ三昧王三昧なり、これ證入なり。一切の三昧は、この王三昧の眷屬なり。結跏趺坐は直身なり、直心なり直身心なり。直佛祖なり、直修證なり。直頂なり、直命脈なり。

 いま人間の皮肉骨髓を結跏して、三昧中王三昧を結跏頂□(寧+頁)するなり。世尊つねに結跏趺坐を保任しまします、諸弟子にも結跏趺坐を正傳しまします、人天にも結跏趺坐ををしへましますなり。七佛正傳の心印、すなはちこれなり。

 釋迦牟尼佛、菩提樹下に跏趺坐しましまして、五十小劫を經歴し、六十劫を經歴し、無量劫を經歴しまします。あるいは三七日結跏趺坐、あるいは時間の跏坐、これ轉妙法輪なり。これ一代の佛化なり、さらに虧欠せず。これすなはち黄巻朱軸なり。ほとけのほとけをみる、この時節なり。これ衆生成佛の正當恁麼時なり。

 初祖菩提達磨尊者、西來のはじめより、嵩嶽少室峰少林寺にして面壁跏趺坐禪のあひだ、九白を經歴せり。それより頂□(寧+頁)眼睛、いまに震旦國に遍界せり。初祖の命脈、たゞ結跏趺坐のみなり。初祖西來よりさきは、東土の衆生、いまだかつて結跏趺坐をしらざりき。祖師西來よりのち、これをしれり。

 しかあればすなはち、一生萬生、把尾収頭、不離叢林、昼夜祗管跏趺坐して餘務あらざる、三昧王三昧なり。

 

 正法眼藏第六十六

 

  爾時寛元二年甲辰二月十五日在越宇吉峰精舎示衆

 

正法眼蔵を読み解く三昧王三昧」(二谷正信著)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/zanmaiouzanmai

 

詮慧・経豪による註解書については

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2020/03/06/000000

 

道元白山信仰ならびに吉峰・波著・禅師峰の関係についてー中世古 祥道

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2022/08/01/145341

 

正法眼蔵提唱 三昧王三昧 提唱―酒井得元

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2021/02/16/120622

 

禅研究に関しては、月間アーカイブをご覧ください

https://karnacitta.hatenablog.jp/

 

道元永平寺―『福井県史』通史編2中世より抜書(一部改変)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2021/08/14/173407

 

 

 

 

 

正法眼蔵第六六 三昧王三昧 註解(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第六六 三昧王三昧 註解(聞書・抄)

驀然として尽界を超越して、仏祖の屋裏に太尊貴生なるは、結跏趺坐なり。外道魔儻の頂□(寧+頁)を踏飜して、仏祖の堂奥に箇中人なることは結跏趺坐なり。仏祖の極之極を超越するはただこの一法なり。このゆゑに、仏祖これをいとなみて、さらに余務あらず。

詮慧

〇この名目は教にも如此三昧とは称之。是禅定を三昧と云う也。「王」と云うは三昧の中に取りても勝れたる心地なり。仍って今の打坐を「三昧王三昧」と云う也。但王も大国の王あり小国の王あり。一州を領し、或いは四州を領す。是等を相対するには劣なる王もあれども、其所に取りては勝れたる王と云うべし。仏家には如来・覚王などと称え、三昧も常には定門に付けてこれを云う。或いは海印三昧とも云い、日照三昧・月照三昧などとも云う。今の坐王三昧は尽界を超越して、太尊貴生なりと謂えり。結跏趺坐、又必ず坐禅なるべき条如何。然者又坐禅も何(ぞ)坐(に)限るべき、禅定は外道声聞用之。坐(の)詞(は)世間にもあり。

〇欣上厭下ぞ、数息観、息慮凝心ぞなどと云う。面々禅定とは思えども、今の坐禅には異なるべし。

経豪

  • 是は無別子細。只坐禅を被讃嘆御釈なり。如文。

 

まさにしるべし、坐の尽界と余の尽界と、はるかにことなり。この道理をあきらめて、仏祖の発心・修行・菩提・涅槃を辦肯するなり。

正当坐時は、尽界それ竪なるか横なるかと参究すべし。正当坐時、その坐それいかん。飜巾斗なるか、活々地なるか。思量か不思量か。作か無作か。坐裏に坐すや、身心裏に坐すや。坐裡身心裏等を脱落して坐すや。恁麼の千端万端の参究あるべきなり。

身の結跏趺坐すべし、心の結跏趺坐すべし。身心脱落の結跏趺坐すべし。

詮慧

〇「坐の尽界と余の尽界と、はるかに異なる也」と云うは、余と云うは坐禅の外なり。この坐の時節は、三昧王三昧也。所詮「尽界」と云う詞は、無始無終なり、悟也、坐の尽界と云う是也。不坐尽界とは、世間の事不可及。

〇「それ竪なるか横なるか」と云う、竪横共に坐時は超越の法也。発心・修行・菩提・涅槃も尽界なるべし、仏の修行は尽界也、仏の発心は尽界なりと云うべし。竪横の詞は吾我に対して云わる、定まれる竪横はあるべからず、東西を立てる程の事也。何れも傍らより見る時は、邪(よこさ)まなりと覚ゆるを、立ち廻りて首尾より見る時は、竪横(たてざま)なるなり。

〇「飜巾斗・活鱍々地」と云う事、飜巾斗・活鱍々地ならぬ坐は、世間の坐なるべし。但解脱の上、飜巾斗も不可用となり。正当坐時は必ず飜巾斗と云うべからず。世間に相対して云う時は、飜の字、尤有其謂。今は脱落の上は飜用不得也、何を飜となくとも飜巾斗と可仕。思量も不思量も、作も無作も是程也、飜巾斗・不飜巾斗とも云いぬべし。作も尽界、無作も尽界と談ずべし。身心脱落と云う上は、身裏に生ずやと云わるる也、故に「身の結跏趺坐・心の結跏趺坐・身心脱落の結跏趺坐」と云う也。「脱落」と云う詞は、尽界坐禅の儀を云う也。

経豪

  • 此の詞(は)、一定人の悪しく心得ぬべき御釈也。其の故は坐禅する時の尽界は、座断の尽界にて所用なり。坐禅せぬ人の尽界は徒らなる時節にて、坐の尽界には異なるべしと云うと心得ぬべし。実(に)かかる一筋なかるべきにはあらず。然而如此談ずれば善悪取捨の法に聞こゆ、祖門所談の非本意。是は坐の尽界と談ずるように、眼の尽界も鼻孔の尽界も、乃至頂□(寧+頁)一切の詞に仰せて、此の尽界の道理あるべき事を如此云うなり。必ずしも坐許りの尽界と非可談所を如此云うなり。又発心・修行・菩提・涅槃等を、各別に次第浅深等を立て、談之所を「この道理をあきらめて、仏祖の発心・修行・菩提・涅槃を辦肯する也」とは云う也。発心の所に窮まりて、発心の外に修行・菩提・涅槃あるべからず。修行時は又発心も菩提も涅槃も顕わるべからず、此の道理を云う也。
  • 如御釈、此の正当坐時の姿、竪歟横歟。尽界の上、横竪いづれも其理不可違。又「正当坐時の坐飜巾斗なるか、活鱍々地なるか。思量歟、不思量歟。作か無作か」、是又如前云。正当坐時の上の今の道理、何れも尤もあるべきなり。已(に)坐禅箴の時、此の思量・不思量を坐禅の上にて談じき、今更非可不審。又「坐裏に坐すや、身心裏に坐すや、坐裡・身心裏等を脱落して坐すや」と云う詞、難心得。但「坐裏の坐」とは、只坐の姿なるべし。此の裏の詞、非表裏(の)裏(に)、以坐可云裏。「身心裏」と云うも、只打坐の姿を可云歟。尽十方界真実人体の上の打坐の姿を身心裏とも可云歟。今の道理共を指して「坐裏・身心裏等を脱落して坐す」とも云うべき也。此の道理、今被挙詞許りに限るべからず。六根をも、乃至十八界をも、無尽の詞を云うべき所を、「千端万端の参究あるべき也」とは云うなり。
  • 是は「心の結跏趺坐」と云う事は、未聞及事也。祖門の心は、三界唯心を以て為心故に、心の打坐と云うべきなり。「身心脱落の跏趺坐」と云えば、勝劣なるべきにあらず、只同心也。只身の趺坐、心の趺坐が一なる道理をあらわさん料りに、身心脱落の跏趺坐すべしとは云う也。

 

先師古仏云、参禅者身心脱落也、祗管打坐始得。不要焼香・礼拝・念仏・修懺・看経。

あきらかに仏祖の眼睛を抉出しきたり、仏祖の眼睛裏に打坐すること、四五百年よりこのかたは、ただ先師ひとりなり、震旦国に斉肩すくなし。打坐の仏法なること、仏法は打坐なることをあきらめたるまれなり。

たとひ打坐を仏法と体解すといふとも、打坐を打坐としれる、いまだあらず。いはんや仏法を仏法と保任するあらんや。

しかあればすなはち、心の打坐あり、身の打坐とおなじからず。身の打坐あり、心の打坐とおなじからず。身心脱落の打坐あり、身心脱落の打坐とおなじからず。

既得恁麼ならん、仏祖の行解相応なり。この念想観を保任すべし、この心意識を参究すべし。

詮慧 先師古仏段

〇「念仏・修懺・看経、心の打坐あり、身の打坐と不同」と云う。此の同の字は、二つの物を置きて同と云うにはあらず。一方をあげて今一方と同と仕う、蔵身と仕う程の義なり。同じと云うよりも同じからずと云うこそ、至極親切の義なれ、極之極也。身の結跏趺坐・心の結跏趺坐・身心脱落の結跏趺坐と云う。此身と心と身心と三つを被出事は、心仏及び衆生是三無差別の義なるべし、各跏趺坐となり。同じからずと仕うは、最極の同じなるべし仏に仏は同じ也。故に又不同とも云わる、努々喩えにあらず、似たるにあらざるべし。

〇「念想観を保任すべし」と云うは、世間を離れて仏法の念想観を保任せよと也。「心意識を参究すべし」と云う、又是も世間の心意識にあらざる事を参究すべしとは仕う也。

〇心意識の運転をやめ、念想観の測量をとどむ(坐禅儀の文也)の詞を聞きては、凡夫思わくは、我等が吾我の心をしばらく止むべしと、これ甚無其詮。身心脱落の義をこそ止むとも留むとも仕へ世間に准じて不可得也。

経豪

  • 此の天童の御詞は、看経の時沙汰ありき、今の御釈は天童を讃嘆の御詞也。此の「打坐の仏法なる事、仏法は打坐なる事をあきらめたる希也」とは、此の打坐の力によりて、仏道を成ずべしとのみ、打ち任せては心得たり。今所談の打坐は、成仏を待たざる打坐なるべし。故に明らめたる者まれなりと云う也。「依仏法打坐は成ずる也」と云う詞は、きと打ち任せて人の難云事也。
  • 是は打坐と仏法と一体也。然者打坐は打坐にて尽し、仏法は仏法にて在りなん。必ずしも打坐を仏法ぞと云うても、又仏法は打坐と談じても無詮。只打坐は打坐、仏法は仏法に在りなんと云う心地也。からくして(?)打坐は仏法と体解すれども、今の理を不心得所を、「打坐を打坐と知れる人未だあらず、いわんや仏法と保任するあらんや」とは被釈なり。
  • 是は如前云。心の打坐と云わん時は、身の打坐と不可同、又身の打坐と談ぜん時は、心の打坐と不可同、已前の道理なるべし。「身心脱落の打坐の時、身心脱落の打坐と同じからず」とは、迷を大悟するは諸仏也、悟に大迷なるは衆生也。さらに悟上得悟漢、迷中又迷の漢と云いし詞に同じ。「身の打坐あり、心の打坐と不同。心の打坐あり、身の打坐と不同」と云う詞は、「身心脱落の打坐あり、身心脱落の打坐と不同」と云うは、前の身心打坐の詞を、是程の理ぞと、知らせん為也、非二法。
  • 前に所挙の理を得たらんを、「仏祖の行解相応とは可云也」と也。『普勧坐禅儀』には、「心意識の運転を止め、念想観の測量をとどむ」とて嫌わる。今は「保任し参究すべし」とあり、今の念想観・心意識等は、打坐の心の念想観・心意識なるべし。仏祖行解相応の上の念想観也、心意識也。然者更に非可捨なり。

 

釈迦牟尼仏告大衆言、若結跏趺坐、身心証三昧。威徳衆恭敬、如日照世界。除睡懶覆心、身軽不疲懈、覚悟亦軽便、安坐如龍蟠。見画跏趺坐、魔王亦驚怖。何況証道人、安坐不傾動。

しかあれば、跏趺坐を画図せるを見聞するを、魔王なほおどろきうれへおそるるなり。いはんや真箇に跏趺坐せん、その功徳はかりつくすべからず。しかあればすなはち、よのつねに打坐する、福徳無量なり。

詮慧 釈迦牟尼仏―不傾動。

〇「身心証三昧」と云う、已前の身心脱落の心となり。

〇「威徳衆恭敬」すと云う、此の「衆」は人衆にあらず、もろもろと心得也。「威徳」は坐禅の威徳、これがやがて恭敬なるなり。又坐禅を本にして、威徳を今具するにてはなし。坐する姿(が)威徳なり。

〇「除睡懶覆心」と云う、坐禅なり。故に身軽うして、不疲懈と云う也。

経豪

  • 是は無別子細、如文可心得なり。「跏趺坐を画図せるを見聞するを魔王猶敬怖す、況や真箇に跏趺坐せん、功徳はかりつくすべからず」と云うなり。又此の「福徳無量也」と云うは、世間の福徳と不可心得。今は以仏道福徳と取るべし、以成仏作祖姿(を)、福徳と可取也。経にも見六道衆生貧窮無福徳(慧)(『法華経』序品「大正蔵」九・九中)と云う。是も不知仏法の理を指す歟。

 

釈迦牟尼仏告大衆言、以是故、結跏趺坐。復次如来世尊、教諸弟子、応如是坐。或外道輩、或常翹足求道、或常立求道、或荷足求道、如是狂狷心、没邪海、形不安穏。以是故、仏教弟子、結跏趺坐直身坐。何以故。直身心易正故。其身直坐、則心不懶。端心正意、繋念在前。若心馳散、若身傾動、摂之令還。欲証三昧、欲入三昧、種々馳念、種々散乱、皆悉攝之。如此修習、証入三昧王三昧。あきらかにしりぬ、結跏趺坐、これ三昧王三昧なり、これ証入なり。一切の三昧は、この王三昧の眷属なり。

結跏趺坐は直身なり、直心なり直身心なり。直仏祖なり、直修証なり。直頂□(寧+頁)なり、直命脈なり。

いま人間の皮肉骨髄を結跏して、三昧中王三昧を結跏するなり。

世尊つねに結跏趺坐を保任しまします、諸弟子にも結跏趺坐を正伝しまします、人天にも結跏趺坐ををしへましますなり。七仏正伝の心印、すなはちこれなり。

釈迦牟尼仏菩提樹下に跏趺坐しましまして、五十小劫を経歴し、六十劫を経歴し、無量劫を経歴しまします。あるいは三七日結跏趺坐、あるいは時間の跏坐、これ転妙法輪なり。これ一代の仏化なり、さらに虧欠せず。これすなはち黄巻朱軸なり。ほとけのほとけをみる、この時節なり。これ衆生成仏の正当恁麼時なり。

詮慧 仏言段

〇「証入三昧、王三昧」。外道の僻見に「翹足求道、或常立、或荷足」、是ら皆証據ありし事也。「足を翹(あ)ぐ」と云うは、片足にて立つ行をし、「常立」とは是も両足にて立つ行也。「荷足」とは若葦を荷って行としき。是のみならず、鶏狗の依先業、報命尽きて天上に生ぜしを、外道の通力にて見ては、天上に生ずる業は鶏狗の如くすべかりけりとて鶏狗の真似をしき。或いは仏弟子(の)身に小瘡出で来て痛みしかば衣を脱ぎて、瘡(かさ)を火に炙る事ありき。是を見ては、裸になる外道あり、是を裸形と云う。火に身を炙る者ありき、人々の僻見さまざま也。仏の道を吾我の身心に仰せて心得る、皆是程の事也。断食などと云う事(は)、世間に在り、先縦不慥、真言教(『大日経疏指心鈔』)に断食一昼夜(「不動立印儀軌云、菜食作念誦断食一昼夜、文既以一昼夜不食云、断食故」(「大正蔵」五九・六八四中)と云う事ありと云う。是も念誦を七日するに、反数多き念誦をするが、難終して、食する暇(いとま)も惜しき故に、断食一昼夜と云う歟。是に証據として、何の念誦続経せねども、断食を行と思う(は)、頗る僻見也。断食の要は不可有、唯忘他事、暇惜しむ故許り也。仏乞食しまします時、不乞食得して、鉢空しき事ありき。これは乞食の不叶にてこそあれ、断食を本意とするにあらず。乞食し御にて知るばし、乞食は可食と云う事を。

〇「直身」は脱落身也。非脱落身は曲身と云うべし。

〇「繋念在前」と云う(は)、何事を念にかけよとは云わず。在前とは脱落の義也。

〇「若身傾動令還」と云う(は)、身心脱落の心に還せとなり、唯坐禅是也。思慮念等は必ず、馳散のものなり。いま脱落のみ不動也。

〇「欲証欲入」等は、馳念散乱と云うべし。但今の義は、修するをやがて「証入三昧王三昧」と云う。証入三昧王三昧の証入は、欲証欲入の証入の詞に、超越したる証入なり、ひとしめて心得べからず。

経豪

  • 是又如文。道の所行共を一々に明かさる見于文。外道は法の理には暗くして、只身を苦しめたるを行道とのみ思う故に、徒ら事をば、外道の苦行と常には云う也。仏は結跏趺坐を教え御す。今仏言に、被説「種々馳念・種々散乱・皆悉摂之」とは、皆打坐に被摂て、修め尽す也。此の文を被引事は、三昧王三昧の詞に付けて被引出也。
  • 跏趺坐の道理、如此云わるべき也。「直」の字を皆被置くは、所詮すぐに聊かも錯まる所なく、正直の心地也。何れにも此の直の字わたるべきなり。
  • 此の「人間の皮肉骨髄」とは、我等が皮肉をやがて、三昧王三昧と談ずる也。
  • 如文。
  • 仏成仏の時、「菩提樹下に跏趺坐し給いしはしばらくの事にてこそ在りしを、今は五十小劫、六十劫等を経歴し、或いは無量劫を経歴し、或いは三七など在り」いかなるべきぞ。但此の時・分・劫等(は)長短に拘わる可らず、今更勿論(の)事也。経(『法華文句記』三中)にも六十小劫を以如食頃(「六十小劫謂如食頃」(「大正蔵」三四・二〇七中)などと被説程事也。又「転妙法輪」とは以四辯八音(『阿弥陀経略記』「大正蔵」五七・六七三下)法を説き給うとこそ心得つるを、今は「結跏趺坐、時間の跏坐、これ転妙法輪也」とあれば、今(の)打坐の姿を転法輪とも可談也。又黄紙朱軸の如文、色の経巻とこそ思い習わしつるを、是又打坐の姿を黄紙朱軸也と被釈、旧見破りぬ。「仏の仏を見る、此の時節也」とは、能見所見を置きて談ずるにあらず。今の理、仏の仏を見る道理なるべし。唯仏与仏の理(断り)也。「衆生成仏の正当恁麼時」なるべし。

 

初祖菩提達磨尊者、西来のはじめより、嵩嶽少室峰少林寺にして面壁跏趺坐禅のあひだ、九白を経歴せり。それより頂□(寧+頁)眼睛、いまに震旦国に遍界せり。初祖の命脈、ただ結跏趺坐のみなり。初祖西来よりさきは、東土の衆生、いまだかつて結跏趺坐をしらざりき。祖師西来よりのち、これをしれり。

詮慧

〇「初祖西来より後、是を知れり」と云うは、結跏趺坐事也。諸宗及び外道までも跏趺坐はあり。祖師西来已後知ると難云。然而是転法輪の内にて、坐する事を云う也。身心脱落坐禅の事なり。

経豪

  • 無殊子細、如文。

 

しかあればすなはち、一生万生、把尾収頭、不離叢林、昼夜祗管跏趺坐して余務あらざる、三昧王三昧なり。

経豪

  • 如御釈。「一生万生、把尾収頭」等の詞は、只僧の叢林に跏趺坐する姿を如此云うなり。

 

                                 三昧王三昧(終)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。

 

 

正法眼蔵如来全身

正法眼蔵第六十五 如来全身

爾時、釋迦牟尼佛、住王舎城耆闍崛山、告藥王菩薩摩訶薩言、藥王、在々處々、若説若讀、若誦若書、若經巻所住之處、皆應起七寶塔、極令高廣嚴飾。不須復安舎利、所以者何。此中已有如來全身、此塔應以一切華香瓔珞、蓋幢幡、妓樂歌頌、供養恭敬、尊重讚歎。若有人得見此塔、禮拝供養、當知、是等皆近阿耨多羅三藐三菩提。

いはゆる經巻は、若説これなり、若讀これなり、若誦これなり、若書これなり。經巻は實相これなり。應起七寶塔は、實相を塔といふ。極令の高廣、その量かならず實相量なり。此中已有如來全身は、經巻これ全身なり。

しかあれば、若説若讀、若誦若書等、これ如來全身なり。一切の華香瓔珞、繒蓋幢幡、妓樂歌頌をもて供養恭敬、尊重讚歎すべし。あるいは天華天香、天繒蓋等なり。みなこれ實相なり。あるいは人中上華上香、名衣名服なり。これらみな實相なり。供養恭敬、これ實相なり。起塔すべし。

不須復安舎利といふ、しりぬ、經巻はこれ如來舎利なり、如來全身なりといふことを。まさしく佛口の金言、これを見聞するよりもすぎたる大功徳あるべからず。いそぎて功をつみ、徳をかさぬべし。もし人ありて、この塔を禮拝供養するは、まさにしるべし、皆近阿耨多羅三藐三菩提なり。この塔をみんとき、この塔を誠心に禮拝供養すべし。すなはち阿耨多羅三藐三菩提に皆近ならん。近は、さりて近なるにあらず、きたりて近なるにあらず。阿耨多羅三藐三菩提を皆近といふなり。而今われら受持讀誦、解説書冩をみる、得見此塔なり。よろこぶべし、皆近阿耨多羅三藐三菩提なり。

本則は『法華経』十・法師品を典拠とし道元禅師独自な法華解釈が展開されます。

「いはゆる経巻は、若説これなり、若読これなり、若誦これなり、若書これなり。経巻は実相これなり。応起七宝塔は、実相を塔といふ。極令の高広、その量かならず実相量なり。此中已有如来全身は、経巻これ全身なり。」

「経巻」は五千四十八の数量を云うのではなく、眼前に現成するものを「経巻」と呼び別名「実相」であるとの言で、その五千四十八の無量数のなかに「若説」があり「若読」「若誦」「若書」という状態があるとの拈提で、さらに次句に云う「応起七宝塔」(まさに七宝塔を起つべし)とは解せず実相が「塔」であると。この場合の「実相」は真実相を云うものです。同じく「高広」塔の縦横の単位も「極量」無辺際を実相と名づけ、「此中已有如来全身」の拈語として塔―如来―経巻―全身の同等性を導く為の提唱です。

「しかあれば、若説若読、若誦若書等、これ如来全身なり。一切の華香瓔珞、繒蓋幢幡、妓楽歌頌をもて供養恭敬、尊重讚歎すべし。あるいは天華天香、天繒蓋等なり。みなこれ実相なり。あるいは人中上華上香、名衣名服なり。これらみな実相なり。供養恭敬、これ実相なり。起塔すべし。」

先に塔―如来―経巻―全身の一体性を説き、若説等は実相と説きますから、おのづと「如来全身」も真実相つまり実相を意味しますから、「若説若読、若誦若書これ如来全身なり」は必然の論法です。

続けて経文に従い、華香等をもて如来を供養恭敬尊重讃嘆すべしと説き、これら「華香瓔珞、繒蓋幢幡」といわれる荘厳物も「実相」であると、如来全身に加味します。

さらに人界の上等な華香や衣服も「実相」さらに「供養恭敬」という精神的要素までも「実相」に位置づけ、実際的には塔を起てなさいと、前日提唱の『発菩提心』巻に連関する内容となります。

「不須復安舎利といふ、しりぬ、経巻はこれ如来舎利なり、如来全身なりといふことを。まさしく仏口の金言、これを見聞するよりもすぎたる大功徳あるべからず。いそぎて功をつみ、徳をかさぬべし。もし人ありて、この塔を礼拝供養するは、まさにしるべし、皆近阿耨多羅三藐三菩提なり」

「不須復安舎利」(須らく復た舎利を安(お)くべからず)に対する拈提で、仏舎利は仏徒にとっては真実相そのものですから、「経巻」「如来舎利」「如来全身」との実相に配します。

「もし人ありて」以下は経文に則った訓読で、「皆近阿耨多羅三藐三菩提」をそのまま付言した意味は、「急ぎて功を積み徳を重ねた」結果が阿耨多羅三藐三菩提に近づくのではなく、すでに阿耨菩提との同期を説くものです。

「この塔をみんとき、この塔を誠心に礼拝供養すべし。すなはち阿耨多羅三藐三菩提に皆近ならん。近は、さりて近なるにあらず、きたりて近なるにあらず。阿耨多羅三藐三菩提を皆近といふなり。而今われら受持読誦、解説書写をみる、得見此塔なり。よろこぶべし、皆近阿耨多羅三藐三菩提なり」

先に云う同期性を「阿耨多羅三藐三菩提に皆近」と丁寧に説かれます。さらに同様に「近は去りて近なるにあらず、来りて近なるにあらず」と喩えを変え、「皆近」と「阿耨菩提」の同期を再三に説かれます。

続いての「受持読誦解説書写」「得見此塔」「阿耨菩提」は拈提をまとめ上げた結語で、拈提始めに経巻は若説若読若誦若書。経巻は実相。実相を塔から本則の「得見此塔」を導き、再度「皆近阿耨多羅三藐三菩提なり」との言説です。

 

しかあれば、經巻は如來全身なり、經巻を禮拝するは如來を禮拝したてまつるなり。經巻にあふたてまつるは如來にまみえたてまつるなり。經巻は如來舎利なり。かくのごとくなるゆゑに、舎利は此經なるべし。たとひ經巻はこれ舎利なりとしるといふとも、舎利はこれ經巻なりとしらずは、いまだ佛道にあらず。而今の諸法實相は經巻なり。人間天上、海中虚空、此土佗界、みなこれ實相なり。經巻なり、舎利なり。舎利を受持讀誦、解説書冩して開悟すべし、これ或從經巻なり。古佛舎利あり、今佛舎利あり。辟支佛舎利あり、轉輪王舎利あり、獅子舎利あり。あるいは木佛舎利あり、絵佛舎利あり、あるいは人舎利あり。現在大宋國諸代の佛祖、いきたるとき舎利を現出せしむるあり、闍維ののち舎利を生ぜる、おほくあり。これみな經巻なり。

この段はこれまで説いてきた事項を再確認するもので、「経巻」を主題に置いて「如来全身」・「礼拝」・「如来舎利」をそれぞれ放射状に設(しつら)い、一体性の再確認が「しかあれば経巻は如来全身なりー中略―舎利は此経なるべし」の拈提部です。

「経巻はこれ舎利なりとしるといふとも、舎利はこれ経巻なりとしらずは、いまだ仏道にあらず」

この論法は普段の会話では成り立たず、まさに仏法上での解会法で主客を同一視した視点です。

而今の諸法実相は経巻なり。人間天上、海中虚空、此土佗界、みなこれ実相なり。経巻なり、舎利なり」

これも前々句を別様に言い換えたもので、「諸法実相」に焦点を当てた拈語です。

「舎利を受持読誦、解説書写して開悟すべし、これ或從経巻なり」

前句の「実相は経巻・舎利なり」を承けてのもので、最初に「経巻は若説若読」云々としますから、経巻舎利を実相と説くわけですから、舎利を受持読誦の文体となり「開悟」と「或従経巻」の語を付加したものです。

「古仏舎利あり、今仏舎利あり。辟支仏舎利あり、転輪王舎利あり、獅子舎利あり。あるいは木仏舎利あり、絵仏舎利あり、あるいは人舎利あり」

ここでは真実の「舎利」の様相を包摂的に列挙されます。

「現在大宋国諸代の仏祖、いきたるとき舎利を現出せしむるあり、闍維ののち舎利を生ぜる、おほくあり。これみな経巻なり。」

強豪和尚は「生きたる時舎利を現出する」の註解として「現身には舎利はあるなり、則ち宏智古仏は髪を剃らず長髪なり、ある時大慧宋杲、宏智の剃髪するに、髪の根に舎利あり硬く剃れず」(『御抄』)とあるが、この話は詮慧和尚『聞書』には見えず、強豪はどのような経緯で宏智の話としたかは不明であるが、これまでの提唱の流れからすると「舎利」は実相・真実の事ですから、このような「生きたる時舎利出現」とは全機的生き方を示唆する言句だと思われます。

「闍維」とは荼毘・焚焼を云い、焼却のあとに舎利(骨)が生じるとは何ら異はなく、最後に「これ(舎利)みな経巻なり」と最初の拈提文「経巻は若説これなり」と「経巻」の語で締め括る文章です。

 

釋迦牟尼佛告大衆言、我本行菩薩道、所成壽命、今猶未盡、復倍上數。

いま八斛四斗の舎利は、なほこれ佛壽なり。本行菩薩道の壽命は、三千大千世界のみにあらず、そこばくなるべし。これ如來全身なり、これ經巻なり。

提唱本則は『法華経』十六・如来寿量品「諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数。然今非実滅度」からの引用で、拈提文は釈迦の骨量の「八斛四斗の舎利は猶これ仏寿なり」から始まりますが、この「八斛(こく)四斗(と)は『景徳伝灯録』一・釈迦牟尼仏章の最後部に「爾時金棺従坐而挙高七多羅樹。往反空中化火三昧須臾灰生。得舎利八斛四斗」と記されます。この量は無量数の喩えを云うものですが、因みに「斛」は「石」と同義語で合・升・斗・斛(石)と量が変わり、一升は一、五キロですから一〇倍の十五キロが一斗で、その一〇倍百五十キロが一斛ですから、その八倍の一万二千キロつまり十二トンとなります。

定量の仏寿を説いたわけですから本則に説く「本行菩薩道」の寿命も、当然「三千大千世界のみにあらず、そこばく(たくさん)なるべし」と同じく無定量を言い、これらの「仏寿」も「寿命」も共に「如来全身」または「経巻」という真実であると拈提されます。

 

智積菩薩いはく、我見釋迦如來、於無量劫、難行苦行、積功累徳、求菩薩道、未曾止息。觀三千大千世界、乃至無有如芥子許、非是菩薩捨身命處。然後乃得爲衆生故、成菩提道。

はかりしりぬ、この三千大千世界は、赤心一片なり、虚空一隻なり。如來全身なり。捨未捨にかゝはるべからず。舎利は佛前佛後にあらず、佛とならべるにあらず。無量劫の難行苦行は、佛胎佛腹の活計消息なり、佛皮肉骨髓なり。すでに未曾止息といふ、佛にいたりてもいよいよ精進なり。大千界に化してもなほすゝむるなり。全身の活計かくのごとし。

正法眼藏如來全身第六十五

爾時寛元二年甲辰二月十五日在越州吉田縣吉峰精舎示衆

提唱本則は同じく『法華経』十二・提婆達多品からの引用ですが、前頁経文は龍女成仏を疑っての本則文です。

「はかりしりぬ、この三千大千世界は、赤心一片なり、虚空一隻なり。如来全身なり。捨未捨にかゝはるべからず」

ここでの「三千大千世界」は前段の拈提部にある「本行菩薩道の寿命は三千大千世界のみにあらず」も連関させての本則拈提です。

三千大千世界は尽十方界で真実を表徴するものですから、おのづと「赤心一片」・「虚空一隻」・「如来全身」と真実ばかりで有り、本則で云う「菩薩捨身命処」に絡ませて「捨未捨」に関わるべからずと説かれます。

「舎利は仏前仏後にあらず、仏とならべるにあらず。無量劫の難行苦行は、仏胎仏腹の活計消息なり、仏皮肉骨髓なり」

ここに云う「舎利」は仏骨ではなく、真実態としての「如来」「経巻」等に列なる舎利ですから、「仏前」が真実であったり「仏後」が真実であったりはしません。尽界が舎利(真実)との事ですから。以下の「無量劫の難行苦行」云々は、同様の喩えを「仏胎仏腹」や「仏皮肉骨髄」と説くものです。

「すでに未曾止息といふ、仏にいたりてもいよいよ精進なり。大千界に化してもなほすゝむるなり。全身の活計かくのごとし」

先程から云うように真実義を名詞句語に置き換えての提唱ですから、真実態を「止息」できる・できないの問題ではありません。宇宙の鼓動は人間の力量以前の問題ですから。

「仏に至りてもいよいよ精進」は菩薩道を説き、「大千界に化しても勧める」も教化し続ける菩薩道を示し、最後にこの巻は如来全身の標題ですから、「全身の活計」という真実は三千大千世界に遍満しているとの提唱文です。

          

 

正法眼蔵第六十五「如來全身」を読み解く

正法眼蔵第六十五「如來全身」を読み解く

 

 爾時、釋迦牟尼佛、住王舎城耆闍崛山、告藥王菩薩摩訶薩言、藥王、在々處々、若説若讀、若誦若書、若經巻所住之處、皆應起七寶塔、極令高廣嚴飾。不須復安舎利、所以者何。此中已有如來全身、此塔應以一切華香瓔珞、繒蓋幢幡、妓樂歌頌、供養恭敬、尊重讚歎。若有人得見此塔、禮拝供養、當知、是等皆近阿耨多羅三藐三菩提。

 いはゆる經巻は、若説これなり、若讀これなり、若誦これなり、若書これなり。經巻は實相これなり。應起七寶塔は、實相を塔といふ。極令の高廣、その量かならず實相量なり。此中已有如來全身は、經巻これ全身なり。

 しかあれば、若説若讀、若誦若書等、これ如來全身なり。一切の華香瓔珞、繒蓋幢幡、妓樂歌頌をもて供養恭敬、尊重讚歎すべし。あるいは天華天香、天繒蓋等なり。みなこれ實相なり。あるいは人中上華上香、名衣名服なり。これらみな實相なり。供養恭敬、これ實相なり。起塔すべし。

 不須復安舎利といふ、しりぬ、經巻はこれ如來舎利なり、如來全身なりといふことを。まさしく佛口の金言、これを見聞するよりもすぎたる大功徳あるべからず。いそぎて功をつみ、徳をかさぬべし。もし人ありて、この塔を禮拝供養するは、まさにしるべし、皆近阿耨多羅三藐三菩提なり。この塔をみんとき、この塔を誠心に禮拝供養すべし。すなはち阿耨多羅三藐三菩提に皆近ならん。近は、さりて近なるにあらず、きたりて近なるにあらず。阿耨多羅三藐三菩提を皆近といふなり。而今われら受持讀誦、解説書冩をみる、得見此塔なり。よろこぶべし、皆近阿耨多羅三藐三菩提なり。

 しかあれば、經巻は如來全身なり、經巻を禮拝するは如來を禮拝したてまつるなり。經巻にあふたてまつるは如來にまみえたてまつるなり。經巻は如來舎利なり。かくのごとくなるゆゑに、舎利は此經なるべし。たとひ經巻はこれ舎利なりとしるといふとも、舎利はこれ經巻なりとしらずは、いまだ佛道にあらず。而今の諸法實相は經巻なり。人間天上、海中虚空、此土佗界、みなこれ實相なり。經巻なり、舎利なり。舎利を受持讀誦、解説書冩して開悟すべし、これ或從經巻なり。古佛舎利あり、今佛舎利あり。辟支佛舎利あり、轉輪王舎利あり、獅子舎利あり。あるいは木佛舎利あり、絵佛舎利あり、あるいは人舎利あり。現在大宋國諸代の佛祖、いきたるとき舎利を現出せしむるあり、闍維ののち舎利を生ぜる、おほくあり。これみな經巻なり。

 釋迦牟尼佛告大衆言、我本行菩薩道、所成壽命、今猶未盡、復倍上數。

 いま八斛四斗の舎利は、なほこれ佛壽なり。本行菩薩道の壽命は、三千大千世界のみにあらず、そこばくなるべし。これ如來全身なり、これ經巻なり。

 智積菩薩いはく、我見釋迦如來、於無量劫、難行苦行、積功累徳、求菩薩道、未曾止息。觀三千大千世界、乃至無有如芥子許、非是菩薩捨身命處。然後乃得爲衆生故、成菩提道。

 はかりしりぬ、この三千大千世界は、赤心一片なり、虚空一隻なり。如來全身なり。捨未捨にかゝはるべからず。舎利は佛前佛後にあらず、佛とならべるにあらず。無量劫の難行苦行は、佛胎佛腹の活計消息なり、佛皮肉骨髓なり。すでに未曾止息といふ、佛にいたりてもいよいよ精進なり。大千界に化してもなほすゝむるなり。全身の活計かくのごとし。

 

 正法眼藏如來全身第六十五

 

  爾時寛元二年甲辰二月十五日在越州吉田縣吉峰精舎示衆

  弘安二年六月廾三日在永平禪寺衆寮書冩之

 

正法眼蔵を読み解く如来全身」(二谷正信著)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/nyoraizenshin

 

詮慧・経豪による註解書については

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2020/03/05/000000

 

道元白山信仰ならびに吉峰・波著・禅師峰の関係についてー中世古 祥道

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2022/08/01/145341

 

禅研究に関しては、月間アーカイブをご覧ください

https://karnacitta.hatenablog.jp/

道元永平寺―『福井県史』通史編2中世より抜書(一部改変)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2021/08/14/173407